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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第60回   悲しみ
悲しみ

 正樹がディーンのことを知ったのは、彼女がアメリカへ旅立ってから三日目のことだった。サンチャゴのアパートの住人たちは誰も正樹にディーンがホセ・チャンと一緒に行ってしまったと伝える勇気はなかった。正樹と目が合うと、あからさまに視線を逸らせた。正樹がディーンはどこにいるのかと問いただしても、誰も返事はしなかった。あのやさしいウエンさんも、勝気なノウミも正樹のことを避けていて、話をする機会すらなかった。大切な人の消息を三日間も分からないままにしておいた正樹にも問題はあった。いくら試験が大切だからと言って、ディーンがどこにいるのかも分からないまま、試験に集中していたことは、正樹のディーンへの想いが、ただそれだけのものでしかなかったと誤解されても仕方がなかった。正樹の定期試験が完全に終わったその夜、ボンボンの姉さんがオヘダのアパートに正樹を呼んで、ディーンの失踪を告げた。正樹はディーンがもうマニラにはいないことを、この時、初めて知ったのだった。それもあの俳優のホセ・チャンと一緒にアメリカへ渡ってしまったと、残酷にも事実をそのまま告げられた。ディーンがホセと消えてしまったことは時間の経過とともに正樹をより失望させた。自分一人だけが何も知らなかったということも、更にそのショックを大きなものにしてしまった。見るもの聞くもの何もかも、会う人すべてが正樹にとっては憎らしかった。所詮、女なんてそんなものさ、金持ちで見てくれが良ければそれでいいのだ。これじゃあ、涙も出ないではないか。俺一人が笑い者だっただけさ。わざわざ日本から来て、この有様だよ。笑っちゃうよ。そして今はみんなが俺のことを哀れんでいるのだ。何が医者だ。何が恋だ。これじゃあ、滑稽な狂言を俺一人で演じていただけじゃないか。正樹は目の前が真っ暗になってしまった。正樹はアパートに居るのが辛くなり、外へ飛び出た。どこに行くでもなく、ただ、ふらふらと歩き続けた。気がついてみるとディーンとの思い出がたっぷり詰まった赤いキャデラックのレストラン、サムスダイナーに来てしまっていた。ローラースケートで店内を走り回っているウエイトレスをつかまえて乱暴に注文した。
「この店で一番強い酒をくれ!」
「イェッサー、かしこまりました。他に何か、ご注文は?」
「それだけでいい!」
 酒を飲んだってどうすることも出来ないことくらいは分かっていた。でも、飲まずにはいられなかった。気持ちが空回りする中で正樹はおもった。結局、人間なんてそんなもんだ。誰一人として聖人なんていないのさ。どんなに偉そうなことを言ったって、最後には楽な方を選ぶのさ。誰も好き好んで苦労なんかしたくはないものなあ。アルコールが体の隅々に行き渡ったところで、だんだんと悔しさが膨らんできた。自分に魅力がなかったから、彼女はホセを選んだだけなんだ。彼女が悪いわけではない。これは自分の力不足の結果なのだよ。俺は、ただ、それだけの人間にすぎなかっただけなんだ。そうおもった時、初めて涙がこぼれ落ちて来た。Tシャツを捲り上げてそっと涙をぬぐった。正樹は独りぼっちだった。経済的にディーンのことを支えてきた姉さんのウエンさんだって、彼女が大金持ちと一緒になれば助かるのだし、アパートの連中にしたって結局はみんなディーンの味方なんだ。どう足掻いても自分は新参者でしかないのだ。じゃあ、どうする?これからアメリカまで彼女を追いかけて行ってホセ・チャンに決闘でも申し込むのか、そんなことをしたって何の意味もない。笑い者になるだけだろう。もういい、一人芝居も終わりにしよう。正樹は無性に海が見たくなった。しかし、ボラカイ島へは行く気はしなかった。何故ならボラカイ島の豪邸はホセ・チャンが残していったものだから、そんな家には今は世話にはなりたくなかった。アパートにもこのまま帰りたくはなかった。ふと、日本に居た時にテレビのイレブンPMという番組で紹介された海のことを思い出した。正樹はそのバタンガス地方のマタブンカイ・ビーチへ行ってみる気になった。ジャングルで終戦を知らずに戦い続けた日本兵の小野田さんが発見されたルバング島がよく見える浜辺だ。マニラからバスで5時間位の距離だったと記憶していた。正樹はウエイトレスを呼んで聞いてみた。
「バタンガス地方へ行くにはどうしたらいのかな?知っていたら教えてくれないか。」
「BLTBのバス・ターミナルから頻繁にバスは出ているとおもいますよ。」
「そのBLTBというやつはどこにあるのかね?」
「クバオからハイウエイーをパサイ市の方へ向かって行って、アヤラ・マカティを過ぎてしばらくすると右側にバス・ターミナルが見えてきますよ。それがBLTBですよ。」
「そうか、ありがとう。ああ、それから、この店は何時に閉まるのかね?朝一番のバスが出るまで、ここにいてはいけないかな?」
「それは無理だとおもいますよ!」
「そうか、無理か。それは困ったな。どこか、この辺で朝までやっている店はないだろうか?」
「お客さん、いつものお連れさんはどうしたのですか?」
「ああ、アメリカへ行ってしまったよ。それも私に黙ってな。突然に、ハンサムな芸能人と一緒に消えてしまったよ。」
「ええ、あんなにお二人は仲が良かったのに、喧嘩でもしたのですか?」
「喧嘩なんかしていないさ。俺に魅力がなかっただけさ。おかしいだろう。笑ってくれていいよ。」
「笑うなんて、そんな。そうだ!もし良かったら、朝まであたしの家にいてもいいですよ。BLTBのすぐ近くだから、変な飲み屋にいるよりはその方がいいわよ。狭いところで、家族がゴロゴロ寝ているけれど、それでも良かったら、どうぞ。」
「それは助かるな。一番早いバスに乗るから、それまで居させてくれるとありがたい。でも迷惑ではありませんか?」
「いいえ、ちっとも迷惑なことなんかありませんよ。だけど、家には何もありませんからね。それでもよければ、どうぞ。」
「ありがとう。お願いします。」
「それで、バタンガスのどこへ行くのですか?」
「マタブンカイというビーチなんですけれど、知っていますか?」
「いいえ、あたしはマニラから一歩も外には出たことなんかありませんし、ましてやビーチなんて、憧れの場所でしかありませんよ。マタブンカイ・ビーチですか。あたしは聞いたことがありませんね。」
「タガイタイを通って、ナスブの浜の隣にあるらしいのですがね、僕も初めて行くところです。きれいな砂浜があると聞きましたので、それを確かめに行って来ようかとおもいました。本当のところは、何だか急に、海が見たくなっただけなのです。」
「お客さん、お一人で行くのですか?」
「ああ、そうだよ。」
「危なくありませんか?」
「もう、危なくても、何でもいいんだ!どうせ僕なんか、どうなっても構わないのさ。ただ、海が見たいだけさ。正直なところ、ボラカイ島へすぐに戻ってさ、あの島の魔法でもって、すべてを忘れてしまいたいのだけれど、それもちょっと理由があって今は出来ないのだよ。」
「お客さんはボラカイ島に家か何かあるのですか?まあ、羨ましいこと!あそこはきれいなところだとみんなが言っていますからね。あたしも死ぬまでに一度でいいから行きたい場所ですね。でもきっと、それは無理ね。お金ないものあたし。」
「ああ、きれいな島だよ。でも、僕は、今は、島の仲間には会いたくないんだ。誰にも会いたくないんだ!」
「あの島にはとても長くて白い砂浜があるって聞いたことありますけれど、それは本当ですか?」
「ああ、あるよ。真っ白な砂浜がどこまでも続いている。」
 他のテーブルにいた客から声がかかったので、そのウエイトレスは正樹のテーブルから離れた。また正樹は一人になってしまった。さっきボンボンの姉さんから言われたディーンはアメリカへホセと行ってしまったという言葉がまた頭の中で何度も聞こえてきた。ディーンがホセを選んで、彼女の人生を任せたのだから仕方がないだろう。もう俺の出番なんかないのさ。じゃあ、もう、この国にいたってあまり意味がないではないのか?酒が正樹を狂わせていた。取り留めのない考えがぐるぐると頭の中でまわっていた。でも医者になってディーンのことを見返してやるんだ、それがいい。ディーンが医者になる夢を捨てて、ホセに走ったのなら、その夢を俺が拾って、立派な医者になってみせる。意地でも医者になって、ディーンのことをせせら笑ってやる!ちょうど良かったではないか、ディーンがいなくなって、これで勉強に集中出来るではないか。すべて本心ではなかったが、酒がそう言って正樹のことを慰めていた。

 店が終わると、私服に着替えたウエイトレスと正樹は店の前のケソン大通りに出た。マニラからケソン市へ延びている幹線道路の一つで深夜でも車は多かった。正樹がタクシーに向かって手を上げると、ウエイトレスの手が正樹の腕を押し下げて、それを止めさせた。
「タクシーなんて、もったいないわ!ジプニーを待ちましょう。」
 正樹は急に自分が恥ずかしくなってしまった。今まで何のためらいもなくタクシーを利用してきたのだが、彼女の一言が胸にぐさりと突き刺さってしまった。言われてみればその通りである。彼女にしてみれば一日中働き続けてなんぼの生活である。家に帰るのにタクシーを使ってしまったら、幾らも残らないではないか。正樹が払おうが、誰が払おうがお金は大切に使わなくてはならないと彼女に説教されてしまった。まったくその通りである。こちらに来て正樹は少し天狗になっていたのかもしれない。ディーンと一緒の時はいつも躊躇することもなくタクシーに乗っていた。それが当たり前だった。しかし、どうだ、ディーンはタクシーよりも高級車やヘリコプターを乗り回すホセのところへ去ってしまったではないか!背伸びをしても、結局、大金持ちには勝てなかったではないか。
「ごめん、僕は奢っていたかもしれないね。そうだね、君の言う通りだ。ジプニーで行こうか。そうだ、君の名前をまだ聞いていなかったよね。僕は正樹だ、君の名前は?」
 何度も店に通っていたから、お互いに顔はよく知っていたのだが名前は知らなかった。
「あたしはドリスよ。」
「ドリスか、アメリカの有名な歌い手さんだね。」
「何?それ、ああ、ドリス・デイのこと?」
「たぶん、それでもう、君の名前は一生忘れないよ!そうやって覚えるとなかなか忘れないものだよ。自慢じゃないけれど、僕の小学校の同級生の名前なんか、もう、とっくの昔に全部忘れちゃったからね。」

 ジプニーを何度も乗り継いで、やっと彼女の家の近くまでたどり着いた。彼女の家は路地を幾つも入った所にあり、それはベニヤ板にペンキを塗っただけの粗末なものだった。正樹はその小さな小屋を見て驚いてしまった。それはそのバラック小屋にではなく、彼女の気持ちに対して驚いてしまったのだった。困っていた正樹を何の恥じらいもなく、堂々と自分の家に招待してくれたことにびっくりしてしまったのだ。家の中に入ると、彼女の兄弟たちが重なるようにして眠っていた。正樹は困ってしまった。
「ドリス、僕は外の長椅子でいいよ。みんなよく眠っているから、起こさないでいいからね。外の椅子で朝まで待つことにするから。」
「ごめんなさいね。驚いたでしょう。小さな家だから、お酒はないから、今、コーヒーを入れてくるわね。待っていてね。あ、そうだ。ちょっと待って。蚊取り線香をたかないと蚊に食われてしまうわ。あったかな?ああ良かった、あったわ。はい、これ、マッチと線香をのせる金具も。」
「ありがとう。」
 家の横にはドブ川が流れており、かなりの悪臭がした。蚊の数もドリスが言うように半端ではなかった。蚊取り線香に火を点ける前に、かなりの羽音が近づいてくるのが分かった。人間様の頭がくらくらする位の強力な蚊取り線香でないと、この蚊の大群から身を守ることは出来ないとおもった。世の中には蚊に刺されやすい人とそうでない人がいるが、正樹はその前者だった。正直なところ、ドリスの家はすぐにでも逃げて帰りたくなるような場所にあった。しかし、落ち込んでいた正樹のことを気遣い、親切に朝まで家にいてもいいと申し出てくれたことをおもうと、逃げ出すわけにはいかなかった。
その夜、ドリスは正樹の話をじっと聞いていてくれた。どうしてマニラに来たのか、ディーンとの楽しかった思い出、そんなものは他人が聞いても面白くも何ともないのに、ドリスは黙って正樹の話を聞いていてくれた。話をすることで正樹の気持ちもだんだんと楽になってきていた。二人は空が明るくなるまで、家の外の玄関先でお互いのこれまで歩んできた道について、あるいは日本のことやフィリピンのことなど色々な話をした。
「ねえ、ドリス、今夜は仕事があるの?」
「いいえ、今日は休みだわ。本当は休みたくはないのよ。でも、みんなで仕事を分け合ってしているから、毎日は出来ないの。順番だから仕方がないわ。」
「君の家族は何人だい。僕が言う家族というのは遠い親戚はその数には入らない。親と兄弟だけだ。何人家族だい?」
「十人よ。」
「もし、良かったら、僕がジプニーを一日借り切るから、マタブンカイ・ビーチにみんなで行ってみないか。子供たちが起きたら、ちょっと相談してみてくれないかな。」
「相談するも何もないわ、みんな賛成に決まっているわよ。大喜びで大騒ぎになってしまうわよ。でも、悪いわ。大勢だから大変だわ。」
「いいんだよ。一人で行ったところで、寂しいだけでさ、きっとまた涙ばかり出てきちゃって、ちっとも楽しくないもの。僕としては君たちが付き合ってくれるとありがたいのだけれど、駄目かな?」
「だけど、きっと、隣の子供たちも行きたいと言い出すわよ。そうしたらジプニー一台では乗り切れなくなってしまうわ。だから、やはり遠慮しておきます。」
「分かった。それじゃあ、バスを借りることにするから、一緒に行こう!」
 正樹は誰でも良かった。そばに誰かがいてほしかったのだ。それは多ければ多いほどよかった。朝日が昇り、だんだんと暑さが戻ってきた。急に話が決まったのにもかかわらず、海へ行くという突然の提案は大歓迎でもってみんなに受け入れられた。ドリスの家族はもちろんのことだが、隣近所の子供たちもその親たちも皆挙って参加したいと言ってきた。その願いを断ることなど出来ずに、結局、一台のバスでは乗り切ることが出来ない数にまでなってしまった。予想していたことだったが、もう一台ジプニーを借りて、なんとか席は確保出来た。正樹はもうどうにでもなれと苦笑いを浮かべながら、その様子を見守っていた。子供たちは初めての海とあって、みな興奮していた。その子供たちの喜ぶ顔を見ていて、一時ではあったが正樹は大切な人を失った悲しみから少し開放されていた。
 バスは猛スピードで二時間走ったところで休憩をとることになった。タガイタイと呼ばれる風光明美な山の上に来ていた。見下ろすとタール火山とカルデラ湖の雄大なパノラマが広がっており、レストランの前にバスとジプニーが横付けになり、レストランの側としては団体客の到来に俄かに活気づいた。トイレを貸してくださいと頼むと快く承知してくれた。しかし、この団体客は誰一人として食事も買い物もしなかった。ただ、トイレを汚しただけだった。何故なら、皆、お金を持っていなかったからだ。正樹はまずいなとおもい、ドリスに言った。
「ドリス、このタガイタイは果物が安いと聞いたことがあるけれど、ここで果物をたくさん買って、みんなで食べようか。」
「そうね、ここのパイナップルはコーラよりも安から、飲み物の代わりにもなるものね。バナナも買いましょう。子供たちが喜ぶわ。」
「ああ、いいよ。君に任せるから、ここのレストランの店先にあるものを買って下さい。」
「分かったわ。」

 このタガイタイだけでも皆にとっては憧れの場所だったのだ。裕福な観光客とは違い、一般の人々が来ることはそう簡単ではなかった。別に急ぐ旅でもなかったので、たっぷりと休息をとった。一時間経ったらバスに集合と皆によく言って聞かせたのだが、二時間経っても全員が集まらなかった。フィリピーノ・タイムである。正樹はジプニーをその場に残して、バスだけで先に出発することを決断した。
 バスはさらに二時間走り、リヤンの町に出た。途中、ココナッツの林を抜けて、開けた所に大きな砂糖の工場があった。砂糖の世界的な値崩れで、このフィリピンも大きな打撃を受けてしまったことは極めて残念なことである。貨車やトラックにはサトウキビが山積みになっていたが、その風景は活気がなく、どことなく物悲しいものだった。リヤンの町を出るとしばらく畑が続いた。さらに右に曲がって砂利道に入ると両側には雑草が生い茂り、なだらかな下り坂になってきた。すると前方が開けてきて、海が見え隠れしだした。やっと着いた!マタブンカイ・ビーチだ。子供たちの間からも大きな歓声が上がった。
 とても日本では考えられないことだ。百人を超える団体のツアーを、それも小さな子供たちが多く、しかも危険を伴う浜辺のツアーを何の保証もなしに組んでしまったわけだ。もし事故が起こったら誰が保証をするというのだ。しかし滅多に海を見るチャンスのない
子供たちがこんなにも喜んでいるのだ。日本の親たちならいざ知らず、誰も保証問題を取り上げて食ってかかる者などいなかった。正樹は誰も海で溺れないことを祈るのみであった。失恋した傷心をいたわる余裕などは、この時はまったくなかった。今日は兎に角、見張り台に立って、ライフガードをしっかり勤めなければならなかった。
「ドリス、沖には絶対に出ないように、みんなに注意してくれ!流されると大変だからな。それからお昼にはここに集まるように言ってくれないか。」
「分かったわ。ところで昼ごはんはどうするの?百人以上もいるけれど、どうしよう。」
「豚の丸焼きでもしようか。地元の人に相談してみてくれないか。焼くのに時間がかかるけれど、出来るかな?」
「レチョンね。分かったわ。聞いてみる。みんな喜ぶわよ。滅多に食べられないご馳走だから。こんなにきれいな海に来て、レチョンも食べられるなんて、みんな感動しちゃうわよ。でも大変な出費よ。」
「いいんだよ。そんなこと心配しなくても、僕に任せておけよ。食事のことはドリスに全部任せるからね。浜の人に頼んで準備してくれないか。」
「分かったわ。」
「みんなの喜ぶ顔がさ、今の僕の救いなのだよ。何もかも忘れて、今日は楽しもうじゃないか。」
 マタブンカイ・ビーチの砂は完全な白色ではないが日本のどの浜と比べても、より白に近い。一説にはマタブンカイ・ビーチの砂はボラカイ島の砂を運んできたものだとする説もあるが、それは確かではない。この浜の特色は遠浅の海に筏が幾つも浮いていることだ。その筏の上で食事をしたり、休憩が出来るように組まれたもので、もちろんタダではない。地元の人々が考え出した現金収入の道具なのだ。正樹のところにも筏を使わないかと何件も商談があったが、一つだけ借りて、後は全部断った。みんなには他の筏には上らないようにと注意をした。
 しばらくすると、ドリスがレチョンにする豚を手に入れて戻って来た。さっそく女どもは豚の丸焼きの準備を始めた。子供たちは浜で大騒ぎである。男どもはひとしきり泳いだ後、正樹のそばに来て腰を下ろした。あまり冷えていないビールに氷を入れて遠慮をしながら飲み始めた。初めて会った人々なのに、何でこんなに打ち解けることが出来るのか、正樹は不思議だった。豚の内臓でもって様々な料理も次第に出来上がってきた。黒いカレーのような汁は豚の血でつくられたディヌグアンと呼ばれる料理だ。ご飯にかけて食べる。これを嫌いだと言うフィリピン人はまずいないだろう。それほどポピュラーな料理で皆好んでご飯にぶっかけて食べる。正樹はハッキリ言って、味よりも血を想像してしまうためにディヌグアンは身体が受け付けなかった。腸を細かく切って、串に刺して炭で焼いたものは絶品であった。ビールとよく合って、焼き鳥の数段上のうまさがあった。ブロックが積み上げられ窯がつくられた。そして、今度は力仕事で男どもの出番だった。中をくり抜いた大きな豚を回転しながら焼き始めた。百人以上もの食事はこうして一頭の豚でもって賄われた。豚の耳が好きな者もいれば、足をぶつ切りにして煮込んだ豚足料理が好物の者もいた。さきほどタガイタイに残してきたジプニーが集合時間に遅刻をした者たち全員を連れて、無事に到着した。何とか食事には間に合ったが、おいしいところはすでに食べつくされた後だった。食事が終わって、昼寝をしてから、また少し泳いで帰ることになった。明るいうちにマニラに戻りたかったのは、深夜の山道は想像をするだけでも恐ろしかったし、百キロを超えるバスのスピードも心配だったからだ。誰もが皆、もっと浜でゆっくりしたい様子だったが、正樹は三時のおやつの時間を待たずに出発することを決断した。それでも全員が車に乗ったのは四時を回ってしまっていた。なかなか、この国では大勢の人々をまとめあげるのは難しいことだと正樹は実感した。
 帰り道、またタガイタイで休憩をとったが、今度はトイレ以外の休憩はなしで、バスやジプニーから降りることを遠慮してもらった。また何人か行方不明になって出発が遅れると大変だからである。暗くなる前に何とかマニラにたどり着きたかった。
 誰も怪我することなく、無事に正樹たち一行はマニラに到着した。バスから降りると、子供たちがお礼を言うために正樹のところに集まって来た。親たちは少し離れたところから頭を下げている。みんな本当に喜んでくれていて、どの顔も輝いていた。ドリスも近寄って来て、何度もお礼を言った。
「正樹さん、今日は本当にありがとう。弟たちの喜ぶ顔は久しぶりだわ。母はね、初めは嫌な顔をしていたけれど、もう今は、ニコニコだわ。だけど、随分とお金を使わせてしまって、ごめんなさいね。でもおかげでとても幸せな一日になりました。本当にありがとうございました。」
 正樹はただうなずいて微笑んで見せた。皆が見送る中を正樹は一人でドリスの街を離れた。また正樹は一人ぼっちになってしまった。急にディーンを失ったという悲しみが込み上げてきた。ケソン市のアパートにはまだ帰る気がしなかった。マニラ東警察署の署長のところに自然と正樹の足は向かってしまった。
 いつものように署長はあたたかく正樹のことを迎えてくれた。署長の大きな机の前の椅子に座って話し込むのが正樹はとても好きだった。空元気を出して、ディーンとホセのことは何も話さなかった。マタブンカイ・ビーチへ行ってきたことだけを署長には話した。本当はディーンのことを聞いてもらいたかったのだが、その夜はディーンの失踪のことは話さずに帰った。アパートに帰ると、やはり誰も話しかけてくる者はいなかった。きっと、恋人を奪いとられた哀れな男のことを同情しているのだ。例え、平静を装いながら話しかけてきたところで、それは正樹には慰められているとしかおもえず、逆にバカにされているように聞こえたことだろう。正樹は近くのサリサリ・ストアーに行って、強盗防止の金網の窓越しに、平たい形をした安っぽい瓶を指差して言った。
「オヤジ、そのラム酒を三本くれ。いや、五本くれないか。」
「へエー、こんな地酒を日本の方がお飲みになるのですか?」
「あー、そうだよ。飲んで悪いのか?」
「いえいえ、そんな、悪いことなんかありませんよ。だけど、結構、この酒はきついですから、飲み過ぎないようにしてくださいな。」
「余計なお世話だよ。俺は、今夜は、とことん酔いたいのだよ。ぶっ倒れるまで飲むつもりなのだから、余計なことは言うな!」
 その夜、正樹は独りで静かに飲んだ。眠るまで飲み続けた。人生の第一幕が下りてしまった感じだった。

 ディーンがいなくなってからは、時はゆっくりと流れていった。正樹は勉強にすべてを注いだ。勉強をすることでディーンのことを忘れようとしたのだ。署長から連絡があった時だけ、ボラカイ島へ子供たちと一緒に飛んだ。私用では島へ行く気はしなかった。それでも何回か往復しているうちに、ゆっくりではあったがボラカイ島の魔法は正樹の心を変えていった。ディーンのことを奪い去ったホセ・チャンだったが、島の豪邸を提供してくれた彼の行為はすばらしいとおもうようになってきていた。しかし、ディーンに対する憎しみは強くなるばかりで、ボラカイ島の魔法をもってしても、決して許すことは出来なかった。
 ボラカイ島とマニラ東警察署を往復するヘリコプターの定期便は毎週土曜日である。しばらく島へ渡っていなかった正樹は何か島からの知らせはないかと気になり、そのヘリの到着の時間を見計らって署長を訪ねた。ディーンが失踪したことはきっとボラカイ島へも届いているに違いなかった。もう、そんなことはどうでもよかった。あまり自分が沈んでばかりいては、日増しに立派になっていくヨシオに笑われてしまう。必ず医者になって、茂木さんと約束した通り、ボラカイ島に診療所を開くことだけを正樹は考えるようにしていた。
 ヘリのパイロットが署長室に入って来た。
「署長、ただ今、戻りました。ああ、正樹さんもおいででしたか。大変です。茂木さんが怪我をされました。左腕がぼろぼろになってしまいました。骨折もされているとおもわれますが。」
 なんてこった!茂木さんが怪我をしたと知り、正樹は血が上ってしまった。つい、パイロットのことを怒鳴ってしまった。
「何で、お連れしなかった!こちらの病院に何で運んで来なかったのだ!」
 しかしパイロットは感動したような表情で話を続けた。
「それが茂木さんは自分で自分の腕を打ち砕いてしまったのですよ。」
 署長が身を乗り出すようにして言った。
「何だって?どれはどういうことなんだ?ちゃんと説明しろ!」
 パイロットの長い話が始まった。

 ボラカイ島の人々は次第に茂木たちの住んでいる豪邸にやっかみを覚えるようになってきていた。自分たちの粗末な家に比べて、岬の日比混血児たちの家があまりにも豪華だったからだ。うらやみとねたみが島の人々の間にだんだんと生まれてきていた。そんな時に事件は起こってしまったのだった。豪邸のタカオという子供が市場で一つのキャンディーを盗んだところを取り押さえられてしまったのだ。島の人々はマニラでごろついて子供たちには以前から懐疑的だった。いつかこうなると皆がおもっていた。島の人々はそのタカオを引きずりまわして、揃って岬の豪邸に押しかけて来た。
「このぼうずは盗みをはたらきやがった。どうも前々から色々なものがなくなるとおもっていたんだ。やっぱりお前のところの子供が犯人だったぜ。おい、どうしてくれるんだ!」
 店の主人が茂木に向かってそう怒鳴りつけた。すると茂木は豪邸の庭に子供たちを全員集めた。島で泥棒をした者は正直に前に出るようにと命じた。そして次にキャンディーを盗んだタカオの目の前で、もちろん島の人たちも見ているその前で、自分の腕をそこに落ちていた大きな石でもって何度も叩きつけた。腕がボロボロになるまで叩き続けた。そして子供たち全員に向かって大声で言った。
「泥棒はしてはいけない!泥棒がしたい奴はこの家を去れ!島を出て行け!いいな。」
 それは茂木が子供たちに初めて見せた鬼の形相であった。茂木の腕からは血が滴り落ち、手に持っていた石も真っ赤に染まっていた。茂木はその石をその場に悔しげに投げ捨てると、島の人々の前で地面に手を付いて土下座をした。頭を深く下げて許しを乞うた。島の人々はもう何も言うことが出来ずに、そそくさと帰って行ってしまった。キャンディーを盗んだタカオだけが茂木のそばで泣き続けていた。

「私は全部見ていましたよ。帰りのフライトの間中、思い出しては感動していました。」
 そう言ってパイロットは長い話を終えた。正樹はその話を聞いて、急にボラカイ島に行きたくなった。確か、ボンボンは今、日本に行っていて留守のはずだ。少しでも茂木さんの手伝いがしたかった。
「それで、茂木さんの怪我は?お医者様には見せたのでしょうか。」
「すみません。よく分かりません。確かめずに帰って来てしまいました。」
 署長は黙って受話器を取り、命令を出した。
「署の担当医をすぐにここに呼んでくれ。これからボラカイ島に一緒に行くと伝えてくれたまえ。」
 受話器を置くと、今度は正樹に向かって署長は言った。
「正樹君、わしも何だかボラカイ島へ行きたくなったよ。どうだ、これから一緒に行かないか。茂木さんの腕が心配になってきた。それに、わしが頼んだ子供たちのことも気になるしな。わしにも責任がある。島の人たちとも話をしないといけないな。」
「ええ、もちろん、お供いたしますよ。」
「よし、ちょっと待っていてくれたまえ。すぐに準備させるから。」
 正樹はパイロットの顔は見た。たった今、ボラカイ島から戻ったばかりだというのに、ちっとも嫌な顔をしていなかった。きっと茂木さんのとった行動にまだ感動しているのに違いなかった。準備が整う間に、正樹はサンチャゴのアパートに電話を入れた。皆が心配するといけないので、しばらくボラカイ島で過ごす旨を伝えた。電話に出たのはディーンの姉さんのウエンさんだった。彼女は最後に一言だけ正樹に自分の胸のうちを伝えた。
「ごめんなさいね。」
 ウエンさんの気持ちもよく分かる。そりゃあ、誰だって大金持ちの方が良いに決まっている。今までさんざん妹の為に苦労してきたんだ。この辺で少し楽をしたって罰はあたらないだろう。ディーンが自分を捨てて、ホセ・チャンを選んだことは姉のウエンさんの為には大正解だったに違いないと正樹はおもった。

 署長と警察の担当医、そして正樹を乗せたヘリコプターはボラカイ島へ向かって再び飛び立った。大きく何かが動き始めていた。その目に見えない歯車に誰も挟まれないようにと正樹はひたすら願うばかりだった。


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