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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第94回   別れ
別れ


 戸隠で民宿をやっている早苗の父親が倒れたとの連絡が入った。早苗と正樹はすべてのことを後回しにして、その日のうちに日本へと向かうことになった。まず移民局へ行き、出国と再入国の手続きをとった。長期の滞在者は犯罪を犯しているかどうかのチックをしなければならないからだ。それを済ませないと空港からは出ることは出来ない。わざと複雑にしているとしかおもえない手続き、長い時間を使って出国の許可を取らなければならないのだ。どこの国でもそうなのだが、外国人の出入国には高い手数料と面倒な手続きが必要となる。マニラの移民局にはその複雑な手続きを代行する者がロビーを中心にして常にうろうろしている。もちろん、その者たちに頼めば余計に手数料がかかってしまうことになる。しかし役人たちと組んでいるので仕事が早い、今回は急いでいたので不本意ながら代行屋を利用した。それでも4時間以上も風通しの悪いロビーで待つことになってしまった。
空港に着くと二人は航空会社の窓口へ直行した。正規の運賃を払ったので飛行機の座席はすぐに確保することが出来た。早苗と正樹はその夜の最終便に乗ることが出来た。しかし、出発の時間になっても飛行機は飛び立たなかった。乗客の一人がやって来ないというアナウンスが機内に流れた。しばらくすると、今度はその乗客が乗せた荷物を捜し出して飛行機から降ろすという説明があった。爆弾テロを航空会社は恐れているのだ。誰だか知らないが、まったく迷惑な奴がいるものである。チックインした後で、どこかに消えてしまったらしい。すっかり疲れきってしまった早苗の手を正樹はそっと握った。二人はそのまま機内で眠ってしまった。運ばれてきた機内食にも手をつけなかった。

 日本に到着したのはいいが、都心へ向かうバスも電車もない深夜になってしまっていた。国際空港は羽田から成田に変わっていて、正樹は勝手がまったく分からなかった。結局、東京までタクシーを使うしか方法がなかった。渋々、タクシー乗り場へ行くと、人相の悪い男が近寄って来た。
「どちらまで?」
 正樹は一瞬ではあったが、ここが日本なのか疑ってしまった。男は黙っている正樹に料金表のようなものを見せながら言った。
「東京までですか? 東京のどちら?」
「東京駅まで行きたい。」
 そう正樹が答えると。男は手に持った料金表を指しながら、二万円だと言ってきた。
日本でタクシーなど乗ったことがなかった正樹は早苗の顔を見た。早苗が正樹に代わって答えた。
「高速代も含めて?」
「ええ、全部で二万円です。」
「分かったわ。」
 そう早苗が言うと、男は横にいたタクシーを指差して二人を誘導した。窓越しに見える運転手はパンチパーマで年齢は四十歳後半のようだった。ある種、独特のオーラが運転席から流れ出していた。客引きの男が車内に顔を入れて、調子よく運転手に言った。
「東京駅までお願いします。」
 正樹たちが乗り込むと、運転手は黙ったまま車を発車させた。完全武装の機動隊が警備する成田空港を出てもタクシーのメーターは倒れたままだ。メーターの数字はまったく動いていない。高速道路に乗ったところで、勇気を出して正樹が言った。
「メーターが倒れていないようだが、・・・・・・。」
「あれ、聞きませんでしたか。東京駅までの料金。」
 正樹はもうそれ以上は話す気にはならなかった。また、早苗の手を強く握って目を閉じてしまった。

早苗と運転手の話し合う声で正樹は目が覚めた。
「高速代も含めて二万円だと、さっき空港にいた人が言っていましたよ。」
「そんなこと言っていましたか、・・・・・・。」
「あたしね、前にもタクシーを使いましたけれど、あの時は一万五千円でしたよ。高速代も含めてね。」
「・・・・・・、分かりましたよ。奥さん、二万円でいいですよ。」
 正樹が言った。
「空港にいた男が高速代も含めて二万円だと言ったから、乗ったのだろう。・・・・・・、それなら、何故、初めからメーターを倒さないのか!」
「だから、二万円でいいと言っているだろうが!」
 もう、うんざりだった。まさか、日本に来てまでこんな不愉快な会話をするとはおもわなかった。正樹は財布からお金を出して、それをパンチパーマに手渡しながら言った。
「もう、いいよ。そこで停めてくれ。そこで降りるから。」
 タクシーは急ブレーキの音と共に停車した。

 深夜の東京は冷たい。特に南国から帰ってきた者には夜風がすこぶる身にしみる。
「早苗ちゃん、どうしようか。電車が走り出すまで、まだ、少し時間があるけれど、・・・・・・。そういえば、朝から何も食べていなかったね。駅まで行く途中で開いている店があったら、何か食べようか。」
「そうね。正樹さん、お腹、空いたでしょう?」
「そんなには空いてはいないよ。」
 この時、正樹は街灯に照らし出された早苗の顔が少し黄色いことに気がついた。それは光線の加減でそう見えたのかもしれないので、そのことについては一言も触れなかった。
「早苗ちゃんは大丈夫? 疲れたでしょう。早く、どこか、暖かい場所をみつけて、休むことにしようか。」
「ええ、そうしましょう。」

 10分ほど歩くと、24時間営業の牛どん屋の明かりが二人の前の方に現われた。
「とりあえず、あそこに入って休もうか?」
「いいわよ。」
 男の正樹は以前にも何度か利用したことがあったが、女の早苗は牛どん屋は初めてであった。カウンターだけの店内、長時間居座ることが出来ないことくらい分かってはいたが、正樹は牛どんの味がとても懐かしかったので、つい入ってしまった。男は海外生活が長く続くと無性に牛どんの味が恋しくなるみたいだ。店の入り口の横にあった公衆電話をみつけて早苗が言った。
「あたし、ちょっと家に電話してみるね。こんな時間だし、たぶん、誰も電話に出ないとはおもうけれど、・・・・・・。」
「わかった、じゃあ、先に中に入って、適当に注文しておくから。」
「ええ、お願い。」

 正樹はカウンターの席に着くと、牛どんとサラダを注文して早苗のことを待った。オーダーしたものはすぐに目の前に運ばれてきたが、早苗はなかなか店の中には入って来なかった。どうやら誰かが電話に出たらしかった。早く、男の自慢の牛どんを早苗に食べさせてやりたかった。ところがいっこうに早苗は店に入って来る気配がなかった。心配になった正樹が外に出てみると、早苗は公衆電話の下にうずくまっていた。近寄って正樹が言った。
「早苗ちゃん、・・・・・・大丈夫?」
「ええ、大丈夫、・・・ちょっと気分が悪くなったものだから、・・・・・・。もう、平気よ。」
 正樹は早苗の額に手を当ててみた。
「熱があるじゃないか。」
「うんーう、あたしは平気よ。お父さん、病院だって、親戚のおばさんがそう言っていたわ。何も食べることが出来なくなってしまったみたい。・・・・・・肝炎だって。」
「そうか。・・・・・・さあ、中に入って、少し食べないと、早苗ちゃんが倒れちゃうよ。食べたら、始発電車で長野へ行こう。」
「ええ。」

 長野駅に着くと、戸隠の早苗の実家には行かずにそのまま県立病院の方へ直行した。早苗が病室で父親の手をとっている間、正樹は担当医と話をした。肝性脳症と呼ばれる意識障害が激しく、脳浮腫、感染症、消化管出血、腎障害の合併症も起こっていると聞かされた。早苗の父親は急性の劇症肝炎だった。正樹が病室に戻ると、今度は早苗が倒れてしまっていた。早苗もそのまま入院となり、医者は肝炎の疑いがあると正樹に告げた。肝硬変がかなり進んでいる可能性があった。早苗の病状は血液検査、画像診断、肝生検の結果を待たなくては何とも言えなかった。

 正樹は病院の玄関から出て、長野の青い空を見上げた。ボラカイ島に帰る気もしない。東京の実家に戻るつもりもなかった。早苗が良くなるまで、この長野にいることにした。早苗の実家は戸隠で民宿をやっている。今は親戚のおばさんが手伝っていると早苗が言っていたので、とりあえず、早苗の実家へ行ってみることにした。明日、また病院へ来ると約束して、さっき、早苗とは別れた。その時、早苗がおばさんに手紙を書いてくれた。
「これをおばさんに見せて下さい。正樹さんのことを頼んでおきましたから。」
「ありがとう。また、明日、来るからね。ゆっくり休んでいて下さい。」
 早苗はすでに自分の運命を甘受しているかのように、正樹にはおもわれた。
「早苗ちゃん、頑張れよ!元気になって、また島に帰るからね。いいね。」
「正樹さん、もしもよ、・・・あたしが死んだら、あたしの骨を半分、ボラカイ島へ持って帰って下さいね。」
「何を言っているんだ。肝炎という病気で命を落とすのはね、ほんの1パーセント、いやそれ以下の確率なんだよ。そんなに大変な病気ではないんだから、・・・・・・。」
「分かったわ。頑張るから、・・・・・・でも、もし駄目だったら。あたしもボラカイ島の丘の上の墓地に入れてね。約束ね。」
「分かったよ。・・・・・・でも、今はさ、そんなことばかり考えてはいけないよ。いいね。」

 正樹は戸隠の宝光社というバス停で下車した。バス停のすぐ近くにそば屋があった。正樹はそば屋の中に入り、早苗が書いてくれた住所を示して道を尋ねた。
「あんたは早苗ちゃんのお知り合いかね。」
「ええ、正樹と申します。」
「俺は早苗ちゃんの幼なじみで、定吉といいます。今、早苗ちゃんもおやじさんも家にはいないよ。」
「ええ、分かっています。今、病院の帰りで、お父さんのことを早苗ちゃんと一緒にお見舞いに行ってきたのですがね、急に早苗ちゃんも具合が悪くなって、それで彼女も同じ病院に入院してしまいました。」
「ええ、・・・・・・早苗ちゃんもかよ?・・・・・・それで、どんな具合なんだ?」
「まだ、検査をしてみないことには何とも言えませんが、お父さんと同じ症状が出ていますね。」
「そうかよ。それは気の毒だな。」
「僕、しばらく、早苗ちゃんの家に厄介になって、病院へ通うことにしたのですが。」
「そうかね。じゃあ、わしが早苗ちゃんの家まで案内してあげますよ。ちょっと、待っていてくれますか。今、店を閉めますからね。」
「ありがとうございます。面倒をおかけして申し訳ありません。」
「いいんだよ。あんたは早苗ちゃんの大切な人なんだろう。茂木さんは死んでしまうし、名前は忘れたが、フィリピン人の、ほれ、・・・・・・。」
「ボンボンですか?」
「そうそう、ボンボンだ。彼はどうした?」
「彼も死んでしまいましたよ。・・・・・・そうですか。定吉さんは茂木さんたちのことをご存知だったのですか。」
「以前に、お二人をこの二階にお泊めしたことがありますよ。まあ、話は後にしましょうか。とにかく、早苗ちゃんの家まで連れて行ってさしあげますよ。話の続きはまた今夜、酒でも飲みながらどうです?」
「ええ、いいですね。是非!」

 早苗の家の民宿を任された父方のおばさんと早苗の幼馴染であるそば屋の定吉は正樹のことをまるで自分の家族のように面倒をみてくれた。この二人がどれだけ正樹のことを支えてくれたかは語るまでもない。早苗が入院してから二ヶ月の月日が経ってしまった。病状は悪化するばかりで、検査を繰り返すたびにその数値は悪い方へむかっていた。そして先に入院していた早苗の父親が亡くなってしまった。そのことを早苗に告げたのだが、意識が朦朧としている早苗には通じなかった。正樹は民宿を手伝いながら、毎日、病院へ通った。もう話すことすら出来ない早苗だったが、それでも正樹は早苗のそばで、手を握りながら昨日起こった出来事やボラカイ島から届く手紙を読んで聞かせた。
 さらに一ヶ月が過ぎて、ついに早苗の断末魔が始まった。時折、意識が戻ってくると、早苗は同じ言葉を何度も繰り返した。
「正樹さん、お願い。あたしもホワイティーのように楽にして下さい。」
 早苗は安楽死を望んでいた。しかし、正樹は奇跡が起こること願った。そうだ、ボラカイ島へ連れて行こう。あのボラカイ島のマリア像なら早苗ちゃんのことを救ってくれるかもしれない。正樹は自分が医者であることを忘れていた。本気で彼女をボラカイ島へ運ぶことを考えていた。
「よし、行こう。」
 そう正樹は早苗に言うと、彼女のすっかり小さくなってしまった体を抱き上げて、歩き始めてしまった。病院の廊下を抜けて、玄関までたどり着いた。急に早苗の体が軽くなるのを正樹は感じた。正樹は早苗を抱いたまま、その場にしゃがみ込んでしまった。二人のまわりには人が集まり始めていた。涙は出なかったが、正樹は心の底から泣いてしまっていた。病院の玄関の外にはボラカイ島と同じ青い空が広がっていた。正樹はその空を見つめていた。
「早苗ちゃん。着いたよ。・・・・・・君が帰りたかったボラカイ島に着いたよ。」


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