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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第44回   ミイラ
ミイラ

 豪邸の最上階には同じ造りの書斎が二つあり、それぞれ寝室とバスルームが奥についている。海に向かって右側の書斎の窓からボンボンは眼下に広がるボラカイの海を見渡していた。京都駅で別れてから会っていない早苗のことをぼんやりと考えていた。ボンボンはきらきら光る夜の海を眺めながら、早苗と行った京都のことを何度も思い出していた。本当は誰よりも真っ先にこの豪邸を早苗に見せたかったのだが、茂木さんが今はこの家のことは誰にも話さないでほしいと懇願したので、早苗との連絡も一切断っていたのだった。しかしボンボンは早苗にとても会いたかった。それはどうしても止められない気持ちだった。そして京都の鴨川の河原を今度は早苗と二人だけで歩きたかった。ボンボンはしばらく日本に戻って色々な事を整理しなくてはならないと考え始めていた。
 最上階のもう一つの書斎の奥の寝室には菊千代が眠っており、そしてバスローブ姿の茂木がやはり同じ造りの書斎の窓からボラカイの海を見下ろしていた。静かにボラカイの海を照らす月の光は茂木の心の中にまで届いていた。茂木はそばで眠っている菊千代のことではなく、日本にいる早苗のことばかりを考えていた。隣の寝室にいる菊千代には本当に申し訳ないが、どうしても早苗のことが忘れられなかった。もう一度、早苗と晩秋の詩仙堂を訪ねてみたかった。今夜のボラカイ島にふりそそぐ月の光はすべての者をゆらゆら迷わせていた。

 四千キロ以上も離れた東京の空の下で、ボラカイ島で輝いているのと同じ月を早苗は見上げていた。上野の文化会館で行われた東京都交響楽団の定期演奏会からの帰り道だった。同じ外国語の大学でアジアの言葉を専攻している友人のナミとクラッシック音楽を楽しんだ後、上野公園を二人でゆっくりと歩いていた。演奏会が終わって、その余韻を消すのが惜しくて、文化会館の出口のすぐ前にある上野駅には入らずに、二人は隣の鶯谷駅まで歩くことにしたのだ。きれいな月と今さっき聴いてきたチャイコフスキーがすっかり早苗をセンチメンタルな気分にさせていた。
 早苗は東京に戻ってから何度も自分が専攻している言葉、幾つかの難解なタガログ語の意味を聞こうとボンボンが世話になっている留学生会館を訪ねていた。しかしボンボンがそこに戻った形跡はまったくなく、彼の郵便受けには開封されないままの郵便物が行く度に増えていた。早苗は茂木とも京都で別れた後、まったく連絡が取れずにいた。三人で仲良く旅したあの京都旅行はだんだんとまるで幻か何かのようにおもえてきた。急に二人が二人とも行方不明になってしまい早苗は本当に困惑していた。ボンボンのケソン市のアパートにも何度も国際電話をしてみた。早苗が専攻している得意のタガログ語と英語で電話をしてみても、新しいお手伝いさんとおもわれる少女がいつも電話口に出てきて、ビコール地方の言葉でもって返事をするものだから、まったく要領を得なかった。何回電話しても同じことの繰り返しだった。ボンボンに手紙を何通も送ってもみたが、やはり返事はなかった。早苗は次第にボンボンのことが心配になってきていた。今までにこんなことは一度もなかったからだ。東京都博物館の横道にさしかかった時、一緒に歩いていた親友のナミが早苗に直球の質問をぶつけてきた。
「ねえ、早苗。ところでどうなのさ。あなたのフィリピン人の友だち、ボンボンとはうまくいっているの?」
「それがさ、国に帰ったっきり戻って来ないのよ。連絡もまったくないし、心配しているところなのよ。茂木さんとボンボンと三人で鴨川の流れを見たのが最後なの。それにさ、茂木さんとも連絡が取れなくてね、困っているところなのよ。二人とも行方不明になっちゃったみたい。どうしたんだろうね、二人とも?」
「そうか、あんたには茂木さんもいたんだ。彼は昔から早苗にぞっこんだったものね。それで、あんたはどうするつもりなのさ。中途半端な付き合い方は二人がかわいそうよ。」
「うちのお父さんは茂木さんのことをまるで息子のようにおもっているけれど・・・・・」。
「そうじゃないわよ。あんたはどうなのよ。それが一番大切なことじゃないの!」
 東京都博物館の横の道は昼間でも人通りは少なく、女性の一人歩きには向いていないかもしれないが、その通りはとても上野公園らしい雰囲気が溢れている場所で、鶯谷駅までの裏通りはとても落ち着いた道が続いている。早苗はいつか恋人ができたら、一緒に歩きたいとおもっていた道の一つでもあった。
「早苗、知っている?そこの博物館の、そう、すぐそこの壁の反対側に、本物のミイラがいるのよ。知っていた?」
「何よ、ナミ!突然、恐いこと言わないでちょうだい!」
「夜な夜な、建物の周りを歩くそうよ。」
「やめてよ!ナミったら、あたし、恐がり屋なんだから。後でトイレに行けなくなっちゃうから、やめて!」
「でも、ミイラが展示されているのは本当なのよ。今度、案内してあげるわね。」
「いいえ、結構です。私は行きません。それよりさ、ナミ、あたしたちもうすぐ卒業じゃない。やはり自分が勉強してきた言語が使われている国へは一度は行かないとだめだよね?実際の生活の中でどうやってその言語が話されているのかを知らないと、本当のプロとは言えないよね。」
「そりゃあ、そうよ。いくら言葉がうまく話せたり読んだり書けたり出来ても、実際にどんな所で、そしてどんな風土でその言葉が話されているのか知らないと、その言葉の心までは理解出来ないものよ。そんなこと当たり前じゃない!何年、あんたは外語大の学生やってんのよ!」
「そうか、やっぱりね。あたしボンボンのことがだんだん心配になってきちゃったの。ナミ、飛行機代はあたしが出すから、つきあってくれないかな。卒業前に一度、フィリピンを見てみたいわ。それに連絡が取れないボンボンのアパートへも行ってみたいの。お願いだから一緒について来て。」
「ホテル代も出すなら考えてもいいわよ。」
「わかったわよ。食事代も三食付けるから、行こう。ねえ、ナミ、お願いだから、この通り。」
「わかった。わかった。親友の為だものね。付き合ってあげるか。」
 二人は山手線の鶯谷駅の昔ながらの木造の駅舎に入り、学校の寮のある池袋駅まで電車に乗った。二人が寮の中に入った後も、夜空にはまだボラカイ島で輝いているのと同じ月が静かに浮かんでいた。ボンボンと茂木はまだ寝付かれないまま、その月を眺めていた。

 毎年、外国語の大学からは卒業を待たずに多くの者が外交省に入ることが内定する。ナミと早苗も早いうちから外交省入りが決まっていた。英語はもちろんだが、二人の得意な分野である希少価値のあるアジア方面の語学が大きな決め手となって就職が内定していた。
 早苗は以前から勉強のためにフィリピン航空の知り合いに頼み込んで機内でサービスとして出されるマニラの新聞、その用済みになった新聞をまとめて寮に送ってもらっていた。
ボンボンと連絡が取れなくなってからは以前にもまして現地の新聞を隅から隅まで目を通すようになっていた。今までのところ、ボンボンに関しての記事はもちろんなかった。またそれはあってはならないことなのだが、早苗は心配のあまりに学校から帰ると何時間でもマニラの新聞を読みふけっていた。ある日、早苗はいつものようにコーヒーを飲みながら新聞を読んでいると、小さな記事がふと目にとまった。タガログ語で書かれたその記事を何度も読み返した。それはマークというジャーナリストが書いた記事で、日本人の青年と日比混血児の心温まる話だった。早苗はその記事を丁寧に切り取り手帳にしまった。もしチャンスがあれば、フィリピンに行った時にその正樹という青年を訪ねてみようとおもっていたからだ。
 そして何よりも、早苗がどうしてもマニラに行きたい大きな理由は自分自身の本当の心が知りたかったからだ。早苗はボンボンのことは以前から好きであった。しかし、ボンボンが自分と同じ日本人ではないこと、また欧米人とは違うアジア系外国人であり、どうしても国籍にこだわってしまう自分自身に疑問を抱いていたのだ。そんな表面的なことばかりにとらわれている自分自身が嫌で嫌でたまらなかった。フィリピンという国の中にしばらく自分自身を置いてみることは今の早苗にはとても重要なことのようにおもえた。外交省に入る前に是非とも訪ねてみたかったのだ。そうしないと自分が血の通っていないミイラと同じではないかとおもえてきたからだ。


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