新しい出発
岬の豪邸での歓迎パーティーも終わり、早苗と正樹は浜を歩いて診療所に帰ることにした。月明かりだけを頼りに、ぴったりと寄り添って歩いた。二人ともサンダルを脱いで誰もいない砂浜を出来るだけゆっくりと歩いた。打ち寄せる波の音とお互いの息使いだけしか聞こえない。それは至福の時間だった。お互いに大切な人を失って、つらい想いをしてきた。それは忘れようとしても忘れることが出来ないことだが、いつまでも過去を振り返ってばかりもいられない。二人ともそのことはよく分かっていた。早苗は正樹の、そして正樹は早苗のぽっかりと開いてしまった心の穴を埋めようと努力していた。 「早苗ちゃん、僕、戸隠のお父さんに会いに行こうとおもうんだけど。」 「ええ、でも、診療所の方は?」 「大丈夫だよ。ヨシオがいるから。茂木さんのお母様は、いつ、日本に戻るのかな?」 「飛行機の予約はしていないけれど、二週間ぐらい、島にいると言っていたわ。」 「じゃあ、その時、一緒に日本へ行こうかな。」 「正樹さん、何年ぶり? しばらく日本へは帰らなかったでしょう。」 「さあ、何年ぶりだろうか。忘れちゃったな。」 二人は砂浜に腰を下ろした。早苗は座っても正樹の胸から離れようとしなかった。 「東京にいる僕の家族に会って下さいね。」 早苗は、そっと、うなずいて見せた。それから、少し海を見つめてから言った。 「正樹さんは、もし、死んだら、やはり、あの丘の上の墓地に入りたい?」 「出来ればね。この海が見下ろせる、あの丘の上で眠れれば最高だよ!」 「あたしもそうしたいな。」 「でも、お互いに、日本には家族がいるからね。そう簡単にはいかないだろうね。」 「そうね。」 「僕はきっと、死んでからも、お墓の中で、ただ眠ってばかりはいないよ。お墓から抜け出して世界中を飛び回るかもしれないからね。ただ、これだけは約束するよ。君のことを空から守り続けるからね。」 「あたしも、ずっと、正樹さんのことを見守り続けるわ。」 「ありがとう。」 もう二人には言葉はいらなかった。その夜はヨシオが待つ診療所には帰らずに、そのまま砂浜で一夜を過ごしてしまった。ボラカイ島の守り神であるマリア像が早苗と正樹の二人を祝福していた。
まだ皆が眠っている明け方、二人は診療所に戻った。音を立てずに、そおっと中に入り、ヨシオがよく眠っているのを確かめてから、早苗は朝食の準備にかかった。正樹はヨシオが昨日書いた診療記録を読み始めた。キッチンにいる早苗の鼻歌が正樹のところまで聞こえていた。その明るい早苗の鼻歌を聞き、正樹は早苗の父親に会う決心を固めた。
朝食の支度が整うと、茂木の母親が真田徳馬の日記を持って、石原万作と診療所に現われた。万作からジャネットがあまり日本語が得意ではないことを聞き、通訳を早苗に頼むためだった。早苗は快く引き受け、浜辺の家へ一緒に向かった。
三人が到着すると、ジャネットと母親は飽きもせずに浜辺の家のベランダに置かれた長椅子に座って海を見つめていた。石原万作がジャネットに声をかけた。 「今日は茂木さんのお母様をお連れしましたよ。日本からわざわざいらっしゃったんですよ。」 ジャネットは母親の手を握ったまま、自分だけ立ち上がって挨拶をした。母親はまだ座ったまま海を見つめていた。石原万作が言った。 「正樹さんのところの早苗さんに通訳をやっていただこうとおもって、連れてきました。」 早苗が緊張気味にジャネットに言った。 「私の専門はタガログ語ですので、タガログ語でお願いします。」 皆、緊張していて、何から話していいのか迷っていた。茂木の母親がまず口火を切った。とてもストレートな、その話し方に少し早苗は戸惑ったが、その通りに訳して伝えた。 「あなたたち、お二人が誘拐されてから、お父様は一日たりとも、お二人のことを忘れませんでしたよ。これがその証拠です。お父様が死ぬ直前まで書き続けた日記です。どうぞお読みになってください。」 ジャネットは日本語が読めないが、その父親の形見をしっかりと受け取った。茂木の母親が続けた。 「真田はあなたたちが生きていると信じて、死ぬまでお二人を捜し続けました。決して、あなたたちを裏切ったのではありませんよ。あたしと茂木を籍に入れなかったのも、そのことからです。ただね、分かっていただきたいのは、あたしたちもお父様のことをとても尊敬し、愛しておりました。どうか、そのことだけは分かってくださいね。」 そのことはジャネットもよく分かっていた。茂木の母親には感謝こそすれ、恨む気持ちはまったくなかった。真田徳馬が残してくれた、その日記をそっと、椅子に座っている母親の胸に抱かせた。そして振り返って、茂木の母親に言った。 「あたしは一人ではなかったのです。こうして母もいますし、弟の茂木が残してくれた慎太郎もいます。つい最近まで、あたしは家族なんていないとおもっていました。ずっと独りで生きてきたのですよ。それが、このボラカイ島に来て、すべてが変わりました。」 次の瞬間、石原万作は生まれて初めて奇跡というものを経験した。 「ジャネット、・・・・・・。早苗さん・・・・・・。奥様!」 三人は万作の方を見た。万作はジャネットの母親を指差しながら言った。 「御覧なさい!奥さんが目から涙を出しながら、日記をお読みになっていらっしゃる。」 正にそれは奇跡だった。真田徳馬の書き残した日記は現代医学をもってしても、どうすることも出来なかった病を一瞬にして治してしまった。 「おかあさん、・・・・・・。分かるのね。・・・・・・良かった。」 ジャネットが、いや真田直子が母親の膝元に泣き崩れた。母親はやさしくその直子の頭をなでていた。そばで見ていた万作と早苗の目からも大粒の涙が溢れ出していた。しかし茂木の母親だけは泣いていなかった。真田との約束を果たし、もう、この場所にいる必要はなかったのだ。静かに振り返り、浜辺の家から離れた。早苗がそれに気づき、急いで後を追った。万作はボラカイ島が起こした奇跡を前に、ただ立ち尽くしていた。
診療所に戻った早苗はまた奇跡が起こったと正樹に伝えた。真田が書き残した日記をジャネットの母親が涙を流しながら読んだと知り、正樹もそれは奇跡だとおもった。 「ねえ、早苗ちゃん。僕はね、以前は、奇跡というものは何か宗教的な道具のようにしかおもっていなかったのですよ。信者を集めるための演出だとおもっていました。ところがこのボラカイ島に来て、不思議な偶然が何度も続いたものだからね、奇跡というものに対する考え方が変わってしまいました。もっとも、ただの偶然だと考えるのか、あるいはそれが奇跡だと信じるのかは人それぞれで判断が違うとおもうけれどね。その人の信じる度合いによって見方が分かれてくるものだよ。」 「あたしは無宗教でかなりいい加減な人間だけれど、何度もこの島に来て奇跡を目にしてきましたからね。何か不思議な力が、それが神様なのかボラカイ島なのかは分かりませんが、人間の力をはるかに超えた、とても大きな力が働いたとしか考えられない出来事を幾つも体験してきて、本当に驚いているのです。この島は間違いなく奇跡の島です。」 「何も考えない人には奇跡なんか起こりはしませんよ。起こったとしても、それはただの偶然としかその人の目には映りませんからね。信仰心が強い人ほど奇跡を感じる回数も多いと聞きます。僕なんか、儀式が大嫌いで教会から離れた人間ですけれど、それでも世界で一番信じられているキリスト教の教えには学ぶところが多いとおもいます。教会に毎週のように通っている教会信者たちから見ると、僕なんかくだらない人間にみえるのでしょうね。でも僕は、この島に来て、多くの奇跡を経験しましたよ。信仰心は誰にも負けないつもりだ。」 「そんな、誰がそんなことを言うのですか。正樹さんがくだらない人間だなんて、とんでもない! あたし、おもうのですけれど、信仰とは神様を信じることでしょう。教会へ行くことが信仰ではないとおもうのよ。教会信者たちが自分の教会が一番だと信じているは結構ですけれど、正教会は自分の教会だと言いふらしているは、あたし、それはちょっと違うとおもうな。教会やお寺に行かなくても、立派な信者がいても良いとおもいますもの。」 「そうすると、これだけたくさんの奇跡を感じることが出来る僕たちは立派な隠れキリシタンかもしれないね。このフィリピンで高山右近がもし生きていたなら、きっと仲良くなれたかもしれないね。」 二人は笑った。早苗と正樹はとても幸せだった。
しかし、いつまでも素晴らしいことばかりは続かなかった。次の土曜日、早苗の親友のナミがボラカイ島にやって来た。それは明るい出来事だったが、ナミと一緒にマニラ東警察の署長とゲリラ担当の捜査官も島にやって来たのだった。
ボラカイ島に到着したばかりのナミが歓迎会で飲みすぎて、ふらふらしながら岬の家のテラスに出て来た。早苗と正樹が話をしている大理石のベンチにへたれ込んでしまった。 「ナミったら、また、そんなに酔っ払って、大丈夫?」 「あたしは大丈夫よ。ねえ、早苗。この岬の家のお酒には何か入っているのかしらね?」 「ええ、何を言っているの?」 「ほら、惚れ薬とか、何か、魔法の薬が入っているわね。もう、あたし、佐藤さんにぞっこんだわ!」 「本当なの?それ。うわー、また奇跡が起こったのかもしれないわね。」 「本当よ。もう、あたし、外交省を辞めてさ、佐藤さんのお嫁さんになろうかな。」 早苗が正樹のほうを見て言った。 「正樹さん、今の聞いた?お嫁さんだってさ。」 「聞いたよ。それもいいんじゃない。」 ナミは何も返事をしない。ベンチの上で眠り込んでしまっていた。
翌日、署長が正樹の診療所を訪ねてきた。ゲリラのことを専門に調べている捜査官を診療所の外に待たせて、署長一人だけが中に入ってきた。 「困ったことになったよ。外にいる捜査官がな、この島で殺された片足の老人を撃ったのはジャネットだと言っておる。おまけにジャネットもゲリラの仲間だと言っているんだ。それで君にいろいろ聞きたいことがあるそうなんだが、どうしようか? 」 「署長、ジャネットの母親は記憶を取り戻しましたよ。今、二人は幸せに暮らしています。二つの国の狭間で犠牲になった親子を、また引き離そうとするおつもりなんですか?」 「それはわしもよく承知しておるがな、外にいる捜査官はな、ジャネットがゲリラの幹部で、これまでに多くの者を殺戮してきた張本人だと言っているんだ。」 署長は葉巻を取り出して、火をつけていいか正樹に許可を求めた。正樹は軽くうなずいてみせた。署長が続けた。 「あのコレヒドール島でジャネットが発見されたことも解せないと、彼は言っておる。片足の老人が撃たれた現場にいたのも君だ。それで君に聞きたいことがあるそうなんだが、どうしたらいいものかな?」 「署長、あの二人の国籍は日本ですよね。治外法権は認められませんか?」 「それは無理だな。」 「署長、明後日に、外にいる捜査官にお会いいたしましょう。私、今日は気分がすぐれませんのでお引き取り願えませんか。お願いします。」 「分かった。急病人を連れてマニラの病院へでも行ったことにしておこう。明後日、また来ることにする。」 正樹は署長たちが帰るとすぐに、大使館に通じている石原万作に会った。そして、その日のうちにジャネットと母親をマニラに移した。すぐに二人が日本へ出国できるように、特別の手配を万作に頼んだ。 二日後、正樹は約束通り署長とゲリラの捜査官に会った。心の中で、無事にジャネットたちが日本に向けて出国できるように祈りながら、血の通っていない捜査官の話を聞いた。 「正樹先生、この写真を見てもらえますか。これはミンダナオ島で政府軍が襲われた時に撮られたものです。このゲリラの集団の先頭に立っているのはジャネットではありませんか?」 「私には分かりません。」 「そうですか。では、この島で片足の爺さんが撃たれましたよね。先生が届けを出された事件です。あの爺さんはあなたのことを殺そうとしたのではありませんか、それをジャネットが阻止した。あの片足の爺さんを撃ったのはジャネットではありませんか?」 「誰が撃ったのかは私には分かりません。警察にも説明した通りに、振り返ると爺さんが地面に倒れていました。」 「そうですか。では、コレヒドール島であなたが見たことを教えてくださいませんか?」 「あの島で起こったことは、ここにいる署長に聞いてください。」 「分かりました。ご協力いただけないということですね。」 「知らないものは知らないと言っているだけのこと、勘違いされては困ります。」 「正樹先生、先ほど、連絡が入りましたよ。マニラ国際空港でジャネットを拘束したとの報告がありました。」 やはり、この島から二人を出したのは間違いだったのだろうか。この島にいれば、ボラカイ島の魔法でジャネット親子は守られたのかもしれない。正樹は自分の判断のあまさを責めた。薄ら笑いを浮かべながら、捜査官は言った。 「先生、警察のことをあまくみたらいけませんよ。もう、本当のことを言ってくれないと困りますね。ジャネットはこれまでに、数え切れないほど、多くの者を殺してきたんだ。」 「私は何も知りませんよ。彼女が赤ん坊の時にゲリラに誘拐された犠牲者であること、それ以外は何も知りません。」 「では、何故、彼女を国外に逃がそうとしたのですか?」 「自分の国に帰ることの、どこが悪いと言うのですか。」 「これまでにジャネットによって殺された者の家族はどうなるのですか?それを先生は考えたことが、おありかな?」 正樹は答えなかった。 「犯罪は犯罪なのですよ。虫けらのように人を殺してきた者を私は見逃すことは出来ませんよ。それがわたしの仕事ですからね。」 正樹は署長のほうを見て言った。 「ジャネットの母親はどうなりました?」 「石原万作が彼女を大使館へ連れて行きましたよ。」 「そうですか。それは良かった。」
その時、外から警官が飛び込んで来て言った。 「署に連行する途中で、ジャネットが逃げたそうです。護衛の警官二人の喉をかき切って逃亡したそうです。」 捜査官が吐き捨てるように言った。 「正樹先生よ、今の、聞きましたか。また、あいつは警官を簡単に殺しやがった。いいですか、もしも、奴がこの島に戻って来て、先生が彼女をかくまうようなことがあれば、あなたも同罪ですからね。そのことをよく覚えておいて下さいよ。」 ゲリラ専門の捜査官は急いで外へ出て行った。署長も黙ったまま、一目だけ正樹のことを見て去って行った。一人残された正樹は机の上に肘をついて、自分の手を口に当てて、ただ、じっとしていた。しばらくの間、これからどうしたらいいのか考えていた。奥で話を聞いていた早苗が部屋に入って来て言った。 「岬の家の人たちにも連絡しておいた方が・・・・・・。」 「そうだね、ネトイと佐藤さんには言っておいた方がいいかもしれないね。」 「ジャネットさんは逃げる際に警官を殺してしまったのですか?」 「どうやら、そうらしい。彼女のお母さんは万作さんが日本大使館に連れて行って、保護してもらったようです。二人も警官を殺しているから、ジャネットは大使館に逃げ込むことは出来ないでしょう。大使館の方で拒否するとおもいますよ。」 「何て、かわいそうな親子なのでしょうか。やっと、二人で幸せに暮らせるところだったのに・・・・・・。何か、あたしたちに出来ることがあるかしら?」 「僕も、今、それを考えていたんだが、何も良い考えが浮かばないんだ。」 二人は暗い空気に覆われてしまった。
その日、大きな太陽が暮れてから、岬の家の最上階、ネトイの書斎に佐藤とネトイ、すっかりボラカイ島に居ついてしまったナミと早苗、そして正樹が集まり、ジャネットのことについて話し合っていた。佐藤が難しい顔をして言った。 「あのジャネットがゲリラのリーダーだったとは驚きました。正樹さんはそれをご存知だったのですか?」 「ええ、知っておりました。でも、ボラカイ島にいた時の彼女は本当にやさしい娘でしたよ。私があの片足の爺さんから狙われた時、わたしの命を助けてくれたのも彼女でした。」 「すると、あの爺さんを撃ったのはやはりジャネットだったのですね。」 「ええ、そうです。ジャネットはゲリラから足を洗う覚悟でした。母親と二人で平和に暮らすことを望んでいましたからね。しかし、世の中はそうさせてはくれなかったみたいですね。本当に残念です。」 岬の家のボスである佐藤がネトイに提案した。 「ジャネットのお母さんのことですが、日本には親類がいないと万作さんが言っていましたよ。このまま日本に帰っても仕方がないでしょう。どうです。この家で預かってみては?」 ネトイが言った。 「かわいそうだけれど、僕は反対です。彼女のお母さんを預かるということは、ジャネット本人や彼女の部下のゲリラたちまでが、この家にやって来ることを意味しますからね。」 正樹もネトイに賛成した。 「私も反対です。ゲリラたちはこの家の子供たちを何とかして、自分たちの闘争に引きずり込もうとしていますからね。両親や社会に対して怨みを持っていた子供たちです。親からも社会からも見捨てられた日比混血児たちは、自分の命さえも惜しまない勇敢な兵士になると、以前、ジャネットが言っていましたよ。」 ナミはまだ外交省を辞めていない。しばらく休暇をとっているところだ。外交省のキャリアであるナミが言った。 「あたし、こちらの大使館に行って、相談してきましょうか?」 早苗が言った。 「そうね、それがいいわ。外交省のバリバリのお役人が動けば、大使館の人たちも、決して悪いようにはしないとおもうわ。」 ネトイが珍しく意見を言った。 「日本に親戚がいなくても、ジャネットのお母さんは、やはり、日本に帰した方が良いとおもいますよ。ゲリラの手の届かない、日本のどこかの施設に入れたほうが安全でしょう。」 正樹もネトイに賛成した。 「もう、ジャネットのことはあきらめましょう。これからは彼女のお母様の幸せだけを考えた方が良いとおもいます。早く日本に帰してあげた方が正解かもしれませんよ。」 佐藤が反論した。 「でも、自分がジャネットの親なら、娘が戦っているわけでしょう。どうでしょうね、・・・・一人だけで、日本に帰ることが出来るでしょうかね。」 正樹はコレヒドール島で見た地獄絵を詳しく語ってから言った。 「警察も軍もゲリラに対しては無慈悲ですよ。容赦なく彼らを撃ち殺しますからね。もし、我々がゲリラに協力したら、同罪とみなすと警告までされています。もう、ジャネットのことはあきらめましょう。」 ネトイが笑顔で言った。 「ほー、驚いたな。正樹にしては・・・・・・珍しく、あきらめるのが早いな。おまえの命を救ってくれた恩人だろう。ジャネットは?」 「その通りだよ。」 「もし、ジャネットがおまえのことを頼って、おまえの診療所へ逃げて来たら、どうする?門前払いが出来るのか?」 「・・・・・・分からん。多分、出来ないかもしれないな。でも、岬の家としては決して、彼女のことを助けてはいけない!ここの子供たちのことを優先に考えて下さい。」
ジャネットはルソン島の北部へ逃げていた。仲間たちから温かく迎えられ、また、両肩から銃弾を下げた完全武装の姿になってしまった。ジャネットの母親は茂木の母親が見るに見かねて、自分の新鹿の実家に引き取ることになった。言ってみれば、正妻と側室が一緒に暮らすことになってしまったわけだ。亡くなった真田徳馬のことを愛した二人の女性がお互いに憎しみ合うこともなく新しい生活を始めることになった。これもボラカイ島の魔法が働いた奇跡だったのかもしれない。
何事もなく、六ヶ月が過ぎた。
ナミは外交省を辞めて、岬の豪邸で子供たちに英語と日本語を教え始めていた。佐藤と相性が良かったのか、あっという間に二人は恋に落ちてしまった。誰もが二人の結婚を疑っていなかった。しかし、もっと驚いたことは、茂木が死んでから、陰でずっと菊千代のことを支えてきたネトイが慎太郎の父親になることになった。随分前に、千代菊は魚屋のハイドリッチと結婚しており、すでに二人の子供がいた。京都を追われるようにして逃げてきた双子の姉妹が図らずも二人とも現地の人間と結ばれることになった。早苗と正樹も結婚式こそ、まだ挙げていなかったが、誰もが認めるおしどり夫婦だった。マニラから岬の家に戻った石原万作にも遅い春が来ていた。リンダは正樹のことをあきらめ、やさしさを絵に描いたような万作と所帯を持った。皆がそれぞれ、ボラカイ島という楽園で幸せを感じながら生活していた。ゆっくりと幸福な時間だけが流れていた。すべてが新しい出発だった。
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