星を見る男が言った。 「お婆様、冥土とは何だ?」 「死んだら行くところじゃ」 「人は死んだらあの世に行くと聞いた」 「それは北の者の考えじゃ、わし等が行くのは冥土じゃ」 「冥土とは何だ?お婆様、教えてくれ」 お婆様は湯呑みを両手で抱えたまま言った。 「お前は海に湧く霧を見たことがあるか?」 星を見る男が肯いて答えた。 「その霧は陸に上がって雨になる」 「その雨によって畑の作物は命を与えられる。畑だけではない、草原も山もじゃ。草も木もいずれは枯れる。水は草や木から離れて川に入る。そして海に戻る。ワシ等も同じじゃ。冥土とは大いなる命の源じゃ。人はそこから生まれ、死ねばそこに戻る」 「死んで冥土に行けば、死んだ親やご先祖様に会えるのか?」
お婆様が首を振って湯呑みの中に指を入れると、一滴の水を手のひらに落とした。 「この一雫を川に入れたらどうなる?」 「川の水と一緒に流れていく」 「川の中から、この一雫を選んですくえるか?」 「それは出来ない」 「ワシ等の命も同じじゃ。お前の親もご先祖様も、大いなる命と一体になっておる」 「その後で別の人間として生まれ変わるのか?」 「大いなる命は人間だけのものではない。あらゆる生き物の命の源じゃ」 「それでは、生まれ変わって牛になるかもしれないのか?」 「虫かもしれん。草か木かもしれん」
星を見る男が黙り込んで考えている。お婆様はもう一人に目を向けた。蛇を踏んだ女が困ったように言った。 「申し訳ありません。私はそういう事を考えたことはありません」 「若い娘はそういう事は考えないもんじゃ。だが、お前には何か感じるものがある。お前の思う事を何でも良い、言うてみい」 「私は幼い頃から親を恨み、他人を羨んでいました。その心を恥じ、心を閉ざし、心に思う事と逆に振舞おうと努めました。いつしか私は気立ての良い、良く気が付く娘と言われ、ちょう・・・蝶々様の世話人に選ばれました。 本当は、私は一番ふさわしくないのです。その私が選ばれたことで、私は人を信じる事の危うさを知りました。人は一人で生きるものだと思ったのです。 ある時、私は吊るし首と言われました。もうすぐ死ぬ、そう思った時に、突然、私は一人では生きられないと知ったのです。私の心には二つの強い気持ちが湧き上がりました。死ぬ怖さと、共に死ねる喜びです」 「よいか、モノに惑わされるでない。お前は賢い。じゃが、知恵もまたモノでしかない。大事なのは、感じるコトじゃ。冥土はその近くにある」 それきりお婆様は口をつぐみ固く目を閉じた。二人は礼を言い、深く頭を下げた。
外に出ると農婦がイモを持って追いかけて来た。 「これを持って行きなされ」 蛇を踏んだ女が礼を言って受け取った。星を見る男が農婦に聞いた。 「この畑は大前様の物か?」 「そうでございます」 「畑の上を飛ぶ鳥も、大前様の物か?」 農婦が笑って答えた。 「いいえ。空を飛ぶ鳥は誰の物でもありません」 星を見る男が肯くと、チラッと上を見た。二人も空を見上げた。鳥の群れがこちらに飛んでくる。 「二人共、下を向いてろ。鳥は賢い。いつもと様子が違えば怪しんで高く飛ぶ」 星を見る男はそのまま動かない。鳥の群れが頭上を通り過ぎるや否や、弓を引いた。一羽の鳥が落ちてきた。星を見る男が駆け寄って鳥を拾うと農婦に差し出した。 「お婆様に渡してくれ」 「まあ、肉を食うのは何十年振りかね。お婆も喜ぶよ」
森に入ると蛇を踏んだ女が言った。 「死んで木になるのも悪くはないわ。何百年も風の音を聞きながら立ち続けるの。そして、いつかまた人間になるのよ」 「俺は鳥になって大空を飛びたい」 「そしたら誰かさんに射られて食われるわよ」 星を見る男は笑って目を転じた。リスがせわしなく動き回ってドングリを頬張っている。 「木の実も食われているぞ」 「地面に落ちれば熊や猪が食う。それで良いのよ、実が全部木になったら大変よ」 星を見る男が森の中を見渡した。 「草もたくさん実がなる。虫も数え切れぬほどの卵を産む。年毎に百倍、千倍に増えるはずだが、そうはならない」 「虫や鳥に食われるからよ」 「生まれてじきに食われる。生まれ変わってまた食われる。それがずっと続くのだ。人に生まれ変わるのは億万に一つ以下だ。冥土はむごい所だ。俺は行きたくない」 「望んで行く人はいないわ」 「冥土は本当にあるのか?」 「まさか、お婆様の言葉が嘘とは思えません」 「死んで星になる話はレンゲの言葉にはなかった。冥土も同じだ」 「冥土が無ければ、私たちはどこから生まれどこへ行くの?」
「俺達は母親から生まれた・・・」 「母親には戻れないわ」 「俺の母は十年前に死んだ」 「違うわ、四百十二年前よ」 星を見る男が苦笑して答えた。 「忘れてた。四百年も過ぎれば骨も残っていない」 「土に返ったのね」 星を見る男が立ち止まった。額に手を当て何か考えている。蛇を踏んだ女も立ち止まった。見上げた西の空が赤い。 「夕食はイモよ。薪を拾いながら行きましょう」 そう声をかけて歩き出す。振り返ると星を見る男はまだ立っている。 「急いで!暗くなる前に川まで行くのよ」 星を見る男は我に返ると、蛇を踏んだ女を追って駆け出した。
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