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作品名:セカンド・プラネッツ 作者:織田 久

第83回   83
 谷市長が肯くと、カメラが動いて別の老人が現れた。
「中江家145代当主の中江典翔だ。船長に中氏家伝の話をしよう。中氏家伝とは中江家の伝承と、その後の歴史の二つからなっている。まず伝承の方から話そう。日本に初めて王朝が出来たのが出雲だった。その理由は対馬海流だ。韓国(からくに)から日本へ向かう船は対馬海流に流され山陰地方に着く。その中心地が出雲だった。こうして新しい文化、金属器は出雲に集まったのだ。それを求めて人々は出雲の王に初穂を献上に来た。十月を神無月と呼ぶのは船長も知っているだろう。出雲では神在月と言う。人々が出雲に集まった遠い記憶が、神々が出雲に集まるという民間伝承となったのだ。

 出雲が神格化された理由はもう一つある。出雲人は海人(あま)と名乗り、国を『あまくに』と称した。その船が斎船だ。斎戒沐浴の『斎』を『いわひ』と読む。『いわひふね』の音が転じて『いわふね』となった。航海の安全を祈願して心身を清めて乗るのが『あまのいわふね』だ。
後になって大和王朝は神話を作った。そこでは天上の神々の住む国を天国(あまくに)、神が地上に降り立つ乗り物を天の磐舟とした。『あまくに』、『あまのいわふね』、この同じ言葉が神の国は出雲と連想させた。大和王朝は最古の王朝の正当な後継者だと主張したのだ。

 海人国は山陰から北九州、壱岐、対馬、韓国南岸に及ぶ海洋国家だった。海人国を支配していたのが出雲の意宇(おう)氏だ。出雲から韓国に渡るには、いったん陸に沿って北九州まで行く。その中継地に選ばれたのが博多だ。
 中江家の先祖である中氏は島根半島の中海周辺に居た。その分家が博多の警護を命じられた。その後、造船技術が進歩して帆柱が強くなった。対馬海流で山陰へ流されていた船は、季節風を利用して博多へ来るようになった。だが、海人国の王は出雲に留まり、博多の交易品は出雲へ献上されていた。やがて中氏の分家は博多の意宇氏を攻め落とし、さらに献上に来たとみせ海人国の王を殺した。

 博多に移住した分家は海人国を滅ぼし九州王朝を立てた。この時、中氏から那珂氏と改名した。その名は今でも那珂川として残っている。意宇氏はかろうじて出雲王朝を維持するだけとなった。この頃には各地に王朝が出来ていた。その中で勢力を伸ばしたのが大和王朝だ。
古事記、日本書紀を読むと中江の伝承の一部が盗用されている。同じように各地の伝承を切り貼りし、各地の王を繋ぎ合わせたのが記紀だ。全国の勢力を大和に収斂するために記紀が編纂されたのだ。

 さて本題に入ろう。中大兄皇子、後の天智天皇は船長も知っているだろう。この天皇には不自然な点が二つある。まず中大兄皇子だ。これは天皇家の長子でも末子でもない中間の男子の尊称だ。古代では長子相続と末子相続の二つがあった。つまり中大兄皇子とは相続権のない息子の意味だ。そして長男を大兄皇子というが、古人大兄皇子、山背大兄皇子の様に名を付けて呼ばれた。後に天皇となる中大兄皇子の名を記さないのも、相続権のない尊称で呼ぶのも変ではないか。彼の名である葛城皇子と呼び、生まれ順を明記しないのが普通だろう。

もう一つは天智天皇の即位の遅さだ。天智天皇の前は舒明、皇極、孝徳、斎明だ。天智天皇の父、母、叔父、母に当る。叔父の孝徳天皇が崩御した時、天智は母を再び天皇にしている。その斎明天皇の崩御した時にも天智は即位していない。即位したのは八年も後だ。天智は即位の機会を何度も逃している。
彼は腹違いの兄や従兄弟を殺している。孝徳天皇も彼に殺された可能性が高い。それは自らが天皇になる為だったはずだ。天智天皇の即位の遅れは日本史上の謎の一つとされている。

結論から言おう。中大兄皇子は二人いたのだ。皇極天皇は再婚だった。最初の夫である高向王との間に漢皇子(あやのみこ)を生んでいた。漢皇子は九州王朝、那珂氏の嫡男だった。那珂大兄皇子なのだ。この漢皇子と葛城皇子が二人の『なかの大兄皇子』。だ。葛城皇子が大化の改新を行い、孝徳天皇の後に葛城天皇となった」

市長の妻が首をかしげた。それに気付いた中江典翔が発言を促がした。
「その時代の奈良には二人の高向氏がいました。高向玄理は遣隋使の小野妹子に同行し、高向国押は蘇我馬子の屋敷を守っていた。同様に高向王も大和の一族のはずです。漢皇子が九州王朝のはずがない」
「高向玄理はただの留学生であり、高向国押は蘇我馬子の家臣だ。そのように身分の低い一族の妻が皇后になるのは不自然ではないか」
「高向王は用明天皇の孫です」
「では聞こう。父は誰だ?」
「それは書かれていません」
「書けなかったのだ。九州王朝の王だからだ。527年、大和は九州の磐井と皇太子を殺した。九州王朝は滅亡し博多は大和に奪われた。たが家臣達は機会をうかがっていた。出雲に九州の密使が来たのは542年だ。過去の非礼を詫び王家の血筋を求め、中氏の次男が那珂氏として九州へ赴き王となった。
九州王朝の復活に、大和は博多の守りを固めた。ところが、さらなる脅威に気付いた、対立していた出雲と九州の連合だ。東西から攻められては博多を守れない。そこで大和は懐柔策で両国の分断を図り、用明天皇の娘を九州に嫁がせた。その息子が高向王だ。高向とは海人の言葉で海を見渡せる高い場所だ。高向王は大和の高向氏とは無関係なのだ」

市長の妻は思った。これでは論争にならない。黙って聞くことに徹した方が良さそうだ。
「先を続けて下さい」
「記紀によれば、斎明天皇は朝鮮出兵のため大和を出て朝倉で崩御された。六十八歳だった。古代の六十八歳といえば老婆だ、戦いのために遠征するのは不自然ではないか。そして朝倉は博多から三十キロも内陸の地だ。戦いを指揮したり鼓舞するには港から遠すぎる。

斎明天皇の名は宝女王(たからのひめみこ)と記されているが、正しくは高良女王だった。朝倉の近くに高良(こうら)大社がある。祭神の高良玉垂命は筑後の国魂だ。その娘が高向王に嫁ぎ、その後に舒明天皇の后になった。この時、大和政権に(こうら)を(たから)と改名させられたのだ。高良玉垂命は大和にとって敵対する神だからだ。その高良女王が何故、舒明天皇の后になったのか?

朝鮮半島では553年に百済、新羅同盟が決裂し、554年に伽耶が滅亡する。600年に遣隋使を派遣したが、その隋は619年に滅んで唐となった。
国内で争っていては国際情勢に乗り遅れる。大和も九州もそう考えた。630年に高良女王は和睦の証として九州王朝から大和王朝へ嫁いだ。その後、蘇我氏に利用され皇極天皇となった。645年、乙巳の変で退位した高良女王は故郷の朝倉へ帰った。そして再び即位することなく朝倉で天寿をまっとうしたのだ。斎明天皇はいなかった、捏造されたのだ」

 市長の妻が口をはさんだ。
「皇極天皇に再婚の記載はありません。それが書かれたのは斎明天皇の時です。斎明天皇が捏造なら、その再婚も捏造でしょう」
「高向王と高良女王の結婚は大和では知られていなかった。皇極天皇の威厳を保つのに、不名誉な過去を公言する必要はない。後で述べるが、斎明天皇が捏造された時に大和には多くの九州人がいた。九州では二人の結婚は周知の事実であり、高良女王は偉大な存在だった。その偉大さとは高良大社の出であることと高向王の妻であったことだ。離婚の意味が皇極天皇と斎明天皇では逆だったのだ」
「考えてみれば、最初の結婚がなければ漢皇子は存在しないことになる」
「そうすると那珂大兄皇子も存在しない。それは中氏家伝を否定することだ」
「今の段階でそれは考えていません。再婚の捏造は撤回します」

「乙巳の変を断行したのは葛城皇子だったが、天皇に即位したのは叔父の孝徳だった。葛城皇子は不満だったろう。9年後の654年に孝徳は病を患い、葛城皇子が見舞った直後に崩御する。そして皇子は葛城天皇となった。
663年、大和、九州、出雲の連合軍は白村江で大敗した。死んだのは船戦に慣れない大和の兵士だ。九州勢を指揮していた那珂大兄皇子は即座に兵を引き上げた。あるいは最初からの計画だったのかもしれない。二人の『なかの大兄皇子』。を利用する計画だ。
ところが唐の追撃で計画は狂う。大和から奪い返した博多の防御を固める羽目になった。出雲が中立を守ったのも誤算だった。結局、大和を攻め落とすのに5年を要した。668年、那珂大兄皇子は葛城天皇を殺し天智天皇となった。そして亡き母を斎明天皇とし、葛城天皇の存在を歴史から抹殺した。二人の『なかの大兄皇子』。を一人に収斂したのだ。これが天智天皇即位の謎の真相だ。天智天皇は大和の手法に乗ったのだ。事実よりも大和王朝一元説という幻想を選ぶのが、日本の統治に有利と考えたのだ。

 海洋民族である海人は北を示す北極星を重要視していた。道教ではこの星を神格化して天皇大帝(てんこうたいてい)と称する。出雲の天皇大帝への信仰が天皇の称号に繋がった。これでお判りいただけただろう。天皇という称号は出雲に深く係わり、天皇家の先祖は出雲の中氏となった。出雲こそが天皇にふさわしい地なのだ」


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