宝来軒のマスターが怒鳴り込んできた。 「あんた何をやったんだ?」 「どういうことですか?」 「とぼけるな!みんな知ってるんだぞ。この前、変な奴等が来ただろう。あいつらは役場にも行ったんだ。皆は今度の移住者はやばい、と言ってるぞ。こっちはな、生活が懸かってるんだ。俺の店にまで変な噂が広まったらアウトなんだよ。あんたらは出禁だ。もう店には来るな」
マスターが乱暴にドアを閉めた。咲楽がシクシクと泣きだした。 「隣の奥さんに会ったら、私を睨んで口もきかなかったの。相談しなかったからって・・・隣は良い人だと思っていたのに。こんな家に住みたくないわ」 咲楽の言った「相談」の内容を、海翔に知らなかった。だからマスターの言葉を表面的にしか考えなかった。 「マスターはゴキブリのことは知らないはずだ。ただの噂で騒いでいるんだ。無視すれば良いさ。だけど、今すぐ引っ越しは出来ないよ。移住支援金を返すだけなら良いけど、ここを欠陥住宅にした賠償金が発生するかもしれない」 「そんな馬鹿な!私たちがゴキブリを連れて来たんじゃないわ」 「もちろんだ。それを証明してここを出よう」 そう言いながらも2人は困った。マスターの口ぶりでは、町の人に質問すれば余計な噂が広まるだけだ。
気分を変えようと2人は散歩に出た。家を出ると車が来たので端に寄る。すると2人の横で車が止まった。後ろの席の中年の男性が海翔に尋ねた。 「ちょっとお伺いします。ここは藤本さんのお宅ですか?」 「そうですが、何か・・」 すると、男性は車を降りてきて嬉しそうに言った。 「お父さんはお元気ですか?」
海翔は面食らった。父の知り合いが元根町に居るとは聞いてない。それに父の安否を聞いたのは、現在の父と接点がないからだ。ならば海翔の所在を知っているはずもない。 「あの・・父とはどういうご関係で?」 「これは失礼しました。お父さんとは幼馴染みで・・・」 「ちょっと待ってください。人違いです。父は東京生まれです」 「えっ、そうだったのですか。それは失礼しました」
車に残っていた奥さんが言った。 「すみません、この人は昔からそそっかしくて」 様子を見ていた運転席の若い男が言った。 「隣の蔵でラーメン屋をやってるよ」 その話しぶりから中年夫婦の息子と思えた。海翔より少し年下のようだ。奥さんが手を横に振って言った。 「私はラーメンは嫌ですよ」 「だけど、駅前の食堂は休みだったし、他に店はないよ」
黙って聞いていた、咲楽が口を開いた。 「私たち越して来たばかりで、元根町のことを知らないのです。ご主人からお話を伺えたら幸いですわ。簡単なもので良ければすぐ出来ます。良かったらウチで召し上がってください」 「お申し出は嬉しいですけど、見ず知らずで・・」 「遠慮なさらないで、同じ名前だったも何かの縁ですわ」 奥さんは咲良の申し出を断らずに、ご主人を振り返った。 「助かります、年を取ると脂っこいのは胃にもたれて。ご厚意に甘えさせて頂きます」 息子が海翔に聞いた。 「ここに車を停めても大丈夫ですか?」 「ここはラーメン屋の駐車場なんです」 そう聞くと息子は両親に言った。 「車をここに停めるからさ、僕はラーメンを食いに行くよ」
「蔵で店をやるのも洒落てるな。中はどうなっているのかな」 ご主人が呟くと、奥さんが言った。 「あなた、忘れたんですか?結婚前に行ったでしょ、藏の店」 「えっ、そうだっけ?」 「やっぱり忘れてる」 そして奥さんは、咲楽に向かって言った。 「この人はね、銀婚式も忘れて飲みに行ったんですよ」 「いや、あれは、うっかりして・・・」 「御馳走作って待ってたのに、帰ってこないのよ。電話したら若い娘の笑い声がしてね」 「部下には女の子もいるよ」 「まったく、男ってしょうもないわね」 「3年も前のことだろう、勘弁してくれよ」 ご主人の言葉に、海翔と咲楽が笑うと、奥さんも笑って追及は終わった。
|
|