2週間ほど経つと新生活にも慣れてきた。2人の会社は別だが、共にリモートワークで週に1度だけ東京に出勤する。海翔は火曜日で、咲楽は木曜日だ。朝から晩まで顔を突き合わせているので、週に2回の1人きりは奇妙な解放感がある。片道2時間半の通勤は長いが朝は座って寝られるし、週1で都会の空気を吸うのも悪くない。 2人とも新生活に満足していた。2年後くらいに子供を産みたい。それまで貯金しながらも、生活をエンジョイする余裕もある。家賃は安いし移住支援金、子育て支援制度もあるからだ。
休みの日は2人で散歩する。商店街は宝来軒までで、海翔たちの家から先は数軒の民家があるだけだ。両側に田んぼが広がり、蝶やトンボが飛ぶ道は森に続いている。そこは小鳥がさえずり、名も知らぬ雑草が花を咲かせている。森が途切れると川だった。両岸は自然堤防で、土手の上が遊歩道になっている。看板に2級河川、玉川と記してあった。橋の上から見ると、玉川の流れはゆるやかだった。
海翔がいない火曜の昼に、咲楽は宝来軒に行くことが多い。休日は奥さんが忙しくて話が出来ないからだ。ある日、奥さんがいたずらっぽく笑いながら言った。 「この店を始めた時はね、隣はお爺さんが1人で居たのよ。お爺さんが亡くなって、移住者用住宅になったわけ。それでウチも応募したかったのよ。店の隣が住居なら便利でしょ。でもね、役場の人にあなた達はもう町民です。応募出来るのは移住者だけ、と断られたのよ」 「あら、そうだったんですか」 「この町のルールは面倒なのよ。何か分からない事があったら相談に乗るわよ」 「ありがとう、助かります」 ある日、宝来軒の奥さんがチャーシューを持って来た。 「これは端っこでお客さんには出せないのよ。良かったら食べない?」 「あら、嬉しいわ。宝来軒のチャーシューは美味しくて、主人も私も大好きなの」 「私たちは食べ飽きたのよ」 「私たち、ここに移住して良かったわ」 「マスターがここに決めたのは、蕎麦屋の居抜きだったからよ。理由が分かる?」 「えー、分かんないわ」 「厨房がそのまま使えるのよ。和と中華の違いでも同じ麺類でしょ」 「そうか、なるほどね」 「蕎麦処みなもと、って名前だったわ」 「よく覚えてますね」 「マスターは中華レストラン宮本で修行して、暖簾わけするつもりだったの。ところが前の店と名前が似てるし、こんな田舎に中華レストランはね・・・普通の町中華の方が良いと私が言ったのよ」 「宝来軒は縁起の良い名前で、正解だと思うわ」 東沢は元根町の3つ先で、急行が停まる大きな街だ。咲楽は休暇を取って映画を見に行った。その後で薬局に入ると宝来軒の奥さんがいた。 「今日は。水曜日だからお店は休みですね」 咲楽が声を掛けると、奥さんは慌てた様子だった。だが、すぐに笑顔になって言った。 「そうなのよ。あなたもお休みなの?」 「はい。映画を見てきたの」 「あら、良いわね」 そう言った奥さんのカゴには殺虫剤が2つ入っていた。
「私の家は町外れでしょ、虫が多いのよ。おかげで虫に詳しくなったわ」 奥さんは笑って、言葉を続けた。 「変な虫が出たら、私に相談してね」 「あら、嬉しいわ。頼りになるわ」 「子供が幼稚園から帰る時間だわ。それじゃあね」 奥さんは慌ただしく帰って行った。奥さんの車に乗って帰れるかもと、少し期待していた咲楽は思った。今日の奥さんは私を避けているみたい・・・。
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