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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第59回   失恋
失恋

 ボラカイ島にはうまいパン屋がある。そのイギリス式のパン工房から、午後のミリエンダ(おやつ)の時間になると、毎日、大量の菓子パンが届けられる。それは岬の豪邸で暮らす子供たちにとってはたいへんな楽しみであり、育ち盛りの彼らの体には必要不可欠なものだった。子供たちが食べ残したものを集めて、ボンボンと茂木は午後の紅茶を楽しむのが毎日の日課となっていた。
「あれ、またヘリの音ですよ。」
 リビングルームでいつものように、子供たちの食べ残しを前に、お茶を飲んでいたボンボンが茂木にそう言った。一日遅れの新聞から茂木は目を離して耳をすませた。
「本当だね、あのやかましい音はさっき飛び立った警察のヘリコプターの音だよ。どうしたのだろうね、何か急用でもできたのかな?」
 庭にあるヘリポートの回りには、すでにたくさんの子供たちが集まって来ていた。それに加えて、高瀬、渡辺社長、佐藤、田口、ネトイ、菊千代、千代菊、リンダ、そしてまだおやつのパンを頬張っているヨシオと、ほぼ、岬の家の主なスタッフ全員が空を見上げていた。それはあたかも、まるで巣で母鳥の帰りを待っているひな鳥のように、空を旋回しながら下りてくるヘリコプターを見上げて立っていた。ボンボンと茂木も屋敷の入り口から少し出てヘリの到着を待つことにした。

 マニラからボラカイ島まではヘリだとあっという間だ。早苗もナミもさっきから窓の下で移り変わる美しい景色にうっとりとしていた。お互いに言葉を交わすことすら忘れてしまうほど、素晴らしい至福の時間だった。ヘリがボラカイ島の岬の家の上空に到着し、正樹が自慢げに、だんだん大きくなってくる下の屋敷について説明を始めると、まず、ナミがその敷地の広さに驚いてしまった。
「早苗、凄いじゃない!あたし、こんなに大きなお屋敷は今までに見たことないわよ。あの海に突き出た家なんか、最高じゃない。まるで、映画に出てきそうな家だわ。なんかロマンスを感じちゃうな。上から見てこの広さよ、下に降りたら、きっと、もっと広く感じるわよね。」
 早苗が正樹に言った。
「正樹さん、この屋敷にボンボンと日比混血児たちが一緒に生活しているのでしょうか?」
「ええ、そうですよ。きれいなところでしょう。」
「本当に、素晴らしい環境で子供たちは暮らしているのですね。でも、何故かしら?どうしてボンボンはあたしにここに居ることを知らせてくれなかったのでしょうか。」
「僕にはよく分かりません。」
「正樹さん、彼にはまだ、私たちがこうしてやって来ることを知らせてはいないのでしょう。だとすると、ボンボンはあたしたちのことを見たらびっくりするでしょうね。それとも、私たちはこの島に来てはいけなかったのでしょうか。正樹さん、正直に言ってくれませんか。」
 正樹は大きく首をふりながら答えた。
「いいえ、そんなことありませんよ。誰であろうと、ボラカイ島は来る者をあたたかく迎えてくれますよ。ましてや、ボンボンがお二人を歓迎しないわけがない!心配はありませんよ。何か他に訳があって、早苗さんには知らせなかったのだとおもいますよ。」
 ヘリは次第に高度を下げ、もう地上に立っている人々の顔が見える高さにまで来ていた。ナミが興奮気味に言った。
「ねえ、見て、あそこ、プライベート・ビーチもあるわよ!プールもテニスコートもバスケットコートも、何でもあるじゃないの。それにこのグランドの広さと言ったら、後楽園球場よりも大きいし!」
「そうですね、もっと広いかもしれませんね。それから、ここの屋敷の名義はボンボンになっています。」
 早苗は正樹がボンボンがこの豪邸の名義人だと聞いても、驚いた表情を顔には出さなかった。しかし、ナミがすぐに反応して、早苗のことを茶化した。
「あたし、ボンボンのことを早苗から奪っちゃおうかな?」
 正樹が笑いながら続ける。
「毎週、どんどん子供たちが増えていますからね、もうすぐ、下の建物だけでは足りなくなってしまいますよ。すでに、庭に新しい家を建てる計画も進んでいるのですよ。茂木さんが、毎日、島の役場に行って相談していますからね。」
 早苗は「茂木」という名前を再び正樹の口から聞いて、今度は驚きの気持ちを隠さずに、正樹のことをじっと見つめながら言った。
「もしかして、その茂木さんというのは、京都の方ですか?」
「そうですよ。京都で哲学を勉強していたと聞いたことがあります。」
「でも、きっと違いますよね。あたしの知っている茂木さんとは別人ですよね。」
「実はね、この豪邸を買ったのは茂木さんです。お金を出したのは茂木さんなのですよ。外国人の土地所有がこの国では認められていませんからね。だからボンボンが名義を貸したというわけです。」
 ナミがびっくりして言った。
「茂木さんって、あの茂木さんかな?」
 早苗はナミではなく、正樹に向かって言った。
「その茂木さんはこの下にいるのですね?」
「はい、いるとおもいますよ。さっき、僕が島を出る時にはいましたからね。」
 早苗は下の豪邸の入り口の前に立っている二人の人物が目に入った。とっさに早苗は手を口にあてた。そして大きく息をしてから、正樹の目を見据えながら言った。
「正樹さん、さっき、ボラカイ島の奇跡の話をしていましたよね。私もその奇跡を信じますよ。だって、私がずっと捜していた人が、それも、二人ともこの島にいるのですから!何だか、あたし、身体が震えてきたみたい。見てください、このあたしの腕を、鳥肌がこんなに立っていますわ。」
 早苗は両手で顔を隠した。涙は出てこなかったが、顔が燃えるように火照っていた。ナミは化粧箱を開けて、顔を整え始めた。ヘリのプロペラの回転が完全に止まるまで、外には出ないようにとパイロットから指示が出された。そして、ヘリはゆっくりと奇跡の島に着陸した。ヨシオがヘリの中にいつものように真っ先に飛び込んで来た。
「兄貴、どうしたの?忘れ物でもしましたか?」
「いや、違う。ゲストを案内して来た。ボンボンと茂木さんは?」
「いますよ。兄貴、荷物は?」
「いや、ない。ありがとう。」
 正樹とヨシオがまずヘリの外に出た。続いてナミがすらりと伸びた脚を降ろした。最後に早苗が席を立って、彼女の運命の島、ボラカイ島に足を踏み出した。

ナミと早苗がヘリから降りて来るのを見ていた茂木がすぐ隣に立っているボンボンに言った。
「ボンボン、君か?君が知らせたのか?」
「いいえ、違いますよ!僕は何も言いませんでしたよ。言われた通りに手紙も電話もしませんでした。あの京都の旅行の後、早苗ちゃんとは、一切、連絡は断っていました。ケソン市のアパートにも私がここにいることを他言無用と厳しく言ってありますから。分かるはずがありません。」
「そうか、君ではないのだね。・・・・・・なあ、ボンボン。不思議だね、このボラカイ島は。人をどんどん呼び寄せてくる。まったく恐いくらいだよ。何かの不思議な力に満ちている。この島は正に奇跡の島と言っても構わないだろう。ボンボン、君もそうはおもわんか?」
「まったく同感です!」
 ボンボンは早苗を見た途端に、今まで堪えていた感情が一気に吹き出すのを感じていた。一方、茂木は外交省の公金のことや、菊千代のことが脳裏を過ぎって、不安な気持ちでいっぱいになってしまった。それでも早苗に再びに会えたという喜びはすべての感情に勝っていた。
 正樹が皆に二人を紹介し始めた。茂木は動かずに、その様子をそのまま屋敷の入り口でじっと見ていた。ボンボンはすでにヘリコプターの方へ歩き始めていて、真っ直ぐに早苗
に向かって歩いていた。渡辺社長も田口も男どもは、皆、ナミの完璧に均整のとれた肢体に釘づけだった。それに比べて、早苗の方は古典的な日本女性のもので、ボンボンと茂木以外は誰も注目していなかった。茂木はボンボンが早苗に代わって彼女の荷物を持つのを入り口から見ていた。二人は話しながら歩き出した。ナミに群がる他の人々を掻き分けて自分の方に来るのが見えた。茂木は早苗にこれまで連絡しなかったことを何と言って説明したらよいのか、二人を待ちながら考えていた。本当のことは絶対に言えない。もう始まってしまったのだ。外交省のプール金で、この屋敷を買ったことは子供たちの為にも隠し通さなくてはならない。たとえ、それが間違っていても、今は駄目だ。この家を守らなくてはならないと茂木はおもった。
 早苗にとって、茂木は思春期を通して、兄であり、恋人であり、そして大学に入る時には自分の学校を休学してまで、早苗の受験に付きっ切りで勉強を教えてくれた先生だった。早苗の父親は茂木を自分の息子のようにおもっていたし、実際、酒場で二人が並んで酒を飲んでいる後姿は親子そのものだった。その茂木が突然に姿を消してしまって、早苗は本当に困惑していた。早苗は一歩一歩と茂木に近づく度に胸の鼓動が激しくなってくるのを感じた。声が茂木に届くところまで来た時、早苗は大声で叫んだ。
「なんで?どうして?茂木さんのバカ!」
 早苗の目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。早苗は自分の気持ちがハッキリと分かった。天才のボンボンはその涙を見て、自分が失恋したことを悟った。そして遠くからその様子を見守っていた菊千代も泣いていた。菊千代は自分がどんなに茂木のことを愛しても、茂木の心が自分の近くにはないことをずっと感じていたのだ。そして、早苗を見た時、菊千代はやっとその理由が分かったのだった。茂木は何も言わずに早苗を豪邸の中へ迎え入れた。
ヘリコプターのパイロットがみんなと話をしている正樹のところにやって来て訊ねた。
「自分はすぐにマニラに戻るように指示されていますが、正樹さんはどうなさいますか?このヘリで一緒に戻られますか?」
 正樹は感謝しながらパイロットに言った。
「有り難うございました。今日は何度も行ったり来たりで大変でしたでしょう。私は明日、一人で帰りますから、大丈夫です。帰ったら、署長によろしく言っておいて下さい。本当に助かりました。有り難う。」
 パイロットは正樹に敬礼をすると、さっさと一人で飛び去って行ってしまった。ボラカイ島の空はもう暗くなりかかってきており、かりにこれから、ヘリでマニラに帰ったとしてもマニラの警察署からケソン市のアパートまでの交通渋滞は避けられないと正樹は計算してしまった。しかし、これは誤算だった。大きな人生の誤りだった。どんなに時間がかかってもアパートに戻るべきだったのだ。早苗とナミ、ボンボンと茂木のことが気になってしまった正樹は判断を誤ってしまった。ディーンとの約束をすっかり忘れてしまっていた。

 ケソン市の空も同じ様に赤くなりかかっていた。アパートでディーンは約束の時間になっても現われない正樹に腹を立てていた。彼女の誕生日に二人で食事に出かける約束は、すれ違いが多くなってしまったお互いの忙しいスケジュールをだいぶ前から調整して決めていたことだった。それを破るなんて、急に用事が出来たのであれば、連絡ぐらいしてきたらいいのにとディーンはおもっていた。それでもディーンはいつでも出かけられるように着替えて、見たくもないテレビをつけて正樹の帰りをじっと待っていた。するとアパートの電話が部屋中に鳴り響いた。ディーンは正樹からだとおもい、電話に飛びついた。だが聞こえてきたのは正樹の声ではなかった。あの映画俳優のホセ・チャンだった。
「ヘロー、ディーン。ハピーバースデイ。」
 ホセはディーンの誕生日をちゃんと覚えていたのだった。その電話はアパートの外からのものだった。ホセは車の中からディーンに電話をしていたのだった。高級車の扉が開き、ディーンはその中へ吸い込まれてしまった。その夜、ディーンはアパートには戻ることはなかった。
 そんなことも知らずに正樹はボラカイ島で楽しい時を過ごしていた。早苗とナミの歓迎パーティーが盛大に行なわれていた。子供たちが寝た後も、豪邸のあちらこちらでは気の合った者同士がまだ飲み続けていた。正樹もバーベキューをさかなにネトイとリンダとふざけあいながら時間を忘れていた。
 茂木と早苗は海の見えるテラスで昔あった映画のように、二人で静かに話をしていた。夜の海はキラキラ月の光で輝いており、時折、吹く風がとても心地良かった。夜空を流れる雲も月を避けるように移動しており、とても神秘的な夜だった。
「茂木さん、あたし就職が決まったのよ。」
「そう、それはおめでとう。あんなに小さかった早苗ちゃんが、もう一人前になってしまったんだね。戸隠のお父さんも喜んでいるでしょう。お母さんのお墓にはちゃんと報告したの?」
「ナミと一緒に外交省に入ることにしたのよ。最近、あまり外交省って評判が良くないけれど、あたしとしては上出来よね。」
 何ということだ、選りによって外交省とは、茂木の表情が曇ってしまった。早苗はそれには気がつかなかった。茂木は話をすぐに他に逸らした。
「早苗ちゃん、明日、案内するけれど、この島にはとても長い砂浜があるんだよ。真っ白な砂浜がどこまでも続いているんだ。マニラのゴミゴミした裏道でハイエナのように生きてきた子供たちはね、そのホワイトサンド・ビーチに立つと変わるんだな。僕がいくら偉そうなことを説教したって、あの悪ガキたちには何も通じないけれど、この島の美しさは人を信じることを忘れていた子供をやさしく抱き込んでくれる。だからね、僕はこの島でひとりでも多くの子供たちに勉強をするチャンスを与えてやりたいんだ。」
「すごいわ!茂木さん、あたしね、あたしだけの為に勉強を教えてくれた茂木さんが好きだったけれど、そういう茂木さんはもっと好きよ!さっき、茂木さんに会った時に、自分の気持ちがハッキリと分かったの。だから、もう、急にどこかへ消えたりしなで下さいね。いつも、早苗のそばにいて下さい!」
 どう返事をしたらいいのだろうか。茂木は迷った。これほどまでに、正直で情熱的な告白はないではないか。茂木が何度も何度も夢に見てきた、どの場面よりも熱かった。日本にいる時には、どんなにそのことを望んだことか、しかし、今は一緒に暮らしている菊千代のことを考えなくてはならない。それに何よりも早苗の将来のことを真剣に心配してやらなくてはならない。
「茂木さん、ちょっと言葉は悪いかもしれませんが、ここの子供たちは、言ってみれば、心無い日本人たちの産み落としでしょう。それならば、日本の政府がこの子供たちの面倒をみて当たり前じゃないですか。あたし、外交省に入ったら、援助をお願いしてみましょうか?」
「いや!それはやめてくれ!絶対に駄目だよ!」
 あまりにも茂木の語気が強かったので、早苗はびっくりしてしまった。こんな恐い茂木を見るのは初めてだった。
「ごめん。早苗ちゃん、ここのことはいいんだ。誰にも言わないで下さい。お願いします。私は静かに子供たちと暮らしたいだけなんだよ。だから、日本に帰ったら、お願いだから誰にもこの家のことはしゃべらないでほしい。ごめんなさいね。せっかく助けてくれようとしたのに、すみません、この通りです。」
「でも、どんどん子供たちが増えていると正樹さんが言っていましたわ。茂木さん独りではここの維持費が大変になるわ。外交省のバックアップがあった方が、茂木さんの負担も軽くなるからとおもって、・・・・。」
「いいんだよ、早苗ちゃん。ここの子供たちはさ、まだ、今は小さいけれど、大人になれば、みんなきっと、この家のことを助けてくれるからね。心配しなくても大丈夫だよ。誰にも頼らないで僕らだけでやっていきたいのですよ。僕が死んでも、この家が残るように自立させなくてはね。その為に今、子供たちの教育に力を注いでいるんだ。外交省の援助は必要ない!」
 茂木がいなくなれば、尚更、外交省の援助が必要になると早苗はおもった。何か釈然としない早苗であったが、今ここで大好きな人と言い争う気はさらさらなかった。せっかくの素晴らしい夜景が台無しになってしまう。早苗は椅子から立ち上がって、テラスの手摺りに両手をついて、眼下に広がるボラカイの海を眺めた。そして、振り返って茂木に言った。
「あたし、しばらく、ここにいていいかしら?」
「もちろん、いつまでいてもいいよ。もう、ここは早苗ちゃんの家だとおもって構わないからね。僕としては、早苗ちゃんにずっと、ここにいてほしいのだけれど、まあ、それは無理な話かな。でもさ、早苗ちゃんが日本に帰りたくなるまでいればいいさ。それに、外交省に入ってからも、いつでもまた、戻ってくれば、それでいいさ。好きな時に来て、好きな時に日本に帰る。そうすればいいさ。」
「何か、夢を見ているみたいだわ。こんなに大きな家が私の家?」
「戸隠村は早苗ちゃんの故郷だけれど、このボラカイ島も早苗ちゃんの第二の故郷になれば、僕はとても嬉しいよ。ここは少し来るのに不便だけれど、十分に来る価値はあるところだよ。それに子供たちが喜ぶ。君みたいな語学の専門家が彼らには必要だからね。時々、来て勉強を教えてやってくれ。」
 茂木の本音は早苗が外交省には入らずに、ここで一緒に暮らしてくれればありがたいとおもうのだけれども、戸隠にいるおやじさんの気持ちを考えると、そうしろとは言えなかった。それはよく分かっていた。きっと、早苗ちゃんが外交省へ入ることが決まって、一番喜んでいるのはおやじさんだからだ。

 笑い声とともに、ナミとボンボンがリビングからテラスに出て来た。何やら、二人はとても楽しそうで、ナミの片手にはワイングラスが光っていた。ボンボンもめずらしく酔っ払っているみたいだった。ナミが早苗にからむように言った。
「早苗はここにいたのか。あれ、茂木さんも一緒でしたか。お邪魔かしら?」
「ナミったら、酔っているのね。ボンボン、あまりナミに飲ませないでよ。ナミの酒癖の悪さは天下一品なのだからね。気をつけてよ。」
「すみません、ナミさんは超人気者で、みんなが順番にナミさんに勧めるものだから、つい、度を越してしまいました。かなり酔ってしまったようなので、少し夜風にあてようとおもって、やっと、連れ出して来たところなんです。」
ボンボンは慎重にナミをテラスの椅子に座らせると、茂木に言った。
「ああ、そうだ、茂木さん。僕、ちょっと東京にしばらく行ってこようとおもって、学校や留学生会館の後始末をしてこようとおもうのですよ。予定としては二ヶ月間ぐらいかかりそうかな、よろしいでしょうか?」
「ああ、行ってらっしゃい。」
「すみません。」
「あ、そうだ。ボンボン、本を三冊持って来てはくれませんか?古い本ですがね。知り合いの古本屋がとっておいてくれたもので、僕にとってはとても大切なものですから、送ってもらって、途中でなくなってしまうのが恐い。ボンボンが持って来てくれると助かるのだがね。」
「ええ、いいですよ。他に何かありましたら、遠慮なく言って下さい。」
 その時、リビングのドアが大きく開き、正樹とリンダが飛び出て来た。正樹の様子がおかしいことに茂木はすぐに気がついた。
「茂木さん、大変だ!菊ちゃんがいなくなった。」
 茂木の顔が真っ青になった。リンダが下手な英語で茂木に向かって言った。
「こんな時間にいなかったことは今までに一度もありませんでした。さっきまで台所で洗い物を一緒にしていたのですけれど、・・・・・・。」
 正樹が続けた。
「ネトイと千代ちゃんが魚屋のハイドリッチの所へ行って、トライシクルを借りに行きました。道々、捜しながら市場のほうへ向かいました。さっきから、屋敷中を捜しているのですが、どこにもいないのです。もちろん庭も捜しました。菊ちゃんが夜中に出かけることなんか、ありませんでしたからね。ネトイたちはトライシクルを借りたら、そのまま町の方を捜してみると言っていました。」
 茂木は早苗のことばかりに気をとられていて、すっかり菊千代のことを忘れてしまっていた。早苗には何も言わずに、屋敷の中へ入った。迷うことなく真っ直ぐに台所へ向かった。壁につるしてある菊千代のエプロンを掴み取ってから、再びテラスに出て来た。そして足早に階段を下りて、犬小屋のところに行き、菊千代が一番可愛がっていたドーベルマンのジョンを小屋から出して、エプロンの匂いを嗅がせた。ジョンは特別に訓練されたわけではなかったが、茂木はやってみる価値はあるとおもった。散歩用の首輪をつけて、いつも菊千代と散歩をする海の方へ下りてみた。ジョンに引きずられながら、茂木は浜伝いにホワイトサンド・ビーチへと向かった。

 さっきから、ずっと、菊千代は茂木の幸せのことだけを考えていた。突然、早苗が島に現われて、自分の存在そのものが茂木にとっては迷惑なのではとおもうようになっていた。本当に茂木の幸せのことだけを考えるのであれば、自分は茂木の前から去らなければならないとおもい始めていた。ただ、どうすることも出来ずに、菊千代はホワイトサンド・ビーチをよろよろと歩いていた。その足どりは力なく悲しみに満ちていた。女が一人で夜の浜辺を歩いてはいけない。そんなことぐらいは分かっていたが、菊千代はもう何もかもがどうでもよくなっていた。浜の中程まで行くと、ぼんやりとかすかな光が見えてきた。そばに寄ってみると、誰かがマリア像の下にロウソクを灯して、そのまま帰ってしまったらしい。このマリア像はボラカイ島の守り神として、島の人々の熱い信仰を受けていた。浜から数十メートルほど海に入った岩の塊の上に安置されており、潮が引くと地続きになる場所にあった。海の侵食作用によって出来た天然の岩には数十段の階段が造られてあったが、菊千代は階段には登らずに、濡れた砂浜にひざまずいた。祈るでもなく、ただ、マリア像を見上げていた。そのまま長い時間が経ってしまった。気がつくと、潮が満ちてきており、身体半分は海の中にあった。菊千代は泳ぐことは出来ない。この遠浅の海を沖へどこまでも歩いていけば、どこかで足を滑らせて天国へ行けるかもしれないと菊千代はおもった。早苗を巻き込んで、ドロドロした愛憎劇を演じる前に、茂木を愛したまま死ねたらいいとおもった。その時、菊千代の体内にはもう一つの小さな命が誕生していたことを菊千代は知らなかった。その小さな命が息づいていることに気づいていたならば、自分が犠牲になることなど、決して考えはしなかったのだろうが、菊千代はさっきから自分が身を引くことが茂木にとって一番幸せなことだと考え続けていた。
 しばらくすると、犬の吠える声がした。それは聞き覚えのあるジョンの声だった。菊千代が振り返ると、大きな黒い肉のかたまりが自分の方へ向かって来るのが見えた。そしてドーベルマンのジョンは菊千代に飛びついて、菊千代の顔やら首筋を嬉しそうになめまわした。菊千代もジョンの頭や顔を荒々しくなぜまわして、それに答えた。
まもなくして、暗闇から茂木の姿が現われた。茂木は足早に海の水を掻き分けながら近づいて来て、菊千代を強く抱きすくめて言った。
「ごめんよ、菊ちゃん。」
菊千代は茂木の胸の中で答えた。
「このまま、あたしを絞め殺して下さい。そして、そっと海に流して下さいな。」
「ごめんよ。」
 茂木は更に強い力で菊千代を抱き込んだ。茂木が何度も繰り返す「ごめん」の意味が菊千代にはよく理解できなかった。菊千代は茂木を苦しめている自分自身を責め続けていた。茂木のことを本心から愛していたのだった。
「あたしね、分かるのよ。茂木さんが早苗さんのことを愛していることが、だから・・・。」
「菊ちゃん、何も言わないでおくれ!僕が悪かったんだ。こんなに菊ちゃんのことを苦しめてしまって、ごめんね。もう一度チャンスをくれませんか。」
 答えなんか、そんなものない!と菊千代はそうおもった。
「あたしの命はもう、とっくの昔に茂木さんに預けてあります。そんなこと言わないで下さい。あたしは茂木さんのことをいつまでも愛しています。」
 ジョンが二人の間に割り込んできて、二人の顔から流れ出る涙を交互になめていた。海水は腰の辺りまで満ちてきており、二人のことを見下ろしているマリア像の目からも涙が出ているのに菊千代は気づいていた。

 岬の豪邸ではまだ宴は続いていた。ボンボンは茂木が飛び出して行った後、彼もホワイトサンド・ビーチとは反対側の浜へ懐中電灯を片手に菊千代のことを捜しに出かけた。ナミは渡辺電設の佐藤たちが再び誘いに来て、家の中でまた飲み始めてしまっていた。海の見えるテラスには早苗と正樹の二人だけが残された。
「正樹さん、やはり、あたしはこの島には来るべきではなかったのですね。」
 正樹は何も言うことが出来なかった。早苗が静かに続けた。
「その菊千代さんは茂木さんのことを愛しているのですね。」
「早苗さん、私には茂木さんの心の中まではよく分かりませんが、さっき、早苗さんに会った時の茂木さんはとても嬉しそうでした。この島に来て、初めて見せた明るい表情でした。菊ちゃんは確かに茂木さんのことを愛していますよ。茂木さんの世話を楽しそうにしています。でも、二人の間には何か距離があることは僕も感じていました。早苗さんを見る茂木さんの目を見て、僕はすべてが分かったような気がしました。」
「やはり、あたしはこの島に来るべきではなかったようですね。でもね、正樹さん、ヘリコプターの上から茂木さんの姿を見た時に、あたしね、この人だと感じたのです。でもどうやら、失恋しちゃったみたいですね。正樹さんは明日、マニラに戻られるのでしょう。あたしたちも一緒に連れて行ってくれませんか。もう、日本に帰ろうとおもいます。」
「それはいいですけれど、茂木さんが何と言うか。」
「いいんです。あたし、もう、決めてしまいましたの。明日、日本に帰ります。」

 翌日、早苗とナミ、そして正樹の三人はボラカイ島を離れてマニラに戻った。マニラの国内線の空港から国際線の空港へ直行して、すぐにキャンセル待ちの手続きをとった。二人の日本行きの席がとれたのは、結局、深夜になってからだった。二人を無事に出国させた正樹は空港から出て一般道路まで歩きタクシーを拾った。空港に待機しているタクシーを避けたのだった。正樹はケソン市のアパートへ向かう車の中で、しみじみと、今回、ボラカイ島で起こった出来事を思い返していた。みんながそれぞれ違った形で失恋をしていた。ボンボンは早苗さんに失恋したし、茂木さんも最後には早苗さんに失恋してしまった。菊ちゃんは茂木さんの本心に気づき一時は失恋したが、自分を犠牲にしようとしていたところを島の守り神であるマリア像に救われた。結果的には茂木さんの愛を勝ちとった形になった。正樹は以前に茂木さんが言っていたことを思い出していた。
「京都の人たちはね、とても辛抱強いのだよ。決して自分のことは表には出さないけれど、すべてが終わってみると、ちゃんと自分のおもうように事を運んでいるから驚くよね。」
正樹はそんなことをタクシーの中で思い出していた。菊ちゃんはやっぱり京都の人だったと納得していた。早苗さんも自分が身を引くことによって、自らを失恋させてしまった。この週末は本当に失恋が多かったと正樹は考えていた。そんな正樹自身にも失恋の影が忍び寄ってきていることを知らずに、正樹を乗せた車は渋滞のない深夜の真っ直ぐにのびたハイウエーをケソン市に向かって、ただひたすら走っていた。
 ケソン市のアパートに着くと何故か皆がよそよそしく感じられた。ディーンはまだいなかったが、誰もがそのことを口にはしなかった。ましてや、ホセ・チャンから電話があって出かけてしまったことなどは、いったい誰が正樹に言えるというのだ。このディーンの秘密の外出の件は、そっと伏せられてしまった。

 次の年、渡辺社長の渡辺電設はマニラに進出してきた。やはり、佐藤が総責任者として、タイから移って来た。渡辺社長は自分の命を救ってくれたボラカイ島が気に入ってしまったようで、なんだかんだと理由をつけてはボラカイ島に入り浸っていた。小船で海に出てダイナマイトを使った非常識な釣りをやったり、そうかとおもうと、何もせずに、ただ、ごろごろと一日中横になって過ごすこともあった。以前は毎晩のように芸子遊びをしていた社長だったが、娯楽の何もない島でまるで別人のように時を過ごすようになっていた。
 そして、この年、茂木さんと菊ちゃんに男の子が授けられた。正樹は菊ちゃんの嬉しそうな笑顔を見る度に、本当に良かったと何度もおもった。正樹も勉強の方が難しくなってしまって、一日中、勉強をしている日々が続いた。眠る時間も惜しんで何とか皆についていこうとしていた。医学部の先輩のディーンも同様に勉強に集中していた。二人で出かける時間を捜すのが極めて難しかった。そして、ディーンは予科から本科へ移る大切な時期を迎えており、この時点でほとんどの学生たちが医学部から振り落とされてしまう。別の学部への方向転換を余儀なくされるのだ。正直に言って、ディーンも限界を感じているように正樹には見えた。そんなことから、前のように二人で過ごす時間は持てずにすれ違いの生活が続いていた。
 相変わらず、マニラの裏通りには日比混血児たちが溢れていた。正樹は週末になると、警察署長に呼び出されて、保護された子供たちと一緒にボラカイ島へ飛ぶ回数もどんどん増えていた。そのことだけはどんなに勉強が忙しくても優先させて手伝っていた。ただ、前のようには島には長居はしなくなっていた。勉強も子供たちと同様に大切だったからだ。 
 造船会社を一時帰休していた高瀬青年も、一年が過ぎてもなかなか新潟には戻らずに、ボラカイ島で子供たちと共に暮らしながら、彼らに日本語を教えていた。この高瀬青年にもボラカイ島の魔力が働いたようで、以前に彼が世話になっていたマカタガイホステルの女オーナーと偶然にもボラカイ島のホワイトサンド・ビーチで再会して、二人はその夜、すぐに恋に落ちてしまった。そんな訳で、高瀬青年は日本に帰る気はなくなってしまったように正樹にはおもえた。
 菊千代が男の子を生むと、今度は双子のもう一方の千代菊も市場の魚屋のハイドリッチの子を生んだ。これがとても難産で、島の診療所では無理で、大きな病院のある隣の島まで産気づいた千代菊をボートに乗せて運んで行って、何とか助かったのだが、あの時は本当にみんなが肝をつぶしてしまった。正樹が学校を卒業したら、ボラカイ島に診療所を開設することを茂木に提案したのは、千代菊が出産で苦しんでいたこの時だった。子供たちが増えれば、増えただけ病気や怪我の数も増えるわけだから、正樹の提案には茂木は大賛成だった。診療所開設の資金的な問題は正樹が豪邸の子供たちの主治医になることで、茂木さんが出してくれることになった。正樹の卒業を待たずに、診療所の建設が市場の近くでは始められた。豪邸の中ではなく市場の近くを選んだのは茂木さんで、島の人たちともうまくやっていくことを考えたからだ。
 日本に帰った早苗は外交省の特別調査室に配属が決まった。外交大臣の直属の調査機関で、外交省内の汚職、特に省内のお金の流れをチェックする部署に、まったく人情のしがらみがない、汚れのない早苗が特に抜擢されて、その仕事に就くことになった。
 皆がそれぞれ、精一杯に生きてきた年も押し迫り、家々にはクリスマス・ライトが飾られたままで、小遣い目当ての子供たちがクリスマスは終わってしまったというのに、隣近所の家々の入り口に立ってクリスマス・ソングを歌い続けていた。爆竹の物凄い音と花火の煙に包まれて新年がやって来た。誰もが新しい年の希望に満ちていたその時、ケソン市のアパートから、突然。ディーンの姿が消えてしまった。

 正樹が警察署長のところに新年の挨拶をしに行った帰り道だった。路上でサンパギータの花飾りを見つけた。誰かが車から落としたものに違いなかった。車のミラーのところに吊るしてあった良い香りのするサンパギータの花飾りを飛ばしてしまったものだろう。正樹が手を出してそれを拾おうとした時、そのサンパギータは風に飛ばされて車道の中央まで飛んでしまった。次の瞬間、バスがクラクションを鳴らしながら正樹の目の前を通り過ぎて行った。一生懸命になって正樹はそのサンパギータの花をさがしたが、もう、どこにも見当たらなかった。


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