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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第7回   サンパギータ
サンパギータ

写真のディーンとはマニラに到着した夜に軽く挨拶を交わしただけで、それ以上は何も彼女とは話が出来ずにいた。何度かアパートですれちがったのだが正樹はあまりの緊張のために言葉が出なかった。どうもディーンは別の世界に住んでいる人のように正樹にはおもえたからだ。彼女がもし日本の芸能界にデビューしたら瞬く間にトップ・アイドルになることは間違いないだろう。正樹はこんなにきれいな人を今までにグラビアでも見たことがなかった。ボンボンの弟のネトイがディーンと仲良さそうにふざけあっているのを目にするとただそれだけで何故か羨ましかった。近づきたくても近づけない圧倒的なオーラが彼女からは出ていた。
すっかり打ち解けたお手伝いのリンダをからかいながら正樹は朝食を待っていた。お手伝いのリンダとは気軽に何でも話をすることが出来るようになっていた。お互いの言葉が通じているのか、いないのかはあまり問題ではなかった。リンダが入れてくれたコーヒーを飲んでいるとビコールの実家に帰っているボンボンから電話があった。
「正樹、どうです。フィリピンは気に入りましたか?」
「最高です。もう日本には帰りたくない気分ですよ。」
「そう、それは良かった。案内しないでごめんなさいね。」
「いいえ、そんなこと、皆さん、とても親切にしてくださいますし、今だって、こうしてコーヒーを飲んでいるだけでも、僕はとても幸せな気分になっていますよ。この旅行に誘って下さったことを感謝しています。」
「正樹がそんなに喜んでくれて僕も嬉しいですよ。あさって、マニラに戻ります。そうしたら一緒にどこかに飲みに行きましょう。」
「ええ、それはもう、喜んで。」
「じゃあ、すみませんが、もう少し時間をください。日本での就職活動や滞在期間の延長の為に書類が必要なものですから、僕が生まれた場所にある役所に行かなくてはなりません。そっちのアパートの皆には正樹が困らないようによく言っておきますからね。どうぞマニラの休日を楽しんでいて下さい。では失礼します。」
電話が切れると、いつもは昼過ぎまで寝ているネトイがめずらしく朝食に顔を出した。
「今の電話、ボンボン兄さんからですか。」
「ええ、そうです。あさってこちらに戻って来るそうです。」
「そうですか。正樹は朝食はもう済みましたか。」
「いえ、まだです。」
 ネトイはまだ起きたばかりで完全にはまぶたが開いていない。またソファーに倒れこむように横になった。マルボーロを一本取り出して天井を見つめながら吸い始めた。
「正樹、朝食が済んだら、今日は僕がマニラを案内しますね。」
 ネトイの話し方はとてもゆっくりで、正樹を外国人として意識している。かなりなまった英語だが正樹は彼の言葉を他の誰よりもよく聞き取ることが出来た。今日の案内はディーンではなかった。ウエンさん、ノウミときたから今日はてっきりディーンの番だと正樹はおもっていたから少しがっかりしのだけれども、と同時に何だかほっとした気分にもなっていた。ネトイは丸いメガネをかけていて、アメリカの歌手、あのジョン・デンバーと同じメガネを愛用している。そのメガネをとってしまうと北京原人のような顔になってしまう。少しだけ歯も出ていて、一度見たら絶対に忘れない顔立ちをしている。不思議なことに彼がまじめな顔をすると実におかしい。どう言ったらよいのだろうか、彼を見ているこっちの方が何故か幸せな気分になってくるから不思議である。性格も志村ケンとタモリさん、そしてジョン・デンバーを足して割ったようなキャラをしている。そう、かなりそれに近い。兎に角、おかしくて、おかしくて、ネトイのことを見ていると訳もなく笑ってしまうのである。ボンボンにしてもオヘダのアパートを借りている大学教授の姉さんにしてもネトイの兄弟たちはみんな天才ぞろいである。ネトイ以外はすべてフィリピン大学を首席で卒業している。ネトイだけが学校を中退した。だから堂々と昼過ぎまでゆっくりと寝ていてよいのである。しかし、周りの人々を楽しませる彼の才能は超天才的だ。毎日ふらふらしていてもボンボンの姉さんはネトイを一番頼りにしている。ただいるだけで周りの人々を明るくしてしまうネトイはやはり天才なのかもしれない。そして正樹のユーモアのセンスは知らず知らずのうちにこのネトイから吸収していくことになるのだ。
 ネトイと二人で朝食を食べていると、ディーンが階段から降りて来た。まるでパリかミラノのファッション・ショーが始まったかのように階段から彼女は登場した。もうディーンは外行きの格好をしていた。そうか、ネトイと一緒に案内をしてくれるんだと気づいた時、正樹は圧倒的な幸せに満たされていた。男なんて単純な生き物である。しかしよく考えてみれば、ネトイがいてくれた方がかえって都合が良かったのではないか、ディーンと二人きりだと正樹は緊張の為に話しをすることすら出来ないだろ。きっとディーンも息苦しくてなって、正樹のことを嫌いになってしまうからだ。このネトイのでしゃばりは正樹にとっては大きな助け舟になった。
 三人は朝食を終えてからバス通りに出た。こちらのバスは日本語で書かれた行き先がやたらと多い。日本ではもう使われなくなった中古のバスの運転席を反対側に付け替えてこちらの右側通行に対応させている。古くなった日本のバスを改造して再利用しているわけである。ただバスに付いていた看板や行き先はそのままで「沼田農協行き」とか「宝光社前行き」のようにそのままにしてある。日本の中古車であることを示したいからそうしているのだろう。日本語のネーミングはこちらでは非常に多い。お菓子にしても「おいしい」、缶詰にしても「はこね」、蚊取り線香などは「かとる」である。中古のバスもそのまま日本製を強調している。正樹はこちらのバスに乗って驚いたことがもう一つある。それはどんなに車内が混んでいても女性が乗ってくると、男どもは我先にといっせいに立ち上がることだ。これは日本の男性たちはぜひ見習いたいし、また女性はこのようにいたわるべきであるとおもう。ただせっかく席を譲ってもお礼の一言も言わないで当たり前のような顔をしている女性もかなり見かける。特に中年以上の女性にそのようにふてぶてしい態度をとる傾向があるようで、この国のおばさんたちはもっと男たちの優しさを認識する必要があると正樹はおもった。
 この国のバスには車掌がいる。バスの車掌は日本ではワンマン・バスになってしまって、もうその姿を消してしまったがフィリピンではまだまだ活躍している。たとえバスから乗客がこぼれ落ちそうなくらいに込み合っている時でも車掌はどこからともなく現れ、しっかりと料金を徴収していくのである。さらにバス会社はこの車掌たちをまったく信用していないので検察官を抜き打ち的にそれも頻繁にバスに送り込んでくる。検察官は乗客が正しい切符を持っているかどうかを確認しながら、車掌のことも見張っているのである。日本と違って人件費がべらぼうに安いから出来る経営戦術なのである。
 正樹はバスはとても好きだが、今日はディーンが一緒なので出来るだけきれいなタクシーを選ぶことにした。どうやら男は好きな女性には見栄を張りたがる生き物のようで、もしその気持ちをずっと持ち続けることが出来れば結婚してからもきっとうまくいくのだろう。
 ネトイとディーンが案内をしてくれたのはマカティ地区だった。高層ビルが建ち並ぶ現代的な町でこの国の商業の中心地だ。銀行、デパート、レストラン、映画館、ほとんどの大企業のオフィスがこのマカティ地区に集中している。日本の企業もここに事務所を設置している。そして大通りの反対側には大邸宅街があり、フォーベス・パークと呼ばれ大金持ちのお屋敷がずらりと建ち並んでいる。日本人には想像することが困難なくらいの豪邸が競い合うようにして並んでいる。フォーベス・パークは高い塀で囲まれていて、その中に入るには厳しい検問がある。居住者であることを示すステッカーがない車は停車を命じられ、さまざまな質問を受けることになる。タクシーの場合、運転手は免許証を門番に預けなくてはならない。悪いことをしないように免許証を人質にとられるわけである。正樹たちを乗せたタクシーもイカツイ顔をしたがガードマンが窓から車の中を覗き込んできて正樹が日本人であることでやっと入場を許可された。フォーベス・パークの中はまるで別世界であった。マニラの混沌とした町が砂漠ならば、ここは樹木がうっそうと生い茂るオアシスと言った所だ。道の両側には豪邸が高い塀に囲まれるようにして建ち並んでいた。高級車が何台もその大きな門に吸い込まれていた。ライフル銃を持った警備のガードマンが各家々の門のところには立ち、この国の富と財宝をしっかりと守っていた。日本にいてはあまり感じることが出来ない「貧富の差」というものを正樹はここに来て初めて実感した。と同時に自分たちを守るために必死になっている富豪たちはとっても大変な人種なんだなと正樹はおもった。お金が増えると問題も増えるわけで、お金はないと困るけれども増え過ぎても困るものらしい。ほどほどが一番のようである。
 太い樹木に覆い被された道をしばらく行くと緑の広がる丘に着いた。そこは墓地だが日本の墓地のような暗さがまったくないアメリカ記念墓地であった。また戦争の傷跡を見せられるのだと正樹は覚悟した。ここには第二次世界大戦中、フィリピンで戦死した一万七千のアメリカ軍人の遺体が安置されているそうで、白い十字架が緑の芝生に戦死者の数だけ整然と並んでいる。不謹慎にも正樹はその緑の大地と白い十字架が並ぶ様を見て美しいと感じてしまった。あの不幸な戦争で犠牲になったアジアの人々は二千万人以上とも言われているのだし、日本軍にしても日本本土以外ではフィリピンで戦死した者がもっとも多く、五十万人以上の兵隊があちらこちらのフィリピンの山々や海で故郷日本に再び帰ることを願いつつ命を落としているのである。犠牲になったアメリカ軍人の墓を見て、ただ「美しい」だけではすまされない話である。正樹は静かに合掌して戦争で命を落としたすべての人々の為に冥福を祈った。中央には記念塔と戦闘の経緯を表した地図がモザイクで刻み込まれている。現地マニラの日本人学校の生徒さんたちには是非この記念墓地を訪れて戦争の悲惨さと過去に日本が犯した過ちを認識学習してほしいと正樹は願った。日本人学校の先生たち、どうか遠足などでこのアメリカン・セメタリーに一流企業のお子様たちを連れて来ていただきたい。そう正樹は切に願うのであった。
 正樹は白い塔の前に立つディーンの姿を写真に撮りたかった。カメラを持っていないことをこれほど悔しくおもったことはなかった。このアメリカ記念墓地はよく清掃がされていてゴミ一つ落ちていなかった。また訪れる人も少なく、この広い丘の上には三人の他には誰もいなかった。シーンと静まり返った静寂な空間の中で三人は一万七千本の十字架が丘いっぱいに描く模様を眺めていた。大理石でできたベンチに座ってただじっと白い十字架を見つめていた。時間が経つにつれて三人はだんだん場違いな雰囲気になってきていた。ネトイが突然立ち上がり隣のベンチに移動した。正樹とディーンが何とは無く彼のことを見ていると、ネトイは隣のベンチの上で自分の両腕を自分の体におもいっきり巻きつけて独りでアベックが抱き合っている姿を演じ始めた。正樹はディーンと顔を見合わせておもわず笑ってしまった。緑の丘にはまたさわやかな風が吹いてきていた。
 アメリカ記念墓地を出ようとした時、制服を着た警備兵が正樹に近寄って来た。あたりを見回しながら手に持っていた警察のキャプテンのバッチを正樹に示し、本物だから買わないかと言ってきた。本物だとしきりに強調するところをみるときっと偽物に違いない。しかしそんなバッチは何の役にも立たないし、持っているとかえってヤバイような気もした。もし帰りの空港で見つかったら金をふんだくられるかもしれない。だから「いらない」
と何度も断ったのだが、その警備兵は異常なまでに売り込みを続けるのだった。その必死の形相は尋常ではなかった。正樹はきっと彼の奥さんのお腹でも大きいのに違いないと思い直して買うことにしたのだった。ネトイが初めの言い値の三分の一の値段まで交渉して下げてくれた。バッチを売った後、その値切られた警備兵はブーブー言いながら立去って行った。正樹はそのバッチを今でもディーンの記念として大切に持っている。
 次に三人が訪れたのはナヨン・フィリピーノであった。フィリピンの各地方の文化を紹介するためつくられた公園で、日本のユネスコ村のようにフィリピンの風土や民家、生活の様子を小型にまとめて展示紹介している。広い園内を一周するとあたかもフィリピン全土を一周したような気分に浸れるようになっている。園内には花が咲き乱れていて、心地よい風も吹いていた。ただ隣に国内線の滑走路があるために時折、物凄い音を立てておんぼろ飛行機が離発着していた。正樹はここでもディーンのことを撮るカメラがないことが悔やまれた。熱帯の花は美しい。フィリピンの花もその例にもれない。やや淡いやさしさをただよわせているゴマメーラはその代表で、この国には数え切れないほどの美しい花が咲き乱れている。
 ディーンが立ち止まった。白い花を指差しながら正樹に言った。
「マサキ、この花はね、フィリピンの国花、国の花、サンパギータですよ。ちょっと香りをかいでみてください。」
 正樹はその白い小さな花に顔を近づけてみた。かすかにやさしい香りがした。それはまるでディーンの香りのようでもあった。やさしい香りだった。きっと正樹はサンパギータの花を見る度にディーンのことを思い出すことだろう。サンパギータ、小さな花だけれども強烈に正樹の脳裏にその姿、香りは記憶された。
ただじっとしているだけでも熱いマニラ、騒音と排気ガス、混沌と貧困、そんなマニラだが、正樹は独りぼっちだった日本の生活よりも、この地で皆で助け合って生きているボンボンの家族がとても羨ましかった。決定的な理由はディーンの存在だったかもしれないが、ウエンさんの優しさ、ノウミのナイス・ボディ、リンダの愛嬌、ネトイのユーモアなど、そのすべては人間が作り出している素晴らしさである。確かに今は日本よりも経済的には恵まれていないフィリピンだが、正樹はみんなといつまでもこの国に一緒にいたかった。
サンパギータ、正樹が初めて知った白い花。やさしい香りの花だった。


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