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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第53回   投資
投資

 渡辺社長の回復はすこぶる早かった。社長がボラカイ島に流れ着いてから四日目の昼下がりには、もう島の中央にあるハワイサンド・ビーチを裸足で歩いていた。この砂浜は毎朝、島の人たちがきれいに掃除をするので、裸足で歩いてもガラスの破片や流木などで足を切る心配などはなかった。歩いても、歩いても白い砂浜が続いており、この砂浜はただ歩くだけでも心が大らかになってくるから不思議である。そして渡辺社長の隣を歩いていたのは高瀬とヨシオの二人で、本来ならば、この三人が一緒に散歩をすることなど、まったく考えられないはずなのだが、ボラカイ島の美しさはそんな三人の過去のちっぽけな出来事をすべて包みこんでしまっていた。時折、三人は顔を見合わせながら笑い声をあげた。そしてまた白い砂をしっかりと踏みしめながら歩いていた。ジョギングを楽しんでいる観光客とすれ違ったり、島の子供たちなのだろうか、器用に砂を固めてお城を作っていたりもした。
「なあ、高瀬君、わしはこの島へ来てから、今まで自分がしてきたことがとても恥ずかしくなってしまったよ。この島の混血児たちの瞳を見ていて、つくづく、そうおもったよ。まったく穴があったら、本当に入りたいくらいだ。」
「まだ、岬の家が日比混血児たちに開放されてから、そんなに日は経っていませんが、どんどん子供たちの数は増えていますよ。茂木さんはもう新しい宿舎を建てるつもりでいます。島で職が無い人々を集めて建てるつもりらしく、毎日、役場へ通って、その相談をしていますよ。」
「まったく、茂木さんはわしとは正反対で、大したお方だよ。島の人たちともうまくやっていくことも忘れてはいない。ちゃんと考えてやっているからね。同じ京都の人間として、いや、同じ日本人として、とても鼻が高いよ。」
 三人が歩いている前に犬が吠えながら飛び出して来た。犬は三人の方には見向きもせずに、嬉しそうに海へ入って行ってしまった。水浴びでもするのかと三人が見ていると、どうやら魚を見つけたらしかった。耳をぴんと立てて、顔を左右にキョロキョロさせながら、海の中を気持ち良さそうに飛び跳ねていた。
「高瀬君、見たまえ、何とも良い光景ではないか。あの犬には魚は決して捕まえられないけれど、ああやって、無邪気になって飛び跳ねている様は実にすばらしいね。犬は真剣なのだろうが、見ているこちらとしては本当に心が洗われるような気がするね。平和だね。素晴らしい島だよ、ここは、何と言う島だったっけ?」
「ボラカイ島ですよ。僕もこのボラカイ島に来て救われましたからね。ここに連れて来てくれた正樹さんに感謝していますよ。」
「正樹?ああ、ヨシオの兄貴分か。最後の審判とか言って、わしを脅かしやがった奴だね。あれ、そう言えば、昨日から、その正樹君の姿が見えないようだけれど、どうしたんだろうか?」
「ああ、彼ならマニラに帰りましたよ。学校がありますからね。でもまた、すぐに戻って来ますよ。彼にとってはここの岬の豪邸は自分の家みたいなものですからね。ところで、社長、日本の会社には連絡をしなくてもいいのですか?」
「ああ、構わんよ。少し心配させた方がわしのありがたさを分かってもらえるからな。しばらく黙っていることにしたよ。」
 京都の渡辺電設の本社に一億円の身代金の要求があったことを渡辺社長は知らなかった。身代金の要求があったのは佐藤と田口がマニラに飛び立った直後に、電話によって日本人の女によってなされた。逆探知を恐れたのか、電話はまた後で送金方法を連絡すると一言だけ言い残して直ぐに切れてしまった。本社では、佐藤たちともまだ連絡もとれずに、誘拐犯からの次の電話が入るのをじっと待っていた。もちろん社長がボラカイ島に流れ着いた事など知る術もなかった。
 ヨシオは高瀬から日本語を習い始めているが、まだ社長と高瀬の会話を理解することなどはもちろん出来ない。しかし、じっと二人の話す言葉を聴いていた。日本語は一度も会ったことはないけれど、父親の国の言葉だ!ヨシオはいつかその言葉を自分のものにしてやろうと心に決めていた。だから二人の会話が今は理解できなくても、真剣にそれを聴いていた。言葉というものは理屈ではないのだ。ろくに勉強もしない赤ん坊が突然話し出すようになるのだから、その言葉の中に自分自身をどっぷりと浸からせて置くことが大切なのだと茂木さんが言っていたのをヨシオはおもいだしていた。
 さらに先まで、飽きずに砂浜を歩いていると、向こうから、茂木と菊千代が歩いてくるのが見えた。役場の帰りらしいと高瀬が言った。たくさんの書類を茂木は抱えていた。ヨシオは駆け出して行き、茂木のそばに近寄り、茂木の持っていた書類を代わりに持った。
 茂木が渡辺社長に話しかけた。
「どうですか、お体の具合は?今日は良いお天気ですからね、浜の散歩は気持ちがいいでしょう。」
「ええ、おかげさまで、だいぶ良くなってきました。しかし、ここは実に良いところですね。本当に気持ちがいいですよ。それに、皆さんとても親切で、何と言うか、その、素直に嬉しいのですよ。あまりうまく言えませんが、こんな気持ちになったのは初めてでして、兎に角、嬉しいのです。本当にこの島に流れ着いたことを喜んでいますよ。」
「そう、それは良かった。」
「茂木さん、子供たちのことですが、私にも何か手伝わせてくれませんか。」
 茂木の横にいた菊千代が目をまん丸にして言った。
「まあ、おなごのお尻ばかりを追い回していた社長さんが、そんなことを言うなんて、どうしたことでしょう。驚いたわ。」
「菊千代、もう勘弁してくれよ。今度ばかりは、わしも肝をつぶしてな、おまえたちをこの島で見た時には、本当に天国だか地獄に来てしまったとおもったんだよ。だからな、わしにも何か、今までやってきたことへの償いがしたいとおもってな。わしは気持ちを入れ替えたんだ。」
 高瀬も話しに加わってきた。
「渡辺社長、社長の会社は東南アジアに幾つか支店をお持ちだとか、この前、言っておられましたよね。」
「ああ、そうだよ。タイとベトナム、それから今年になってから、インドネシアにも合弁会社をつくった。」
「それなら、社長、是非、このフィリピンにも来て下さいよ!子供たちが成長した時に、働ける場所がどうしても必要なのです。確かに、この島にいれば、食べることには困らないかもしれませんが、それじゃあ、駄目なんです。彼らはいずれ自立しなければなりませんからね。」
 太陽の光が雲と混ざって幾つにもわかれ、その光の線が海の水平線に降りて来た。その神秘的な光景を背に渡辺社長が言った。
「確かに、菊千代の言う通り、わしは女にはだらしのない男だったかもしれないが、仕事に関しては人を見る目をちゃんと持っているよ。タイでもベトナムでも信頼できるパートナーを見つけてきたからね。そしてな、高瀬君、わしはもう、このフィリピンでも、わしの会社を任せられる人たちをたくさん見つけましたよ。そう、みなさんとなら、きっとうまくやっていけそうな気がしますよ。こちらから、是非、その話はお願いしたいものですな。もし、みなさんがお嫌でなければね。」

その頃、渡辺電設の佐藤と田口は行方不明になってしまった渡辺社長を見つけ出すためにフィリピンにやって来ていた。当時も今もフィリピンでは最高級と呼ばれるマニラベイホテルに二人は宿をとった。落ち着いたスペイン風の歴史のあるホテルだ。ルネタ公園の海側の一等地にそびえ建っている白と青の大きなホテルがそれである。外国からの来賓客は大概このホテルを利用する。下町にあるホテルとは違って、街で拾った女の子を連れ込むようなことは禁止されている立派な格式のあるホテルだ。青色の屋根がマニラの青い空に溶け込んで、堂々として、とても気品のあるホテルであった。
田口が言った。
「佐藤さん、いいのですか?こんな、凄いホテルに泊まったりして、怒られませんかね。」
「ああ、いいんだ。ここに泊まった方が、何かと便利なんでな。これからいろいろな人たちに会うことになるが、初対面でこのホテルに泊まっていると言えば、それだけで信用される。それに今回の仕事は少し厄介な仕事だからな、少しぐらい贅沢をしないとやってられないよ。それから、田口、今日はどこへも行かんからな、今朝は早かったし、長旅だったから、今夜はのんびりホテルで休むことにしようや。明日から仕事にかかることにする。会社への連絡も明日の朝一番ですることにして、今日は休もう。くれぐれも言っておくが、一人でホテルの外へは出るなよ!将来有望なお前まで行方不明になってしまっては大変だからな。いいな、今日はおとなしくホテルでのんびりしていろ。そうそう、もう一つ、生ものはいかんぞ!生水、氷も駄目だ。生魚もしばらく我慢してくれ。火を通したものしか食うな。ソフトドリンクも生ビールも止めておけ、まだ俺たちの体には免疫ができていないからな、慎重に行動しよう。いいな!」
 ちょっと不満そうに田口が答えた。
「はい、分かりました。今日はホテルの部屋でおとなしくしていますよ。」
 佐藤は昨夜、居酒屋から帰った後も興奮のあまり一睡も出来なかったのだった。社長を見つけることがこの出張の目的ではあったが、東南アジアでフィリピンだけが唯一、渡辺電設が進出していない国だったからだ。いろいろなおもいが頭の中を駆け巡り、ビジネスマン佐藤の血が騒いでしまったのだった。
「田口、俺は少し疲れたので、もう部屋で寝るからな。」
「ええ、こんなに明るいのに、もう寝るのですか?」
「すまんが、一人で適当にやってくれ。明日から忙しくなるから、お前も早めに休めよ!」
「分かりました。」
 意気揚々とマニラへやって来た若い田口は完全に肩透かしを食らってしまった。しかし、尊敬する上司の佐藤の言うことは絶対であるから、今日はそれに従うことにした。
「自分も部屋で寝ることにしましたよ。では、明日の朝、ここでお待ちしていますが、何時にここに来ればよろしいでしょうか?」
「時計をもう直したのかな?まだだったら、日本との時差は一時間だから、一時間ちゃんと遅らせておけよ。明日の朝、九時にここで朝食を一緒にとることにしようや。それでいいな。」
「分かりました。ではおやすみさない。」
「ああ、おやすみ。」
 佐藤は田口を残して、さっさと自分の部屋に入ってしまった。部屋に入ると、すぐに着ているものを脱ぎながら、窓から港の景色を眺めてみた。マニラ湾が一望の下に見渡せる良い景色だった。色々な形の船が好き勝手な所に錨を下ろしていて、佐藤は大きな港だなとおもった。振り返り、空調を一番強にセットし、浴室の扉を開けたまま、中で汗まみれの体を流した。タオルで拭いた後、タオルは椅子の背もたれにだらしなく掛け、そのままの姿でベッドに横たわった。京都にある渡辺電設の本社では、高額の身代金を要求されて、佐藤からの連絡を重役たちが待機して待っていたのにもかかわらず、佐藤は5分もしないうちに深い眠りについてしまった。
 一方、田口はしばらくホテル内を歩き回ってから、佐藤のすぐ隣の自分の部屋に入った。ベッドの頭のところには分厚い聖書とホテルの説明案内書が置かれてあり、もちろん田口は聖書などにはまったく興味はなかった。ベッドの上にどかっと寝転がってはみたが、何もすることがなく、ホテルの案内書を何気なく開いてみた。ページをどんどんめくっていくと日本語で書かれた「マッサージ」という項目が目に飛び込んできた。しばらく迷ったあげく、勇気を出して受話器をとりあげた。そんなには疲れていなかったが、時間を持て余していたので、田口はマッサージを頼むことにしたのだった。三十分後に部屋に来てもらうことにして、田口はまずシャワーを浴びることにした。カラスの行水とは正に田口のことを言うのである。あっという間に浴室から出て来てしまった。田口はバスタオルを巻いて、窓際の椅子に腰掛け、タバコをくゆらせていると、ドアをノックする音が聞こえてきた。貴重品はすでにフロントの金庫に預けてある。それは慎重派の佐藤の指示だった。さっきホテルのフロントで非常に換算率の悪いレートで両替をしてもらったペソの半分を靴の中に押し込み、紙幣が見えないように靴下を丸めてその中に重ねて入れた。残りの半分はハンガーに掛けてあるズボンのポケットに無造作に入れて、田口はドアのノブをゆっくりと回してドアを開いた。
 ドアを開けた田口は驚きのあまり、しばらく得意の英語が出てこなかった。何故なら、てっきり田口はもう何年も前に、それもとっくの昔に引退したようなやり手ババアが来るとおもっていたのに、その田口の考えとは裏腹に、まるでモデルのような若いマッサージ嬢が廊下にすらりと立っていたからだった。田口の心臓は激しく鼓動を開始した。田口はドアのノブをつかんだまま、しばらく固まってしまった。
「メアイ?」と中に入ってもいいかと聞かれて、やっと田口から言葉が出た。
「カムイン、プリーズ。」


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