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作品名:セカンドプラネッツの邪馬台国論 作者:織田 久

第6回   6  倭の五王は大和ではない
「他にも小説はないのですか?」
「ふむ、倭の五王はどうじゃ?」
「それは私も興味があります」
「倭の五王は大和王朝だと言われている。それは、かなり無理があるとワシは思う。中国に朝鮮半島の利権を求めたのは、立派な外交実績だ。それなのに公文書に記載がないのはおかしい。そして武の478年遣使の際の上表文は大和には該当しない部分がある。
『先祖が自ら・・・東は毛人55国を征し、西は衆夷66国を服す。渡りて海北95国を平ぐ云々』とあるが、

『渡りて海北・・・』に対し、大和の北は海がない。
『先祖が自ら・・東55国、西66国、海北95』とあるが、畿内から攻めて西66国は少なすぎる。
『毛人、衆夷』の言葉と王の名から中国に詳しい。以前から中国に朝貢し、朝鮮半島にも進出してきた国だ。当時の大和は国内統一の途上だったはずだ。その理由はワシが邪馬台国、九州説だからだ」
そう言って中江典翔は、いたずらっぽく笑った。そして先を続けた。
「さらに、倭の五王の漢風諡号と和風諡号を列記してみよう。複数の説がある場合は併記する。なお、漢風諡号は後世の名付けで、この話には無関係だが、便宜上記載しておく。

讃・応神天皇、誉田別尊(ホムタワケノミコト)。又は、仁徳天皇、大鷦鷯尊(オホサザキノミコト)
珍・仁徳天皇、大鷦鷯尊(オホサザキノミコト)。又は、反正天皇、多遅比瑞歯別天皇(タジヒノミツハワケノスメラミコト)
済・允恭天皇、雄朝津間稚子宿禰(オアサヅマワクゴノスクネ)
興・安康天皇、穴穂天皇(アナホノミコト)
武・雄略天皇、大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)

不可解なのが、王の名と和風諡号の関係だ。雄略天皇の武の他は一致する漢字はない。それを比定している理由は以下の通りだ。
讃は、応神のホムタワケの(ホム)が讃の字に(ほめる)の意があるから
済は允恭天皇のオアサヅマワクゴノスクネの(スクネ)が救うに通じ、済にその意がある(救済など)
興は安康のアナホの(アナ)が感嘆の意味に通じる

いかがであろう。学者の想像力は、下手な小説のワシをはるかに越えている!

さらなる問題もある。雄略天皇の武(タケ)は一般的には(タケル)と呼ばれる。小碓尊(オウスノミコト)が熊襲の川上タケルを倒した時に、彼から贈られた勇敢な男の意の尊称だ。允恭天皇の(スクネ)宿禰も位を表す尊称だ。倭の五王が大和だとすると王の名を、その個人名ではなく、尊称から採ったことになる」

中江典翔は妙に改まると、ゆっくりと話し出した。
「ワシはあんたの名は知らんが、王の名は知っとるぞ」
「えっ?」。市長の妻が怪訝な顔をした。
「妻の音読みはサイ、すなわちあんたは倭王の済(セイ)じゃ。済は(サイ)とも読むでな」
市長の妻が笑いながら言った。
「中江さんは讃ですね。そのまんまですけど」

市長の妻は笑い終わると、真面目な顔になって問うた。
「倭の五王が大和でなければ、九州ですね?」
中江典翔は小さく頷くと言った。
「全国の勢力を大和に収斂するために記紀が編纂された。大和は他の王朝を滅ぼすとその資料を奪い、その地は以前から大和の支配下にあったと歴史を書き換えた。大和の意に添わぬものは焼き捨てた。各地の風土記が少ないのはそのせいだ。そして、大和王朝が九州王朝を倒したのが磐井の乱だ。戦争を反乱と言い換えたのも、大和が偽の歴史を作るためだ。

528年に磐井を倒した後、大和は本格的に海外へ進出した。そして中国と朝鮮の史料を集め、九州王朝の史料と付け合わせた。そして712年、720年に完成したのが記紀だ。九州王朝の海外進出の歴史を、大和は自らのものに書き換えた。大和は古代より国内を支配し、朝鮮にも進出したように歴史書を作った。200年かけて作った歴史は巧妙で見破るのは難しい。

その中で想定外が倭の五王だ。宋書は513年に完成したが、倭の五王が記された夷蛮伝はじきに散逸した。記紀の作者たちは夷蛮伝を知らなかった。九州王朝が宋に遣使した史料も戦いの時に焼失したのだろう。もし、それがあれば(一書に曰く)と書いたはずだ。
夷蛮伝が復元されたのは10世紀と言われている。それを読んだ大和王朝は驚いただろう。記紀に無い倭の五王を、同時代の天皇に無理やりに比定するしかなかったのだ」



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