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作品名:セカンドプラネッツの邪馬台国論 作者:織田 久

第2回   2  倭人伝を信用しない
「遺跡、遺物では畿内が有力な点もあります」
「畿内説の特徴は先に結論ありきだ。出土したものを独断と偏見で全て邪馬台国と結びつける。それに、考古学に限らず、何か1つ出てくれば通説がひっくり返る事がある。遺跡、遺物で議論しても証拠不十分で推論でしかない。畿内と北九州一帯をすべて掘り返すならともかく、そんな事はできん」
「ほほほ、面白いことを仰いますね」
「ワシも九州説だが、倭人伝を必ずしも信用しとらん」
「不思議な事を仰います。どういう事でしょう?」

「水行十日、陸行一月の起点は不弥国で、邪馬台国は遠い南国になる。それは卑弥呼の嘘だ」
「それは違います。起点は帯方郡で水行十日と陸行一月で邪馬台国に至るのが正しい解釈です」
「陸行一月では邪馬台国は博多のはるか先になる」
「陸行一月は朝鮮半島、対馬、壱岐での歩行を含みます」
「『帯方郡から倭に至るには、海岸に従って水行し』と書いてある」
「その後に、『韓国を経て、あるいは南へ、あるいは東へ進み・・・狗邪韓国に到着する』。と記されています。魏の使者団の権威を示すために南、東と交互に進み朝鮮半島を斜めに行進したのです」
「古代の航海は海岸沿いを昼間だけ進む。陸に沿って南へ進み、そして東へと進んで狗邪韓国に至る、の意だ。朝鮮半島の地形と合致する。陸を行けば最終目的地は南東だが、実際の道のりは、時には西、北もあり得る。南と東を交互に行くとは現実を無視した空論だ。さらに国と国を結ぶ道は無人の荒野だ。虎や野盗がいるくらいだ。それ等に魏の威厳を示したのか?そして、魏の使者の梯儁(ていしゅん)は狗邪韓国(今の釜山)に行っていない」
「えっ!何故そう言えるのですか?」

「倭人伝には、『対馬は四方は四百余里』。『壱岐が四方は三百里』と記されている。地図を見れば一目瞭然だ。対馬の細長い北部を見落としている。方形の南部だけを対馬と勘違いしている。それは南西から対馬に着いたからだ。朝鮮半島の南西端を回ると釜山までは280キロある。その途中で対馬海流に乗るのが自然な行程だ。そして対馬の南部に着く」
「公式の使者が嘘を書いたのですか?」
「狗邪韓国は倭の国だが、倭人伝に官、副官、戸数などの記載がない。行かなかったからだ。狗邪韓国から沖に出れば、海流に流され対馬には行かれない。いったん陸に沿って西に進んでから海流にのる。そして着くのは対馬北部だ。梯儁が対馬北部を知らないのは、狗邪韓国へ行っていないからだ」

「『その北岸の狗邪韓国』の『その』は倭国とみなされています。ですから狗邪韓国は倭国ではなく、韓国内の行程の最後として記載されたと思います」
「倭人伝の最初に倭国は30国とある。対馬国から邪馬台国まで8ケ国、次に次にと列挙したのが21ケ国。1つ足りない、それが狗邪韓国だ」
「狗邪韓国が倭国なら、何故、梯儁は訪れなかったのでしょう」
「弁韓12ケ国の中に弁辰狗邪国がある。弁辰は弁韓の南部とも別国との説もある地域だ。狗邪韓国と共通する『狗邪』は偶然とは思えん。どちらも半島南部の同じ地域だ。中氏家伝では半島南部の地域を韓国(からくに)と呼び倭の国だ。狗邪には『韓(から)狗邪国』と『弁辰狗邪国』の2つの名があったのではないか?魏は両国の争いから距離を置いていた。そして狗邪の表記を狗邪韓国とした。倭は韓国(からくに)、弁韓は韓国(かんこく)と判断する。両国の顔を立てたのだろう」

「倭人伝には、帯方郡から狗邪韓国まで七千余里とあります。行かずに距離を書いたのですか?」
「梯儁は帯方郡の武官だ。そのくらいは行かずとも知っていた。狗邪韓国を避けたのは帯方郡の太守の命令だろう。だが倭人伝の体裁上、記載しない訳にはいかない。この行っていないのに、行ったかのような曖昧な書き方は他にもある。
ちなみに、同じ地域に加羅(から)という小国家群があった。日本書紀に任那と併記された名だ。中氏家伝の韓国(からくに)と関係があるかもしれん。あるいは『韓(から)狗邪国』ではなく『加羅(から)狗邪国』だった可能性もある」
「邪馬台国論争では、多くの論者が一文字の正誤を争っています。でも、倭人伝に嘘があるなら議論が成り立たないでしょう」


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