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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第95回   手では掴めないもの
手では掴めないもの


 シャッター扉を何枚も開けないと辿り着けない病院の地下の奥に霊安室はあった。その霊安室の祭壇に線香がたった一本だけ立っていた。樫村直人はがっくりと頭をうな垂れて、小さくなった母親の遺体の前で大きな体をまるめていた。現代医学の最高峰の技術をもってしても助けることが出来なかった彼の母親がさっき霊安室に運ばれて来たばかりだった。直人はじっと葬儀屋の到着を待っていた。葬式など一切なしで火葬場に直行することになっていた。親類など誰一人としていなかったからだ。
廊下には机が置かれてあり、霊安室の担当職員が電話をかけていた。
「今日は忙しくてな、まだ、帰れそうもないな。」
「・・・・・・。」
「この寒さで入院患者だけでなく、救急で運ばれてくる仏さんも多くてな。」
「・・・・・・。」
「すまんが、また人が来た。また、後で電話するよ。もうちょっと待っていてくれ。」
 
無表情な葬儀屋がいつの間にか廊下にやって来ていた。霊安室の担当職員がその黒いスーツの男に声をかけた。
「ご苦労様です。どちらの?」
「高円寺の吉野祭典です。」
「どうぞ、こちらです。」

 職員は霊安室に葬儀屋を案内すると、すぐ廊下の自分の机に戻り、救急救命センターの職員控え室に電話を入れた。
「樫村ゆきえ様、御出棺です。」
「・・・・・・。」

数分後、霊安室の前の廊下には、樫村ゆきえの手術を担当した病院のスタッフ全員が勢ぞろいした。メスを握った外科部長の松村肇を筆頭に、ふかぶかと頭を下げて、樫村ゆきえが霊安室から出されるのを静かに待っていた。最初に霊安室から出てきたのは樫村直人だった。無言のまま、頭を下げている外科部長の松村に近寄り、胸倉を掴み上げると、すぐに殴りつけた。そばにいた他の医者たちは頭を下げたままでまったく動かなかった。それはほんの一瞬の出来事だった。殴られた松村も何事もなかったかのように、さっきと同じように頭を下げた。

 大柄の樫村直人は振り返り、母親が乗せられた葬儀屋の車の助手席に乗り込み、病院の地下駐車場から雪が降りしきる東京の街に消えていった。東京は本当に冷えていた。


 樫村直人は母のゆきえと二人暮らしだった。と言っても、つい最近、二人で暮らし始めたばかりだった。直人は中学に入り、あいのこ、あいのこといじめられ、半年もしないうちに学校も家も捨ててしまった。何度、世間が直人のことを見放しても、母のゆきえだけは直人のことをかばい続けた。いつどんな時でも直人のことを見守り続けた。直人には兄弟はいなかった。父親は米国軍人で朝鮮戦争で死んでしまった。ゆきえも親の顔を知らない。施設を出てからは独りで生き抜いてきた。だから、直人の家族は母のゆきえ一人だった。

 火葬場から外に出ると、冷たい北風が直人のことを包んでいた。しかし、まだ焼きあがったばかりの母の遺骨が直人のことをしっかりと温めていた。死んでも、まだ出来の悪い自分の息子のことを守り続けていたのだった。


 樫村直人は東京に来て、母と暮らすようになってからはトラックの運転手をやっていた。深夜、コンビニを何店か回って、昼間に注文を受けた品物を配送センターから各店舗へ届ける仕事だ。決して楽な仕事ではない。雨の日は大切な商品にはしっかりとカバーをかけるが、自分自身はずぶ濡れになってしまう。自分勝手なコンビニのオーナーには好き勝手なことを言われたり、お客からもからまれることもある。毎日何万点も扱う商品を間違って一つでも他の店に届けてしまうと、店や本部、そして上司からもさんざんしぼられてしまう。検収印やサインをうっかりもらい忘れても叱られてしまう。コンビニは重たい酒や飲料も扱っているから、体力と気力の両方がなければ続けられない仕事だ。任せられたエリアのすべての店をドライバー全員に覚えさせる為に半年毎にコースの変更がある。だから同じ店を一年以上も担当することは極まれなことであった。樫村直人も東京の北部のコンビニ10店舗を受け持つことになった。初めてのコースだった。運命的な出会いが直人のことを待っていた。

 早苗の四十九日が済んで、正樹は長野の戸隠から東京に戻って来ていた。ボラカイ島には戻らずに、コンビニの夜勤を続けていた。店に新しいドライバーがやって来た。これも天の導きなのか、初対面の時から何か不思議な、運命的なものを正樹は感じた。荷物を運び込んできたのは混血のドライバーだった。ドライバーの胸に付けられた名札には「樫村直人」と記されてあった。しかし、その体格や彫りの深い顔はどう見ても混血、ハーフであることは明らかだった。正樹は初めのうちはこの樫村直人が日本語を話せないのかとおもっていた。来る日も来る日も挨拶だけで、黙って仕事を続けていたからだ。時間が余ると、コピーを数十枚、何度もとって帰って行った。そんなことが数週間も続いた。いったい何をコピーしているのか正樹はとても興味があった。
ある朝、お客様がコピー機の中に忘れ物があると言って、正樹のところに一枚の紙きれを持ってきた。誰かがコピーをして原本を取り忘れたらしかった。その夜はお客は少なく、最後にコピーをとったのは樫村直人だと、すぐに正樹は判った。何度も樫村直人がコピーしていた文面はこうであった。
「この病院は平気で人を殺します。特に外科部長の松村肇は鬼だ! 私は母親を虫けらのように殺されました。」

 翌日、正樹はドライバーの樫村直人にそのコピーの忘れ物を返した。
「これ、君の忘れ物だろう。」
 そう言って、直人の書いた脅迫めいたコピーの原本を手渡した。樫村直人はそれを受け取ると、吐き捨てるように正樹に言った。
「あいつら、俺のお袋を殺しやがったんだ。たった一人の、俺にとってはたった一人の家族のお袋をな・・・・・・。」
「君のお母さんは病気だったのですか?」
「いや、トイレでいきんだら、急に背中が痛み出して、それで、急いで救急車を呼んで病院へ運んだんだ。そうしたら、医者の奴ら、緊急の手術が必要だとか言ってな、お袋を切り刻みやがった。手術をして、二日後、急に血圧が下がってお袋は死んでしまったよ。手術室から出てきた時の、あの医者の自慢げな顔を思い出すと今でも吐き気がする。」
「それは気の毒なことをしたな。」

 その夜はそれだけ話して、二人とも言葉が続かなかった。

 自分の胸の苦しみを明かしたせいなのだろうか、樫村直人は正樹に対して親近感を抱いたようだった。日を重ねていくうちに、次第に言葉を交わすことが多くなってきた。正樹は慎重に言葉を選んで直人に聞いてみた。
「お母様の死亡診断書には何と書かれてありましたか?病院が発行したものです。もし、お嫌でなければ聞かせてもらえませんか?」
 樫村直人は黙ったまま、店から出て行った。外に止めてあるトラックの中から、一枚の紙切れを持って、再び店の中に戻ってきた。
「これがお袋の死亡診断書ですよ。わしには読んでもさっぱりわからん医学用語だ。」

 正樹はそれを直人から受け取り、いったんその死亡診断書をカウンターに置いた。レジの前に来ていたお客の精算を済ませてから、ゆっくりと樫村ゆきえの死亡診断書を拝見した。
「大動脈解離でしたか。お母様は大動脈解離という難病にかかってしまったのですね。」
「あんたはその大動脈何とかというやつを知っているのか?」
 正樹は自分が医者であることを告げるのを止めた。まず医者としてではなくて、樫村の気持ちの側に立って話をすることにした。
「それは大変でしたね。この大動脈解離という病気は身を引き裂かれるような痛みだと聞きます。お母様のことを考えると・・・・・・、君の心中がよく分かりますよ。」
「あいつら、失敗しやがったんだ。」
 いかにも悔しそうな表情をしている直人に、どう説明したらいいのか、正樹はまよった。
「100万人に5,6人の難病ですね。東洋人よりも欧米人に多く、しかも女よりも男の方に
多いという統計がありますよ。お母様は大変な病気になってしまったのですね。本当にお母様のご冥福をお祈りいたします。」
「何だか変だと、おもったんだ。手術前に俺にはよく分からない説明を長々としやがってな、それを看護師がすぐ側で一字一句、全部メモってやがった。おそらく録音もしていただろうな。それが終わると、何枚も書類に署名捺印させやがった。すべての責任は、この俺にありと言わんばかりにな。」
「それはつらい経験をしましたね。きっと、それがその病院の決まりなんでしょう。」
「医者はこのまま放っておけば、明日までもたない、命にかかわると言いやがった。10パーセントから20パーセントのリスクはありますが、ここは命を救うことを考えてもらって、手術をお勧めしますと言いやがった。そんな言い方をされれば、誰だってノーとは言えないだろうが、違いますか?」
「確かに、その通りですね。選択の余地がない決断でしたね。お気持ち、察しますよ。大動脈解離も心臓に近くない場合は徹底的に血圧を管理した内科的な治療で様子をみますがね、お母様の場合はおそらく心臓の近くまで、解離した血液が流れ込んでしまったのでしょう。それで緊急手術になってしまったとおもわれますね。」
 樫村直人は運び込んだ台車から荷物を下ろして、その台車の上に座り込んでしまった。店内にはまったく客がおらず、直人は胡坐をかいて、正樹のことを見上げるようにして話を続けた。
「それから、心臓の弁も取り替えると言いやがった。薬を飲み続ければ死ぬまで使える人工の弁と薬を飲む必要はないが15年位しかもたない豚の弁のどちらにするかを決めろと言われた。それって、人間が決めていいことなのか?人間の命の長さを人が勝手に決めていいのか?」
「そうですね。おっしゃる通りだ。ある意味、現代医学はすでに神様の領域に踏み込んでしまっているのかもしれませんね。倫理的に議論が絶えない問題ですよ。」
「俺の部屋に置かれたお袋の骨を見る度に、駄目なんだよ、悔しくてな、・・・・・・分かるか?この気持ちが?」
「分かりますよ。・・・・・・そうですか、直人さんもお母様のご遺骨はまだ納骨せずに部屋に置かれてあるのですね。僕の部屋にも骨つぼがありますよ。」
「誰か、亡くされたのか?」
「ええ、大切な人を失いました。島に戻って、共同墓地に入れようとおもっています。それが彼女の遺言でしたからね。」
「島?」
「ボラカイ島と言います。小さな島です。実は、自分はそこに住んでいる者ですがね、こうして日本に出稼ぎに来ているというわけです。私もあなたと同じで、大切な人を失いました。島で一緒に暮らしていたパートナーを劇症肝炎で亡くしました。生前、彼女がその島にある共同墓地に入れてくれるように希望しましたので、約束通り、もう少しお金が貯まったら一緒に帰るつもりです。こんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、どうです、直人さん、一緒にボラカイ島に行きませんか?うまく言えませんが、何か、手では掴めないものが見えてくるかも知れませんよ。」


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