奇妙な患者
一
「先生の研究についての噂は、かねがね伺っております」 高梨と名乗るその変ににやけた男は、真新しい名刺を差し出した。滝田は男の顔を一瞥し、受け取った。「小暮総合病院 副院長 高梨英一」とある。 「小暮総合病院。ああ、私もお世話になったことがありますよ。二年前に右腕を骨折しましてね」 滝田は職業的な笑顔を浮かべ、Yシャツの胸ポケットから名刺を抜き出すと、男に渡した。高梨は大仰に両の眉を上げてみせる。 「そうですか、それはそれは。その後ご加減はいかがですか?」 「ええ、もうすっかり。二年も前のことですから」 「いやあ、それは良かった」 高梨は相変わらず笑みを浮かべながら、応接室の様子を眺め回している。 「まあ、立ち話もなんですから、おかけ下さい」 二人はソファに座り、向かい合った。 滝田が経営する睡眠研究所に、病院の医師、それも副院長と肩書きがつく人間が訪ねてくるなどということは、初めてのことである。「実は今日伺ったのは、他でもありません」高梨は急に声をひそめた。「うちの病院に、非常に、何と言いますか、複雑な症状を持った患者が入院しているのです」 「はい」 「先生も睡眠の研究者でいらっしゃるから、睡眠障害についてはご存知でしょう?」 「ええ、一応は」 「最初この患者は、夜なかなか寝付けず、朝早く目が覚めてしまうので、なんとかしてくれと言って私どもの病院にやってきました」 「睡眠時間が短いわけですね」滝田はテーブルの上に両肘をつき、口の前で手を組み合わせた。「鬱病ですか?」 「精神神経科医の判断は、ノーです。患者は精神的にはいたって普通で、しゃべり方もはきはきとしており、その後何度かのカウンセリングでも本人の生活上とりたてて重大な悩みがあるわけでもなく、食欲もあり、勤務上の問題もなかったそうです。煙草、よろしいですか」 「どうぞ」 滝田は手の平でテーブルの上の、ダイヤモンドのような形にカットされた、ガラス製の灰皿を指し示した。 銀色の、いかにも高級そうなライターで火をつけ、一服吸うと、高梨は先を続けた。 「ところがその後、今度は夜容易に寝付くことができないのは同じなのですが、朝なかなか起きられなくなったと言い出しました」 「ほう、症状に変化が現れたわけですね」 「最初は午前二時頃に寝て、朝七時に起きると言っていました。ところがだんだんと、寝る時間が三時、四時へと遅れていき、朝起きる時間も八時、九時へと遅くなっていきました」 「勤務の方はどうなったのです? 当然支障が出ると思いますが」 「ええ。患者は遅刻の常習犯となり、周りから白い目で見られるようになりました。奥さんが起こそうとするのですが、絶対に起きないのだそうです」 「失礼します」 所員の常盤美智子が盆にコーヒーを二つ乗せて入ってきた。 「どうぞ」 彼女がカップを置くと高梨は「有難うございます」と言いながら美智子の顔を興味深げに見つめた。前時代的な牛乳瓶の底のような眼鏡が珍しかったのだろう。 滝田の前にもコーヒーを置くと、美智子は高梨の失礼な態度に怒ったのか憮然とした表情で立ち去った。 「睡眠相後退症候群ですか?」 「私どもの診断も、そうです。その状態は一ヵ月ほど続きました」 高梨は軽く叩いて灰を灰皿に落とした。 「治療を進めるうちに、徐々に症状は改善していきました。患者の睡眠時間は正常な時間帯へと戻っていったのです。私達は、治療の効果があったのだと思ったのです」 「そうではなかったと?」 「ええ。今度は昼間眠くてしょうがないと言い出したのです」 「今度は過眠症になったとでも?」 滝田は少し驚いた。 「ええ。夜十分な睡眠をとっているにもかかわらず、昼間たえまなく強烈な眠気に襲われ続けると言います。笑ったりびっくりしたりすると全身の力が抜けてしまうということから、ナルコレプシーと診断しました」 滝田はようやくどういう話か分かってきたが、唇を少し歪めた。 「その患者、嘘をついてるんじゃないですか?」 「いいえ。MSLT(Multiple Sleep Latency Test)をやってみたのです。平均入眠潜時は三分です」 二時間ごとに二十分間横になり、眠りに入るまでの時間を測定するテストだ。三分となると、これはかなり重度だ。 「ふーん」滝田も胸ポケットから煙草を取り出した。「それで?」 高梨は滝田の煙草に火をつけながら、先を続ける。 「次に起こってきたのはレム睡眠行動障害でした。患者はふらふらと家の中を歩き回り、家族の者に怒鳴り散らしたり、壁に立小便をしたりしました。後で聞いてみるとそういう夢を見ていたと言います」 「ほおう」 「さらに睡眠時無呼吸症候群を併発するに至って、私達は患者を入院させることにしたのです」 「つまり」滝田は眉をひそめた。「いろいろな種類の睡眠障害が、次々と起こったと、そうおっしゃるわけですね?」 「ええ、そうなんですよ」 「そんな馬鹿なことが」 「しかし、現実に起こっているのです。入院してからがもっとひどくて、一週間から二週間、眠り続けるのです」 「今度はクライン・レビン症候群ですか」滝田はあきれた。「睡眠時無呼吸症候群は? あれだと夜中に何度も目を覚ますんじゃないでしょうか」 「目を覚まさない場合もあります。しかし、入院後は起こらなくなりました。全く不思議です」 「CTスキャンとか、MRIは撮られたのですか?」 「脳には特にこれといった異常は認められていません」 高梨は大きくため息をついた。 「眠り続ける期間は次第に伸びていきました。今はずっと眠っています。こうなるともう、分かりません」 滝田は笑いを漏らした。 「でもそれは、私の所へ持ってこられても、どうにもなりませんよ。もっと大きな病院に移すとか」 「いえいえ、こうして先生をお訪ねしたのには理由があるのです。入院してから、我々には全く理解できないような不思議なことが起こったのです」 「ほう」 「患者はその後、普通の状態では目覚めなくなりました。起きた状態が、入院する前のそれとは全く違うのです」 「と言いますと?」 「患者の名前は倉田恭介といいます。しかし彼は、自分は御見葉蔵(ごみ ようぞう)だと言うのです。彼は三十五歳なのですが、その時の彼の声は老人のようなしわがれた声なのです。全く元の倉田とは違った声質です。どう思います?」 滝田は、高梨が患者を“倉田”と呼び捨てにするのを、少し不謹慎に感じた。 「それもレム睡眠行動障害なのではないですか? まあ、声が変わってしまうのは説明がつきませんが」 「ええ。私達もそう思いました。そこで精神神経科医は彼に質問を試みました」 「寝ている患者と会話ができたんですか?」 「ええ、それも奇妙なことです。横で寝ている妻が寝言を言ったので返事をしてみたら返答してきたので『なんだ、起きてるの?』と聞くとすやすやと眠っている。そういう例ならいくつもあるのですが、彼のようにはきはきと答える患者は聞いたことがありません」 「目は開いてるんですか?」 「開いてます」 「だったら睡眠時遊行症の方かもしれませんね」 「脳波を測定しました。ノンレム睡眠ではありません」 「そうですか。で、どうだったのです?」 「ただのレム睡眠行動障害だというだけでは説明がつかない、ある事実が分かったのです」 「どんな?」 「患者の様子は、とにかく異常でした。彼が御見葉蔵として語る事は、細部にまで渡っていました。彼がイカの塩辛をのせたお茶漬けが好きであることや、彼が住んでいる屋敷の部屋の間取り、彼が好きな酒の銘柄……精神神経科医が次々にする質問に対して、実に自然に答えるのです」 滝田は短くなった煙草をダイヤモンド型の灰皿に押し付けた。 「倉田さんの演技ではない、という訳ですね。すると彼は多重人格かもしれませんね。彼はなぜだか知らないが昏睡状態に陥った。時々目覚めるが、その時には御見葉蔵なるもう一人の人物になっている。レム睡眠時の脳波と覚醒時の脳波は似ていますからね」 「しかし、事前の兆候が見られません。つまり、頭の中で誰かのしかりつけるような声がする、といったような類の。全く突然にそうなったのです。第一、彼の中の御見葉蔵という人格は、あまりにもはっきりとしすぎているのです。一九六一年生まれ、十九歳で結婚し、二十四の時に長男をもうけました。子供の名前は弘というそうです。六十六歳にしてやっと初孫が生まれました。名前は晃一だそうです。精神神経科医はその他もろもろのことも聞き出しました。家の周辺のどこに何があったか、煙草の銘柄、息子の好物と、嫌いなものまで。解離性同一障害は、確かに自分とは全く別の人格が頭の中に宿るものです。しかしそれはあくまで人格の話です。記憶まで完璧に全くの他人になれるのでしょうか? 御見葉蔵は青森の生まれだそうで、ずっと東北に住んでいるのだそうです。倉田が行ったこともない場所です」 「それでもやはり、全部倉田さんの作り話だという可能性は残るでしょう?」 「いいえ。作り話だという可能性は、全くないのです」 高梨はきっぱりと言いきった。 「ほほう」 「担当した精神神経科医は、このことに個人的な興味を抱きまして。それで、青森まで行ってきたのです」 「つまり、御見葉蔵の家にですか?」 「そうです。倉田から住所を聞いておりましたから、実際に行ってみたのです。ありましたよ、御見の家が」 「まさか」滝田は新たに一本、煙草をくわえた。今度は自分のライターで火をつける。「話が出来すぎている」 「その田舎の古い屋敷には、御見晃一という男が住んでいました。五十三歳です。彼は、確かに父親は弘という名で、七年前に亡くなったと言っています。そして祖父の名前が葉蔵なのだそうです。あとはもうお分かりでしょう。全ての事実が、倉田が言ったことと驚くほど一致していたのです」 「葉蔵さんももう亡くなっているのですか?」 生きていれば百歳を超える。 「はい」 「憑き物だな、そりゃ」 滝田は苦笑した。 「どういうことですか?」 「ええ。大昔は、狐や猫が人に憑きました。しかし現代のように自然と人間とが離れてしまった時代では、他人が憑いたり、コンピュータが憑いたり、宇宙人が憑いたりします。御見葉蔵の霊が倉田氏にとり憑いた。馬鹿げた話だ」 「いいえ。それも違います」 滝田は顔をしかめた。 「まだ何かあるんですか」 「あります。実は彼が御見葉蔵であったのは、比較的短い期間だったのです。その後三週間から一ヵ月という長いスパンの睡眠に入りました。彼は次にインドのアジャンタ……なんとかという人物になりました。それが大変な馬鹿力であるだけでなく、ひどく怒りっぽいのです。一番驚いたのは、彼が自分のベッドを投げ飛ばした時でした。これは私も見ています」 「日本語でしゃべったんですか?」 「ええ、日本語です。しかし彼が倉田ではない何者かになっていたことは確かです。どう考えても、あんな力が出せる体つきではありません。そのインドの人物が出現したのはわずかに二度だけです。その次に、これが最後ですが、今度は、自分は古代エジプト人だと言い出しました。ところが言うことがひどくあいまいとしていまして。自分の職業も、名前も、年齢も分からないと言います。こうなるともう、彼が一体どうなったのか、想像もつきません。彼はそんなにころころと、いろんな霊にとり憑かれる体質なのでしょうか? 国籍も時代も全く違う。私にはどうも、彼が憑依されたというだけでは説明がつかないような気がします。もっとこう、私達の常識をひっくり返してしまうような何かが、彼の体に起こっているのではないかという気がするのです」 「先程も言いましたが、私に相談されても治療して差し上げることはできないと思いますよ」 「いえいえ、治療の方は私達で続行します。私達が興味を持っているのは、患者に起こった不可思議な現象です。私達はこれを解明する鍵は、夢だと思っています」 「はい?」 「彼はやはり、レム睡眠行動障害なのだと思っています。つまり、彼が見ている夢の内容が、そのまま行動に現れているのだろうと」 「そこで、我々の夢見装置に話がつながるわけですね? やっと分かりましたよ」 夢の研究をしている所だったらいくらでもあるが、日本で唯一夢見装置を持つ滝田研究所を訪ねるとはお目が高い。 「ええ。彼の夢の内容を研究すれば、何かとてつもない事が分かるかもしれない」 「それが分かったとして、治療に役立ちますか?」 「役には立たないでしょう、たぶん。しかしこれが、医学に、いや医学だけでなく科学に、一石を投じることになるかもしれない」 滝田は意地の悪い笑みを浮かべた。 「論文にでもして学会で発表しますか? そうしたらあなたは有名人だ」 どうやら図星だったらしく、高梨は苦虫を噛み潰したような顔をした。 「このことはくれぐれも、内密にお願いしますよ」
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