「邪馬台国は魏を警戒していたが、もう1つの理由もあった」 市長の妻は何も言わずに、中江典翔に次の言葉をうながした。 「呉は朝鮮半島にまで触手を伸ばしていた。倭国は魏にも呉にも戦略的に重要な場所だった。邪馬台国が北九州なら、魏は自らの領土とするかもしれない。だが遠い南九州を攻めるのは難しい。むしろ同盟を結びたいと思うだろう。南方で水と食料の補給を受ければ、魏は呉の背後を突ける。
時代が異なり、その事情を知らない陳寿だが、倭国の嘘を信じた。彼の計算を見てみよう。帯方郡から末廬国まで10000里だ。(7000+1000+1000+1000)。末廬国から不弥国までの700里(500+100+100)。『倭の地・・・一周は五千余里ばかりか』の記載がある。過去の史料から得た数字だ。全周を方形とすれば5000÷4=1250,一辺はほぼ1300里だ。合計12000里でまさに會稽の東治の東にあたる」 「それは机上の空論です」 中江典翔は市長の妻にうなずくと、先を続けた。
「陳寿は矛盾する記録に困惑した。梯儁の記述から邪馬台国は九州南部と考えた。次の魏使の張政は卑弥呼の死から壹與の即位後まで数年間も倭国にいた。彼の報告は具体的で細かかったが、何故か邪馬台国の場所を明記していない。しかし、九州南部では遠すぎるとも思えた。 正確な記録を残したい陳寿は人々に『倭の地について問いて集め』、『一周は五千余里』の里数を得た。だがそれ以上の情報も、梯儁の記録の正誤も判らなかった。そして計算で辻褄を合わせたのだが、それは机上の計算ではなく史料上の計算だ。 ちなみに、倭人伝の海上の里数は大雑把だ。その一万二千里を現代の地図上で計り、邪馬台国を比定するのが机上の計算だ。まして対馬や壱岐の方形の2辺を陸行して数字合わせをするのは噴飯ものだ。陳寿はそのような現実離れした事は考えていない」
中江典翔は話を続ける。 「張政が邪馬台国の場所を伏せたのは当然だ。女王国に着いて梯儁の嘘はすぐに判った。そして張政は梯儁の戦死に疑いをもった。下手なことを書けば梯儁の二の舞になる。さらに彼は考えた。梯儁は例の大虐殺の後に来た。倭人は魏を恐れていた。ところが自分は逆に、倭から援軍の要請で派遣されている。そのせいか倭人は友好的だ。張政も倭人に好意をもった。暮らしは質素だが盗みはせず、訴え事は少ない、酒好きで、目上に従う等、張政は倭人の美点を記している。卑弥呼が死んだ後にその嘘を暴いたところで、魏の怒りをかうのは倭人たちであり、帯方郡であり、それは張政自身に撥ね返ってくる」
「卑弥呼は魏を騙したのですね」 「魏を騙したのではなく、魏の夢をくすぐったのだ。魏は華北の平原で栄えた国だ。一方、呉の華南では水運が盛んだった。どちらの水軍が強いかは言うまでもなかろう。赤壁で魏は大敗した。魏は強力な水軍を欲したが、海を知り船を操るのは一朝一夕で出来るものではない。いつか大艦隊を率いて赤壁の恥辱を晴らすのが魏の夢だ」 「確かに南船北馬という言葉もあります。しかし、邪馬台国がそこまで魏の内情を知っていたのでしょうか?」
「戦乱を逃れて多くの華人が倭国に来た。狗邪韓国にも邪馬台国の者がいて情報を収集していたはずだ。そして、魏の水軍は北九州なら攻め落とせるが、鹿児島まで行くには船も船員も少ない」 市長の妻が、片手を上げて中江典翔を制して言った。 「鹿児島に行ったところで、今の水軍では呉に勝てない。でも、いつかは・・・なるほど、夢ですね。卑弥呼は魏を騙さなかった、しかし陳寿を騙しましたね」
「それだけではない。528年筑紫の君磐井を倒し、大和王朝は海外への足掛かりを確立した。607年遣隋使は大興城(後の西安)で『汝らの国も九州か?』と問われた。西安と筑紫の延長線上にある大和は、その先の遠方と答えた。それを中国は鹿児島の先と考えた。そのため日本列島が南に向いた地図が出来たのだ」 市長の妻が笑って言った。 「卑弥呼は現代の畿内説論者をも騙しましたね」
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