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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第5回   マヒワガ
「マヒワガ」

甲高い軍鶏の声で正樹は目覚めた。誰かが闘鶏に使う軍鶏をアパートの洗濯場で飼っているようだった。部屋の窓はガラスの代わりに板を何枚も重ね合わせたスライド式になっていて、その板の間から外の通りを覗いてみたが、まだ外は暗くて何も見えなかった。少し早くに起きてしまったようだった。覚悟はしていたが、やはりマニラの夜は暑かった。一夜を過ごしてみて南国であることを実感した。全身が汗でびっしょりになっていた。サンチャゴのアパートの正樹の寝室には冷房装置はなかった。と言っても決して正樹が冷遇されているわけではなかった。他のどの寝室にもエアコンなどはなかったし、下へ降りてみると、床の上にはバニッグと呼ばれるゴザが何枚も敷かれており、みんなまだその上で重なり合うようにして眠っていた。ボンボンの弟のネトイなどはトイレの前の床の上に直に寝転がっていた。何度か寝返りを打って、その場所に落ち着いたものとおもわれる。正樹が寝室を独りで占領しているので、普段なら二階の寝室で寝ている者たちがこうして床の上に雑魚寝しているのだ。正樹は皆に苦労をかけさせていた。冷遇どころではない、優遇されていたのだ。正樹はこの国のあたたかくて客をもてなすホスピタリティ、国民性を日本人も見習わなくてはならないと感じた。正樹はそっとドアを開けて外へ出てみた。すぐ近くのオヘダのアパートへ行ってみることにした。昨夜、ボンボンの姉さんから食事はオヘダのアパートに用意しておきますと言われたからだ。行ってみるとオヘダのアパートにはすでに明かりが点いていた。中に入ってみるとお手伝いのリンダがココナッツの実を二つに割って乾燥させたもので床を磨いていた。片足で体を支えて、もう一方の足でココナッツの実をリズミカルに前後させて、床の汚れをココナッツの繊維の中に擦り込ませているようだった。確かにその実で掃除をした後の床はピカピカに輝いていた。面白そうなので正樹もやってみたのだが、これがなかなかの重労働で、少しやっただけで汗が全身からにじみ出てきてしまった。お手伝いのリンダは小柄でニキビ面だが、とてもかわいらしい顔をしている。目が大きくてまん丸で角度を変えて見ると小学生のようにも中学生のようにも見える。リンダは自分ではあくまでも十八才だと言い張ったが、本当の年齢はたぶんもっと若いのだとおもう。ただこちらの女性の年齢を当てることほど難しいことはない、本当に至難のわざだ。一般的に同世代の日本人の女性よりは十歳はさばが読めると考えた方がよい。お手伝いについてであるがフィリピンでは少しお金に余裕ができるとすぐにメイドを雇う。これは日本人のお金持ちがメイドを雇うのとはちょっと意味合いが違うのである。得た収入を少しでも多くの人々に分け与え、お互いに助け合って生きていくという習慣からきている。リンダは掃除を中断して正樹の為にコーヒーを入れてくれた。一口飲んですぐに普段飲んでいるコーヒーとは違うことが分かった。正樹はリンダに聞いてみると、それはお米からつくられたライス・コーヒーであった。それもお金のかからない自家製のコーヒーであった。その味はお世辞にもうまいとは言えなかったが、リンダのあたたかい気持ちはブレンドされていると正樹はおもった。
 しばらくすると股の付け根まで見えそうなホット・パンツを穿いた次女のノウミが現れた。パジャマの代わりらしいボロボロのTシャツを着て、階段を一段ずつゆっくりと降りて来た。髪はぼさぼさであったが、ホット・パンツからスラリとのびた長い足が正樹にはとても眩しかった。
「おはよう、マサキ。」
「おはようございます。」
「昨日の映画はどうだった。分かった?」
「ちょっと僕には難しかったみたいです。聞きなれない英語の単語が多過ぎました。」
 昨夜、みんなで観た映画はレイプ事件を取り上げた裁判が主題だったので、難解な言葉が多かったから、文法英語ばかりを勉強してきた正樹には聞き取れるわけがなかった。
「そうか、法廷のやりとりはアクション物とは違って確かに難しいわよね。あたしでも分からないところがあったもの。まだ、正樹には無理よね。」
 なかなかその後の会話が続かない正樹であった。まだ英語で話すことに慣れていなかった。ノウミはひとしきり一人で喋りまくると台所でリンダが聞いていたラジオの音に合わせて腰を振りながらバスルームに入っていった。ラジオからはラテンのリズムが流れていた。ノウミの明るい朝の挨拶は正樹にとっては一日の素晴らしい幕開けだった。
 暑い、なにしろ暑い、だからこの国の人々はあまり歩きたがらない。そのせいなのか街には乗り物が溢れている。その代表は何と言ってもジプニーだろう。派手な色使いにゴテゴテした飾り物を沢山つけた元軍用ジープは至る所に走っている。その料金は安く、ジプニーは間違いなく庶民の大切な足になっている。そしてドライバー、あるいはその車のオーナーが全財産をはたいて買ったとおもわれるガタガタの音楽カセット・プレーヤーから流れ出す激しいサウンドはちょっと古い表現だがディスコ調のものだ。もう誰にもその音は止められない。音楽を聴くことで渋滞も排気ガスも辛い日々の生活さえも忘れようとしている。それはドライバーも乗り合わせた乗客も皆一緒だろう。この国では音楽はすべてを忘れさせてくれる大切な魔法なのである。音楽はすべてに優先されていた。正樹はノウミと二人でそのジプニーを三回乗り継いでフィリピン大学の広大なキャンパスにたどり着いた。ノウミはフィリピン大学の学生ではなかったが、別の大学で化学を専攻していた。彼女は遠慮をするということを知らない。まるでマシンガンのように英語を正樹にぶつけてくる。もう、たじたじである。ノウミはストレートな性格のようで、おもったことは何でもハッキリ言ってくる。まだ英語があまりよく聞き取れない正樹にとって、遠慮なく発せられる言葉には確かに困惑するが、逆にそのキツイ言葉の意味が分からないことはかえって幸いだったのかもしれない。しかし、何度も言うようだが、ノウミの素晴らしくバランスのとれたナイス・ボディはそんな性格を見事にカバーしている。例え、どんなに失礼な言葉を彼女から言われたとしても、正樹はそれだけですべてが許せた。
 フィリピン大学のディリマンキャンパスは広大な敷地に建物がポツリポツリと離れて点在している。一箇所に建物を集めた方が学生たちは教室を移動するのが楽だろうに、でも何故かそうなっていない。炎天下での教室の移動は大変である。このキャンパスの中でもジプニーが走っている。当時はキャンパス内であれば、どこまで行っても何回乗っても無料だったが、現在は分からない。とにかく広すぎなのである。歩いていたのでは次の講義に間に合わないのだ。ただフィリピン大学の医学部はルネタ公園の近くにあり、農学部は郊外のロスバニョス、水産学部は別の所にある。残りの学部がこの広大なディリマンキャンパスにあった。廊下を歩くだけで涼しげに感じるスペイン風の建物や天井が高く落ち着いた雰囲気の教室もフィリピンの頭脳の集積所にふさわしい。ノウミはそのディリマンキャンパスで正樹を数人の男友達に紹介した。超エリートばかりだったがノウミの友達は皆がっちりした体型をしていた。それが彼女の好みなのかもしれない。自分に日本人の知り合いがいることを自慢しているかのように正樹にはおもえた。
「ねえ、正樹。この近くにウエン姉さんの勤めている病院があるのだけれども、ちょっと行ってみない。」
「ええ、行きましょう。でもウエンさんの邪魔にはなりませんか?」
「大丈夫よ。アメリカの資本で建てられた病院だから、とても大きくてきれいよ。」
「レントゲン科で働いていると言っていましたが、あの僕は素人でよく分かりませんが、年中、X線の近くにいると危険はないのでしょうか?」
「そうね、ちゃんと管理はされているとはおもうけど、あまり健康には良くないとあたしはおもうけどね。まあ、その分、お給料は高いのだから仕方がないかな。」
 行ってみると話の通りアメリカナイズされた立派な病院だった。とても庶民の病院にはおもえなかったのでノウミに聞いてみると、やはりお金持ちの病院だという返事がすぐに返ってきた。もちろん病院の門戸はすべての人々に開かれてはいるのだが、現実問題として日本のように保険制度は整っていないわけで、治療費は目の玉が飛び出るほど高いのだから自ずとこの病院の患者は限定されてくる。正樹の知っている当時の日本の病院とも比較にならないほど実にすばらしい設備が施されていた。
 レントゲン室の隣の扉が開き、合成の皮のような緑色した大きなエプロンを首から下げて、溢れんばかりの笑顔でもってウエンさんが中から飛び出て来た。明るい、すべてが急に明るくなった。昨日、ルネタ公園を案内された時に感じた、あの優しさにまた正樹は包まれていた。ウエンさんの存在そのものが明るかった。何というすばらしい人なのだろうか、そばにいるだけで嬉しくなってくると正樹は再び感じた。ウエンさんは挨拶をした後、いったんレントゲン室に戻り、緑色のエプロンをはずしてから廊下に出て来た。ノウミとウエンさんに挟まれるようにして病院内の案内が始まった。正樹の聞き取れない難しい英語の解説が始まってしまった。彼女が広い病院中を案内して説明してくれた内容は正樹にはほとんど分からなかったが、生き生きと自慢げに説明してくれるウエンさんの横顔をながめているだけでとても幸せな気分になった。ウエンさんは同僚たちとすれ違う度に、日本人である正樹を誇らしげに紹介して回った。正樹はこちらに来る前にとても反日感情を心配していたのだが、それはもう若い人々の間には存在していないようにさえおもえた。あるいはそれは正樹の勘違いであって、他の隣国のように感情をあからさまに表に出さない国民性なのかもしれない。正樹はあまりウエンさんの仕事の邪魔をしてはいけないと気づき、ノウミにそっと耳打ちして病院を引き上げることにした。
 大通りに出てバスに乗った。すると突然のスコールである。強烈な雨が降り始めた。乗客はいっせいに自分の近くの窓を閉め始めた。窓と言ってもベニヤ板である。だから最後の一人が窓を閉めた時、バスの車内は完全に真っ暗になってしまった。愉快な体験であった。おんぼろバスは普段は窓がなくて風通しがすこぶる良いのだが、雨の時はこうして板で閉め切ってしまうので車内は地獄のように蒸してしまう。留め金が馬鹿になっている窓はそこに座った乗客が手で押さえることになる。不運にも正樹の横の窓もうまく引っかからなかったので、正樹がベニヤ板を押さえ続けた。バスはマニラ市に向かって快調に走り続けた。
 十六世紀に入り、スペインがフィリピンを占領するとマニラの中心に彼らがこの国を支配する拠点として城壁都市を築いた。それが現在も残っているイントラムロスだ。城塞の中には教会や歴史的な建物が数多く残っていて観光客で賑わっている。そしてマニラ湾へ流れ出る川のほとりにあるサンチャゴ要塞は時の権力者たちが大砲を構えた場所だ。太平洋戦争中、日本の憲兵隊も本部としてそこを使用した。現在ではその要塞は沢山の花が咲き乱れる公園として整備されているが、正樹はノウミに敷地内の奥の地下牢に連れて行かれて言葉を失ってしまった。その牢獄は海の潮が満ちてくると海水が川を逆流してきて、牢の中を海水でいっぱいにしてしまう水牢だったからだ。潮が引く時に鉄格子を引き上げておくと、獄中で水死した遺体は川から海へと自然に流れ出ていくしくみになっていた。誰がこんな残酷な水牢を考え出し造ったのだろうか。造った者だけではなく、実際に使った者すべてに天罰が下ればよいのにと正樹はおもった。先の大戦でも、たくさんのフィリピン人とアメリカ人が日本軍によってこの水牢で命を落とした。水牢の前には犠牲者を慰霊する十字架が立てられており、そのことを何も知らない日本人観光客たちが十字架の前で大声ではしゃぎ、そして記念写真を撮っていた。正樹はその悲しい史実を知った者は誰であろうとすべて平和を祈り末代までも語り継がねばならないと強くおもった。
 次にノウミが案内してくれたのはマニラ大聖堂であった。抜けるような青空の下を二人は歩いて教会まで行った。教会とはその大きさやきれいさでその存在を差別してはならないのだが、マニラ・カテドラルはフィリピンで最も重要な教会である。カトリックの大司教が本拠地を置いており、イントラムロスのランドマーク的な存在だ。主要教会の中では唯一ここだけ冷房施設がある為に結婚式場としてかなりの人気がある。それも高額所得者たちの結婚式である。ちょっと名の知れた芸能人たちは馬鹿の一つ覚えのように競ってここで式を挙げる。正樹とノウミがマニラ・カテドラルに入った時も結婚式が行われていたが、聖堂への出入りは自由である。ノウミは教会の入り口にある聖水に指を浸し、その水を自分の額と正樹の額につけてから中に入っていった。お清めの水は神社にもあるなとおもいながら正樹もノウミの後から聖堂の中に足を入れた。一番後ろの席に二人で並んで腰を下ろすと結婚式は広い教会の前の方で淡々と進行していた。正面横には聖歌隊が陣取り、セレモニーが進行する度にいろいろな曲を歌っていた。賛美歌に限らず正樹の知っているポピュラーな曲も含まれていた。何曲かその聖歌隊の歌を聴いているうちに正樹は背中がゾクゾクっとふるえるのを感じた。そのハーモニーのすばらしさは教会という建物の音響効果と重なり、とてもきれいなメロディ、旋律となって正樹の耳に飛び込んできていた。歌を聴いていて体が震えたのはこの時が初めてであった。正樹はノウミにその歌の曲名を尋ねてみた。
「ノウミ、この歌、いま聖歌隊が歌っているこの歌は何というのですか?」
「ああ、この歌ね、これはマヒワガというフィリピンのラブソングだわ。ミステリアスな、何か恋とは不思議ですばらしいものだと歌っているわ。きれいな歌よね。あたしも好きだわ。」
「マヒワガですか。いい歌ですね。」
「マサキ、知っている?カトリックはね、いったん結婚すると、もう離婚はできないのよ。」
「それ、本当ですか?」
「本当よ。もしマサキがフィリピンで結婚するなら、もう離婚は出来ないって訳よ。いい、だからちゃんとした良い人を選びなさいよ。」
 ノウミは自分の胸を大きく張って、さも自分と結婚しろとでも言いたげな素振りをした。

 正樹とノウミはマニラ・カテドラルを後にして大通りに出た。夕方の交通渋滞に巻き込まれる前にアパートにいったん帰ることになった。正樹はノウミと一緒の時はタクシーよりも体を寄せ合うバスの座席の方がいいと一瞬そうおもった。と同時にノウミは手を挙げてバスを素早く止めてしまった。ところがバスに乗り込んでみると空いている席は一つだけしかなく、仕方なく正樹は立ちノウミだけが座席に座った。アパートがあるケソン市に着くまで途中で誰一人として席を立つ者はいなかった。鼻の下を伸ばした正樹が悪かったのである。
 だいぶ早くに二人はケソン市に着いてしまった。アパートに戻る前に近くのパブに行かないかとノウミが正樹を誘ってきた。文句なくオーケーであった。そのパブはオルガンが一台あるだけのインドネシア調の色彩と独特な表情をした大きなお面で溢れた店だった。店内は少し暗かったけれども、とても落ち着いた雰囲気の良いお店だった。運ばれてきた料理は白身魚の酢漬けで、実にサンミゲール・ビールとよく合った。少し酔いがまわってきた頃だった。突然、ノウミがマイクを手に取りオルガンの横に立った。彼女はこの店の常連客らしく、オルガンの所に座っているミュージシャンとも顔見知りで、しばらく二人で打ち合わせをした後、ノウミはマイクに向かってゆっくりと歌い出した。静かなオルガンの音色が彼女の後に続いた。そしてその旋律は再び正樹の背中を激しく震わせ始めたのだった。ノウミが選んだ曲はさっき教会で聞いたフィリピンのラブソング、「マヒワガ」だったからだ。何という素晴らしい世界に正樹は入り込んでしまったのだろうか。甘く切なく歌い上げるノウミの歌声は柔らかなオルガンの調べと調和して、歌のタイトルのように幻想的な世界へ正樹を引きずり込んでいた。
 正樹はおもった。隙間だらけの北海道のぼろアパートにいて、玉葱だけの味噌汁をすすって寒さにじっと耐えてきた生活はいったい何だったのだ。ここは以前にまったく想像することが出来なかった別の世界ではないか。環境がどうのこうのと言うのではない。ウエンさんやノウミ、アパートにいるすべてのあたたかい人々が正樹にそうおもわせたのだった。今日も素晴らしい一日になった。フィリピンに来て本当に良かったと正樹は心の底からそうおもった。まだ写真の美少女ディーンは本格的には登場していないというのに正樹のドラマはすでにクライマックスに近かった。


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