手がかり
一
空には雲が浮いている。今日もいい天気だ。青年は大きなあくびをした。不規則な形をした綿菓子たちが、おとなしく佇んでいる。ふと目にとめた一つの形が、猫の顔に見えてきた。青年は愉快な気持ちになってきた。他にも何かに似ているものがないかと探しだす。そんなふうにして見ていると、なんということもない雲が、羊の群れに見えてくるから不思議だ。 低くて太い音に気づいて、後ろを見ると、屋上に通じる扉が開いて美智子が出てきた。 「おや、どうしたんですか」 美智子は靴音を立てながら青年に近づいてきた。 「ズボン、汚れるわよ」 「構やしませんよ」 美智子はコンクリートの上にハンカチを敷いて、青年の横に座った。手の平を地べたにつき、空を見上げる。 「私も空でも眺めようかと思ってね」 「こうしてると気が落ち着きますよ。僕はよく昼休みにここに来るんですよ」 「三度も聞いたわ」 美智子が目を細める。ほほにえくぼができる。 コンタクトにすればいいのに、と青年は思う。一度だけ、眼鏡をはずしたところを見たことがある。まだ二十代だと言っても通じそうな、かわいらしい顔だった。もっとも、そんなことは本人には言わない。言ったら大目玉だ。 「気分、あんまり変わらないわ。どこがいいの?」 「空ってほら、絵みたいじゃないですか」 「そうかしら。そんなふうに考えたことないわ」 「小さい頃、親父と散歩してて、それで河原の土手に二人で寝ころがって空を眺めてたんですよ。僕が、空って絵みたいだねって言ったら、やっぱり親父も、常盤さんと同じこと言いましたよ。そんなふうに思ったことないなあって」 「すごい。よくそんなこと覚えてるわね」美智子の顔に意地悪そうな笑みが浮かぶ。「今作ったんじゃないの?」 「いえいえ、本当ですよ。そうかあ。そんなふうに思うの、僕だけなのかな」 美智子は空を見上げたまま、黙っている。青年は言葉が続かず、ひざを抱えていた手を、彼女の真似をして地べたにつけた。 「積乱雲だわ。雨が降るかも」 「え、どれですか?」 「あれよ、あれ」 美智子は、周辺のビルの群れの中でも、ひときわ大きいやつを指差した。その上に、なるほどたしかに山のように立ち上がっている雲が見える。 「あれ、積乱雲ですか? 違うと思うけどなあ」 「なんで?」 「だって、夏の雲でしょ?」 「そんなことないわ。寒冷前線があると、その近くにできるのよ」 「へえ、雲にも詳しいんですね」 「科学者たるもの、いろんなことに興味を持たなくちゃだめよ。もしも被験者が雲の夢を見たらどうするの?」 青年は視線を美智子から空へと移した。 「僕はただ何にも考えないで眺めている方が好きだなあ。積乱雲とか、そういうのはどうでもいいんですよ。ああ、綿菓子みたいだな、とかね。きれいだなあ、とか。常盤さんはそういうふうには感じないんですか」 怒ったかな? と思い、再び視線を美智子に移すと、意外にも彼女は少し悲しそうな顔をしてうつむいていた。 青年の心に、なぜだか彼女が言った「氷の中にいるみたい」という言葉がよみがえった。 彼女がいきなり立ちあがったので青年は驚いた。 「雨が降るかもしれないわ。藤崎君も早く中に入った方がいいわよ」 青年は、足早に歩み去っていく彼女の姿を、呆然と見送った。積乱雲を見ると、わずかにこちらに移動してきたように感じた。
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