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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第89回   山下陸軍大将と二・二六事件
山下陸軍大将と二・二六事件


フィリピンで長く生活をしていると、かなり頻繁に山下財宝の話題が新聞やテレビから流れてくることに気がつく。この国の人々はまだ先の大戦で降伏した日本軍が隠したとされる軍資金の存在を信じているようである。近所のお年寄りがやって来て、戦時中に日本軍が発行した紙幣だが、ペソに換えてくれないかと頼まれることもある。もちろん、それは無理だと言って丁重に断るのだが、その時はきまって戦時中の話を長時間に亘ってたっぷりと聞かされることになる。そこで必ず出てくるのが山下財宝の話である。そのお宝伝説のこともあって、この国ではジェネラル・ヤマシタの名前は大人にも子供にもよく知られている。筆者は日本軍が隠したとされる埋蔵金にはあまり興味はない。それよりも戦争裁判の法廷で山下大将がとった態度を聞かされて、彼の人柄に興味を持った次第である。「マニラ大虐殺は自分の知らぬこと、しかし自分の部下が犯した犯罪は自分に責任がないとは言えない。」とし、すべての戦争責任を背負って絞首刑になった。自分が自決したのでは他に誰かが責任をとらされると考えたのだろう。その態度に筆者はとても感銘を受けた。しかし、だからと言って、彼がマレーの虎と称されシンガポールで犯した戦争犯罪に目を背けるものでもない。マニラ市の郊外にあるロスバニョス、そのスペイン語の地名通りに、そこには温泉が湧き出ている。フィリピン大学の農学部もある静かな田舎町だ。その地にある大きなマンゴーの木に吊るされた山下大将、軍服姿ではなく、囚人服のまま、マッカーサーの命令によって屈辱的に絞首刑にされた山下大将の無念を筆者は強く感じてしまうのである。
彼の軍歴を調べていくうちに、ある事件にぶちあたった。それは二・二六事件だった。誰もが五・一五事件と一緒に記憶しているあの二・二六事件である。その決起した青年将校たちに山下は同情を示してしまった。その結果、天皇や陸軍の上層部から睨まれ、その後は常に危険な最前線に送られ続けた山下だった。シンガポール作戦で日本国民の英雄となっても、天皇を拝謁することは許されなかった。結局、敗戦が濃くなったフィリピンに送られ、本土決戦の時期を遅らせる為の盾となって力尽きた。日本が8月15日に降伏しても、まだ山下たちは山中で戦い続けていた。山下が降伏したのは9月になってからだった。だからフィリピンの戦勝記念日は韓国や中国とは違って1945年の9月2日なのだ。
このフィリピンに日本軍が隠した財宝が本当に存在するのか否かは今となっては誰も知らない。戦後何十年が経っても様々な情報が飛び交っている。一攫千金、それは貧困の中で喘いでいる人々のささやかな夢なのかもしれない。そのお宝伝説を筆者はあっさりと壊したくない気持ちもある。この小説はあくまでもフィクションであり、歴史を正確に伝えるものでもない。この小説を読んで自分も宝探しをしてみたいとおもう人がいるかもしれないが、どうしてもあの大戦の末期に埋められたとされる日本軍の軍資金を探すつもりならば、まず財宝探しの申請をすることを忘れないようにしていただきたい。よく知らないが、政府が75%で発見者が25%という取り決めが、どうやらこの国にはあるらしいから、申請をしておかないと、運よく発掘したのはいいが、そのすべてを没収されてしまうことになる。それに山下財宝を見つけたとなれば、すぐに全国に知れ渡り、命の危険さえ出てくる。よく損得を計算した上で慎重に行動していただきたい。




太郎の父は二・二六事件の時、歩兵第3連隊の安藤中隊にいた。

すっかり元気になった吉川みよこ先生と一緒に川平諭はボラカイ島の正樹のところを訪ねていた。ゲリラと二人の解放交渉をしてくれたお礼を改めて言う為にボラカイ島にやって来ていたのだった。驚いたことに、諭の父親の太郎がまだ石垣島には帰らずにボラカイ島に滞在していた。ゲリラから解放された川平諭は父親の太郎が彼の身代金を支払い、すべてを失ったことを知らなかった。

「父さん、まだいたのですか。」
「ああ、そうなんだ。この島が、このボラカイ島があまりにきれいなものだから、正樹先生に無理を言ってな、まだ、こうしておいてもらっている。」
 太郎は嬉しかった。息子の諭が片足を失ってしまったあの事故の後、太郎のことを恨んで避けるようになり、言葉を交わさなくなってしまった。その諭が再び「父さん」と呼びかけてくれるようになっていた。そのことが何よりも太郎は嬉しかった。諭が誘拐されて全財産を失ってしまった太郎だったが、以前のように自分の息子が自分のことを「父さん」と呼んでくれるようになったこと、それは当たり前のことなのだが、太郎にとっては失った財産よりも、もっともっと価値のあることだった。

 昼食の時間だった。早苗と正樹は三人を浜辺の家に誘った。狭い診療所から出て、市場まで歩き、買い物をした後、トライシクルをひろった。五人は5分もしないうちに浜辺の家に到着した。早苗はすぐに昼食の準備をするためにキッチンに入った。正樹は三人を海の見えるベランダに案内しながら言った。
「今は、早苗さんと僕がこの家に住んでいますがね、以前は、あのジャネットが母親と一緒に少しの間この浜辺の家で暮らしていたのですよ。」
 諭が驚いたように言った。
「あの女ゲリラですか?あのジャネットとか呼ばれていたゲリラの女ボスですか?」
「ええ、そうです。」
「すると、先生とそのジャネットは以前から、お知り合いだったというわけですね。」
「ええ、、そうですよ。」
 今度は吉川みよこ先生が言った。
「あの方、もしかして、日本人ではありませんか?あたしにはそう見えたのですが。」
「その通りですよ。彼女は純粋な日本人ですよ。」
「そう、やっぱり、・・・。でも、あの方、日本語が話せませんでしたわ。」
「両親は日本人です。父親は外交官でした。赤ん坊の頃、ゲリラに誘拐されて、そのゲリラたちの手によって戦士に育てられましたからね、だから、日本語はまったく出来ません。」
「そうでしたか。」

 太郎がベランダのデッキに両手をつきながら、まるで独り言のように話を始めた。
「エドゥサ革命でしたっけ、この国で起こった、この前の政変は? よく名前は知りませんが、ラモスさんという将校さんとホナサン大佐でしたか、あの武装した兵隊は、それからエンリレ国防大臣でしたよね。彼らがアギナルド基地に立て籠もって、クーデターが始まりましたよね。私は石垣島でテレビを通して、その様子をずっと見守り続けましたよ。クーデターのニュースを聞くと、私は必ず死んだ父親のことを思い出しますよ。
諭、・・・・・・、実はね、私たちは川平という名字を名乗っているけれど、本当は埼玉県の浦和の出身なんだよ。昔、近所の人たちや特攻から迫害を受けて、浦和にはいられなくなった。それで、同じ名前の地名がある石垣島に移ったんだ。おまえのおじいさんは二・二六事件を起こした兵隊の一人だったんだよ。おじいさんは上官の命令に従っただけの初年兵だったから、憲兵隊が尋問しただけで、裁判にはかけられなかった。しかし、その後、満州の激戦地に送られてな、無謀な突撃を強いられて戦死してしまったよ。残されたうちの母も憲兵隊や特攻が常に監視をしていて、まるで逆賊扱いだったそうだ。その死んだ母がまだ子供だった私に色々話をしてくれたよ。
 おじいさんの所属していた歩兵第三連隊は浦和や川口などから徴兵された部隊だったんだ。あの事件で決起した1500名近くの兵隊の約半数は埼玉県の出身者だった。別に埼玉がどうのこうのと言うことではないのだ。たまたま、徴兵区がそうだったからにすぎない。主力の第一師団歩兵第一連隊も川越、入間、秩父の出身者がほとんどだった。深夜に突然、非常呼集がかけられて、首都圏の暴動を鎮圧すると上官から言われて、おまえのおじいさんはあの事件に巻き込まれてしまったというわけだ。」
 正樹が太郎の話に加わった。
「二・二六事件ですか。昭和の初めですよね。日本の歴史教育は近代史のところはあまり時間をかけて勉強をしないような気がしますね。戦国時代だとか徳川時代が中心で、せいぜい頑張っても明治維新までだ。NHKの大河ドラマも織田信長や秀吉ばかりをやっていますからね。昭和史なんて、サッとすませてしまう先生方が多いようにおもいますね。」
「それに、あの事件は二十人近くが処刑されているのにもかかわらず、裁判は非公開でしたからね。戒厳令下ということで、弁護士もなしの裁判でしたよ。それにこの事件に関しては秘密が多過ぎだ。だから学校の先生方も教え方に困っているのかもしれませんね。うちの母が言っていましたけれど、父がいた部隊を指揮した安藤大尉は、年はまだ若かったけれども、立派な人だったそうですよ。彼の部隊内では他の部隊では当たり前に行なわれていたリンチや鉄拳教育は一切ご法度だったそうですよ。部下からの人望もとても厚かったと聞きます。当時、日本はとても貧しかった。とくに地方では若者が兵隊にとられた上に、景気も悪かったから、女の子はどんどん売り飛ばされていたそうですよ。そんな自分の国のことを憂いた青年将校たちが天皇の下に群がる元老や財閥、政治家たちを廃して、日本古来よりの天皇を中心とした国を造ろうとした。それが二・二六事件ですよ。しかし、銃による要人暗殺という手段をとった将校たちを天皇は認めなかったと母が言っていました。でも、皮肉なものですよね。この事件の後、日本は国の方向を誤ってしまったのだから。統制派と呼ばれる軍部の力が強くなってしまって、そのまま太平洋戦争に突入してしまった。」
 吉川みよこ先生が太郎に質問をした。
「諭くんのおじいさんは、その時、どこを襲撃したのですか。警視庁ですか?それとも首相官邸?」
「おじいさんのいた中隊は安藤輝三大尉に率いられ、鈴木貫太郎侍従長官を襲撃したそうです。銃弾を浴びせかけて、大尉が刀で止めを刺そうとすると、そばにいた夫人の一言、もう十分でしょうの言葉で、礼を尽くしてその場を立ち去ったそうです。」
「鈴木貫太郎といえば、終戦の時の総理大臣ではありませんか?」
「そうです。だから彼は妻の毅然とした一言で救われたわけです。それから、あの事件でもう一人、命拾いをした人物がいますよ。それは岡田啓介首相です。義理の弟さんが秘書官をしていて、姿格好が首相と少し似ていたものだから、決起軍は飛び出てきたその弟さんを射殺して目的を達成したと勘違いしてしまったそうです。そうこうしているうちに、差し入れに来た者たちに紛れて、押入れに隠れていた岡田首相は救い出されたというわけです。政府の要人もそうですが、この事件ではその要人たちを警護していた警察官も多く亡くなっていることを忘れてはいけない。やはり、武力では人の心は動かせないということでしょうか。」
 正樹が言った。
「今回のフィリピンで起こったクーデターは二・二六事件のように用意周到に計画されたものではなかったかもしれません。でもそれが良かったのかもしれませんね。平和を願う民衆の心がしっかりと最後まで決起したラモスさんたちについてきましたからね。」
 太郎が言った。
「二・二六事件の時も、初めのうちは民衆から差し入れなどがあったそうですよ。だから陸軍の首脳たちは決起軍の鎮圧にかなり手間取ってしまったそうですよ。天皇が自ら近衛師団を率いて行くとまで言われて、事態は大きく変わりましたね。2月29日に決起軍にこんなビラが撒かれました。今からでも遅くはないから原隊へ戻りなさい。抵抗するものは全員逆賊であるから射殺します。お前たちの親兄弟は国賊となるので泣いているぞ。そしてラジオでも、兵に告ぐ、勅命が発せられたのである。既に、天皇陛下の御命令が発せられたのである。お前たちは上官の命令を正しいものと信じて絶対服従して誠心誠意活動して来たのであろうが、既に、天皇陛下の御命令によって、お前たちは皆復帰せよと仰せられたのである。・・・・・・。1500人足らずの決起軍は約30000人の軍隊に包囲されてしまった。東京湾に浮かんだ軍艦の大砲はすべて彼らに向けられていたそうです。もう、この時点では、国民の心は彼らから離れていました。フィリピンの民衆のように彼らを守ろうとする動きはなかったようですね。」
 みよこ先生が太郎に聞いた。
「それで、その後どうなったのですか?」
「クーデターの失敗を知って、青年将校たちは兵隊を原隊へ復帰させました。その後、自決する将校もいましたが、それでは何のための決起だったのかと考え、ほとんどの将校は裁判で自分の主張を訴えようとしました。けれど、戒厳令を利用して、正当な裁判は行なわれずに、密かに銃殺刑となってしまいました。」
 諭が溜め息混じりに言った。
「大きな事件だったのですね。学校の教科書では一行か二行の出来事ですよ。おじいさんがその事件に関わっていたなんて驚きました。」


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