日本語教師誕生
高瀬と正樹はジプニーを乗り継いで、キアポと呼ばれる街へ出た。ここはキアポ教会を中心に開けた門前町で、教会に祭られた黒いキリスト像は奇跡を起こすと人々に信じられていて、特に貧しい人々から崇拝されていた。亡くなったヨシオの母親もこの教会に来て、ヨシオの為に何万回となく祈りを捧げていた。そこには日本のお百度参りに良く似た儀式が存在していた。教会の中の通路をひざまずいて何度も行ったり来たりしている人々がいた。膝っこぞうは黒くなってしまっていて、見ていると痛々しくなってしまう。何か願い事をしているのだろうか、あるいは自分の犯した罪に対して懺悔をしているのだろうか、正樹はカトリックのことはよく知らないけれど、膝が黒い人々を見ると、ああ、この人は敬虔なカトリックの信者なのだとおもうようになった。キアポはマニラでも下町の中の下町といった繁華街で、東京の浅草に良く似ている街だ。たくさんの商店が道にまで溢れていて、無許可で露店を出している者も少なくなかった。すぐ隣には中華街もあり、大学の集まっている学生街も近く、人通りは半端ではなかった。川沿いにはキンタマーケットと呼ばれる市場もあり、魚やら豚の頭がずらりと並び、正樹が日本では見たこともない果物が通路の両脇に並べられていた。そして市場特有の強烈な臭いがキアポの街全体を包んでいた。役所が集中するマニラの中心地から橋を渡るとこのキアポの街に出るのだが、その橋のたもとにある店の前で正樹はジプニーの運転手に向かって叫んだ。 「サタビランホ!」 正樹はそこで止まってくれるようにジプニーの運転手に声をかけた。ジプニーを降りた二人はそのまま店に入った。雑貨や菓子、玩具、洗剤、缶詰、野菜までも置いてある。売れるものなら何でも置いてある万屋の狭い通路を店の奥へと正樹は高瀬を案内した。突き当たりに階段があり、その十段ほどのステップには安っぽい緑色をしたゴムシートが張られていて、通路を歩いてきた濡れた足が滑らないようにしてある。その階段を上がると、テーブルが五つ置かれてあり、10席ほどの小さな喫茶室になっていた。カウンターもないので小さな食堂と言った方が正しいのかもしれない。客は誰もいなかった。商店の奥にある少しのスペースも無駄にしない貪欲なまでの商魂をこの喫茶室は感じさせてくれる。決してきれいとは言えない内装だけれども、お金を儲けようとする店主の意気込みを正樹はここに来る度に感じていた。正樹はキアポの街に来ると何故かこの喫茶室に寄ってしまう。ディーンとも何度もここで長々と将来の話しをしていた。いつもだと学生のカップルが談笑しているのだが、この日は誰もいなかった。喫茶室に入ると高瀬は一番奥の席に座った。正樹は入り口を背にするようなかたちなった。しかし正樹は高瀬が落ち着いて話が出来るように席を敢えてかわってもらった。高瀬が正樹しか見えないように席を配慮した。誰が入って来ても気が散らないようにしたのだった。 「高瀬さん、最後に食事をしたのはいつですか?答えたくなければ答えなくても結構ですが、私の見たところでは、しばらく何も食べていないご様子だ。違いますか?」 「ええ、実はもう三日間、水以外のものは私の口には入っていません。お恥ずかしい話ですが、正直言って、ここまで落ちるとはおもいませんでしたよ。」 「それで、さっきの話の続きですがね。あなたがお金を貸した社長の名前ですが、確か、渡辺とか言っていませんでしたか?違いましたか。渡辺社長でしたよね?」 「そうです。渡辺社長です。」 「そのあなたの渡辺社長と私の友人の知り合いの渡辺社長が同一人物かどうかは、私には分かりませんが、この前、ヨシオを殴っていたのが渡辺社長だとすると、大柄な人だ。私の友人の知り合いの社長も体格の大きな人だと聞いておりますから、同一人物の可能性は大いにありますよ。もし同じ人ならば、私の友人は彼の日本の住所を知っていますから、あなたを騙して日本へ帰ってしまったのならば、簡単に彼の居場所は分かりますよ。しかし、もし、何かの事件に巻き込まれて、まだマニラにいるのだとしたら、この捜査は難航しそうですね。」 高瀬はまだ落ち着かない様子でうつむいている。それでも段々と話し出した。 「私が渡辺社長と会ったのは旅行社の芳子さんの事務所でした。私が芳子さんと話をしていると渡辺社長が血相を変えて部屋に飛び込んで来まして、強盗にあって何もかも盗られたので助けて欲しいと、汗びっしょりになって頼みました。丁度、今のこの私と同じ様にね。何もかも盗られて、まったくマニラには知り合いがいないので助けてくれと、どこで聞いたか知りませんが芳子さんを訪ねて来た訳です。芳子さんは社長にコレクトコールで日本に電話をさせました。それは芳子さんの銀行の口座に日本から送金させる為でした。それでその送金が届くまでの間、時間がもったいないので、遊ぶ金を貸してくれないかと頼まれました。確かに電話で、自分の会社の部下にお金を至急送るように指示をしていたのを聞いていましたので、自分は安易にも渡辺社長を信用してしまいました。まったくお恥ずかしい次第ですが、彼がどこに滞在しているのかも、もちろん、日本の住所も聞かずに、私の一年分の生活費をそっくり渡してしまいました。ところが、悪いことは重なるもので、社長はルネタ公園でまた強盗にあってしまいました。わたしの貸したお金まで盗られてしまいました。・・・・・・・。」 高瀬は色々なことを思い出してしまったのか、テーブルに泣き崩れてしまった。相当、悔しかったとみえて、その泣き顔には厳しいものが混じっていた。 「ルネタ公園はとても広い公園です。カジノへ向かう途中で社長はもう歩けないと言い出しましてね、私がスナックと飲み物を買いに行っている間に社長は再び強盗に襲われてしまいました。私の貸してあげたお金を全てそっくり盗まれてしまいました。性質の悪い強盗で、社長はその時ひどく殴られまして、一時はそのまま死んでしまうのかとおもったくらいです。すぐに病院へ行こうとしたのですが、それは出来ませんでした。なんせ、私たちは無一文の状態になってしまいましたので、その夜は私の部屋で過ごして、そして次の日に芳子さんの所へ相談しようと向かいました。その途中で社長はあのヨシオとかいう子供を見つけましてね、私には何が何だかさっぱり分からないうちに、社長はあの子に殴りかかったという訳です。そこへあなたが現われました。その後、私たちは芳子さんの事務所へ行きましたが、まだ送金したという知らせは届いていませんでした。僕はがっかりしていた社長をいたわるつもりで冷房のよく効いた映画館へ誘いました。しばらく社長は気持ち良さそうに座席で眠っていたのですがね、トイレへ行くと言って席を立ったっきり姿を消してしまいました。」 「そうですか、それで大体、話はつかめました。高瀬さんがその社長とはぐれてしまった経緯も分かりました。」 「ええ、まさか、映画館から姿を消してしまうなんて誰がおもいますか、ちょっとトイレに行ってくると言い残して、そのまま、戻っては来ませんでした。自分は日本から社長のお金が送られてくることになっていた芳子さんのところへ急ぎました。ところが、その芳子さんも急に日本に帰ってしまったとかで、マニラから姿が消えてしまいました。私はもう何が何だか分からなくなってしまい、頭の中が本当に真っ白になってしまいました。結局、私一人がバカになってしまったというわけです。さらに悪いことには、もう一度、社長が消えてしまった映画館へ行ったのがまずかった。今度は自分が強盗に襲われてしまい、残り少なかった小銭もパスポートも、それから航空券までもそっくりやられてしまいました。それで私は警察の前でああやって何か手がかりはないかと座っていたのです。そうしたら、突然、署長室に連れて行かれて、あなたからヨシオのことを聞かされました。正直言って、ああ、これでやっと、日本に帰れるとおもいました。強制送還でも何でもいいから、日本へ早く帰りたいと心底そうおもいました。」 正樹は話しに夢中になっていて、注文をするのを忘れていた。 「そうだ、高瀬さん。何にしましょうか。この店にはたいしたものはありませんけれど、結構、家庭的なものはそろっていますよ。どうぞ遠慮しないで言って下さい。これがメニューです。さあ、どうぞご覧下さい。」 「有り難うございます。では、お言葉に甘えまして、おかゆをお願いします。しばらく何も食べていなかったものですから、急にかたいものは胃が受け付けないとおもいますので、私はおかゆをお願いします。」 「ああ、それがいいかもしれませんね。でも、この店のおかゆはおいしいですよ。生姜が入っていて、紅花も上に散らしてあってね、なかなか見た目にもきれいだし、味もなかなかのものですよ。私も同じものにするかな。飲み物はどうしますか?ビールはまだ止めておいた方がよろしいかとおもいますが。」 「コーヒーにして下さい。あたたかいコーヒーが今とても飲みたい気分です。」 「分かりました。ではちょっと注文してきますね。私はビールにしますが悪しからず。この国に来て、水代わりにビールを飲んでいますので、悪い癖がついてしまいました。」 正樹は調理場の中へわざわざ入って行って注文をした。大きな声で呼べば店の者が飛んで来るものを、そうしないのが正樹のやり方だった。二分もしないうちにウエイトレスがビールとお湯だけ入ったカップをテーブルに置いた。高瀬はコーヒーを頼んだのだが、お湯だけ入ったカップを目の前に出されて、ぶぜんとした表情に変わった。ウエイトレスはそんな高瀬の顔色などちっとも気にすることなく、エプロンのポケットからコーヒーの入った紙袋とクリームの入った小袋、そして最後に砂糖の入ったビニール袋を取り出し、テーブルの上に並べた。そして何も言わずにさっさと調理場へ引っ込んでしまった。正樹が高瀬の顔を見ながら言った。 「この店のホットコーヒーはこれなのですよ。インスタントコーヒーを自分でつくらせるスタイルを採用しています。客によって好みが皆それぞれ違いますからね、クリームを入れたり入れなかったり、砂糖はいらないという人もいる。自分でつくらせることは極めて合理的なやり方ですよ。結構、マニラではコーヒーを頼むとお湯とスプーンだけ出てくる店は多いですよ。このスタイルが主流みたいですね。」 「そうでしたか、話を聞いているうちにだんだんと心があたたかくなってきましたよ。でも暑い国だから、みなさん、あまりコーヒーなどは飲まないのかもしれませんね。」 「いえ、そんなこともありませんよ。どこの家庭でも朝はコーヒーと決まっていますよ。この国が暑い暑いと言っても人間の体というものは、いつも気温が30度の中にいますと、ちょっと温度が下がっただけでも寒く感じるものですよ。それがたとえ28度だったとしても、とても寒く感じるものです。それから華僑の人達の影響でしょうか、朝はおかゆを食べる習慣もあるみたいですね。朝、おかゆを売って現金収入を得ている家もよくさがせば近所には必ず何軒かはありますからね。ただフィリピンの朝食の定番と言えば、何と言ってもダインでしょう。小魚を干して塩辛くしたものを焼いたり、油で揚げたりしてご飯と一緒に食べます。少量のおかずでもって大家族の食卓を賄います。食費のことを考えると、このダインは必要不可欠な食べ物と言ってもいいとおもいます。おそらくフィリピンの人たちは海外に出稼ぎに行く時はこの干し魚のダインをカバンの底に大量に詰め込んでいくとおもいますよ。ダインは確かにうまいですよ。ただ、その腐ったような臭いには凄いものがありますね。焼いたり揚げたりすると近所中がその臭いに包まれてしまって、外国では近所迷惑として苦情が殺到すると私は確信しますがね。高瀬さんは食べたことがありますか?」 「いえ、まだ、ありません。日本の納豆のようなものですか?」 「いや、納豆の臭いの方がまだかわいい方ですよ。でも北欧のあのニシンの缶詰には負けますが、それでもダインの臭いは食べた後まで、そうですね、五時間ぐらいは残っているのではないでしょうか。しかしこれだけ多くの人々から支持されている食べ物ですからね、確かに、うまいのですよ。」 おかゆが運ばれてきて、ふたりはしばらく黙っておかゆを食べた。高瀬はひとさじ、ひとさじ、ゆっくりと味わいながら口に入れ始めた。 「それで、さっきの話の続きですが、そのあなたの渡辺社長はどこの出身だかご存知ですか?」 「彼の話し言葉から判断しますと、京都だとおもいますよ。」 「京都ですか、私の友人の知り合いの渡辺社長も京都だったとおもいます。もし、二人が同一人物ならば、あなたが失ったお金は戻ってくる可能性は高くなりますね。」 「そうだとしたらありがたいのですが。」 「しかし、何度も言うようですが、その渡辺社長が何かの事件に巻き込まれてしまって、行方不明になっているとしたら、そう簡単にはお金は戻らないでしょう。お金を貸す時に借用証みたいなものは書いてもらいましたか?」 「いいえ、何も要求しませんでした。こうなってみると、ちょっとした走り書きでも、もらっておくべきでしたよ。」 「とすると、あなたがお金を貸したということは渡辺社長しか知らないわけだ。それでは日本の彼の家族や会社の住所が分かっても、そう簡単にはお金は取り返せませんね。」 「まったくその通りです。だから、私としてはどうしても社長が無事であってほしいわけです。」 「高瀬さん、私はその旅行会社の芳子さんとやらが急にいなくなったことも、どうしても解せませんね。まあ、署長には、今、あなたがおっしゃったことはすべて私の方から伝えておきますよ。警察も可能な限りの捜査はしてくれるとおもいますよ。」 「有り難うございます。」 「高瀬さん、私はあなたが、もし、このまま日本へ戻られれば、このフィリピンに対して何一つとして良い思い出はないことになりますよね、違いますか。徹底的に打ちのめされてしまったあなたに、こんな事を言うのは、私の方がおかしいのかもしれませんが、私としては、もう少しあなたにこの国のことを知ってから日本へ帰ってもらいたいと願うものです。」 「しかし、これだけ痛めつけられますと、早く故郷の新潟へ帰りたい気持ちでいっぱいになります。このままここにいると命までもとられてしまいそうな気がしてなりません。」 「ご尤もです。ただ、あなたは日本に帰っても会社にはまだ戻れないわけですよね。とすると、日本に帰ってバイトをしながら会社からの呼び出しを待つわけだ。高瀬さん、せっかくあなたはこのマニラにはるばるやって来たんだ。私はあなたがもう少しこの国に留まってフィリピンという国の良さをほんの少しでもいいから発見してから帰って欲しいとおもいます。」 「正樹さん、今の私には何も考えることは出来ませんよ。日本へ戻る飛行機代すらないのですからね。どうしたらいいのか、まったく分からないのですよ。」 しばらく正樹は考えてから、こう言った。 「もし、あなたが日本へどうしても、今すぐに帰りたいのであれば、私がその飛行機代をお立替えいたしましょう。日本に帰ってから、お金ができた時に返してもらえれば、それでいいです。しかしね、かなりしつこいようですが、もう一度、このフィリピンでやり直してみる気はありませんか。はっきり言いますね。私たちは日本語の教師をさがしています。一流大学を出られて、一部上場の企業におられるエリートの高瀬さんにこんなことを言うのは失礼かとおもいますが、半年でも一年でもいいのですが、日比混血児たちに日本語を教えてやってはくれませんか。もちろん、生活に困らない程度の手当ては出します。このまま嫌な思い出だけを抱えて日本へ帰るのでは、あまりにも悲しすぎませんか。何かを掴んで戻られた方がきっと高瀬さんの人生の上で大きな力になるとおもいますよ。どうも、さっきから私みたいな若輩者が偉そうな事ばかりを言ってごめんなさい。」 「さっき、警察で署長が言っていた子供たちというのは日比混血児たちのことですか?署長は島とか何とか言っていましたけれど、どういうことでしょうか。」 「実は、私たちはフィリピンのほぼ中央にあるボラカイ島で、親からも社会からも見捨てられて非行に走ってしまった日比混血児たちと共に生活をしています。その島で子供たちに日本語や一般教養を教えているのです。勘違いされては困るのですがね、わたしたちの家は孤児院でも刑務所でもありませんから、島に残るのも去るのも子供たちの意思に任せています。すべて自分で決めさせています。幸いなことに今までのところ、一人も島を出たいと言い出した子供はいません。ボラカイ島という素晴らしい環境の中でみんなで助け合って共同生活をしています。どうです、高瀬さん、島を見てからでも結構ですから、考えてみる気はありませんか。過ぎ去った事はもう忘れてしまいましょう。あなたが失ったお金の事は署長に任せておいて、僕と一緒にボラカイ島へ行きませんか。あなたのようなやさしい人はきっとボラカイ島で子供たちを見ているだけで、彼らの生きて行く強さを感じるはずです。」 おかゆをすすりながら高瀬は熱いものがこみ上げてくるのを感じた。知らず知らずのうちに涙がぽろりと一粒だけ零れ落ちてしまった。 「そうですよね、正樹さん、フィリピンが悪いわけじゃない、この自分が不注意だっただけだ。このまま、この国を呪って日本へ帰ったとしても何も良いことなんかありゃしない!そうですよね。是非、私をそのボラカイ島へ連れて行って下さい。お願いします。僕に勤まるかどうかは分かりませんが日本語を教える手伝いを僕にやらせて下さい。」 「よし、決まった。もう、それだけおかゆを食べたのだから、ビールは大丈夫でしょう。乾杯したい気分ですよ!一本だけ注文しますけれど、いいですね。」 「もちろんですとも、お願いします。」 高瀬は筋骨たくましい頑強な男だったが、だらしなく涙がポロポロとこぼれてしまった。見知らぬ国で災難に遭遇し、頼る当てもなくさ迷い歩き、絶望のどん底までたどり着いた者にしか分からない涙だった。人のやさしさに触れた者にしか分からない涙だった。しばらく飲んだ後、二人は店の前からタクシーに乗ることになった。正樹が手を上げて車に合図しようとした時、高瀬がそれを止めた。 「すみません。ちょっといいですか。」 高瀬は正樹をその場に残して、キアポ教会の中へ入って行ってしまった。しばらくして高瀬は教会から出て来て言った。 「どうしても、あの奇跡を起こす黒いキリストさんにね、一言、お礼が言いたくて、すみませんでした。お待たせしました。」 高瀬は黒いキリスト像、ブラックナザレスが自分を救ってくれたとおもった。高瀬は一文無しになり、この教会へ来た。別に祈りに来たわけではなかった。ただ足が疲れて、他に休む所もなく、教会の長椅子に座って休むためだけだった。しかし高瀬は素直に自分に起こった出来事が奇跡だと信じて、黒いキリスト像にお礼を言ったのだった。 正樹は幼い頃より、人間が作った偶像を人間が崇拝することにはかなりの抵抗感があった。ところがこのフィリピンに来て少し見方が変わってしまった。極限の精神状態で生きている人々は何かに救いを求めて生きているのだ。だから完全に偶像を否定することが出来なくなってしまった。正樹がフィリピンに来て驚いたことの一つには、どの町へ行っても立派な教会があるということだ。それは大都市だけではなくて、どんな田舎へ行っても同じだった。人々がどんなに貧しい暮らしをしていても、教会だけはどこへ行っても大きくて立派な建物が建っていた。本来、教会とはその字のごとく、教えを聞くために集う会のことを意味していたはずなのだが、いつしか建物のことを差すようになってしまったようだ。その昔、キリストが野原に人々を集めて教えを説いたように、教会とは建物など必要ないと正樹はおもっていた。だから貧しい人々からの献金でもって神父たちがのうのうと暮らし、自分の生活を後回しにしてまで、苦労して絢爛豪華な教会の建物を造る意味がよく分からなかった。しかし、ヨシオの死んだ母親のように彼女が住んでいたゴミ捨て場のバラックから時には飛び出して、天井が霞んで見えないような立派な大聖堂に行って、しばしそこに身を置き、心を静め、祈ることの意義を正樹はこのフィリピンに来て初めて分かったような気がする。貧しい人々が多い所にこそ立派な教会は必要なのであり、逆に先進国のようにお金が有り余っている場所には豪華な教会は必要ないのではとおもうようになってきた。正樹は、ふと、こうもおもった。「貧しい人々は幸いである。彼らは天国を見るであろう。」何か、そのような言葉が聖書の中に書いてあったように記憶する。その解釈は人それぞれ違うとおもうのだが、読んだ人がその意味を自分の人生の中で考えればいいのであって、正樹は何不自由なく暮らす先進国の人々はお金と暇と時間を持て余してはいるが、意外と、心は満たされていないのかもしれないともおもった。それで心の救いを求めて人々は集まり、様々な宗教が存在しているのかもしれない。さっきの聖書の言葉が真実ならば、経済的に恵まれている人々は最終的には天国には入れないのではないだろうかと正樹は感じ始めていた。ただ、これだけは強くおもう。先進国には豪華な教会や寺社は必要ない。そんなお金があれば発展途上の国で苦しむ子供たちの為に使ったほうが、よっぽど役に立つではないか。偽善的な礼拝、心の道楽の為の宗教なんてナンセンスである。もし本気で救いを求めるのであれば、バラック小屋に集まって質素に勉強し合えば良いとおもう。先進国には立派な教会や寺社、あるいはサロンのような建物はいらないと正樹は確信している。日本でよくみられる宗教はあまりにも余計な部分が多過ぎるのである。正樹は高瀬がキアポ教会から出てくるのを待ちながらそんなことを考えていた。 キアポ教会はあいかわらず貧しい人々で溢れていた。正樹と高瀬は教会の柵を利用して薬草を売っている老婆の前からタクシーに乗り、ケソン市のアパートへと向かった。 次の土曜日に、高瀬と正樹は東警察署からヘリコプターの定期便でボラカイ島に渡った。その日、新しく二人の子供が島の生活に加わった。すでに50人以上の子供たちがボラカイ島で生き生きと共同生活を始めていた。高瀬はその子供たちを見て、自分ももっと強く生きなければならないとおもった。
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