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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第49回   魚の餌
魚の餌

 薬物で眠らされていたのだろうか、渡辺社長は気がつくと頭のてっぺんがガンガンと痛んだ。周りを見回すと、すぐそこが船の中だということが分かった。船特有の丸窓があり、部屋全体が大きく上下左右に揺れていたからだ。渡辺社長は必死になって記憶の紐をたどってみた。
 確か、そう、あれはヨシオを殴り飛ばしてから、高瀬青年と旅行社の芳子さんの事務所に行ってみると、彼女はいなかったのだった。それで二人でがっかりして映画館に入ったのをおもいだした。暇つぶしに映画を観てはいたものの、苦手な英語だったのでわしにはさっぱり分からなかった。それでわしは映画館でしばらく眠ってしまった。ところが急に小便がしたくなって起きてしまった。南国に来て小便の回数はたしかに激減していた。汗で体の水分が出てしまうせいなのだろうか、たまに出てくる小便の濃度もその為かとても濃かった。膀胱が映画館の冷房で急に冷やされて、忘れていた小便を急におもいだしたのだろう。スクリーンの横にある前扉を開けて通路に出て、突き当りのトイレに入った。奥の個室は満席で、ドアの下からそれぞれ足がのぞいていた。こちらのトイレは隠し扉があれば良い方で、ほとんどの公衆トイレはドアが破壊されていて、大概、トイレはしゃがんで前の方をバックや新聞で隠しながら用を足すのが一般的だ。この映画館のトイレはまだましな方だった。自分は個室には用はなかった。横の壁についている小便用の便器に向かって小便をしていると、何者かが突然、後ろから両腕の付け根を抱え込んできた。不意をつかれて、自分はまったく身動きがとれずに便器から引き離される格好になってしまった。まだ用が済んでおらず、そうだ、小便が便器から床へとだらしなく飛び散っていたのを思い出した。次の瞬間、強烈な痛みが頭部に走り、自分は気を失ってしまった。それからのことはまったく思い出せない。自分は何者かによって、気を失ったまま、映画館から連れ出されて、そして今、こうして船室に閉じ込められている。渡辺社長は立ち上がって丸窓の外を見てみた。時折、小さな島が遠くに見えるが、船の速度と同じ速さで真っ青な大きな海が窓の下を流れていた。
 突然に、全ての歯車が狂ってしまった渡辺社長は映画館から連れ去られ、薬物を投与された後、しばらくピエール(港)の倉庫に監禁されていた。身代金を要求した後、ミンダナオ島へ船で連れて行き、社長の体をバラバラにして臓器を売り払う予定だった。闇の世界では臓器の引き合いはいくらでもあった。臓器はいつでも引っ張りだこで高い値がついた。身代金は京都の渡辺電設本社へ直接に伝えられた。女の声で、しかも日本人の女の声によって、短い電話が入り要求された。
 船室で目を覚ました渡辺社長は自分が誘拐されたことに気づくのに、そんなに時間はかからなかった。船室のドアは外からカギがかけられていたし、テーブルの上にはボールペンと一枚の質問事項が書かれた紙が置かれてあった。ご丁寧にも、質問状はすべて日本語で書かれてあった。名前、住所、電話番号、勤め先、等々、これで暗証番号でも書けば、クレジットカードの申込用紙と何ら変わらない書式だった。社長は自分を誘拐した連中は身代金を要求するつもりで、しかもそのグループには日本人も含まれていると直感した。何時間経っても、犯人たちは姿を現さなかった。実に賢いやり方であった。奴らは自分たちの姿を見られることなく身代金を盗るつもりだった。犯人の姿が見えない恐怖は時間の経過とともにどんどんと膨らんでいった。船室の丸窓からはよく晴れた空の下にきれいな海がキラキラと輝いていた。
 「シュー」という音が鍵穴からして、ガスが船室に流れ込んできた。渡辺社長は再び気を失い、床に倒れてしまった。
 社長が再び意識を取り戻すと、そこはまた船室で、明らかに前とは違った大きな部屋だった。今度は大型の船のようであった。床にはバスケットが置かれてあり、その中には幾つかのパンとミネラルウォーターが入れてあった。同じボールペンと質問書もバスケットの底に添えてあった。犯人たちはすでに渡辺電設に身代金を要求しており、社長はもちろんそのことを知らなかった。渡辺社長はバスケットの中のパンに目をやったが、全身を恐怖と船酔いが支配していて、食欲などはまったくなかった。再び窓の外を見てみると、海はさっきよりもずっと下の方にあった。やはり大型の客船に気を失っている間に移されたことが分かった。船の揺れ方も少しではあったが前よりはまだましであった。どうせ、この船室のどこかに隠しカメラとマイクがしかけてあるのだろうとおもい、社長は目に見えない相手に向かって大声で怒鳴ってみた。
「おれを何かのガスで眠らせて、別の船に乗せやがったな!お前らはそうやって最後まで姿を見せないつもりらしいが、それなら、それでいいよ。わしは何も書かないからな!身代金は取れないからな!そのつもりでいろよ!」
 犯人たちが社長をまだ生かしているのは、身代金の為ではなかった。向こうに着いてから、売り飛ばされる彼の内臓が腐らないようにしているだけのことだった。社長はひとしきり怒鳴った後で、床に寝転んでじっとしていた。すると突然、大爆音とともに窓が吹き飛んでしまった。幸いにも社長には怪我はなかったが、もの凄い衝撃で耳の聞こえが悪くなってしまったようだった。何が何だかまったく分からなかったが、渡辺社長は恐る恐る吹き飛んだ窓の外をのぞいてみた。その時、船がガクッと大きく傾いたので、社長は両手でしっかりと壁に沿って渡されてあったパイプを掴んだ。だがどうする、これで飛び降りれば、逃げることが出来るぞ、しかし海まではかなりの距離があるし、そして飛び込んだ後はいったいどうなるのだ。社長は迷った。すると船室の外で声がした。それも日本語の女の声だった。
「証拠を残すとまずいから、奴の息の根を止めておきなさい!早く、やっておしまい!」
 船はすでに停止しており、今にも誘拐犯人たちはわしの口を封じに船室の中に入って来ようとしていた。どうせ死ぬのなら、殺される前に海へ飛び込んだほうが、まだチャンスはある。社長は窓が吹き飛んでポッカリと開いてしまった穴から、出来るだけ遠くにジャンプした。次の瞬間、渡辺社長の大きな体は海面に叩きつけられ、かなり深くまで沈んだ後、再び、海面に浮き上がってきた。しかし落ちた時に胸をかなり激しく打ったらしく、その痛みがずっと続いていた。この持続する痛みは骨が折れた時の痛みだ。以前に腕を骨折した時と同じ痛みが胸のあたりで止まらなかった。すでにたくさんの浮き輪が投げ込まれており、救命ボートも降ろす準備が進められていた。この大型客船の船長はすでに船の沈没を予期しており、緊急信号を四方八方に発信していた。渡辺社長はプカプカ寄ってきた浮き輪につかまって沈み行く船を見ていた。いつ鮫がそっと近寄って来て、自分の足を、いや下半身をざっくりと食い千切っても不思議ではなかった。それでもさっきの船室でむざむざと殺されるよりはましだった。船は一時間と持ち堪えることは出来なかった。後部から徐々に海底へと沈んでいった。
 おそらく、この時点で世界で一番ついていない男はこの自分だと渡辺社長はおもった。胸の肋骨が何本か折れてしまっているのだろうか、その痛みを堪えながら、ただじっと海に浮かんでいるだけだった。泳げばそれだけ体力が消耗してしまうからだ。気が遠くなるような時間が過ぎていった。いつしか自分の周りには壊れた船の残害もなくなり、社長一人だけが潮の流れに任せて漂流していた。海に浮かんだまま、とうとう夜になってしまった。見上げると、空には星が埋め尽くされており、自然と感情が高ぶってきてしまった。渡辺電設という会社を始めてから、考えてみれば、星などしみじみと見たことはなかった。
もし、このまま救助されなければ、自分もあの星になるのかとおもうと、自然と目頭が熱くなってきた。確かに自分はわがまま勝手に生きてきたかもしれない。しかし、千人を超える従業員とその家族の生活を支えてきたことも、それもまた事実なんだと渡辺社長は痛む胸を張りたかった。このまま死ぬのか?この南国のきれいな海で魚の餌になってしまうのか?浮き輪につかまる腕の力が段々と弱ってきていた。社長は痛みを堪えながら上着を脱いで、残された力でそれを引き千切り、何度もよって紐にした。その紐を使って自分の体と浮き輪を縛り付けて固定した。いつ眠ってもいいようにしたのだった。意識がだんだんと薄れてくるのを、悲しいかな、渡辺社長は自分でもはっきりと分かった。


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