ご主人が話し始めると、遠くを見る目が少年のようだった。 「同級生の藤本君の家がここにあって、毎日一緒に遊んだものです。この家と蔵の間でキャッチボールをしましたよ。ボールがそれても家の壁で止まるでしょ、球拾いが楽なんです。向こうの森でもよく遊んでいて、あそこは坂道だったはずなのに、さっき歩くと平らなんです。変だなと思ってよく見ると、ほんの僅かな傾斜があった。それが幼い時には坂に感じたんですね」 「あの森は僕たちもよく散歩をするんです。坂だとは気づきませんでした」
「僕は9歳の時に引っ越してね。それ以来ですが、家が増えましたね」 「元根町は移住者に人気なんです。僕たちもそれに応募して来たんです」 「自然が豊かなのが売りですかね」 「そうです。空気もきれいだし、トンボや蝶も飛んでますし」 「丸源の屋敷が残っていれば、旅館にして観光客を呼べただろうに。火事で焼けてしまった」
「まるげん?」 「昔は丸源という大店があって、この近辺どころか江戸でも有名だったそうです」 「江戸で有名とはすごいですね」 「元根町の唯一の自慢だったようで、学校の先生が話してました。丸源は運送業で大きくなったそうです。米や炭を玉川で江戸まで運び、江戸が火事になれば山の木を売って大儲けした。挿絵があって船の帆に大きな紋があるんです。〇の中に源の字で丸源なんです」 「教科書に出ているとはすごいですね」 「いや、町で作ったペラペラの副教材ですよ」そう言ってご主人が笑った。そして話を続けた。 「昔は江戸からも船が上ってきたらしいです。田谷で小舟に積み替えて、丸源の蔵はいっぱいになった。だから君たちもしっかり勉強して、丸源みたいな立派な会社を作れるように頑張りなさい」 「昭和の教師、丸出しね」奥さんの言葉に全員が笑った。
「丸源の屋敷は江戸時代の建物で、町1番は学校か丸源か、と言われるほど大きかったそうです」 「それが燃えたとは大火事ですね、町は大丈夫だったのですか?」 「僕は分からないんです。火事は僕が生まれる前だし、9歳だと遊ぶのに夢中で、丸源には無関心でした。副教材は勉強だと思って覚えました。でも、テストには出なかった」そう言って、ご主人はまた笑った。
横で聞いていた奥さんが言った。 「曾祖父(ひいおじいさん)の33回忌の時に、亡くなったのは丸源が火事の年と聞いたわよ」 「そうだった。よく覚えていたね」 「結婚したすぐ後でね、誰が誰だか分からなかったのよ。それなのに〇〇さんに酒を、〇〇さんに料理をと、お給仕させられて大変だったのよ。法事の後で結婚すれば良かったのよ」 「僕も33回忌をやるのは知らなかったんだよ」 「あなたは何時もそうなのよ」
奥さんは一呼吸おいて言葉を続けた。 「駅ビルの8階に新しいレストランが出来たんですって。お隣のご夫婦が美味しかったと言ってたわよ」 「そうか、今度食べに行くか」 「あら、嬉しいわ」 奥さんは笑うと、真面目な顔になって海翔に言った。 「あの時の言葉を今でも覚えているのよ、誰が言ったかは分からないんだけど。あの火事が丸源の没落の始まりだが、本当の原因は時代の流れだ、運送が船からトラックに代わったから」 息子が戻って来ると、奥さんが小声で何か言った。そして息子が持ってきた物を咲楽に渡した。 「お昼は美味しかったわ、これ食事のお礼よ」 「あら、そんな。簡単な食事なのに。それに、これは旅行のお土産ですよね。受け取れませんわ」 「隣町で車を借りる時に、お父さんが買ったのよ。普通、お土産は車を返してから買うわよね。お父さんはせっかちだから待てないのよ。でも、今回はお父さんのせっかちが役に立ったわ。お土産は後で買うから心配しないで受け取って」 「お父様から貴重な話を伺ったうえに、お土産まで頂いてありがとうございます。近くに寄ったらまた遊びに来てください。今度はちゃんとした料理を作ります」
一家を見送ると、海翔たちは散歩を続けることにした。歩きながら、咲楽が言った。 「玉川に橋があったでしょ、あれに田谷橋と書いてあったはずよ。あそこが田谷だったとしたら、積み替えるような小さな川は無かったわ」 「散歩のついでに、橋まで行って確かめよう」 橋に着くと欄干を見る。そこには田谷橋とある。海翔は橋を歩いて上流と下流を見たが何もなかった。そして戻ると言った。 「川があるのは、田谷の別の場所なんだろう」 そして足元を指さした。 「橋のすぐ側に排水口があるよ」 咲楽は橋から下を覗いた。 「橋の下というか、道の下ね」 「下水管は道路の下に埋めるんだ。家の下だと交換できないから」
|
|