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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第99回  


 樫村と理沙の歓迎会は深夜にまでおよんだ。病で天国へ行ってしまった早苗にそっくりな理沙の姉がテレビの画面に映し出されてからは、話題は早苗とその理沙の姉の彩花のことばかりになった。早苗の親友だったナミが言った。
「世の中には自分とよく似た人が何人かいると言われているけれど、本当だったんだ。理沙ちゃんのお姉さん、こんな言い方をしてごめんなさいね、気味が悪いくらい早苗とよく似ているわ。ねえ、正樹さん、正樹さんもそうおもうでしょう。」
正樹は揺れ動く心とは裏腹に平静を装った。
「ああ、よく似ている。でも、早苗は早苗で、理沙ちゃんのお姉さんは理沙ちゃんのお姉さんだよ。まったくの別人さ。」
「正樹さんは彩花さんに会ってみたくない? あたしは、会ってみたいな。双子だってあんなには似ていないわよ。ドラマじゃないけれど、もしかしたら早苗と理沙ちゃんのお姉さんの彩花さんは双子だったりして、そうでないとしても遠い昔に、先祖が一緒ということもあるわよ。早苗は長野の戸隠の生まれ。理沙ちゃんたちのお生まれは?」
 少し飲みすぎてしまった理沙が、ハッと我に返り、ナミの質問に答えた。
「東京です。東京生まれの東京育ちです。長野には親戚は一人もおりませんし、戸隠へは一度も行ったことはありません。」
「それじゃあ、違うか。早苗とは縁がなさそうね。でも、ボラカイ島の魔法が正樹さんと理沙ちゃんを引き合わせた。そして、彩花さんも・・・・・・。」
 正樹が話を逸らせた。ネグロス島にいる理沙と彩花のおじいちゃんについてまた話し出した。
「理沙ちゃんのおじいさんは退職してから、単身、ネグロス島に渡られて農業指導をされている。その話を聞いて、僕は理沙ちゃんのおじいさんにとても会ってみたくなりました。理沙ちゃんにしても、お姉さんの彩花さんにしても、そのおじいさんのそばにいたいと望んでいらっしゃるのだから、きっと、すばらしいおじいちゃんに違いない。ネグロス島へ行ってみたくなりました。」
「ほら、やっぱり。正樹さんは理沙ちゃんのおじいさんじゃなくて、彩花さんに会ってみたいんだ。まあ、いいか。・・・ネグロス島って、砂糖の島でしょう。だけど最近では飢餓ですっかり有名になってしまった島でしょう。」
 ナミはそう言ってから、樫村に新しいビールを渡した。正樹が話を続けた。
「そうだよ。理沙ちゃんのおじいさんは戦争をあの島で体験されている。ネグロス島の人々が砂糖の価格が暴落して危機に陥ったと知ると、退職金を理沙ちゃんのおばあちゃんに半分残して一人でネグロス島で農園を開いたそうですよ。つらい体験をした人にしか、他の人の悲しみや苦しみは理解できないものです。苦しい体験はまちがいなく人を成長させてくれますからね。理沙ちゃんのおじいさんは、きっとすばらしい人にちがいないと僕はおもいますよ。会ってお話をたくさん聞きたいですね。」
 さっきから黙って飲み続けていた樫村が口を開いた。
「確かに、こんなにかわいらしいお嬢さんたちが、何も不自由しない東京を離れてさ、何もないネグロス島で暮らしているんだから、理沙ちゃんたちのおじいさんはよっぽどの人だな。魅力的な人に違いないな。それに年寄りを大切にしないのが現代の若者たちの流行なんだろう。だけど、理沙ちゃんたちは偉いな。本当に偉い!」
 正樹が思い出したように言った。
「最近行われた世界的なアンケート調査なんだけれど、お年寄りを大切にする国のランキングなんだ。フィリピンが堂々のトップで二番目が韓国でしたよ。日本は残念ながら十位以内には入っていなかったようです。この調査結果がなくても、僕は前々からフィリピンの人たちは自分の親やお年寄りを大切にするやさしい国民だということは感じていました。日本人がどんなに偉そうなことを言ったって、この国民性には敵いませんよ。それに最近では、老人大国になってしまった日本ではお年寄りの介護をする若者が足りなくて、隣国に助けを求めているのが現実ですものね。」
 飲み過ぎて真っ赤な顔をしたナミの夫の佐藤も口をはさんだ。
「老人の経験と智慧を大切にしない国はいつか衰退しますよ。若者は時として老人の体験と智慧を学ぶべきだ。子供もお年寄りも一緒に暮らすのが東洋のすぐれた伝統だったはずなんだが、日本はどうなってしまったんだろうか。悲しいかぎりだ。」
 正樹が佐藤の意見に同感した。
「確かにその通り。戦争を体験した者にしか、その悲惨さを語り継ぐことは出来ませんものね。元来、戦いが好きな人間を、誰かがさ、戦争をさせないようにしなくてはならないからね。ストッパー役が必要なんだ。その役目ができるのは老人しかいないよ。」

 その時、静まりかえった岬の豪邸の庭に一台のトライシクルが入ってきた。中古のオートバイのエンジン音は正樹たちが話をしているリビングの中にまで響いた。次の瞬間、リビングの扉が開き、白衣を着た医師のヨシオが飛び込んで来た。
「正樹先生、急病人だ。僕では無理だ。ヘリを頼んで下さい。」
 正樹がまず立ち上がって、ヨシオと一言二言、話をして、それからゆっくり振り返って、佐藤の方を向いて言った。
「佐藤さん、すみませんが署長に無線でヘリを飛ばしてくれるように頼んでくれませんか。ケソン市の病院へ患者さんを運びたいので、お願いします。」
 佐藤が迅速に動いた。
「承知、ヘリはすぐに手配しましょう。他に何か?」
「いえ、それだけで結構です。」
ヨシオと正樹は庭に待たせてあったトライシクルに飛び乗り、闇夜の中に消えて行ってしまった。

樫村直人が言った。
「何だ、あいつ、医者かよ。ただのコンビニのおやじだとばかりおもっていたのに、俺の一番嫌いな医者だったとはな。」
 ナミが答えた。
「正樹さんはここの子供たちの健康管理や島の人たちの診療を無料で引き受けている立派なお医者様ですよ。」
 樫村が吐き捨てるように言い返した。
「俺のお袋はな、手術で殺されたんだ。だから医者はみんな信用できんよ。」
 その言葉を聞いて、みんな黙ってしまった。重くて暗い空気がしばらく続いた。それを吹き飛ばしたのは、介護の勉強をしてきた理沙だった。
「樫村さんのお気持ちはよく分かりますわ。あたしも、もし樫村さんと同じように自分の母を手術で失えば、医学に対して不信感を持ちますもの。きっと、あたしもすごくお医者様を憎むことでしょうね。でもね、ネグロス島のおじいちゃんのところにいて、少しずつ分かってきたことがあるのです。日本では考えられなかったことでしたけれど、たくさんの人々があたしたちの目の前で死んでいくんです。それでね、おじいちゃんと村の人たちの話を聞いていて多くのことを感じました。人は愛する人の死に直面して、やっと愛の深さを知るんだなってね。おじいちゃんはよく聖書の言葉を引用して村人と話をしていますわ。私たちの身体は病にもかかるし、とても壊れやすい土の器のようなものだって。日本では人が死ぬと火葬場へ運んで行って、すぐに火葬にしてしまいますでしょう。こちらではコンクリートの箱の中へそのまま入れてしまいますのよ。地方によっても違いますけれど、火葬はしませんね。日本だって、以前は土葬の習慣はあったそうです。現代では先祖代々のお墓に遺骨は入れずに山や海に散骨したり、遺骨を固めて置物にしたり、ペンダントにして肌身離さず持っている人もいますよね。ビルの中に回転式の共同のマンション墓地もあったりして、時代とともに葬儀の形式も墓地も多種多様化してきていますけれど、でもやはり、人はみんな土に還るんじゃないかしら。地球に還ると言った方がいいのかな。おじいちゃんは、人にはみんな定められた定命があるんだって言っていたわ。死のうとおもっても、定められた命が尽きるまでは人は死ねないものだって、結局、私たちは毎日を一生懸命に生きていくしかないそうです。明日、いや事故で何時間後に死ぬことだってあるんですからね。だから、今現在をしっかりと生きるしかないんだって。大切なことは壊れやすい土の器ではなくて、そのもろい土の器の中に入れるものなんだって。きれいな澄んだ水なら、器が壊れても、地面にしみ込んで、その水によって新しい芽が生えてくるでしょう。受け継がれていくものは容器ではなくて、その中のものだけなんです。」
 樫村が理沙に質問した。
「理沙ちゃんは天国とか極楽があるとおもうかね? 死んだ後の世界さ、そんなものがあるとおもいますか?」
「死後の世界があるのかないのかは、死んだ人にしか分からないものでしょう。生きている私たちには分からないことだわ。それだったら、あるとおもった方が素敵じゃない。」
 ナミが言った。
「確かに、医療の進歩は倫理的に多くの問題を引き起こしているわね。今までは、当り前の死だったものが、そうでなくなってしまっているもの。医療は厳粛であるはずの死を時として無駄にしてしまうこともありますものね。最新鋭の機器を備えた病院は余計なことをやりすぎてしまうこともありますものね。」

 岬の豪邸の外は熱帯特有のスコールが襲っているようで、ものすごい雨音がしていた。その場にいるものは皆、さっき出て言ったヨシオと正樹たちのことが気にかかった。医者をあんなに嫌っている樫村直人でさえも正樹たちのことが心配になっていた。もう、誰もアルコールを口にする者はいなかった。重たい空気が広いリビングを支配していた。

 一時間、いやもう少し経った頃だった。豪邸の中庭に再びトライシクルの音が響きだした。正樹が患者さんと付き添いの母親を連れて戻って来た。正樹とトライシクルのドライバーによって豪邸の中に運び込まれてきたのは中年の男性だった。激しい痛みが続いているらしく、その表情は苦しみに満ちていた。連れ添って来た母親はもう腰が曲がってしまっていて、80歳をとっくの昔に超えているように誰の目にも映った。ヘリはすでにマニラを飛び立ったという連絡が入っていた。母親は涙声で正樹に話しかけていた。
「こんなにやさしい子がどうしてこんな目にあうんでしょうね。」
 正樹が言った。
「おかあさん、まもなくヘリが到着しますからね。」
しかし、事態はかなり深刻だった。ソファーの上に寝かされた患者の心臓が停止したことに正樹はすぐに気がついた。
「樫村、ちょっと手伝ってくれんか。」
「ああ、いいよ。」
「足を持ってくれんか、二人で患者さんを床におろすから。」
「わかった。」
「俺が人工呼吸をするから、その合間に心臓を両手で強く押してくれないか。
ナミさん、医務室から電気ショックのあの装置をお願いします。」
「分かったわ、今、とってきます。」
 正樹の言葉があまりにも真剣で気迫がこもっていたので、医者嫌いの樫村はそれを拒否することは出来なかった。二人は汗びっしょりになりながら、心臓マッサージと人口呼吸を交互に何度もおこなった。電気ショックを与えても、再び、心臓は動くことはなかった。その場にいたすべての人々の願いも空しく、その患者さんは永遠の眠りについてしまった。泣き崩れる母親が何度も同じことを繰り返していた。
「何で、こんなにやさしい息子が、こんなに苦しんで死ななければならないのかしら。先生、どうしてなんですか。」
 誰もこの母親をなぐさめる言葉など持ちあわせてはいなかった。正樹は彼女の息子を抱き上げてソファーの上に寝かせた。たった一つだけ救われたことがあった。それはさっきまであんなに苦しんでいた表情が安らかな笑みにかわっていたことだった。母親はその顔を何度もさすりながら涙を流していた。
「この子は、わたしたち家族のために何度も出稼ぎに行ってくれたんですよ。熱い熱い砂漠の国へね。仕事がない時だって、いつだって、みんなのために尽くしてくれたやさしい子なんだ。そんな優しい子がどうしてこんなに苦しいおもいをしなくてはいけないのですか。何で、あたしより先に行くんだね。あたしが代わってやりたかったよ。・・・・・・。」
 どんな言葉もきっとこの母親の慰めにはならないだろう。正樹は年老いた母親の肩をしっかりと抱きしめて言った。
「あなたの息子さんはみんなの苦しみをぜんぶ背負って召されたんですよ。それは選ばれた本当にやさしい人にしかできないことなんです。選ばれし者にしか許されていないことなんですよ。立派な息子さんでしたね。見てごらんなさい、息子さんの顔を、安らかに眠っていますよ。もう苦しんでなんかいませんよ。・・・本当にお悔やみ申し上げます。」
 その正樹の言葉を聞いて、母親はもう返事をしてくれない息子にむかって話しかけていた。
「あんたはさ、あのジーザス・クライストと同じだよ。お礼を言うよ。ありがとう。みんな、どれだけ助かったことか、あんたがいたから、みんな生きてこれたんだ。みんなの苦しみを、あんたはひとりで・・・・・・。ありがとうよ。・・・どうか、ゆっくり休んでおくれ。あんたは、あたしの自慢の息子さ、・・・・・・。」

 ナミも理沙も涙が溢れていた。樫村の目も赤かったが、小さな声で理沙に聞いた。
「ジーザス・クライストって誰だ?」
 理沙が小さな声で答えた。
「キリストさんですよ。」
「十字架のキリストさんかね。」
「ええ、そうよ。」

 ヘリコプターが岬の豪邸のヘリポートに到着した。正樹はすぐに外に飛び出して、パイロットに事情を説明した。ヘリはエンジンを切らずに、そのまま飛び去って行った。それを聞いていたトライシクルのドライバーが帰ろうとしたので、正樹はそれを止めた。
「悪いがもう少しそこにいてくれ。親子を家まで送ってやってくれないか。あっ、その前に警察へ行ってくれるかね。ちょっと待っていてくれ。」
リビングに戻った正樹はすぐに最上階の佐藤の書斎へ行き、今度は無線で患者の到着を待っているケソン市の病院へ連絡を入れた。簡単だったが丁寧に礼を述べて無線を切った。次に豪邸の庭の手入れをお願いしているスタッフに外で待機しているトライシクルで島の警察に行って巡査を連れてくるように指示を出した。

 大切な息子を失ってしまった母親は自分の膝の上にその息子の頭をのせながら、まだ温かい息子の顔をさすっていた。もう、さっきのように泣き叫んではいなかった。樫村直人はじっと目をつぶって溢れ出す感情を抑えている様子だった。正樹が日本語でそっと言った。
「死因は解剖してみないと分かりませんが、たぶん、樫村さんのお母様と同じ大動脈解離でしょう。心臓に血液が流れこんでショック死したと考えられます。ケソン市の病院でも、この時間に、この大手術ができる医者がいたかどうか疑問ですね。どんなに医学が進歩しても死を征服することは出来ませんよ。肉体は老化し、時には病気にもなります。いずれは朽ち果てる運命にあります。それが人の定めなのですからね。命にはかぎりがあるわけで、そのかぎられた命をどう生きるかが、人に与えられた勤めなのかもしれませんね。重要なことは身体よりも健やかな心を保ち続けることですよ。医者の力には限界があります。」
 理沙が言った。
「正樹さんは、うちのおじいちゃんと同じだわ。同じことをおじいちゃんも言っていたわ。」
「僕はただ、当り前のことを言っただけですよ。」

 樫村直人は考えていた。さっき心臓マッサージをしていた自分はある意味、自分の母親を殺した医者と同じではないのかと、・・・。俺は確かに命を救おうとしていた。俺は医者ではないが、あの医者と同じことをしていたのかもしれない。・・・そんなことを無意識のうちに感じていた。ボラカイ島の魔法が樫村直人に効き始めていた。

 まだ暗いが、夜明けは確実に近づいていた。正樹が理沙を誘った。
「理沙ちゃん、ちょっと海へ出てみませんか?」
「こんな時間にですか?」
「出ると言っても、舟で沖へ出るわけではありませんよ。少し浜辺を散歩してみませんか。」
「ええ、喜んで。」
 二人は岬の豪邸のテラスから階段を降りて浜辺へ向かった。
「けっこう月の光だけでも歩けるでしょう。」
「ええ。」
 理沙が振り返って階段の上を見上げて言った。
「でも大きなお屋敷ですね。プライベート・ビーチまであるんだ。びっくりですね。」
「そうでしょう。日本で生まれ育った人には、まったく想像もできない別世界ですよ。」
二人は椰子の木の下にある流木で作られたベンチに腰をおろした。理沙が言った。
「上のお屋敷にいる子どもたちはみんな日比混血児なんですか?」
「ああ、そうですよ。マニラの裏道に捨てられていた子供たちです。以前は常時500人くらいはいましたけれど、今はだいぶ少なくなりました。現在では50人から70人の間で数はいったりきたりしていますね。成人するとみんなこの家を巣立って行きますからね。だから、ここの家で育った子供たちはね、すでに世界中に散らばっていますよ。そして、その中で成功している者たちはこの家を裏から支えてくれています。経済的にね。」
「すごいですね。」
「大きな葬儀がある時には本当に驚きますよ。訃報を聞きつけて世界中からこの家の出身者がこの岬の家に集結するんです。家の中に入りきらずにね、中庭に大きなテントが幾つも張られるんですよ。ええと数だけれど、何万人いるんだろうか?今度、名簿で調べてみます。」
「ええ、そんなにマニラの裏道に日本人と血のつながった子供が捨てられていたんですか?」
「ほんの一部にすぎませんよ。実際にはもっともっといるんじゃないのかな。」

 正樹は流木のベンチから立ち上って言った。
「ちょっと、ホワイトサンド・ビーチへ行ってみましょうか。来る時にヘリから見えた、あの白くて長い砂浜です。」
「ええ、長さはどのくらいあるのですか?」
「4キロメートルあります。真っ白な砂浜が4キロメートルも続いているんですよ。」
「素敵ですね。」
 とびっきりの笑顔を理沙は見せた。二人はゆっくりと砂浜を歩いた。
「理沙ちゃんと同じように、理沙ちゃんのおじいさんもいつもニコニコしていませんか?」
「ええ、そうよ。その通りですよ。うちのおじいちゃんはいつも笑顔だわ。」
「それは素晴らしいことですよ。なごやかな顔を他人に施す。誰に対しても笑顔で接すること。すばらしい笑顔を交わせば、そこには争い事は起こりませんからね。それからもう一つ、人を惹きつける一番の方法はどんな時でも笑顔でいきいきしていることです。年をとっても、理沙ちゃんのおじいさんのように生きている人はボケたりはしませんよ。」
「あたしたちね、おじいちゃんのそばにいると、何と言ったらいいのかしら、生きているという実感がありますのよ。」
「そうでしょう。分かるな。僕はますます理沙ちゃんたちのおじいさんに会ってみたくなりました。」
 理沙は正樹の本心をすでに見抜いていた。
「うちのお姉さん、そんなに早苗さんに似ていますの?」
「ああ、似ている。正直に言うと、テレビで君のお姉さんを見てから、僕の心臓は速くなってしまいましたよ。でも、その反面、彩花さんは早苗とは違う人だと、別人なんだと自分に言い聞かせています。早苗と僕はね、お互いの引きずってきた悲しい過去を、二人で半分にしてきたんです。それから喜びは、二人で二倍にしてきました。」
 正樹は少し瞼を閉じて、また話しだした。
「早苗は死ぬ前にありがとうと言ってくれました。その一言は僕にとっては救いでしたよ。生まれてきて良かった。あなたに会えて本当に良かった。感謝しますと言って去って行きました。ありがとうの一言は残された者にとってどんなに助かることか、悲しみを引きずらなくてすみますからね。あとは時の癒しを待てばいいのです。忘れるという特技を人は兼ね備えていますからね。」
 理沙が言った。
「なんか、正樹さんって、うちのおじいちゃんみたい。さっきから、おじいちゃんとおんなじことばかり言ってるんだもの。きっと真剣に命と向かい合っている人たちには共通することが多いんですね。それに感性の豊かな人は、過去に何度も涙を流していて、苦しみを知っている人じゃないかしら。さっき、正樹さん、早苗さんと悲しみを分け合ったと言っていたでしょう。」
「偉そうな事を言ってごめんなさいね。確かに、苦難逆境は人生を豊かにしてくれます。より生き甲斐を感じさせてくれるものです。人の幸せって、つらいことに出合うことが少ないとか、ないとかではなくて、むしろ難題や苦難に立ち向かってそれに打ち勝つことじゃないのかな。」

 空は明るくなりかけていた。浜辺を掃除している島の人間はみんな正樹の知り合いだ。すれ違う度に「先生、おはようございます。」の声がかかった。正樹も軽く会釈をしてそれに答えていた。理沙は履いていた靴を脱いで、それを両手にぶら下げて歩きだした。
「裸足の方が歩きやすいわね。それにこっちのほうが気持ちがいいです。」
「僕も島にいるときはビーチ・サンダルか裸足ですよ。滅多に靴など履きません。」
「そうだ、さっき、樫村さん、複雑な表情をされていましたね。お医者様が嫌いな人でしょう。正樹さんがお医者様だと分かると、急に黙りこんだりして、表情が暗くなりましたのよ。でも、正樹さんと一緒に心臓マッサージをされているときの樫村さんの顔はとてもいきいきしていて真剣でした。」
「彼、何か感じてくれればいいんですがね。このボラカイ島に来て、彼の気持ちが少しでも癒されればよいのですが。」
「そうね、お母様を手術されたお医者様を憎んでいても仕方がないわよね。・・・・・・でも、もし、あたしが樫村さんと同じ立場だったら、どうかな?・・・やはりお医者様を嫌いになるかもしれませんね。」
「確かに、外科医は成功率の低い手術と分かっていても、また自分のもっている以上の技術を要求されたとしても、やはりメスをとってみたいとおもうものです。患者さんの犠牲があって、次第に外科医はその腕を上げていくものです。それは否定できません。だから、尚更、医者は病んだ臓器ではなくて人間に深い情けがなければいけない。絶対に医者が忘れてはならないことは手術台にいるのは病んだ患部、臓器ではなくて、人だということです。生きた人間だということを忘れてはいけない。驕ってはいけない。どんなに医学が進歩しても医者は死を征服することなどできないのですからね。」
 二人は市場の近くまで来ていた。正樹が市場の近くにある自分の診療所に理沙を誘った。
「ちょっと、うちの診療所に寄っていきますか?」
「ええ、ぜひ。」
 二人は浜辺から上がりビーチ・ロードへ出て、朝の市場を抜けた。すでに市場は人がいっぱいだった。ブロックだけで簡単につくられた診療所につくと医師のヨシオが待合室の長椅子で眠っていた。奥の正樹の部屋にもタカオ医師が床に敷物を敷いて眠っていた。そこには理沙と正樹の居場所がなく、二人は診療所をすぐに離れた。
「ごめんなさい。二人ともよく眠っているから、起こすのはかわいそうだ。」
「いいんですよ。昨夜のあの患者さんで、きっと疲れているんだわ。」
「あの二人、岬の家の出身なんですよ。ストリート・チルドレンだったんです。」
「そうなんですか。」
「他にも、うちの診療所には六人の医師がいます。みんな岬の家からきた者たちばかりです。看護婦も五人います。この子たちもみな日比混血児です。」
「まあ。そんなに。」
「僕が日本に出稼ぎに行くのはね、みんなの生活費を稼ぐためですよ。」
「えー、でも、診療所でしょう。診察代とか、保険料とか、ないんですか?」
「うちの診療所はね、自己申告制でね、患者さんがお金がある時にね、診療所の入口に設置してある診療箱に入れてもらっています。」
「でも、それじゃあ、・・・・・・。その診療箱にはお金が入っているんですか?」
「入っていませんね。みんな入れたくても入れられないのが現実ですよ。」

 正樹と理沙は軽く朝食をとってから、教会と警察へ寄って、早苗と樫村の母親の遺骨を共同墓地に納骨する準備をしてから、トライシクルで岬の家へ戻った。

 丘の上の共同墓地で納骨式が始まったのは正午過ぎだった。警官と神父様が立ち会って、樫村の母親は茂木さんとボンボンが眠っている墓へ、早苗はディーンの眠っている墓へそれぞれ入れられた。海から吹き上がってくる風がやさしかった。丘の上の共同墓地はとても清々しい場所で、見晴らしも良く、そこは正樹の一番好きな場所だった。

納骨を終え、樫村が正樹に言った。
「ここはいいな。きっと俺のお袋は喜んでいるぜ。俺も死んだらここに入りたいな。」
「まあ、お互いに定命が尽きるまでしっかり生きて、ボラカイ島とまだ縁があったら、入ればいいさ。」
「あんたは医者だったんだな、・・・・・・。すまん。ちゃんとした礼も言わずに、お袋をここに連れて来てもらって感謝している。」
「いいんだ。お礼なんて、それより、あと一日しか、おまえはこの島にいられないんだ。日本に帰る前に少し島を案内してやるよ。これから山に登ってみるか。」
「この島に山があるのか?」
「まあ、小さい山だがな、この共同墓地よりもっと見晴らしは良いよ。とても気持ちの良い場所だよ。理沙ちゃんも一緒にどう?」
「ええ、ご一緒しますわ。」
 納骨のために集まってくれた人々を見送ってから、三人はトライシクルでルホ山に向かった。何度も樫村と正樹はトライシクルから降りてバイクの後ろを押した。中古のエンジンは急な坂道を四人を乗せたまま登りきることはできなかったからだ。

 見晴らし台からはボラカイ島の裏側、ホワイトサンド・ビーチの反対側の海岸線を望める。遠くを行く船の白い線がとてもきれいだった。開放的な青い空、緑色と青色の入り混じった大海原、これ以上何を望めというのか。そこは簡素なつくりの見晴らし台だったが世界一の展望台と言っても過言ではなかった。理沙が樫村に言った。
「樫村さん、嬉しそうね。」
「ええ、気持ちがスッキリしました。不思議なんだ。胸のつかえがスーっと取れたようでね。」
「お母様もお墓でゆっくり眠ることができますね。」
「そうだね。それもあるよ。もっと不思議なのはさ、今までの俺がさ、ちっぽけに見えてな。この雄大な景色を見ていると、いったい今まで俺は何をやっていたんだと反省しているところなんだ。ずいぶん無駄に生きていたような気がしてな。」
 正樹はニコニコしていて、何も言わなかった。さっきから理沙が樫村の相手をしている。
「ボラカイ島は不思議な島ですね。訪れた人をみんな幸せにしてくれますものね。」
「確かにそうかもしれないな。俺の場合は恨みとか憎しみが消えちまったよ。」
 正樹は笑顔のまま黙って二人の話を聞いていた。
「樫村さんは明日東京に戻られるのでしたね。」
「ええ、そうです。なかなか休みがとれなくてね。明日、俺は日本に帰ります。でも、また来ますよ。お袋に会いにこの島に来ることを考えると、何と言うのか、希望みたいなものが生れてきてね。・・・・・・明るい気持ちになるんだ。」
「それって大事なことよ。おじいちゃんはネグロス島の人たちにいつも言っているわ。どんなに小さなことでもいいから希望を持ちなさいって。希望を見つけることができれば幸せになれるんだって。ねえ、そうおもうでしょう。正樹さん?」
 正樹は見晴らし台の欄干に手を添えて、空に向って話しだした。
「皆、幸せになることを望んでいます。だけど、自分が幸せであることを実感することは難しくて、逆に不幸であると思うことはたやすいんじゃないかな。幸せのかたちはみなそれぞれ違うけれど、ただ、共通していることは心が持続して安らかな状態にあることだよ。人間は強いものでね、どんなに不幸な境遇でも耐え忍ぶことができます。どんな困難の中でも小さな希望が一つあれば幸せを実感することだってできるんですよ。希望は心をあたたかくしてくれます。それから希望は決して高望みはしないんだ。どんなに小さな希望でも人の心を十分にあたたかくしてくれます。希望は願望や欲望とは別もので、満足することを知っています。どんどんふくらんでしまう願望や欲望を持って生きるのではなくて、小さな希望をもって生きることが大切だと僕もおもうよ。人間、足ることを知らないとだめだよ。」
 理沙が言った。
「正樹さんはうちのおじいちゃんと同じことばかり何度も言うからびっくりだわ、・・・・・・。あたし、知っているわよ。おじいちゃんなら、きっと次はこう言うわよ。生きているという実感は自分を他人のために役立てた時に感じるものだってね。」
「正解!忘己利他だね、大乗仏教では我を忘れて他人の利益を優先しなさいと教えています。わがまま勝手、自分のためだけに生きると周りの者は離れていきます。裕福ですべてを与えられて満ち足りると非常に空しくなります。何をしても嬉しさを感じなくなりますからね。それほど人の願望ははてしないものです。身体や境遇に欠陥や欠点があっても心は健やかでいること、小さな希望を胸に毎日を生きることが大切なんです。」

 翌日、樫村は東京へと帰って行った。もう、彼の医者へ対する恨みや憎しみは完全に消えていた。
また一つ、ボラカイ島は魔法を使ったようだった。


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