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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第61回   何故だ!どうしてなのだ!
何故だ!どうしてなのだ!


 ヘリコプターが岬の豪邸に到着した。キャンディーを盗んだタカオは署長がヘリコプターから降りてくるのを見て、自分は逮捕されてマニラに送り返されると覚悟を決めた。署長は茂木に会うと、こう切り出した。
「やはり、そんなことではないかとおもっていましたよ。まだ医者には診てもらっていないようですね。うちの署の担当医を一緒に連れて来て良かった。」
 菊千代は隣の島の病院へ茂木を連れて行こうとしたのだが、茂木はがんとして腰を上げなかった。菊千代は署長が医者を連れて来てくれたことを大いに喜んだ。茂木は自分の腕を痛めつけることでもって、彼の悲しみを子供たちの心に刻み込んだのだった。さすがに今夜の茂木は口数が少なかった。あれで良かったのかどうか、自分自身に問い正していたのだ。もっぱら署長の質問には菊千代が正樹の通訳を通して答えていた。リンダがバックを持ったタカオと一緒に部屋に入って来た。
「この子ったら、バックを持って部屋の外で立っていたのよ。」
 タカオはうつむいていたまま、じっとしている。茂木がタカオに近寄って優しく声をかけた。
「そのバックは何だ?」
 タカオはまた泣き出しながら言った。
「署長は僕を逮捕しに来たのでしょう。僕は逃げも隠れもしませんから、どうぞ逮捕してください。」
「タカオ、いいか、盗みはいけないことだ。もう二度としないと約束してくれ。」
「はい、約束します。」
「よし、それでいい!ただし、半年間、リンダの洗濯を手伝いなさい。分かったな。」
「はい、分かりました。それじゃあ、僕はまだこの島にいてもいいのですね。」
「ああ、そうだよ。ここはお前の家だからな。私はお前が必要なのだよ。これからも私のことを手伝っておくれ。」
「はい、分かりました。」
 タカオはぐしゃぐしゃになりながら泣き続けていた。
「今夜はもういいから、部屋に戻って寝なさい。」
 タカオはこくりとうなずいて、部屋を静かに出て行った。

 さっきからニコニコしているリンダを見て菊千代が意地悪そうに正樹に向かって、それもリンダが分かるような英語で言った。
「リンダはね、このところ、とってもご機嫌なのよ。正樹がディーンにふられたからよ。だって、リンダはずうっと正樹のことが好きだったものね。」
 やはり、ボラカイ島にもディーンの失踪のニュースは届いていたのだ。遅かれ早かれ、いずれは分かってしまうことだったが、正樹はまた暗い現実に引き戻されてしまった。署長は正樹が失恋したことを、この時、初めて知った。リンダは真っ赤な顔をして部屋から出て行ってしまった。茂木は菊千代に言った。
「菊ちゃん、お酒を用意してくれるか。」
 茂木が慌てたように署長に訊ねた。
「署長、どうです。今夜はここに泊まっていきませんか。失恋した正樹君の話し相手になってやってくれませんか。」
「失恋ね?正樹君が、そうですか。そんなことを聞いたら、このまま帰るわけにはいかなくなったな。そう、あの子と、・・・・・・。茂木さん、それじゃあ、お言葉に甘えて、ご厄介になりますよ。よろしいですか。それに前から一度、島の人たちとも話をしておいた方が良いとはおもっていたんだ。この家をこれからもこの島で存続させていく為には島の人たちの協力が必要ですからな。明日になったら、バランガイのキャプテンたちとゆっくりと話をしてみましょう。よし、今夜は正樹君と飲み明かそうじゃないか。いいかな。」
 外が急に騒がしくなった。豪邸の庭にはボラカイ島にあるすべてのパトカーがやって来ていた。きっと、マニラ東警察署の署長が島に来ていることを聞きつけて、慌ててやって来たものとおもえる。庭に出てみると、島の警察官が全員敬礼をして整列していた。署長は島の警察署のリーダーに明日バランガイのキャプテンたちと話がしたいので、手配してくれるように頼んだ。その様子をリンダと正樹はそばで見ていた。正樹がリンダに言った。
「署長はやはりすごいね。ああやって、島の警官がぺこぺこしている。」
「本当ね。あたしたちにはさ、いつもやさしい署長だけど、やっぱりとても偉い人なんだ。」
「ああ、そうだ。リンダは知っているかな?酒のツマミなんだけれど、豚の腸を串に刺してバーべキューにしたやつ。名前は忘れちゃったけれど、あれはとてもうまかった。酒のツマミには最高だよ。」
「ビトウカね。冷凍庫にあるわよ。豚の腸は冷凍にしてあるから、解凍して焼いてあげるわ。それとも自分たちで焼く?」
「そうだな、署長と二人で焼きながら、飲んだ方が楽しいな。じゃあ、串に刺しておくだけでいいよ。」
「いいわよ。ねえ、正樹、今度はゆっくり出来るの?試験も終わったのでしょう。少しはゆっくりしていきなさいよ。」
「うん、そのつもりだよ。しばらくいることにする。少し疲れたからね。島で休むことにしたよ。」
「よかった。じゃあ、あたし、ビトウカの準備をしてくるわね。」
 上機嫌なリンダであった。鼻歌を歌いながらキッチンに入っていった。
 茂木の腕の治療が済んで、同行してきた警察の担当医をヘリコプターに乗せた署長はパイロットに向かって言った。
「わしは明日、島のバランガイのキャプテンたちと話をするので、今日はマニラには戻らん。明日の午後、来てくれるか。今日はお疲れ様。何度もご苦労様でした。緊急な場合はすぐに飛んできてくれ。でも今夜は出来るだけ静かにしておいてくれるとありがたいな。」
「イエス・サー、分かりました。ではこれで失礼します。」

 署長はヘリを見送ると、正樹のところに来て、正樹の肩を叩いた。
「これで今日は久しぶりに制服が脱げるな。ボラカイ島か、ここは実にきれいなところだな。この家にも驚いたよ。でかいな!新聞記者のマークが言っていた通り、子供たちにはもったいないくらいの豪邸だな。」
「そうでしょう。想像以上の大きさでしょう。だから子供たちもびっくりしちゃって、誰もマニラには帰りたいとは言いませんよ。」
「そうか、失恋ね。正樹君は失恋をしてしまったのか。まあ、人生いろいろあるものだよ。がっかりするな!」
「署長、あまり失恋、失恋と言わないでくださいよ。それでなくても、かなり参っているのですから。」
「すまん、すまん。でも彼女と喧嘩でもしたのか?ええーと、たしか、ディーンさんとか言ったな、あの子は。」
「ええ、ディーンですよ。でも喧嘩なんかしていませんよ。突然、ディーンがあの俳優のホセ・チャンとアメリカへ行ってしまっただけのことですから。」
「ホセとか、えー、あのホセ・チャンとか?それはまずいな!」
「署長、まだ食事の時間ではありませんから、少し、浜を歩きませんか。」
「そうだな、それはいい考えだな。実はな、正樹君、わしはこのボラカイ島に来たのは初めてなのだよ。君が案内してくれるとはありがたいな。」

 暮れかかったホワイトサンド・ビーチを署長と歩きながら、正樹は署長と出会えたことも、もしかするとこのボラカイ島の魔法のような気がしてきた。きっとそうなのに違いないとおもった。しばらく二人で浜を歩いた後、岬の豪邸の下にあるプライベート・ビーチに腰を下ろした。
「さっき、ホセ・チャンとディーンさんがアメリカへ行ったと言っていたね。それはいかんな。まあ。ここだけの話だけれど、ホセはどうも麻薬の臭いがするんだ。奴は有名人だからな、うちの署ではないがな、隣の西警察署の者でな、極秘で、それも慎重にホセのことを調べている者がいる。何でまた、ディーンさんは彼なんかと一緒にアメリカへ行ったんだ。まずいな、それは。」
 この署長の言葉は正樹を迷わせた。もしホセが逮捕されれば、ディーンは自分のところへ戻ってくるかもしれないとおもった。しかし自分を捨てて、去ってしまった彼女を許せるのだろうか疑問だった。彼女もホセと一緒に捕まってしまえばいいとさえおもった。
「署長、僕はもう彼女のことはいいんだ。これからは勉強だけをすることに決めましたからね。医者になって彼女を見返してやるんだ。」
「ほう、それはご立派なことだ。でも、それで未練はまったくないのかね。」
 正樹は何も答えなかった。茂木と菊千代が署長に治療のお礼を言う為に、いつの間にか、正樹たちが座っている、すぐ後ろまで来ていた。菊千代が大声で叫んだ。
「未練?大有りよ!正樹は未練だらけだわ。」
 茂木が間に入った。
「菊ちゃん、もう、正樹君のことをいじめるのはやめなさい。署長、腕の治療、有り難うございました。」
「どうだね、腕の具合は?」
「ええ、もう、だいぶ良くなりました。まったくお恥ずかしい次第です。」
「そう、それは良かった。しかし、驚きましたな。おもっていた以上に、ここは素晴らしいところですな。これなら、マニラの裏道で暮らしていた子供たちも文句はあるまい。まったく、わしの方がここに住みたいくらいだよ。」
「ええ、まったくです。これもホセ・チャンのおかげですね。彼がこの家を安く譲ってくれたおかげですよ。あー、そうか、ごめん。また正樹君のことを傷つけてしまったようだな。」
「いえ、いいのですよ。僕はもう、ホセのことは何ともおもっていませんから。事実、子供たちにとって、ホセ・チャンの援助は大きかったと僕もおもっていますから。ディーンのことは別の次元の話です。」
 憮然とした表情の正樹に向かって署長が言った。
「正樹君、わしは食事の前に少し飲みたくなったな。それから、さっきも言いましたが、茂木さん、明日、わしの方からも今回のキャンディーの件は島の人たちにはよく謝っておきますよ。何としても、この家は維持していかなければなりませんからな。」
「どうか、よろしくお願いします。外国人の僕がいくら頑張ったところで、所詮、よそ者でしかありませんからね。同国人の、それも署長の後ろ盾があるのとないのとでは大違いだとおもいます。」
 リンダが階段の上で手を振っているのを、まず階段の途中にある犬小屋のドーベルマンたちが見つけた。正樹もリンダに向かって手を振り返した。
「署長、食事の用意ができたようですよ。食事をしながら、まず飲みましょうか。その後、裏庭でビトウカを焼きながら、じっくり話を聞いてもらいますよ。」

 食事が終わり、署長と正樹は二人だけになった。
「署長、正直言って、こんなに別れという奴が辛いなら、もう恋なんかしたくはありませんよ。二度と恋なんかしたくない!」
「まるで歌の文句だな!そうは言っても、人間って奴は恋なしでは生きてはいけない生き物だよ。いつも誰かに恋をしているから、人生も楽しい。違うか?」
「いえ、僕はもう結構ですよ。今は医者になることだけを考えることにしたのです。」
「まあ、それもいいだろう。それも一つの生き方かもしれないな。この島に君が医者になって戻ってくれば、皆も喜ぶしな。」

 翌日、署長はボラカイ島のバランガイのキャプテンたちに、岬の家のことを頼んだ。警察のトップがこれほどまでに頭を下げたのは異例のことであった。その後、正樹と署長はマニラへ帰って行った。

 それからの正樹はボラカイ島で署長に言った通りに我武者羅に勉強をした。その間、アメリカに行ってしまったディーンの消息はまったくつかめなかった。どこで何をしているのか、姉さんのウエンさんたちはいつも心配をしていた。正樹も心配だったが、敢えて知らん振りを装った。
 正樹が大学の付属の病院があるUERMでインタンーンを終了して、しばらく経った頃、署長から連絡がはいった。
「ホセ・チャンを帰国と同時に逮捕した。空港でホセの連れの女性の下着の中から大量の麻薬が発見された。」
 もしその連れの女がディーンであるならば、自分はどうしたらいいのだ。正樹は迷った。署長から連絡が入った次の日、マスコミはホセの逮捕の瞬間をニュースで大々的に流した。空港での逮捕劇が何度も何度もテレビの画面で繰り返されていた。ホセの連れはやはりディーンであった。ブラウンカンを通して映るその姿はやせ細っており、痛々しいものであった。正樹は天罰だと一瞬ではあったがそうおもった。

 長い裁判が終わり、ディーンは刑務所に収監された。麻薬は厳罰であり、何人の例外はなかった。ちょうどその頃、正樹は医者になった。茂木が以前、正樹に約束した通り、ボラカイ島の市場の近くに正樹の為に小ささ診療所を開いた。正樹はディーンのことを忘れようと豪邸の子供たちと島の人々の医療に没頭した。彼の診療所の診察料は患者のある時払いの催促なしだったものだから、当然、人気になった。朝から晩まで診療待ちの列が出来るくらいだった。そして、いつまで経っても、正樹のディーンに対する態度は気持ちとは裏腹に冷たかった。署長が何度も刑務所にいるディーンが正樹に会いたがっていると伝えてきても、正樹はボラカイ島を出なかった。

 時を同じくして、岬の豪邸では大変なことになっていた。突然、茂木が逮捕されてしまったのだ。日本の外交省の特別調査室が茂木を捜し出してしまったのだった。そして、その調査にあたった外交省の役人は運命の巡り合わせなのか、茂木のことを愛している早苗であった。正樹は外交省と聞いた瞬間、早苗さんのことが頭に浮かんだ。だが、それは何も根拠のない発想だった。正樹は岬の家はどんなに汚い手を使っても存続させなければならないとおもっていたので、やっと、重い腰を上げてマニラに向かった。正樹にとっては本当に久しぶりのマニラであった。署長の計らいで、すんなりと茂木さんと面会することが許された。
「正樹君、いいか、決して岬の家のことは何も口にするな!証拠がなければ外交省もこれ以上は動けないのだから。いざとなったら、私はこの命であの家を守る。正樹君、後は頼んだぞ!」
「駄目ですよ。そんなことを言っては、みんな茂木さんのことが必要なのですからね。」
「ボンボンは今どこにいるのですか?」
「日本の早苗のところだ。彼女に直に会って話をすると言って、日本に向かったからね。」
「そうですか。ボンボンは日本へ行ってしまったのですね。」
「正樹君にお願いがあるのだが。この手紙を菊千代に渡してくれないか。」
「茂木さん、何を考えているのですか。駄目ですよ。方法は色々あるとおもうので、早まったことをしてはいけませんよ。友人の弁護士とも相談してみますから、しばらく辛抱していて下さい。」
「正樹君、人間なんて臆病な生き物だよ。どんなに偉そうなことを言ったってさ、いざとなったら自分のことがかわいいのだよ。本当に弱い生き物だよ。誰一人として立派な人間なんていないのさ。僕はまだ死ぬ勇気はないから心配するな!」

 正樹が茂木と面会した、その夜、茂木はマニラの留置所で洋服で紐を作り、首を吊って自らの命を絶ってしまった。

 悲しい知らせはそれだけではなかった。ディーンが刑務所の医務室に運ばれたと言う知らせも署長のところに舞い込んで来た。
「正樹君、君は医者だろう。すぐに行ってやりなさい!」
「いえ、僕は・・・・・・」
「彼女は君と会って謝りたいと、わしに何度も手紙を書いてきた。正樹君、もう、許してあげなさい。この前、わしが行った時には、ディーンさんはすっかり痩せ細ってしまっていて、歩くことすら出来なくなっていたよ。今、入った連絡によると、とても危険な状態だということだ。」
 正樹は何も言わなかったが、署長は正樹の気持ちを分かっていた。二人でパトカーを飛ばしてディーンのところへ向かった。
 二人が刑務所の医務室に入ると、担当医と女の看守がベッドの横に立っていた。署長が言った。
「遅かったのか?」
 ディーンはもう目覚めることはなかった。看守が署長にディーンから預かった手紙を渡した。それは正樹宛のものだった。
「これは君のために書いたものだよ。きっと最後の力を振り絞って書いたものだろう。読んであげなさい。」
 何ということだ!茂木さんに続いて、大切な人を同じ日に失ってしまった。こんな悲しいことがあっていいのだろうか。神も仏もないのか!正樹は天を呪って悲しんだ。
 ディーンの手紙には、一切、言い訳めいた言葉は書かれていなかった。たった一言だけが記されてあった。「正樹、ごめんね。」ただ、それだけだった。
 看守が正樹に近寄って来て、静かに話し始めた。
「あなたが正樹さんですか。はじめまして、私は彼女を担当していた看守のケイトです。ディーンさんの話はいつもあなたのことばかりでしたよ。まったく飽きれる位、あなたのことばかりを話していました。あなたがお医者様になったと署長から聞いて、あたしたち二人でお祝いをしたのですよ。彼女は涙を流しながら、あなたがお医者様になられたことを喜んでいましたよ。来る日も来る日も楽しそうにあなたとボラカイ島のことばかりをお話になるの。動けなくなってからは眠りながら、あなたの名前を呼んでいましたわ。彼女はあなたのことを本当に愛していたのですよ。彼女の気持ちをおもうと、あたしはもう辛くてね。誰にも話さないようにと彼女から、かたく口止めされていましたけれど、誰がこんなに悲しいことを隠し通せますか。」
 看守はベッドに横たわるディーンに近づき、彼女の上にかかっていたブランケットをさっとめくり上げた。ディーンのやせ細った身体が正樹の前にさらされた。
「見てやってください!彼女の身体を見てくださいな!あなたも医者なら、お分かりでしょう。彼女は自分が癌におかされていると知って、あなたから離れる決心をしたのですよ。自分の看病の為にあなたが医者になれなくなること恐れたのです。もし、あなたが彼女のことを責めたりしたら、このあたしが許しませんからね!」
 正樹はそのやせ細ったディーンの身体を見て、ベッドの下にそのまま泣き崩れてしまった。何も知らなかった。ただ、彼女を憎んで勉強だけを続けてきた。自分はそんなディーンのことを苦しめ続けただけだった。それなのに、おー・・・・・・。もう、ディーンに許し乞うことすら出来ないではないか。どう謝ったらいいのだ。誰に謝ったらいいというのだ。


 茂木とディーンの葬儀はマニラ東警察の一室でしめやかに行なわれた。三姉妹のウエンさんとノウミ、そして署長と正樹だけのたった四人だけでの密葬だった。遺体はヘリコプターでボラカイ島の共同墓地に運ばれ、丁寧に埋葬された。葬儀の間中、正樹はだらしなく泣き続けていた。他に参列者がいなかったことは幸いだったかもしれない。そして、ディーンの墓の上にはサンパギータの花が飾られ、それ以後、花は絶えることはなかった。


岬の家の子供たちの往診を終えて、市場の近くの正樹の診療所へ戻る途中、ホワイトサンド・ビーチを歩きながら、正樹は考えていた。もし、ディーンの写真をあの雪が降りしきる北海道の中山峠で見なければ、フィリピンに、そしてボラカイ島にも来ていなかっただろう。ディーンが癌であることを自分に告げていたなら、勉強どころではなかったはずだ。こうして医者にはなっていなかったとおもう。ディーンが病気を隠したのは彼女のやさしさだったのだ。それに比べて自分はどうだったのだ。散々、ひどい仕打ちを彼女にしてきてしまった。それは悔やんでも悔やみきれるものではなかった。そのことを思い出すだけで涙が溢れてきてしまった。

 いつしか正樹は海の中のマリア像の前まで来ていた。正樹はあまりにも余計なことが多過ぎる信仰の世界には決して入ることはないが、今はマリア像の前で祈らずにはいられなかった。茂木さんが日比混血児たちの為に命を捨てたこと、ディーンが自分の将来のことを考えて、病を隠し身を引いてしまったことに感謝する正樹であった。そして、自分もそんな生き方がしたかった。

 ボラカイの海は悲しいほど静かだった。正樹はまた砂浜を歩き出した。


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