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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第62回   息子の死
息子の死

 真田徳馬は外交省の屋上に立って、空を見つめていた。久しぶりの東京の空である。外交省に入省してから東南アジアの空ばかりを見続けてきた。以前に比べて、東京の空も青くなってきたような気がした。
 大きく息を吸った次の瞬間、徳馬は全力で走り出し、屋上の柵を飛び越えて外交省の中庭めがけて飛び降りてしまった。即死であった。


 外交省内には親米派とアジア派の二大勢力がある。徳馬はどちらかと言うとアジア派に属していた。それはただ単にアメリカが好きとか嫌いとかいう問題ではなかった。徳馬の妻と娘が反政府組織の手によって誘拐されたまま発見されずにいたから、アジアから離れることが出来なかったのである。現地の警察や両国政府の捜査が打ち切られてからも、徳馬は一人で娘たちを何十年も捜し続けてきたから、アジアから一歩も離れることが出来ずにいた。もし、その娘が無事にどこかで生きているとすれば、今日で30才になっているはずだった。今日は彼女の誕生日だった。生まれたばかりだった娘と新婚の妻を反政府組織ナスードにさらわれてからの真田徳馬の戦いは、それは壮絶だった。

 外交省の幹部候補生(キャリア)は本省と在外公館をだいたい数年毎に行ったり来たりする。本省勤めの時は仕事が世界中が相手である性格上、時差などまったく関係なく24時間いつでも呼び出されるという過酷な職場である。外交問題が勃発した時の情報収集や解決の突破口を見つける為に、普段から、あらゆる方面に人脈をつくっておくこともキャリアの大切な仕事であった。真田徳馬も将来を有望視されたキャリアだったのだが、結婚をしてマニラ大使館に着任して半年が経った時に起こった事件によって、彼の人生のすべてが変わってしまった。フィリピン政府と日本政府の間で無償資金協力でダム建設の交換文章が交わされた夜、マニラ大使館に一本の電話が入った。大使館の真田徳馬の妻と娘を預かった。直ちにダム建設の計画を中止するようにと反政府組織ナスードから要求があった。しかし日本政府はすでに建設にあたる日本企業の選択を終えており、援助資金も日本国内で政府から日本の銀行を通して日本企業に渡ってしまっていたから、ダムの建設中止には難色を示した。無償資金協力は相手国から援助を在外公館が受けるが、その後はすべて日本国内で処理されるのだ。物資の供給や建設に携わる企業も日本にあるに日本企業が担当するし、援助資金も日本国内から外には出て行かない仕組みになっている。すべてが日本政府と日本企業の間で行なわれるから、一大使館員の妻と娘の誘拐事件などは大きな利権の前ではかすんでしまう。政府はナスードの要求を黙殺してしまった。そしてそれは真田徳馬にとっては悲劇だった。家族とマニラの豪邸に住み、街中を青色ナンバーの高級車で偉そうに乗り回すはずだったのだが、そんな優雅な生活がすべて変わってしまった。ありとあらゆるチャンネルを使って、少しでも妻たちに関係がありそうな情報を得ることに大半の時間を使った。時には山奥にまで足を運ぶこともあった。フィリピン中、いたるところを捜し歩いた。徳馬の人生は正に妻と生まれたばかりの娘の捜索に明け暮れる30年だった。
 ただ、そんな真田徳馬にも心の安らぎはあった。上司に連れられて京都の花街に行った時に知り合った芸妓が徳馬の心の支えとなった。どんな時でも、徳馬の話をまるで自分のことのように親身になって聞いてくれた。そして、この芸妓が男の子を生むと徳馬は居酒屋「河原町」を始めて彼女に任せた。しかし誘拐された妻と娘がいつか現われると信じていた徳馬は二人の捜査を外交官のまま続けた。だから、その芸妓に生ませた子供には親らしいことは何一つしてやれなかった。それどころか、上司の命令で籍の入っていないその子を裏金をプールする為に利用してしまった。悪いことをしているという意識はなかった。それどころか、自分の妻と娘を助けてくれなかった外交省への復讐だとおもい続けてきた。
 上司の菊田が逮捕されて、そして今、真田徳馬も本省の特別調査室に呼び出されて、昨日から事情を聴かれていたのだった。そして今さっき、調査官の早苗から、こう聞かされたばかりだった。
「真田さん、私には子供の頃から好きな人がいたのですよ。私の大学受験の時は自分の学校を休学してまで、つきっきりで勉強を教えてくれた人です。いつも自分のことは後回しで、弱い立場にいる人たちの為に生きて来た人です。生きて来たと言いましたのはね、つい先日、悲しい知らせが届いたからです。真田さん、彼はフィリピンのボラカイ島に日本人とフィリピン人の間に出来た子供たち、それも両親から捨てられたり、死に別れたりしてマニラの路上で生活をしていた子供たちを集めて一緒に生活をしていたのですよ。ところがその施設の建設、及び運営資金について、詳しく聴こうとした矢先に、彼は自ら命を絶ってしまいました。彼の名前は茂木と言います。真田さん、あなたは彼をご存知ではありませんか。私はこの外交省の特別調査室に入りましてね、今までのお金の流れを徹底的に調べました。真田さんもご承知の通りあなたの上司の菊田の横領はこれから裁判で次第に明らかになっていくとおもいます。そして私は菊田さんを調べているうちに、彼の双子のお嬢さんの一人の菊千代さんと茂木さんの奥様が同一人物であることが分かりました。ただ、いくら調べても菊千代さんに外交省のお金が流れた形跡はありませんでした。そこで詳しく茂木さんに聴こうとした矢先の不幸でした。ボラカイ島の豪邸は名義はボンボンという、やはり私の親しい友人ですが、彼はフィリピンからの一留学生にすぎません。どこからその資金が出たのか確かめようとしたのですが、茂木さんは自殺をしてしまいました。真田さん、どうか、私どもの調査に協力してくれませんか?」
 何をどう答えろというのだ。真田徳馬はまたしても自分の子供を見殺しにしてしまったことを知ったのだった。茂木はボラカイ島の子供たちの家と父親である自分のことを守ろうとして命を絶ったことは明白だった。この早苗という調査官はまだ自分と茂木との関係を知らない。それならば、自分の選ぶ道はたった一つしかなかった。
「早苗さん、その茂木さんのご遺体は今どこに?」
「彼の友人らによってボラカイ島の共同墓地に埋葬されたそうです。」
「それではご家族の方はそのことをご存じないのですね。」
「お父様は外交官だと以前からお聞きしおりましたので、徹底的に省内を調べてみたのですが、誰も該当する者がおりませんでした。」
「そうですか、それはお気の毒なことだ。」
真田は全身全霊で平静を装った。
「真田さんはマニラにはどのくらいになりましたか?」
「もう30年になります。わがままを言わせてもらって、マニラから移動せずにすんでおります。」
「そうですか、それではフィリピンに関しては真田さんの右に出る者はいないわけですね。是非、私どもの調査に協力して下さい。お願いします。」
「もちろんですとも、それではちょっと部屋に帰って、その茂木とか言う人物の資料がないかどうか調べてまいりましょう。」

 真田は特別調査室を出た。廊下にあった公衆電話から京都の居酒屋「河原町」に電話をして女将に茂木の死を伝えた後、そのまま屋上へと向かってしまった。
 息子の茂木は自分の命でもって混血児たちの家を守ろうとした。そして今、その大切な息子が築き上げたボラカイ島の家の為に真田徳馬に出来ることはたった一つだった。まったく迷うことはなかった。全力疾走で屋上の柵を飛び超え、特別調査室の早苗に無言のメッセージを伝えた。その時の東京の空はボラカイ島と同じ真っ青な空だった。

 早苗のボラカイ島の家の調査は茂木と真田の死でもって、完全に中断してしまった。その家に外交省のお金が使われたことを立証することが不可能になってしまった。真田徳馬の自殺で様々な憶測が省内に飛び交ったが、何一つとして真実は分からなかった。しかも真田と茂木を結ぶ線も真田の死でもって、ぷっつりと切れてしまった以上、特別調査室の関心は次第に別のところへと移ってしまった。
 早苗は真田徳馬と初めて会った時、一目で彼が茂木の父であることは分かっていた。自分があんなにも愛していた人の父親を分からないはずがない。徳馬のその表情と話し方は茂木とまったく瓜二つだったからだ。しかし早苗はそのことを誰にも話さなかった。早苗は誰にも気づかれないように、しばらく時間をおいてから、外交省を辞めた。自分のやってきた調査が結果的に二人の大切な人の命を奪ってしまったからだ。

 真田徳馬には身寄りがなかった。両親もすでに他界しており、他に親戚もいなかった。彼の遺骨はお寺に預けられたままになっていた。

 早苗は外交省を退職して戸隠に戻り、実家の民宿を手伝っていたが、徳馬の遺骨が墓に納骨されずにいることを知って心が痛んだ。もし出来ることなら、ボラカイ島の茂木の墓にその真田徳馬の遺骨を入れてあげたかった。しかし島には自分のことを憎んでいる人がたくさんいることは分かっていた。早苗はずっと二人を死なせてしまったことで悩み続けていた。同級生のナミは同期生として外交省に一緒に入り、まだ本省勤めのままであったが、近々、オーストラリアの大使館勤務になると嬉しそうに早苗に連絡してきた。
「どう、早苗、元気にしている?ちょっとは東京に出て来ないと駄目よ!そりゃあ、茂木さんのことは悲しい出来事だったけれど、あんたがいつまでもそんなんじゃあ、駄目だよ。この前、偶然に街でボンボンに会ったよ。あんたのことを話したら、またボラカイ島に来るといいよと言っていたわよ。きっとボラカイ島が魔法であんたのことを癒してくれると言っていたわよ。早苗、あたしもそうおもうな。一度さ、茂木さんのお墓参りに行ってさ、おもいっきり泣いてきたらどうなの。」
 玄関のところにお客さんが来たのを見て、早苗は居間でテレビを見ている父親に向かって声をかけた。
「お父さん、お客様よ。」
 父親が腰を上げるのを見てから、また早苗は電話でナミと話し続けた。
「ごめん、ごめん、でもさ、もしもし、ナミ、聞いているの?・・・・・・ボンボンはそうは言うけれど、島の人たちはあたしのことを歓迎してはくれないわ。」
「そんなことないわよ。あの島は誰かが言っていたけれど、どんな悲しみも苦しみも癒してくれる不思議な島だって、恨みとか憎しみなんか、あの素晴らしい自然の前にはひれ伏すしかないそうよ。」
 不思議なことが起こった。玄関から、何故か、どこかで聞いたような声が早苗の耳に飛び込んで来た。そんなことは知らずに電話の向こうでナミが話を続けた。
「ねえ、早苗、聞こえているの?とにかく一度、東京に出て来なさいよ。駄目だよ、いつまでも、そのままじゃあ。元気出しなさいよ!」
 早苗は玄関から聞こえてくる声に釘付けになっていた。
「ごめん、ナミ。また後で電話するわ。ちょっと大切なお客様がみえたみたい。もしかすると、茂木さんのお母様かもしれない。ごめんね、また後でね。切るわね。」
 早苗は受話器を置くと玄関に急いだ。目と目が合い、軽く会釈を交わしてから、その婦人の顔を見て茫然としてしまった。その婦人の仕草の端端にも茂木と同じものを見出してしまったからだ。
「あの、失礼ですが、茂木さんのお母様でいらっしゃいますよね。」
「ええ、そうです。あなたが早苗さんね。」
「はい、この度はご愁傷さまでした。何と申し上げたらよいのか、言葉がみつかりません。私の為にこんなことになってしまって・・・・・・、どうぞ許し下さい。」
「あなたが謝ることはありませんよ。迷惑をかけたのは茂木たちですからね。あたし、外交省へ行きましたのよ。そうしたら、あなたがお辞めになったとお聞きしましてね、とても心配になりましたの。それで京都には帰らずに真っ直ぐこちらへ来ましたの。でも良かった、お元気そうで。息子のこと、許してやってくださいね。」
 もちろん、あの調査について知っているものは誰もいない。自分が担当していたことも特別調査室の者以外には分からないはずだ。早苗は困惑していた。
「許してくださいなんて、とんでもない。あたしの為に茂木さんは・・・・・・。」
「もういいのよ。そんなに自分のことを責めたりしては駄目よ。」
「あの、私はもう外交省の人間ではありませんし、友人にも何も話す気もありません。もし、間違っていたらごめんなさい。真田さんの奥様でいらっしゃいますよね。」
「はい、そうです。籍は入っておりませんが、茂木は真田の子供ですから。」
「やはり、そうでしたか。・・・・・・。まあ、どうしましょう。どうぞお上がりになって下さいな。さあさあ、どうぞ、こちらへ。」
 早苗は茂木の母を居間に通して、つけっぱなしだったテレビを消した。早苗の父親はお茶を入れるために台所でお湯を沸かし始めた。
「早苗さん、息子はいつもあなたの話ばかりしていましたよ。あの子はね、あなたのことが好きだったようですね。」
 早苗はとても辛かった。自分が担当した調査で大切な人を二人も失ってしまった婦人の顔を見るのがたまらなかった。胸が張り裂けそうになった。
「でも、お母様、あたしは茂木さんにふられてしまいましたのよ。」
「ええ、知っていますよ。菊千代さんのことですね。実はね、あたくし、長いこと京都で居酒屋をやっておりましてね、そこのお客さんで、渡辺電設の佐藤さんという方がいますの。その方が偶然にもボラカイとかいう島で行方不明になっていた息子と会ったと聞きましてね、びっくりしてしまいましたの。最近、佐藤さんはタイからフィリピンに転勤になったようで、日本に帰って来ると、お店に来てはフィリピンのことをいろいろと報告をしてくれますのよ。だから、あの子に子供が出来たことも知っています。あの子はどういう理由があるのか分かりませんが、私には何の連絡もしてくれませんのよ。早苗さんは菊千代さんをご存知ですか?」
「はい、知っております。茂木さんのことをとても愛しておられました。」
 その時、早苗の父親がお茶を入れて持ってきた。長い間、民宿をしていると父親らしくないこともするものである。男の人からお茶を入れてもらって、茂木の母親は非常に恐縮してしまった。
「何分、田舎なもので、こんな物しかありませんが、どうぞ召し上がって下さい。」
 早苗の父親はそう言って、草団子とお茶をテーブルの上に置いた。
「まあまあ、どうしましょう。こんなにしていただいて、どうぞもう、お構いなく。お父様、生前は茂木がいつもこちらにお邪魔をいたしまして、本当に有り難うございました。あの子、京都に居るよりも、こちらに居ることの方が多かったような気がいたしますわ。」
「いえいえ、この民宿は茂木さんが居たからこそ、やってこれたようなものです。何しろ茂木さんは学生さんたちにとても人気がありましたからね。彼を慕って多くの学生さんたちが何度もやって来てくれました。」
 茂木の母はそれを聞いて、少し涙ぐんでしまった。それを見て早苗の父親は再び台所へ引っ込んでしまった。ひとしきり、涙をハンカチで拭った後、茂木の母親は言った。
「早苗さんはフィリピンの言葉が堪能でいらっしゃると、以前、茂木が言っていたのを思い出しましたの。私もね、芸妓をしていた時には英語を勉強いたしましたのよ。でも、もう、すっかり忘れてしまいました。実はね、早苗さん、あなたにお願いがあって、今日は参りましたのよ。あたしを茂木のお墓に案内してくれませんか。」
「でも、お母様、それはあたしには務まりません。どう、説明したらよいのか、あたしは外交省の調査官だった人間です。向こうの人たちにしてみれば茂木さんをボラカイ島から奪ってしまった仇ですよ。」
「それはよく分かっていますのよ、でもね、早苗さん、私はあなたと一緒に茂木のお墓に行きたいのですよ。茂木がそう言っているような気がしてなりませんの。主人と息子を同時に亡くしましてね、どんなに外交省のことを憎んだことか。でも、不思議なんですのよ。ボラカイ島の話を佐藤さんから聞いているうちに、だんだんと気持ちが落ち着いてきましたの。あなたも私と同じほど、いや、それ以上悲しんだはずです。早苗さん、もういいのよ。あなたはもう十分に苦しんだのですからね。だから、私と一緒にボラカイ島に行きましょう。息子の墓に花をやってくれませんか。」
 早苗は顔を伏せて泣き崩れてしまった。声も出ないまま、ただ泣き続けた。
「あなたの悲しみは分かっていましたのよ。でもね、あなたはまだ若いのですからね。しっかりと生きなくてはだめなの。その為にも私と一緒にボラカイ島へ行きましょう。死んだあの子がそう言っているような気がしてなりませんの。」
 早苗は今まで堪えていた悲しみが一気に込み上げてきてしまった。茂木の母親の膝の上に早苗は顔を伏せてしまった。やさしくその頭を撫でながら言った。
「死んだ主人の遺骨も茂木のお墓に入れてあげましょう。やっと、親子が堂々と一緒にいられるようになったのですものね。どうぞ、手伝ってくださいな。それから島にいるあの子の子供をあたしは抱きしめてあげたいのよ。男の子ですよね。きっとあの子そっくりだわよ。茂木は死んでしまったけれども、ちゃんと命はこうしてつながっているのよ。」
「はい、お母様、そうしましょう。ボラカイ島へ行きましょう。」
 茂木の母のこの訪問は早苗にとっては大きな救いだった。いつまで経っても消え去らぬ深い悲しみをきれいに拭い取ってくれたのだった。

 茂木の母と早苗は翌月、真田徳馬の遺骨を持ってフィリピンへ渡った。早苗は前回と同様にマニラ東警察署を訪ねてみた。茂木の葬儀に署長も参列していたと聞いていたので、そのお礼もかねての訪問だった。そして土曜日の朝を選んだのはボラカイ島へのヘリの定期便があることを思い出したからだった。
「署長、ご無沙汰しておりました。今日、お連れしたこの方は亡くなった茂木さんのお母様です。」
 丁寧に紹介を受けた署長は立ち上がり、最上級の敬礼でもって迎えた。
「彼の築き上げたボラカイ島の家は現在では約五百人の子供たちが勉強しております。そして、その維持費はあの家を巣立っていった子供たち千人以上によって支えられているのですよ。実に、すばらしいことです。これもすべて茂木さんの功績であります。」
茂木の母はその署長の言葉を早苗が通訳すると嬉しそうに何度もうなずいた。
「いえいえ、署長様の協力がなければ、あの子は何も出来ませんでしたよ。」
 そう早苗が茂木の母の言葉を署長に伝えてから、こう付け加えた。
「実は、わたしたち茂木さんのお父様の遺骨を持ってきましたのよ。たぶん、署長もご存知の方だとおもいます。日本大使館の真田徳馬さんの遺骨をボラカイ島の茂木さんのお墓に一緒に入れてあげたくてやって参りましたの。」
「何ですって、日本大使館のあの真田さんですか。外交省の屋上から飛び降りた真田さんですか。」
「ええ、そうです。」
「そうですか。あの真田さんが茂木さんのお父様だったとは驚きましたな。」
「ちょっと訳がありまして、詳しくは申し上げられませんが、茂木さんも、真田さんも、二人ともボラカイ島のあの家の為に尽力された方たちですから、一緒にボラカイ島の共同墓地で眠らせてあげたいとおもいまして。署長のお力をかしてくださいませんか?埋葬の許可が何とか取れるように話してはくれませんでしょうか?」
「それは大丈夫だとおもいますよ。念のために手紙を書いておきましょう。島の方には後で電話をしておきますから、きっと問題なく埋葬は警察官立会いの上で出来るとおもいますよ。」
「よかった。ありがとうございます。いつも署長にはお世話になりっぱなしで、本当に感謝しております。ところで正樹さんはどうしていますか?」
「ああ、彼は医者になりましたよ。今、ボラカイ島で診療所をやっています。でも恋人を亡くしましてね、まだ立ち直っていませんな。島へ行ったら、彼のところへも顔を出してやってください。きっと喜びますよ。」
「署長さん、まだ島までヘリの定期便は出ているのですか?」
「ああ、出ていますよ。それは茂木さんとの約束ですからね。台風の時以外は一度も休まずに飛ばしております。そうだ、うちのボロボロのヘリでもよろしければ、今日も、まもなく飛び立ちますから、使ってください。茂木さんのお母様にお使いいただけるとあれば、とても光栄なことです。」
「早苗さん、署長様に言ってくださいな。あの子の人生はとても短いものでしたけれど、署長様に出会えて、何十倍にも大きな意味を持つことになったと伝えくださいな。」
 早苗がタガログ語で正確に茂木の母の言葉を署長に伝えた。署長は再び敬礼をして、今は亡き茂木のことを忍んだ。
「ところで、さっきの話ですが、真田さんのことです。真田さんがマニラの日本大使館に着任されて来た時は、私はまだ警部補でありました。彼の奥さんと娘さんが誘拐されて、その捜査にも私は加わりました。それから30年間、真田さんは娘さんたちを一人で捜し続けてきたんですよ。私のところにも何か手がかりはないかと、よくおいでになりましたよ。そうですか、あの真田さんの奥様でいらっしゃいますか。」
「籍は入っておりませんが、茂木は真田の子供です。誘拐された奥様と娘様のことをおもうと、私たちは籍を入れてくれとは言えませんでした。」
「真田さんは週末になると独りであちらこちらの村を歩いていましたね。でも。結局、手がかりはまったくなかったようですね。そうですか、真田さんの遺骨をボラカイ島にね。それはきっと喜びますよ。ヘリはまもなく飛び立ちますが、いかがいたしましょうか。」
「ええ、是非、お願いします。」
「分かりました。それではさっそく手配いたしましょう。ボラカイ島は良いところですよ。お母さん、どうか良い旅をなさってください。」
「署長様、いつも有り難うございます。神様のご加護がどうぞありますように!」
「早苗さん、奥さん、どうぞお元気で、困ったことがあったらいつでも来てください。いいですね。」
「有り難うございます。では失礼させていただきます。」
「ああ、そうだ!早苗さん、もし、真田さんの誘拐された奥さんと娘さんに関する情報が入ったら、誰に連絡いたしましょうか?」
「署長、私で結構です。私にください。」
「分かりました。それでは良い旅を!」

 ヘリは抜けるような青空を一直線に飛んで行き、ボラカイ島に到着した。ヘリから降りると、ボンボンと菊千代が二人を出迎えてくれた。早苗はヘリの中で菊千代がきっと自分に向かってこう言うだろうと覚悟をしていた。
「帰れ!何しに来た。今度は私の子供を奪いに来たのか。それともこの家を子供たちから取り上げに来たのか。お前なんか、帰れ!」

 署長はヘリが飛び立ってから、すぐにボラカイ島に連絡を入れておいた。それは署長のやさしさだった。早苗の立場をよく理解したやさしさだった。ボンボンは署長から連絡を受けた後、菊千代によく事情を説明して、あまり感情的にならないように説得していた。ヘリが到着しても、菊千代はすこぶる冷静であった。長いボラカイ島の生活が彼女のことを大きな人間に変えていたのだ。しかし、もし茂木の母親が一緒でなければ、いくら菊千代が奥ゆかしい京都の女だとはいえ、やはり自分の夫を奪った外交省の調査官だった早苗に飛び掛っていたことだろう。早苗も茂木の母親が一緒でなければ、決してこのボラカイ島には一歩も足を入れることは出来なかっただろう。
 茂木がいなくなってしまって名実共にこの豪邸の所有者となったボンボンがヘリから降りてきた早苗に向かって真っ先に言った。
「いらっしゃい。お待ちしていましたよ。署長から連絡がありました。長旅だったから疲れたでしょう。その重たそうな風呂敷包みを持ちましょうか。」
「いえ、これはまだ、私が。」
「こちらが、茂木さんのお母様ですか。」
「あの、ボンボン、ちゃんとあたしに挨拶させて下さい!」
「ごめん、分かった。」
 早苗がかしこまって、菊千代に向かって言った。
「菊千代さん、こちらが茂木さんのお母様です。それから、この包みは茂木さんのお父様の遺骨です。」
 菊千代は茂木の母の前に進み出て、地面に手をついて深々と挨拶をした。
「初めまして、菊です。よくおいでくださいました。」
 その後は涙がこぼれ出てしまって、言葉にならない。ボンボンも早苗も見ているだけで、もらい泣きをしてしまった。
「さあ、さあ、菊さん。そんなところに手をついたりして、立ってくださいな。」
「お母様、申し訳ありませんでした。」
「いいのですよ。あの子はあの子なりに精一杯に生きたのですからね。きっと幸せだったとおもいますよ。人には長い命と短い命があります。あの子の命は短かったけれど、それがあの子の寿命だったのだから。」
 菊千代は泣きじゃくっていて、立ち上がることも出来ずにいた。茂木の母がそっと手を菊千代の腕にかけて起こそうとした。
「さあ、私にあの子が残してくれた大切な宝物を抱かせてくださいな。」
「はい、お母様。」
 早苗にとってはとても辛い場面であった。心臓が張り裂けそうだった。菊千代が自分に何も言わなかったことも逆に辛かった。さんざん罵倒してもらった方が楽だったかもしれない。早苗はじっと、二人の会話をうつむいたまま聞いていた。ボンボンがそっと早苗に近寄り、早苗の肩に手をのせて、早苗だけに聞こえるように言った。
「外交省のナミさんから聞いたよ。外交省、辞めたんだって。大変だったね。」
 早苗はボンボンの肩に顔をつけて声を立てずに泣いてしまった。
「ボンボン、あたしね、外交省を辞めて戸隠に帰ってからも、茂木さんと真田さんのことを忘れることは出来なかったわ。忘れるどころか反対にどんどん辛くなってしまって、どうしてもこの島に来てね、茂木さんのお墓に手を合わせたかったの。でも、その勇気が出なかったわ。だってボラカイ島には彼を失って、あたしなんかより、もっと悲しいおもいをしている人がたくさんいるのですものね。あたし、どうしたらいいのか自分でも分からなくなっていたら、茂木さんのお母様がわざわざ戸隠まで訪ねて来て下さったの。あたし、本当に嬉しかったわ。それでね、やっと、ここに来る勇気が出たのです。」
「もう、いいよ。早苗ちゃん。何も君が悪いわけではないのだから。」
「でもね、あたしは外交省の特別調査室に入って、少しでも上司に認められようと、一生懸命に頑張ったのよ。菊さんと千代さんが公金横領で逮捕された菊田さんの娘さんたちだと分かった時、確かに、あたしは菊さんに嫉妬心を抱いていたから、自分でも知らず知らずのうちに、色々な事を調べ出していたみたい。結局、そのことが茂木さんの命を奪ってしまったんだわ。それだけじゃないの、真田さんに茂木さんが亡くなったことを伝えたら、彼も屋上から、その日のうちに飛び降りてしまったの。だからあたしが二人を死に追いやってしまったようなものだわ。」
「でも、それは早苗ちゃんの責任ではないと僕はおもうよ。たまたま君が調査官だっただけのことさ。あの二人は自分たちの死でもって、自分たちの罪を償ったと僕はおもうよ。しかし、同時に、この家を子供たちに自分たちの命を張って守ろうとしたんだ。分かるよね、そのことは!」
「ええ、分かっています。」
「早苗ちゃん、僕はこの家を日本国に返すつもりはないよ!それは自分の私利私欲の為ではない。これからもどんどん増えてくる日比混血児たちの為にこの家を守り続けるつもりだ。だから、君が外交省を辞めたと聞いて、正直、ほっとしたんだ。僕はどんなに非難されようとも、この家は守り抜く!そのことは君にも分かってもらいたい。」
 早苗は胸の中に詰まっていたことをボンボンに話して気持ちが楽になった。それだけではなかった。自分の進むべき新しい道が、かすかではあったが見えてきていた。
「ボンボン、茂木さんは生前、あたしにこの島で子供たちに日本語を教えることを望んでいたわ。」
「ああ、そのことは僕も知っていたよ。その通りだよ。君は世界中で一番タガログ語を理解することが出来る日本人だからね。確かに、この島の人たちは日常生活の中ではタガログ語を使わないんだ。この地方はビサヤ語だからね。ただ、子供たちが成長してマニラ首都圏で仕事に就くことを考えると、どうしてもタガログ語と日本語の勉強が必要となってくる。だから、その両方の言葉の専門家である君こそが子供たちにとっての最高の教師なんだよ。そのことは茂木さんとも以前に何度も話し合ったことがあります。君から学んだ日本語は子供たちにとっては将来の大きな武器になるからね。」


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