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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第69回   コレヒドール
コレヒドール

 カティクランがボラカイ島へ渡る正面玄関だとすると、カティクランから見て島のちょうど反対側にあるのがプカビーチだ。波の打ち寄せる音以外には何も聞こえない、本当に静寂な浜辺である。時折、島を一周する貸し切りボートが休憩所としてこの浜を利用するくらいで、普段はまったく人影のない美しい砂浜である。ホワイトサンド・ビーチのような雄大さはないが、より繊細で静かな南国の浜辺である。もし浜辺の世界ランキングがあるとするならば、間違いなくこのプカビーチは上位にランキングされることだろう。
 ルホ山でこの島のゲリラのリーダーである老人から正樹は彼らの仲間の治療を頼まれた。病人に悪人も聖人もありはしない。病んでいる者を医者は見捨てるわけにはいかなかった。半ば連行される形で正樹は深夜にプカビーチからコレヒドール島へ行くことになった。診療所に一度戻ってから出発ということになり、トニーとダニーと一緒に正樹は診療所に戻った。早苗は岬の家に預けてあるので、まず彼女のために置手紙を書いた。心配することは分かっていたので会わずにでかけることにした。しばらく診療所を留守にするので、仲間の医者と医者の資格をとったばかりのヨシオに診療所のことを任せることにした。トニーとダニーは人目につかないように正樹のことを診療所の外でじっと待っていた。午後の診療をヨシオと手分けして終え、二人きりになると、正樹はヨシオに言った。
「ヨシオ、早苗さんのことを頼んだぞ。しばらくは岬の家においてもらうことにしてある。子供たちの診察に行ったら、必ず、彼女の様子も見てくること、いいな。そして困った様子だったら、おまえ、力を貸してやってくれ。それから、この手紙を彼女に渡してくれ。」
「承知、でも、俺は早苗さんのことより兄貴の方が心配だよ。俺も一緒にコレヒドール島へ連れて行ってはくれませんか。」
「駄目だ!お前は俺に代わってこの診療所を守れ。いいな。患者たちに休日はないのだから、お前までいなくなったら困るだろう。」
 診療所の外はもうすっかり暗くなっていた。正樹が大きな診療用のカバンを持って外に出ると、さっと、トニーが近づいて来た。間髪を入れずにダニーがトライシクルを運転してやって来た。よく訓練された動きである。三人は無言で診療所を出発した。三人を乗せたトライシクルは暗闇の中に吸い込まれるようにして消えていった。トライシクルのライトだけが曲がりくねった道を照らし出していた。時折、小動物が道を横切るくらいで、夜のボラカイ島の山道は対向してくるトライシクルもなければ、村人にも会わない。三人は誰にも気づかれずにプカビーチに到着した。もちろん、こんな夜中にプカビーチに人などはいない。昼間でも人気のない浜である。深夜に月の光がなければ真っ暗で一歩も歩けはしないのだから、彼らは他人の目をまったく気にする必要はなかった。その夜も月は出ていなかった。波の音がする方向へ三人はゆっくりと歩いて行った。夜の海は寂しい。打ち寄せる波の音もまた冷たかった。ダニーが懐中電灯を取り出し、海に向かって点滅し始めた。三人は診療所を出てから、まだ言葉を交わしていない。別に話すこともなかった。
 静かに黒い影が浜に近づいて来た。大きなゴムボートだった。トニーは無線でそのゴムボートの仲間と何やら連絡をとりあっているようで、正樹の後ろでぼそぼそと話し声がしていた。トニーもダニーもよく訓練された動きである。まったく無駄のない動きをしていた。五分もしないうちに正樹は高速艇の上に乗せられてしまっていた。高速艇はプカビーチ、日本の観光ガイドブックなどにはプカシェル・ビーチとなっていることが多いが、地元の人間はプカビーチと呼ぶ、その砂浜から正樹を乗せた高速艇はまるで飛び魚のようにどんどんと離れて行った。縦揺れの激しい高速艇に慣れていない正樹は10分もしないうちに気持ちが悪くなってきた。目的地はゲリラの秘密基地のあるコレヒドール島だった。

 コレヒドール島はマニラ湾の入り口に位置し、スペインの統治時代には灯台と徴税所があった。徴税のコレクターからその名前が由来する。そしてアメリカ統治時代に要塞化された。たくさんの大砲が設置されただけでなく、巨大な兵舎や映画館、ゴルフ場、テニスコートなど兵士の為の様々な娯楽施設も建設された。
 太平洋戦争の時、アメリカ兵約1万人とフィリピン人軍属約5千人がこのコレヒドール島に立て籠もって日本軍を迎え撃った。日本軍はコレヒドール島の北側のバターン半島に約100門の大砲を設置し、7千トン以上の砲弾を島に撃ち込んだ。マッカーサーは夜陰に乗じて高速艇数機で島を脱出し、オーストラリアに逃げてしまった。残されたアメリカ軍は日本軍に降参し、両手を挙げてマリンタ・トンネルから出てきた。日本軍はその時フィリピン人軍属のほとんどを解放したらしい。しかし、アメリカ兵の捕虜1万人を移動させるために、バターン半島を1週間飲まず食わずに歩かせて、その半分を殺してしまった。これが世に言う「バターン死の行進」である。その死者の数は確かではない。1万とも10万とも言われている。
 戦況は次第にアメリカ軍が優勢となり、日本軍はバラバラになっていった。「アイ・シャル・リターン。また戻って来ます。」の言葉通りに、マッカーサーはフィリピンに戻って来た。今度は約6千人の日本兵が逆にコレヒドール島に立て籠もって、アメリカ軍を迎え撃った。アメリカ軍は8千トンの爆撃を島に浴びせた後、島の中央に奇襲攻撃をかけた。意表を突いて数千名のパラシュート部隊を投下したのだった。日本軍は総崩れとなったが、降伏はせずに、玉砕の道を選んでしまった。島の地下トンネルや物陰でそれぞれが集団で自決して果てた。コレヒドール島の地下にはトンネルが幾つも掘られていて、ゲリラたちがアジトとしてこの島を選ぶのも無理のない話だと正樹はおもった。そのコレヒドール島を目指して高速艇は波の上をかすめ飛ぶように走った。マニラ湾に入るとすぐに、おたまじゃくしの形をしたコレヒドール島が現われた。そばに幾つか小さな島があった。当時はその島々にも砲台はあったそうである。海底のトンネルでコレヒドール島とつながれていたのに違いなかった。現在は要塞コレヒドール島は観光の名所となっており、昼間は観光客で少し賑わうが、夜はホテル付近以外にはまったく人は歩いていない。様々な怨念を持ち続けている霊たちが永眠することなくさ迷い歩く闇の世界だ。その闇の世界に正樹を乗せた高速艇は静かに接岸した。岩肌にはロープを留めるための金具が取り付けてあり、ダニーとトニーはそれに梯子を素早く固定した。トニーが正樹に言った。
「先生、さあ、上がってください。その大きなカバンは私がお持ちしますから、上陸して下さい。先生はこの島は初めてですか?」
「前にも来たことはあるよ。ちゃんと正面からな。日本兵の遺骨を集める手伝いで何度か来たことがある。」
「確かに、この島にはまだ日本兵のしゃれこうべがごろごろ転がっていますよ。僕も見たことがありますよ。」
 コレヒドール島に上陸すると、そこはジャングルで、島の裏側にはまともな道などはもちろんなかった。先にダニーが草を掻き分けながら歩いて、正樹のために道をつくった。しばらく頭を下げながら獣道を行くと、パッと視界が開けた。眼下には生暖かい海が広がっており、木々の間から誰かに見られているような、そんな錯覚に落ち込んでしまった。明らかに死者の霊気だ!この島で命を落として、まだ成仏出来ずにいる多くの人々の気配を正樹は感じずにはいられなかった。何とも不思議な空気がどんよりと漂っていた。正樹は少し先に小さな洞窟を見つけた。きっとそこが彼らのアジトの入り口に違いないとおもったが、ダニーの話でそうではないことがすぐに分かった。
「先生、あそこの洞窟にも日本兵の骨が転がっていますぜ。錆びた小銃を囲むように。幾つも、それも輪になるように骨が並んでいますよ。彼らの最後が悲しいほど容易に想像が出来ますぜ。」
 正樹はトニーとダニーに言った。
「きっと、そこで日本兵たちは自決したんだろうな。何とも戦争とは悲惨なものだよ。お前たちが、まだ、そんな戦争を続けているのかとおもうと胸が痛むよ。お前たちも俺と同じ日本人の血をひいているんだ。それなのに何故だ。戦争が終わって高度成長を成し遂げた日本では、皆、平和な暮らしをしているというのに、まったくな、日本人の誰がまだ銃を持って戦い続けているお前たちのことが想像出来ようか。確かに、まだ地球上の至る所で争いは起きている。俺は何も日本人だけが平和な暮らしをしなくてはいけないと言っているのではないのだ。いったい、いつになったらこの地球という星に本当の平和がやってくるのだろうな。」
 正樹の言葉は実に空しかった。こうして彼らの病にかかった仲間の手当ての為に、太平洋戦争の激戦地コレヒドール島に来ているのだ。まだ戦い続けているゲリラのアジトに向かっているという不思議な現実の前では「平和」なんて言葉は何の意味も持たなかった。」
「医者は俺以外にもたくさんいるだろうが、何故だ、何故、俺を呼んだ。」
「先生は日本人だろう。」
「すると、お前たちの、その仲間というのは日本人なのか?」
「そうさ・・・・・・。」
「しかし、別に日本人だからと言って、日本人の医者が診なくてはならないということもないだろうが、お前たちの仲間ならば、この国の言葉も話せるはずだ。」
「正樹先生、兎に角、ボスに会えば、すべてが分かるさ。先生を特にご指名なんだよ。」
「ボス?・・・・・・ その、病にかかっている仲間というのはお前らゲリラのリーダーなのか?・・・・・・それも日本人のボスとは驚いたな。」
 三人は話をしながら、もう少し歩いた。すると海に突き出た崖の上に出た。もちろん眼下にはマニラ湾が広がっている。ダニーがロープを大きな木に回し、二本のロープを使って、後退りするように崖から下りていった。正樹も下を見ないようにして、ダニーと同じようにして下りていった。すると、少し下りたところに小さな割れ目があり、地下通路へと連絡していた。そこは崖の上からでは見ることの出来ない秘密の入り口であった。ダニーはトニーが下りるのを待って、片方のロープを手から離し、残ったもう一方のロープをスルスルと引き寄せた。ロープは木から外れ、崖の上には何も残らなかった。ダニーは引き寄せたロープを自分の背中のナップザックに素早くしまい込んだ。彼らのアジトの入り口は確かに発見しにくい場所にあると正樹は感心した。しかし帰る時はいったいどうやって出るのだろうかと疑問が残った。


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