20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第50回   人間魚雷
人間魚雷

 とんでもないニュースが世界中を駆け巡った。それは日の丸を掲げた小型の魚雷艇がフィリピンの大型客船に突っ込んだというニュースだった。サンボアンガへ向かっていたフィリピンの大型客船が日の丸の付いた魚雷艇のようなものによって撃沈されたという知らせだった。行方不明者は二千人以上、いやメディアによっては五千人以上と報じているものもあれば、六千人が行方不明と書く新聞もあった。いずれにせよ大きな海難事故が起こったと世界中に配信された

 フィリピンの中心的な交通機関は鉄道でも飛行機でもない。たくさんの島々が寄り集まってできているフィリピンでは何と言っても船が庶民の足なのである。飛行機に乗るくらいなら、その費用を生活にあてて、安価な船旅を選択するのが常識である。人生を決して急がないという国民性も船という交通機関を発展させてきた。ただ、残念なことには船の定員を守らずに、積めるだけ積んでしまい、航海の途中で沈没する悲劇が後を絶たなかった。またその犠牲者の数が半端ではなかった。これまでに一体どれだけの人々が魚の餌食になってきたのか把握出来る者はこの国のどこにもいないであろう。しかし、そんな悲しい海難事故とは裏腹にフィリピンの海の美しさはいつの時代も変わらない。圧倒的なまでに美しい海は人間の営みとは関係なく、昔から、フィリピンという国をやさしく、時には荒々しく包み込んできた。青い海に浮かぶ島々の間をぬって、ゆっくりと過ごす船旅は日常生活で疲れきったフィリピンの人々の心を癒し続けてきた。船の甲板に立って通り過ぎる島々を眺めていると、もうそれだけで心が満たされてくるから不思議だ。青い海は人々の心の曇りまでもきれいに洗い流してくれる魔法の力を持っているようだ。

ただ、忘れてはならないことがあります。このきれいな海もかつては戦場だったということです。グアム島で終戦を知らずに長い間、戦い続けた日本兵の横井さんが発見され保護されました。そして、フィリピンでも大都市マニラからさほど離れていないルバング島で小野田さんが時を同じくして発見救出されたことは大きなニュースになりました。それは同時に、まだ他にも終戦を知らずにそれぞれの任務を遂行する為にジャングルや無人島に潜んで戦争を続けている日本兵がいることを意味しています。
 終戦間際、日本では敵に捕まるくらいなら自決せよと教育されました。純粋な人々ほどその教えを忠実に守りました。まだ十代で特攻隊に志願した青年たちは本当に日本の国のことを考えて結論を出したことでしょう。正に純粋そのものだったのです。日本という国の為に彼らは彼らの若い命を自ら進んで犠牲にしました。人間魚雷「回転」もしかり、魚雷を操縦しながら、そのまま敵艦に突っ込む海の自爆兵器が「回転」でした。まだ人生が始まったばかりの青年たちが人間魚雷「回転」の発射台に立ち、鉄の筒のような魚雷の中へ乗り込む時のおもいを察すると、胸が熱くなります。戦争の悲惨さはそれだけではありません。その「回転」の発射台を造る為に無理やりに連れて来られた人々もいたということも史実なのです。朝鮮から強制的に日本に連行された多くの人々はその発射台に限らず、日本のために様々な苦難を背負わされました。過酷な労働を強いられ、多くの朝鮮の人々が命を落としたことも決して隠してはならない史実なのです。歴史を教える立場にある人々は偏った教え方をしてはならないし、戦争はどんなに正当な理由があって始まっても、最後には、結局、弱い者がたくさん傷つき、双方が悲惨な状況になってしまうことを示さなければならないとおもいます。 先の大戦では沖縄戦だけで15万人以上の軍人が、民間人は10万人以上が犠牲となりました。艦砲射撃で沖縄の自然は破壊され、家屋や倉庫はすべて火炎放射器で焼き払われ、その火炎放射器の炎は防空壕や洞窟の中に隠れている人々にまで届き、多くの命が失われました。捕虜になるくらいなら、自決するように教育された人々はそれに従いました。そしてその頃、日本本土の国防婦人部の人達は本当に大真面目になって本土決戦に備えて竹槍の訓練を毎日やっていました。日本海軍が誇る「連合艦隊」が壊滅し、成功する確率が極めて低かったのにもかかわらず、特攻隊が数多く故郷を後に飛び立っていきました。人間魚雷、人間機雷、広島、長崎の原爆投下など、戦争の悲劇、悲惨さをあげれば、本当に切りが無い。戦争はいけないのだと何度も訴えても、時間が経つと、良識のある人々から必ず返ってくる言葉があります。「戦争が悲惨なことは分かっているよ。でも、もし、誰かが自分の国を侵略しに来たら、お前ら平和主義者たちは戦争は悲惨だからと言って、自分の家族が殺されるのを黙って見ているのかね?戦争とは自分の国を守る為にするものだよ!誰かが自分たちの国を守らなくてはいけないのだから、武器をもってはいけないと言う方がおかしい。違うかね。」と言われます。そう言われると、もう何も返す言葉は見つからないでしょう。その通りです。誰かが武器を持って戦わなくてはならない時は必ずあります。欲の固まりのような人間が与えられた領土でじっとしているわけがないし、世界中どこかで、自分の領域をはみ出しては戦争が起こっているのを見ても明らかなように、禁断のリンゴを食べてしまった人間は永遠に完全な人間にはなりえないわけです。人間の歴史は戦争の歴史そのものであり、それは狂人から自国を守る自衛の戦いであったり、また復讐の連鎖が影に潜んでいる場合もあるかもしれない。ただ平和主義者がどんなに軽蔑される世の中になってしまったとしても、平和を願う心だけはしっかりと持ち続けないといけない。奪い続ける人間と与え続ける人間と、どちらが良いのかは明らかなのだから!
 今なお、悲しい戦争の歴史は続いているわけで、イラク、アフリカ、中東と報復の連鎖は続いています。どこかで恨みを断ち切らないといけない。敵を愛し、許し合うことこそが、もっとも人間らしい行為なのであるということが、何故、人々は分からないのでしょうか。どうして人間は誰とでも一緒に幸せに生きることが出来ないのでしょうか。国境なんかいらない!国があるから戦争が起きてしまう。でも戦国時代以前の荒れ果てた日本のようになればいいのか、それではもっと野蛮な争いだらけの世界になってしまうではないのか、じゃあ、どうしたらいいのだ。
自分を愛していない人を愛する努力を続けていくことこそが最も重要な事であって、それが人類に与えられた唯一の試練であり、真理だということに早くみんなが気づかないといけない。出来なくても努力し続けることが大切なのであって、決してあきらめてはいけないとおもいます。

 さて、話を戻します。

 終戦の年、この美しいフィリピンの島々の一つに日本海軍の小型の潜水艦が故障し漂流しました。乗組員は十名で、潜水艦を修理しているうちに終戦をむかえてしまいました。しかし、その無人の島に流れ着いた十人の日本兵は日本が降伏したことを知らぬまま、ただ時間だけが、どんどんと経過してしまいました。何度か、航空機が上空から日本が降伏したことを知らせるビラを撒き散らしましたが、そんなものは誰一人として信じるものはいませんでした。また時、運悪く、ベトナム戦争が始まり、フィリピンの基地からはアメリカの軍用機が毎日のように飛び立ち、フィリピンの空をたくさんのアメリカの戦闘機が飛び交っていたことも、彼らに終戦を信じさせることを難しくしてしまいました。何十年という月日はアッと言う間でした。南の島での生活の最大の敵は何と言っても病でした。毎年、ひとり、ふたりと仲間が熱病にかかり去っていきました。結局、吉岡という将校だけが最後まで生き残り、この美しい無人島で独りで闘い続けてきました。吉岡は潜水艦に乗る前は九州の大分に配属されて、人間魚雷の製作に携わっていたものだから、そんな経験もあって、潜水艦の修理をあきらめてからは、ただ、もくもくと壊れた潜水艦の部品を使って人間魚雷の製作だけにすべてを集中してきました。それを作ることを唯一の生きがいとして独りで頑張ってきました。そして、その魚雷の完成と共に自分の命を断とうと決心していたのでした。
 それはとてもきれいな朝でした。吉岡は今日をその日に選んだのでした。何年の何月何日なのかも分からないまま、最後の日をたった独りで迎えた。自分のわき腹がすでに肥大していて、痛みも日増しに激しくなってきていたから、これ以上待てば、完全に身動きが出来なくなってしまうことぐらいは医者でなくともすぐに分かりました。もう、吉岡少尉は心も体も限界でした。ニッパヤシの葉を取り払い、潜水艦の部品を寄せ集めて作った手製の人間魚雷を最後の力を振り絞って海に浮かべ、そして、ゆっくりとその中へ乗り込み、長い間、暮らしてきた無人島を後にしたのでした。よく晴れたすばらしい日だった。
 沖へ出ると、吉岡は近づいて来るマストを発見した。マストは次第に大きな船の姿に変わり、十分に吉岡の射程圏内に入った。吉岡は大きく息をした後、ねらいをその船に定めた。
「いよいよだな、よし、正面から突っ込んでやる。みんな待っていろよ。すぐにみんなのところへ行くからな。」
 吉岡はそう自分に言い聞かせて、体をロープで人間魚雷にしっかりとくくりつけた。速度を速めながら、吉岡は正確に大型客船に向かって突進していった。一度や二度、かわされても必ず撃沈させる自信はあった。燃料も十分あったし、潜水艦の魚雷を六本束ねてあるから、体当たりさえすれば、どんなに大きな船でも必ず沈没させる威力があった。
 その時、大型客船の操舵室では突進してくる鉄のかたまりを発見してパニック状態であった。船長は右に舵をきるように何度も叫んでいた。船は吉岡の乗った魚雷を避けようと右に回ったが、とうとう避けきることが出来なかった。
 やっと、吉岡の戦いは終わろうとしていた。長い戦いだった。仲間が一人減り、二人減りして、気がつくと一人ぼっちになっていた。人間魚雷は自分自身も病魔におかされた吉岡少尉の最後の賭けだったのだ。もう若くはない吉岡だったが衝突の瞬間、彼は大声で叫んでいた。
「天皇陛下万歳!おかあさん、おとうさん、先立つ不幸をお許し下さい!」

 左の船横後部に吉岡の人間魚雷は見事に命中した。それはちょうど渡辺社長が監禁されていた船室の真下であった。激しい衝撃音とともに船の横腹にはぽっかりと大きな穴が開いてしまった。エンジンは完全に破壊され停止してしまった。それが吉岡少尉の最後だった。
戦争は悲惨だ!戦争が終わった直後に焼け野原に立って、すべての人がそうおもう。もう二度と戦争はごめんだと誰もがおもう。自分の身内を戦いで失ってみて、戦争はどんな理由があるにせよ、いけないことだと分かる。しかし、時間の経過とともに、人々はその戦争の痛みを忘れてしまい、いつの間にか大きな歯車の中に組み込まれて、再び、同じことを繰り返してしまう。もうすぐ戦争を体験したお年寄りたちがいなくなってしまう日本です。誰かが戦争の悲惨さを語り継いでいかなくては、この国の将来が心配になります。平和憲法を改正しようとする意見が世の中の大勢になりつつある昨今、時代遅れになってしまった「平和」という言葉だけれど、決して死語にしてはいけない言葉なのです。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 7376