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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第46回   地獄で仏
地獄で仏


 マニラという大都会は小金を多少持っている外国からの流れ者にとっては初めはこの世の天国である。ところが次第に懐が寂しくなってくるやいなや、全てが一変してしまう。日本で犯罪を犯して流れて来た者たちが、結局、最後には日本の刑務所の方がまだましだと言って帰国してしまう理由もそこにあるのだ。マニラというところはそんなにあまい場所ではないのである。
 マニラ東警察署の入り口横の長椅子には高瀬青年がうなだれるようにして一人で座っていた。彼の前をひっきりなしに警官やら住民たちが足早に行き来していた。もう何日も洗濯をしていないシャツは色黒の高瀬をまるで浮浪者のように見せていた。渡辺社長と映画館ではぐれてから、どれだけの時間が過ぎたのかさえも高瀬には思い出せなかった。すっかり落ち込んでしまっていて、長椅子に座っているのがやっとの状態だった。高瀬は不況のあおりで勤めていた新潟の造船会社から一時帰休することを強いられていた。そして会社に復帰するまでの間、マニラでおもしろおかしく遊んで過ごす予定だったのだが、渡辺社長と出会ったおかげで何もかもが狂ってしまった。一年分の生活費、そのすべてを渡辺社長に貸したまま、大都会のマニラで社長とはぐれてしまったのだった。渡辺社長のマニラでの滞在先も日本の住所も会社名も聞かなかった自分が愚かだったと自分自身を責め続けていた。二人で映画館へ行き、渡辺社長はトイレだと言って席を立った。それっきり社長は高瀬の隣の席には戻って来なかった。時を同じくして、旅行会社の芳子もいなくなってしまって、もう何もかもが分からなくなってしまっていた。騙されたのか、それすらも高瀬には判断することが出来なくなっていた。初めから芳子と社長はグルで自分を騙したのだろうか?いや違う、旅行会社に勤務している芳子がそんなリスクを冒すはずがない。社長が何者かによって拉致されて、連れ去られた可能性もある。芳子は日本から送られてきた社長への送金に目がくらんだのだろうか?いや、それも違う。そんなはした金で旅行会社の職を失うようなことはしないはずだ。あるいは芳子が誰かに指図して社長を消してしまったのだろうか。いずれにせよ、高瀬の大切なお金がそっくり消えてなくなってしまったという事実だけが残った。目まぐるしく展開する災難の連続は高瀬を完全に打ちのめしていた。40度近い暑さの中であちらこちらをさ迷い歩いて、高瀬の体力も限界に達していた。何か手がかりはないかと社長とはぐれてしまった映画館へ高瀬はもう一度行ってみた。それはエアコンのよく効いた映画館に逃げ込み、暑さから逃れるためでもあった。少し涼もうとおもったのがまた更なる悲劇の始まりとなってしまった。まだ映画は始まっておらず、大きな館内にはほとんど人はいなかった。数人の観客がスクリーンの良く見える中央の上段の席にいただけだった。高瀬は誰もいない最前列の椅子に足を投げ出して深々と体を椅子の中に沈めた。場内が暗くなり、まだ観客の目が暗さに慣れていない頃であった。場内は空席だらけにもかかわらず、高瀬の隣の席に一人の男がさっと座った。身の毛がよだつとは正にこの事で、高瀬の全身の血は一瞬にして凍りついてしまった。映画のシーンが運悪く夜の場面が最初から続いていて、映画館も真っ暗な状態のままであった。スクリーンのわずかな光でもって、キラリとナイフの刃が見えた。高瀬は一瞬にして全てを悟った。パスポートも残り少ない現金もそっくり盗られてしまった。おまけに一年間オープンにしていた帰りの航空券までサイド・ポーチごと持って行かれてしまった。知り合いのまったくいない異国の地で、しかも、どういうわけか、頼りにしていた旅行社の芳子さんまでが姿を消してしまった。高瀬は相談する相手もいないままに、何日も警察の入り口でどうしたらよいのか考えていた。日本大使館へ駆け込んで助けを求める為には、まず現地の警察に盗難届けを出さなければならないと高瀬はおもっていた。ところが渡辺社長がヨシオを殴り倒したところをビデオに撮られたと信じ込んでいた高瀬はなかなか警察の門をくぐれずにいた。とりあえず入り口にいれば何か手がかりがあるような気がして、何日も警察の入り口にある椅子に座っていたのだった。その時、マニラ東警察署は大きな事件を幾つも抱えており、仮に高瀬が中へ入って自分に起こった災難を話したところで、誰も高瀬の話を親身になって聞いてくれる者はいなかっただろう。日本人の中小企業の社長が保険金目当てに、それも立て続けにマニラ湾に浮いていたからだ。連日、新聞もテレビも地元のメディアはトップニュースでその事件を取り上げていた。日本のメディアさえも大きく扱い始めていた。
 一台のタクシーが警察署の入り口に横付けになりドアが開いた。次の瞬間、高瀬はハッとして身を屈めた。渡辺社長が路上で強盗の手引きをした子供を見つけて、その子供を何度も殴りつけていた、あの雨の日に現われ、その光景をビデオに撮ったと言った日本人の青年がタクシーから降りて来たからだ。高瀬は身をねじるようにして隠れた。その青年はさっさと中に入って行ってしまった。どうやら自分のことは気づかれずに済んだらしいと高瀬は安堵した。ただ、やはり彼は警察にあの時のビデオを持ってきていたのだとおもった。
 正樹は入り口にいた高瀬に気づいていた。署長室に入ると、ヨシオを殴っていた男が外の長椅子の所にいると、すぐに署長に告げた。署長は部下にその男を連れて来るように命令した。五分も経たないうちに二人の警官に連れられて高瀬が署長室に連行されて来た。高瀬と正樹の視線が激しくぶつかり合った。正樹がまず口火を切った。
「あなたたちが痛めつけたヨシオと言う子供は何日も生死をさまよい歩いたのですよ。昏睡状態が何日も続いたことをまずあなたに伝えておきたい!」
 高瀬は逮捕されることを望んではいなかったが、こうなってみると、むしろ逮捕されて強制送還された方が楽かもしれないとおもい始めていた。それほど疲れ果てていたのだ。どんなかたちでもいいから、早く飛行機の中からあの富士山の勇壮な姿を見たかった。高瀬は言葉を返さなかった。いや、返せなかったのだ。
「正樹君、こいつを告訴しますか?」
 今度は署長が大袈裟に言った。正樹が高瀬に向かって言葉を再び投げかけた。
「あなたの連れは、今、どこにいますか?ヨシオのことを殴っていたのはあなたではなかった。むしろあなたは止めに入った方だ。正直に居場所を言えば、あなたの罪は軽減されますよ。あの太ったヨシオを殴った奴は、今、どこにいますか?」
 高瀬は正樹の言葉に手向かう気も逆らう気もまったくなかった。誰かに自分の置かれた境遇をただ喋りたかった。
「それが分からないのです。自分もあいつを捜しているところなのです。私の全財産をあいつに貸した後、姿を消してしまいました。まるで狐につままれたような話ですが、本当なのです。私はまんまと騙されてしまったようです。おまけに映画館で強盗にあってパスポートも航空券も盗られてしまいました。どうぞ私を逮捕して下さい!もう、私は精も根も疲れ果ててしまいました。」
 ここまでは高瀬と正樹の間では日本語で話が進んできたので、署長には二人の話を理解することは出来なかった。署長はヨシオのことで失点がある。もしこの男が本当にヨシオに危害を加えたことが判明したならば、しばらく臭い飯を食わせてやろうと考えていた。
「正樹君、どうします?こいつを告訴しますか?」
「署長さん、ちょっと待って下さい。もう少し話が聞きたいので、しばらくお待ち下さい。直接にヨシオを殴ったのはこの人ではなくて、連れの方ですから、私としてはその男の方を捕まえたいのです。もうしばらく話をさせて下さい。」
 正樹は高瀬の方を向いて続けて言った。
「あなたのお名前は何とおっしゃいますか?私は正樹と申します。」
「私は高瀬と言います。」
「高瀬さん、お仕事でこのマニラへ来られたのですか、それとも観光ですか?」
「どちらでもありません。勤めていた会社の都合で、一年間休むことを強いられまして、少しの予算でもって、このマニラで暮らそうとしたのですが、うっかり渡辺社長を信用してしまい、愚かにも私の全財産をなくしてしまいました。突然、渡辺社長は私の前から姿を消してしまいまして、未だに社長がどこにいるのか分からずにいます。」
 正樹は署長に向かって質問した。
「マニラ湾に浮いていた日本人はどんな体格でしょうか?」
「ああ、ここに写真があるよ。ええと、どれだっけな。ああ、これだ。ぶよぶよにふやけていて、ところどころ魚に食われているが、見るかね?」
 署長から手渡された茶封筒を開けてみると、中から二十枚くらいの写真が出てきた。それらを見てから正樹は高瀬に言った。
「別人ですね。渡辺社長とか言うあなたの連れはもっと大柄でしたよ。高瀬さん、あなたも念のために確認してくれますか。」
「違いますね。社長ではありません。」
「高瀬さん、私はあなたの話がもっと聞きたい。あなたは直感で人を信用して失敗したようですが、私は直感であなたが悪い人ではないと分かりました。ここではなんだ。どこかで食事でもしながら話をしませんか。さっき、あなたは全てを失ってしまったと言っていましたよね。見たところ、お腹も空かしているご様子だし、失礼かもしれないが、何か食べながら話しをしませんか。私でも何か役に立つことがあるかもしれませんからね。こちらに居ると、どうも日本語に飢えてしまってね、付き合ってくれませんか。」
 高瀬は正樹の目をじっと見て、こくりとうなずいた。
「署長、この人のことは私に任せてくれませんか。後でまた詳しく報告しますので、今日のところは私に彼を預けて下さい。」
「何だかよく分からんが、正樹君がそう言うのなら、そうしましょう。それから今度の土曜日に五人の子供たちが島に行くことになっていますが、正樹さんはどうしますか?ヨシオに会いに行かれますか?」
「いや、今度の土曜日は人と会う約束をしているもので、残念ながら行けません。また来週にでもお願いするかもしれません。」
「分かりました。」
「では署長、私はこれで失礼します。これから、この高瀬さんと話をしますので、チェスのお手合わせは、また今度ということで、じゃあ、失礼します。」
「誰か、一緒に行かせましょうか?」
「いや、結構です。その必要はないとおもいますよ。では、これで。」


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