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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第67回   ルホ山
ルホ山

 ボラカイ島の最高峰、マウント・ルホ。 山と言っても、そんなに高い山ではない。トライシクルで15分もあれば、見晴台のある頂上付近にたどり着いてしまう。途中の急勾配では馬力のないトライシクルだと、運転手だけ乗せて、乗客は歩かなくてはならないから、もう少し時間がかかってしまう。そしてルホ山の見晴台からはボラカイ島をぐるりと見渡せる。ホワイトサンド・ビーチは反対側でそこからは見えないが、それでも十分に素晴らしい眺めである。その見晴台は手作りの簡単なやぐらだけれど、そこに立った者は生涯その眺望を忘れることはないだろう。それほど美しい眺めなのである。幾重にも入り組んだ小さな浜の前には美しい海がまるで虹のように幾つもつながって、全体で一つの雄大な景観をつくっている。また首を伸ばしてすぐ下を見下ろせば、底の底まで透き通って見える海が広がっている。まるで空と海の真ん中にいるような、そんな錯覚を起こしてしまう。ルホ山にしばらくいると、誰もが何か得をしたような気分になってくるから不思議だ。観光客にもあまり知られていないこともルホ山を特別なものにしていた。

 昼をだいぶ過ぎた頃、トニーとダニーに連れられて正樹はルホ山に来ていた。彼らのこの島のリーダーに会うためだった。自然発火した白い煙が立ち上っているゴミ捨て場を少し過ぎたあたりで、三人はトライシクルを降りた。何の変哲もない、ただブロックを積み上げただけの小さな民家に入ると、一人の老人が簡易ベッドに座っていた。よく日焼けをした、その顔にはシワが深く刻み込まれていた。老人は正樹に言った。
「正樹先生、あなたのことは、あなたがこの島に来た時から、よく知っていますよ。診療所を開いた時には、わしらは革命税を徴収しに行こうとしたんだ。ところが、村の者から反対があった。あんたは診療報酬を貧しい者から取っていないと聞かされてな、おまけに革命税はとってはならないと上からの指示もあった。だから、わしは先生には会いに行かなかったのですよ。」
「革命税ですか、聞いたことがありますね。ゲリラの資金源ですね。弱い者から、払わなければ襲うと脅して、集めるお金のことだ。」
「まあ、いい。少し意味が違うが、そういうことにしておこうか。ここにいるトニーたちはあんたのことを信用しておるようだが、わしは日本人は誰も信用はしないよ。」
 正樹は少し怒ったように言った。
「それで、今日は私に何の用があるのでしょうか? トニーの話では誰かを助けて欲しいとのことでしたが。」
「これは失礼した。どうぞ、そこにおかけ下さい。お忙しいところを、わざわざおいでいただいて、まことに恐縮でした。失礼の数々、お許し下さい。」
 正樹はこの時、老人の片足がないことに気がついた。
「さきほど、日本人は誰も信用しないとおっしゃいましたが、あの戦争を体験された方なら、そうおもうのは当然だと私もおもいますが、」
 老人はしばらく間を置いてから、ゆっくりと話し出した。
「もう、あの戦争のことを語り継ぐことが出来る者は少なくなった。皆、年老いて死んでしまったからな。この島ではしっかりと話せるのはわしだけになってしまったよ。」
「すると、あなたはこの島で、あの大戦を経験されたのですか?」
「いや、わしはバタンガスで生まれてバタンガスで育った。この島へはお前さんが来る少し前に配属になった。」
「配属と言いますと、あなたもトニーたちと同じゲリラの一員なのですね。」
 老人はそばにあった杖を引き寄せて立ち上がった。左足は腿の真ん中からなかった。義足はつけていない。ズボンを紐で縛ってちょん切ってあった。老人は立ち上がると窓の外を一度見てから、振り返って正樹に向かって言葉を続けた。
「この足は日本刀で切られたんだ。それもわしの部下にな。部下といっても、彼はまだ15才の少年だった。わしらは太平洋戦争の末期にマニラから敗走して来た日本軍によって捕らえられた。散々拷問を受けたよ。あの時はわしらゲリラの方が優勢だった。日本軍はバタンガス地方で血眼になってゲリラの掃討作戦を繰り返していたが、アメリカ軍も戻って来ていたし、もう日本軍の敗北も時間の問題だった。だけど、そんなことは誰も知らなかった。兎に角、殺すか殺されるかのどちらかだった。明日のことを考える余裕などはなかった。」
「あなたの部下があなたの足を日本刀で切ったと、さっきおっしゃいましたよね。」
「ああ、そう言ったよ。わしの部下だった少年は散々拷問を受けた上に、奴らの日本刀を渡されて、わしの足を切ったら開放してやると言われたんだ。だから、わしも切れと命令した。わしの足を切った後、その少年はつばをかけられ、散々、さげすんだあげくに撃ち殺されてしまったよ。わしはその場にそのまま放置された。仲間がわしを見つけ出してくれてな、わしは助かった。」
 正樹は何も言えなかった。片足の老人は話を続けた。
「バタンガス地方では、自分たちの身を守ろうとして、日本軍は無差別に村々を焼き払っては老若男女を問わずに、ゲリラ掃討作戦の名目で村人を皆殺しにしたよ。戦争だからお互いさまなのかもしれないが、バタンガスは地獄だった。」
 正樹が口を開いた。
「土足で勝手に他人の家に入って来たような日本軍には何の正当性もありませんよ。すべての責任は日本軍にあります。どんな理由をつけようとも侵略した方が悪い!」
「ほー、正樹先生は本当にそうおもっておられるのか、・・・・・・それは、それは。」
「岬の家の子供たちも、日本人の身勝手な行動から生まれてきた犠牲者ですから、ある意味では、この国では、まだ戦争は続いているのかもしれませんね。でも、私は医者ですからね。この世に生まれてきた者は誰であろうと、選ばれて生まれてきたのだとおもっています。そしてその命を守りつないで行くことに大きな意味があるとおもっています。」
「まあ、確かに、子供は神様からの授かり者だからな、どんな生まれ方をしようと、生まれてくるべきして生まれてきたんだとわしもおもう。さっき先生が言っていたが、岬の子供たちは犠牲者だといったが、それは間違いだな。人にはみんな生まれてきた理由があるんだ。生きる価値が必ずあるものだよ。」
 正樹はその通りだとおもった。老人は再び椅子に腰を下ろしてから話を続けた。
「正樹先生よ、わしの命はもう残り少ない。先生にあの時のことを話しておこうか、誰かが語り継がなくてはならないことだから、先生にも聞いてもらおうか。そこにいるトニーたちはもう何百回となく聞かされて、もううんざりしているようだが、このフィリピンはスペインの植民地になり、そしてそれを譲り受けたアメリカが支配者になった。それを日本軍が解放してやったというのは勝手な言い訳だな。スペインもアメリカもわしは嫌いだった。それでもな、日本軍のように徴発と称して食物や物を、あげくのはてには人間までも略奪はしなかった。その点だけは日本軍よりはまだましだったかもしれないな。スペインは教会を造ったり、基礎的な町づくり、海外との交易の道を開いたし、アメリカは学校を建てたり、道路もつくった。自治国として主権をわしらに与えようともしたからな。日本軍が侵略して来た時、わしらゲリラはマッカーサーと手を組んで戦ったよ。マッカーサーがコレヒドール島からさっさと逃げた後も、わしらはわしらの祖国の為に戦い続けた。」
 老人はベッドの下から冷えていない缶ビールを二つ取り出し、その一つを正樹に差し出した。正樹にはまだ午後の診察があった。
「私は結構です。まだ診察が残っていますから。」
老人は表情を一つも変えずに、一人で缶ビールの栓を引き抜き、窓のほうへ歩いて行った。正樹が見ていると、老人は缶ビールを持った手を窓の外に突き出し、缶の中のビールを半分位たらたらと捨てた。そして残ったビールの中に自家製の強いココナッツ酒を注ぎこんで、一気に胃袋に注ぎ込んだ。何もビールを捨てることはないだろう、後でまた混ぜて飲めばいいのにと正樹はおもった。老人は二度大きく息を吸ってから、また話し出した。
「バタンガスはひどかったよ。わしらゲリラと日本軍は壮絶な戦いを繰り広げた。あれは地獄だったよ。昔から、バタンガスの者たちは勇敢な民族として国中に知られていたが、それを実証することになった。民族のプライドもあって、決して後には引かなかった。日本軍にしてみれば、まったくの計算違いだったわけだ。だから、奴らも血眼になって向かってきた。ゲリラの襲撃をうけて、日本軍は容疑者を逮捕し、尋問、拷問を繰り返した。お互いの心の中には憎悪の連鎖が生まれてしまった。報復が報復を呼んだ。
 そのバタンガス地方にルンバンと言う村がある。わしはそこの生まれだ。日本軍はルンバンの村を占領すると、ゲリラと村人を区別するために通行許可証を発行するとお触れを出した。通行証を手渡すという理由で、すべての村人を小学校の校庭に集めたんだ。なあ、正樹先生よ、そこで何が始まったとおもうね。」
 老人はゴクリとアルコールをあおった。正樹はもちろん、何も言えなかった。老人は吐き捨てるように言葉を続けた。
「日本軍はもうその時はゲリラと一般住民との区別がつかなくなっていたから、男も女も、年寄りも子供も、誰であろうと皆殺しにする作戦に切り替えていたんだ。殺すか殺されるかのどちらかだったからな。いいか、先生、日本軍は校庭に集まったルンバンの村人に通行証を渡すからと言って、数人ずつ連れ出して、両手を縛り上げ、後ろから銃剣で突き刺したんだ。そして谷川にどんどん投げ捨てていった。なあ、正樹先生、何で奴らは銃を使わなかったか分かるかね。それは銃声を聞いて校庭で順番を待っている村人が逃げないようにするためだよ。ルンバンの村人のほとんどがその時に命を失ってしまったよ。千五百人以上が虐殺された。わしはその時はこの足を切られて、他の村で治療をしていたから、またしても命拾いをしたわけだ。」
 老人は日本軍が先の大戦で犯した犯罪を正樹に伝えようとしていた。正樹も真剣に話を聞いていた。悲しい過去の史実を全身全霊で受け止めようとしていた。老人は強い酒を今度はビールで割らずに飲み干した。少し酔ってしまったのだろうか、また同じことを繰り返し始めた。
「なあ、先生、何で銃を使わずに銃剣で刺し殺していったのか分かるか。そうだよ。村人がその音を聞いて逃げないようにするためだった。あるいは銃弾を使うのがもったいなかったのかもしれないな。日本軍はかなり追い詰められていたからな。戦局は完全にアメリカ優勢に傾いていたから、日本の本土での決戦の為に時間が必要だったのに違いない。フィリピンに送り込まれた日本軍は長期持久作戦、自活自戦、永久抗戦で米軍をこの国に釘付けしようとした。敵ながらあっぱれだったのが、山下大将だったよ。彼はマニラを戦場にすることには反対だったようだが、大本営と海軍と航空隊が承知しなかった。山下将軍は陸軍を連れて命令に反して、北の山に登っていったようだったが、結局、海軍マニラ防衛部隊がマニラに残り、マニラは修羅場と化してしまったよ。十万人以上のマニラ市民が犠牲となってしまった。フィリピン全土では百数十万人以上の一般の人々が犠牲になった、軍人、軍属の数を入れると、その数は相当なものになるな。もちろん、日本人もたくさん死んだよ。沖縄での激戦、広島、長崎の原爆、日本の主要都市への空襲のこともわしは知っているよ。このフィリピンでもコレヒドールの攻防だけでも、アメリカ軍から島を奪う時に日本軍は5千名以上が死んだ。そして島をアメリカ軍によって取り戻された時にも日本軍は降伏することなく玉砕した。その時、集団自決した数が6千人以上と聞いておる。だがな、正樹先生よ、第二次世界大戦では日本人もアメリカ人も、そしてわしらも家族もたくさん死んだがな、決定的な違いがあるんだ。われわれの多くは一般の民衆が犠牲になっているのだ。第一次世界大戦の犠牲者はおもに軍人や軍属だったがな、ところが先の大戦での犠牲者は一般の民衆の方が軍人よりも多く死んでおる。特にアジアでは日本人の犠牲者は軍人や軍属がほとんどだが、侵略されたアジアの国々の犠牲者は、そのほとんどが罪のない一般民衆だったんだよ。分かるかね、そのことが、先生!」
 そこで、しばらく沈黙が続いた。老人はもう一杯、強いココナッツ酒を飲み干した。その目は赤く充血しており、瞳は大きく見開かれて、正樹に向けられていた。
「先生。あんたをルホ山の見晴台に案内しようか。きっと、初めてだろう。長いことこの島にいても、なかなか、皆、ここまではやって来ないからな。」
「ルホ山のことは話に聞いてよく知っておりますが、忙しくて、なかなか来る機会はありませんでした。とても素晴らしい眺めだと聞いております。」
「ああ、悲しいほど美しい眺めだよ!」

 四人は小屋を出て、砂利道を五分ほど老人の歩調に合わせて歩いた。老人は杖を使って片足だけでも器用に見晴らし台へ続くとおもわれる坂道を登って行った。正樹たちもその後に続いた。ブロックと鉄パイプでこしらえた手作りの見晴台はすぐに現われた。そばに屋根だけの粗末な売店があった。見晴台はどうやら有料のようで、その小屋にいた夫婦者が利用料を徴収しているようであった。もちろん、片足の老人は払わずに、どんどん見晴台の上に上がっていってしまった。猿やら小鳥、犬や猫なども飼われていて、見晴台の使用料が高いために、その動物たちの鑑賞料も含んでいるとでも言いたげであった。売店では動物たちの餌も売られていた。見上げると老人が手を振って正樹に早く登って来いと合図していた。
「先生、こっちだ。早く。今日は晴れていて、素晴らしい眺めだよ。」
 不思議である。今、上で手招きをしている老人はさっきまで、あの戦時中の重たい話を正樹にしていた人だとはおもえない。別の無邪気な子供のように正樹にはおもえた。正樹は売店にいる男に利用料を払おうとしたが、トニーとダニーがそれを止めた。必要ないということらしい。きっとゲリラたちの特権なのであろう。大きな台風にはとても耐えられない見晴台だ。登る度にぐらぐらと揺れていた。上まで登って老人の隣に立ち、その大パノラマを見た時、正樹のさっきの謎は解けた。人間の営みなど何もかも忘れてしまうほどの美しい景色がそこには広がっていたからだ。老人が正樹の耳元で言った。
「どうだね、ここからの眺めは?わしの自慢なんだ。」
「素晴らしいですね。まるで空中に浮かんでいるみたいですよ。ここはボラカイ島の裏側ですね。見えませんが向こう側がホワイトサンド・ビーチですね。」
「その通りだ。この雄大な景観の前では、わしらはちっちゃいのう。正樹先生、そうはおもわんかな。」
「ええ、まったく、おっしゃる通りです。」



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