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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第98回   彩花
彩花


 マニラ東警察の署長も歳を重ねてしまった。正樹と初めて出会った頃のあの血気盛んな勢いはもうなくなり、渋くて落ち着いた表情を見せるようになっていた。正樹が彼の部屋に入って来るのを見ると、いつものように大きな机から立ち上がり、両手を差し出しながら正樹に近づき握手を求めた。
「おー、これは、これは、正樹くん、元気にしていましたか?」
「ええ、お蔭様で、署長もお元気そうでなによりです。飛行機が飛ばなくて、参りました。」
 正樹の後ろで樫村と理沙が驚いた顔をしながら二人の会話を聞いていた。署長室には他に二人の訪問者が来ていたが、署長はその者たちを後回しにしてしまった。正樹は自分の視線をその二人の先客に当てながら、署長に小声で言った。
「どうぞ、僕たちは後ろでお待ちしますから。」
 署長はうなずきながら握手だけ済ますと、席に戻り二人の先客と仕事を続けた。理沙が正樹に言った。
「正樹さんは署長様とお知り合いだったのですね。」
「僕が学生の頃からの、・・・何と言うのか、・・・署長は僕にとってはこの国の父親のような存在ですよ。ある意味ではそれ以上かもしれません。恩人とでも言うのかな、何度も命を救われたこともありますしね。僕は困ったことがあるといつもここに来るんですよ。」
 樫村が大きな声で言った。
「俺はあまり警察は好かんな。それに、何でここに来るとボラカイ島へ行けるんだよ?」
「あんまり大声で喋るなよ!まあ、お前の話は日本語だから、署長に聞こえても心配はないけれど、兎に角、ちょっと静かに待ってろ、今に分かるから!」

 十分ほどで話はまとまったようで、二人連れは署長に丁寧に礼を言いながら部屋から出て行った。署長は机の上の書類を整理しながら正樹に目で合図を送った。続いて机の前の椅子に座るように手招きしたので、正樹は理沙と樫村を椅子に座らせて、自分自身は理沙の後ろに立った。署長が言った。
「今、もう一つ椅子を持って来させましょう。」
 正樹が言った。
「いえ、結構です。僕はこのままで、ありがとうございます。」
「早苗さんはお元気かな?」
「つい先日、生まれ故郷の病院で、早苗は、・・・・・・、病気で死んでしまいました。僕のそのバックの中には彼女の骨が入っているんですよ。ボラカイ島の私たちのお墓に入れようとおもってね、・・・・・・。」
 正樹は言葉が途中で出なくなってしまった。署長はしばらく目を閉じてから、ゆっくりと言った。
「何ということだ!無常ですな。早苗さんのご冥福をお祈りいたしますよ。」
「ありがとうございます。でも、どうしてなんですかね?この世の中、悲しいことが多過ぎますよ。」
「まったくだな。警察で仕事をしていると感覚が麻痺してしまうが、本当につらい事が多すぎるな。わしは時々、教会へ行ってね、神様に向かっておもいっきり説教をすることがあるんだ。どうしてなんですか?何で我々に、こんなつらい試練ばかりお与えになるんだとね。」
「確かにそうですね。僕もよく落ち込んでしまった患者さんを慰める時に、神様は越えられないハードルは用意しないんだからと言い聞かせますけれど、大地震などで罪もない人々がたくさん死ぬと、神様の存在を疑いたくなりますね。」
「まったくだな。わしはしばらくボラカイ島へは行っていないが、ヘリコプターのパイロットたちの話では、ボラカイ島は随分とにぎやかになってしまったらしいな。」
「ええ、この国の代表的な観光地になってしまいましたよ。豪華なホテルが幾つも出来ましたし、新しい桟橋が完成して、浜のボートステーションで腰までずぶ濡れになって下船する情緒がなくなってしまいましたね。」
「まあ、それも良し悪しだな。ところで飛行機が飛ばなくなってしまったと言っていたね、定期便は午前中に飛んでしまったけれど、すぐにヘリを準備させるから心配するな。」
「いつもすいません。我がままばかり言いまして、署長には感謝しております。」
「心配するな。子供たちの面倒をお願いしているのだから、それくらいのことはあたりまえだよ。」
 ここでやっと、署長の注目が樫村と理沙に向かった。正樹が紹介を始めた。少し難しい英単語を選んで、樫村が分からないように説明した。
「こちらは樫村と言います。少し前にお母様を亡くされまして、やはり、僕たちの共同墓地に一緒に入れてあげることにしたんです。彼は手術をした医者がお母様を殺したと思い込んでいるのですよ。まだ怨みと憎しみの世界にいるものですからね、僕はボラカイ島のあの大自然が彼の気持ちを変えてくれるとおもったものですからね、一緒に連れて来ました。」
「そうか、それはいいかもしれないな。前に君が言っていたけれど、ボラカイ島は心の病院だからね。自分のことを捨てた親を、あれだけ憎んでいた子供たちが立派に成長しているんだ。彼の心もきっと癒されるだろうよ。」
「そして、こちらは理沙ちゃん、彼女のおじいさんがネグロス島で農業の指導をしていらっしゃいます。空港で偶然に知り合いましてね、ネグロス島へ行く前にボラカイ島へ寄ること勧めた次第です。」
「ネグロスですか、砂糖の島だ。あと、南部のセブ島に近いところにシリマン大学があるな。学園都市のドゥマゲッティは治安が比較的良い。確か、あの大学はプロテスタント系の大学のはずだが、カトリックのこのフィリピンでは珍しい存在だよ。」
 正樹が理沙に質問した。
「理沙ちゃんのおじいさんはネグロスのどこにいるの?」
「ドゥマゲッティからそんなに遠くないわ。姉がね、シリマン大学にICUの交換留学生として、そこに在籍していますのよ。」
 正樹は理沙のその言葉を聞いて、また不思議な力を感じた。これもまたボラカイ島の魔力なのだろうか?今、署長が話をしていたシリマン大学に理沙の姉がいると言うのだ。偶然にしては出来過ぎている。正樹は理沙に確認するように聞いた。
「お姉さんがシリマン大学にいるのですね。もし良かったら、お姉さんのお名前を聞かせてくれませんか?」
「ええ、いいですよ。姉は彩花といいます。韓国や日本のミッション系の大学からはけっこう行っているのよ。例えば、フェリス女子学院大学やICU、それから四国学院大学なども交換留学を行なっているわ。」
「へー、そうなんだ。すると、彩花さんは学生ビザでネグロスにいるわけなんだ。理沙ちゃんの滞在ビザは観光ビザですか?」
 理沙はこくりとうなずいてから言った。
「あたしもね、もっと長くおじいちゃんのところにいたいから、ビザの変更を考えているの。もしかするとシリマン大学へ入るかもしれないわ。あの学校は海のすぐ側にあってね、とても静かな学校よ。キャンパスは緑に囲まれていて、とてもきれいな大学なの。ドゥマゲッティの町の大きな部分を大学が占めているわ。」
「ネグロスか、ドゥマゲッティね、彩花さん、それにシリマン大学、ますます理沙ちゃんのおじいさんに会ってみたくなってきたよ。」
 樫村がじれるようにして正樹に言った。
「おい、ボラカイ島はどうしたんだよ。早く何とかしろよ!」
「心配するな!もう30分もしないうちに島に行けるから。」
「本当かよ?」

 その正樹の言葉通り、三人を乗せた警察のヘリコプターはボラカイ島の岬にある豪邸の中庭に到着した。
 樫村と理沙はヘリが地上に着陸する前に完全に言葉を失っていた。真っ青な空、エメラルドグリーンの海、そしてどこまでも延びている真っ白な砂浜を二人は360度の空間全体で感じて放心状態になっていた。正樹は案内してきた訪問客がボラカイ島の空気に触れて驚く様子を見るのがとても好きだった。樫村と理沙の二人も間違いなく感動していた。

 ヘリの到着した岬の豪邸にはマニラで親からも社会からも捨てられた日比混血児たちが
保護された後、彼らの自分の意思でもって、この家で仲間と共同生活をしていた。その数は以前ほどではなくなったが、まだ多くの子供たちが岬の家で暮らしていた。市場の近くにある正樹の診療所はここの子供たちの健康管理を任されていた。正樹が日本へ行って留守の間は、すっかり貫禄が出た主任のヨシオと他の青年医師たちとで手分けして診察にあたっていた。正樹の診療所で働く医師たちはヨシオも含めてすべて岬の家の出身者たちだ。かつてはマニラの裏道で残飯をあさっていた子供たちだった。

 三人が降りると、ヘリはよく晴れ上がった青空の中に消えて行った。豪邸の中庭に造られたヘリポートにはこの家で勉強を続けている子供たちが、さっき、午前中に飛び立った定期便が再び戻って来たことに驚き、大勢集まって来ていた。しかし訪問者が正樹だと分かると安心して、それぞれが担当している場所に戻って行った。この岬の家を運営している渡辺コーポレーションの担当重役の佐藤と、その妻のナミだけがヘリポートに残った。ナミは亡くなってしまった早苗の親友だ。ナミは既に診療所の主任医師ヨシオから早苗のことは知らされていた。真っ赤な目をしてナミが正樹に言った。
「正樹さん、このたびは・・・・・・、」
 ナミは溢れ出る涙で、すぐに言葉が途切れてしまった。正樹はもう大丈夫だった。手で持っているバックを見せながら言った。
「ほら早苗さんを一緒に連れて来たよ。この島の、あの丘の上の共同墓地で眠りたいと本人が言っていたからね。約束どおり連れて来た。長野の親戚の人々はあまりいい顔をしなかったけれど、早苗さんの遺言だからね、特別に分骨してもらった。だから、早苗さん、半分は長野の先祖代々のお墓に残してきました。」
 佐藤とナミは悲しい表情のままだ。正樹が話を続けた。
「紹介が遅れましたが、こちらは理沙ちゃん、リムジンバスでたまたま一緒になってね、おじいさんとお姉さんがネグロス島にいます。寄り道ですね、ボラカイ島にちょっと寄ってもらいました。それから、こっちは樫村、東京での仕事仲間です。やはり、お母様を最近、亡くされてね、・・・・・・、まあ、いつまでも部屋に置いておくのも何ですからね、特に彼の場合は色々と訳ありでね、様々なことを考えてしまうものだから、部屋にお母様を置いておくよりもお墓の方がいいとおもったものですから、それでね、彼のお母様を僕たちのお墓に入れることを提案した次第です。」
 佐藤が二人に丁寧に挨拶をしてから、三人を豪邸の中へ招き入れた。吹き抜けの豪華なリビングに理沙も樫村も圧倒されていた。正樹が小さな声でナミに一言耳打ちをした。ナミは軽くうなずき言った。
「この家にはゲストルームがたくさんありますから、どうぞ遠慮なさらないで使ってくださいね。ちょっと町まで遠いけれど、その分、静かだから、ゆっくり出来るとおもうわ。」
 理沙と樫村は驚いた表情のまま、正樹の方を見た。
「後で、僕の家へ案内しますけれど、あそこは狭いので、ここがいいでしょう。」
理沙が聞いた。
「正樹さんは?」
「小さいですけれど、僕は自分の浜辺の家がありますから、そっちの方で寝ます。・・・・・・、そうか、二人が島にいる間は僕もここで世話になろうかな、そっちの方が楽かな?」
 ナミが言った。
「正樹さんもどうぞ。たくさん話が聞きたいし、それに、独りで浜辺の家にいるなんて寂し過ぎるわ。」
「そうだね、それもそうだ。」

 その夜、正樹は樫村と理沙の歓迎パーティーを抜け出し、独りで海が見下ろせる大きなテラスに立っていた。早苗が初めてこの岬の豪邸にやって来た夜のことを思い出していた。ボラカイの海が月の光に照らされてキラキラとあの日と同じ様に光っていた。波の音しか聞こえない、本当に静かだった。正樹は自分に言い聞かせていた。ディーンを失い、今度は早苗が先に旅立ってしまった。こんなに寂しい想いをするのなら、もう恋などしたくない。・・・・・・正樹はそこで苦笑いをした。何だよ、これじゃあ、まるで歌の歌詞のようじゃないかと独りで呟いてみた。そしてまたぼんやりと眼下に広がるボラカイの海を見下ろしていた。
 テラスのベンチに腰を下ろすと、夜の空が正樹のことを被った。雲が幾つも闇夜の中を通り過ぎて行った。雲も月の光を受けて鈍く輝いていた。
 ナミがグラスを片手に現われた。その足どりはたどたどしかった。
「やはり、ここだったわね。今日は独りなんだ。」
「ええ、ここに来ると、・・・思い出が一気に溢れ出してしまって、・・・動けなくなってしまいました。」
「そうね、あたしが初めてこの島に来た、・・・あの夜もさ、早苗と正樹さんはこのテラスにいたものね。」
「ええ、そうでしたね。」
 ナミが正樹の目の前の欄干のところまで行き、ゆっくり振り返って正樹のことを見た。均整のとれたそのナミの身体はすべての男たちの憧れだ。あの時のままだった。ナミのプロポーションは完璧でちっとも崩れていなかった。ナミは外交省のバリバリの外交官だった。ところがボラカイ島の魔法にでもかかってしまったように、この岬の家の現在の管理責任者の佐藤とあっけなく結婚してしまった。
「ねえ、正樹さん、あたしね、この島で暮らすようになって変わったわ。」
「それはそうでしょう。世界中を相手にしていた外交省だったからね。いつ呼び出されるかわからない24時間勤務の外交官が、生活も時間もゆっくりと流れるボラカイ島に嫁に来たのだからね、変わって当然でしょう。」
「忙しいという字は心を亡くすと書くでしょう。本当にその通りよ。この島に来てそのことがよく分かったわ。」
「確かに、忙しいという字はこころ偏に亡くすと書くね。漢字を考案した人はすごいね。よく考えて漢字をこしらえている。僕は仕事もなくてさ、ただブラブラしているよりは忙しい方が良いと思うけれど、忙し過ぎると何もかも忘れてしまうものだ。とっても大切なものまで知らず知らずのうちに忘れてしまうこともある。」
「そうよね、忙し過ぎると心に余裕がなくなってしまって、相手の悩みに気がつかない事だってあるものね。」

 佐藤がナミと正樹が話をしているテラスに飛び出して来た。
「あー、やっぱりここにいたのか、正樹さん、ちょっとリビングへ来てくれませんか。」
 ナミが言った。
「どうしたの?」
「いいから、早く! テレビの画面を見て下さい!」
 三人は急いで豪邸の中に入った。吹き抜けのリビングに置かれた大きなテレビには白いドレスを着た女性たちが映し出されていた。佐藤が言った。
「これ、どうやら、シリマン大学の学園祭のようです。美人コンテストのようなんですけれど、この一番左の子なんですけれど、・・・・・・ほら、この子です。」
 そう言って佐藤は白いドレスに赤いタスキを肩から下げた女性を指差した。ナミが真っ先に叫んだ。
「やだ、早苗じゃない。」
 正樹は黙ってその子のことを見つめていた。佐藤が言った。
「ねえ、早苗さんにそっくりでしょう。」
 樫村と理沙も何が起こったのかと驚きながらテレビの近くに寄って来た。そして理沙がポツリと言った。
「あら、いやだ。お姉さんだわ。彩花ねえさんがテレビに出ているわ。」
 佐藤とナミ、そして正樹の三人は今度は理沙の方を見た。佐藤が理沙に向かって言った。
「赤いタスキの人は君のお姉さん?」
「ええ、彩花ねえさんですよ。」


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