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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第43回   洗濯
洗濯

 翌朝、正樹はヨシオの声で目が覚めた。リンダが汗臭くなったヨシオのTシャツを脱がそうとしてヨシオを屋敷中追い掛け回していたのだ。それを嫌がるヨシオの声で正樹はボラカイ島の朝を迎えた。もう豪邸の人々はネトイを除いて皆それぞれが各々の仕事を始めており、正樹は遅くまで寝ていた自分を少し恥ずかしくおもった。ヨシオとリンダが勢いよく正樹の寝ている部屋に飛び込んで来なければ、ネトイと同じ様に昼過ぎまで眠っていたかもしれない。まずリンダの朝の挨拶が正樹のまだ目が覚めていないオツムにずしんと突き刺さった。
「おはよう、正樹。よく眠れた?」
 リンダの明るい挨拶は正樹の気持ちを逆に暗くした。今度はヨシオの番だった。
「兄貴、いつまで寝ているつもりだい。もう起きろよ。この兄貴からもらったTシャツはまだきれいだと言っているのにさ、このお姉ちゃんはどうしても脱がそうとするんだよ。兄貴、このわからずやのお姉ちゃんに何とか言ってやってくれないか。」
「ヨシオ、それじゃあ、おまえ、洗濯は自分でやることにしろ。リンダに教わってこの家の洗濯の仕方をまず覚えろ。」
 ヨシオは返事をしない。
「いいわよ、まだ、あたしが洗ってあげるから、その臭いシャツを早くよこしなさい。」
 また二人は部屋から出て行き、追いかけっこを始めてしまった。
 この国の洗濯の仕方は日本とは大きく違っている。もちろん全自動の洗濯機も大きなデパートに行って、よくさがせば売ってはいるが、あまりそれを買う人はいない。何故なら、日本のように蛇口をひねれば、水がいつでも勢いよく出てくる場所は少ないからだ。全自動に限らず洗濯機は水不足のこの国では役に立たない。それに洗濯をすることで生活の糧を得ている者も多いということも洗濯機が普及しない理由の一つだろう。日本ではもう姿を消してしまった洗濯板がこの国では健在であり、大きなタライも市民権をちゃんと得ている。そして洗剤だが、大黒石鹸を長くしたものを幾つかに切りながら使うのが一般的な洗濯の方法だ。そのぶっとい大黒石鹸と洗濯板で汚れをこすり落とすやり方が効果的で皆に好まれているようだ。白い衣類は絞ったりせずに、濡れたまま地面とか木々に広げて干す。すると南国の強烈な日差しは衣類にしわを一つ残さずに真っ白に仕上げてくれるのだ。
 ボラカイ島は電気、水道、電話などのライフラインは隣の島から海底を通って引かれるようになったが、それは限られたツーリストエリアだけで、島のどこででもというわけにはいかなかった。茂木たちの豪邸は岬にあり、すべて自給自足の生活であった。自家発電で井戸水を屋敷よりも高い位置にあるタンクに汲み上げて貯めてあるので生活にはまったく困らなかった。夜中しか出てこないケソン市の水道よりも水圧はむしろ強く、洗濯機も使える環境にあったが、リンダはアパートで長年やってきたように少しの水で洗い上げる洗濯を誇りとしていたので、これからどんどん増えてくる日比混血児たちにも少量の水で洗濯をする方法を教えるつもりだった。
 結局、ヨシオはリンダにシャツをはがされて上半身裸で庭のマンゴーを貪り食っていた。ヨシオのショートパンツもリンダは奪い取ろうとしたが、さすがにそれは許さなかったようだった。マンゴーを幾つか食べていれば、洗濯したシャツは乾いてしまうほど南国の太陽は強烈であった。
 家中の掃除は正樹が眠っている間にすっかり済んでしまったようで、洗濯の次は買い物の時間であった。ボラカイ島には建設用のトラック以外には自家用車はない。だからオートバイにサイドカーを付けたトライシクルが島の唯一の交通機関であり、島民の大切な足なのだ。市場のハイドリッチの弟はトライシクルの雇われ運転手をしていたので、リンダと千代菊は彼と月極めで契約をしていた。毎日決まった時間に市場への送り迎えを頼んでいた。町から離れた岬の家の者にとっては定期的にやって来るこのトライシクルは大助かりであった。町に用事がある時などは、その時間に合わせて用を足した。
リンダがヨシオに向かって大声を上げた。
「ヨシオ、市場に買い物に行くから、お前もついておいで。荷物を持つのを手伝っておくれ。」
 ヨシオは心の中で冗談じゃない、何を言ってやがんだとおもいつつも、正樹の言っていた言葉をすぐに思い出した。「リンダの言うことは俺の言うことだとおもえ!」ヨシオはしぶしぶトライシクルの運転手の後ろにちょこんとまたがった。すると、まだ寝ているとおもっていたネトイがどたどたと駆け寄ってきて、リンダと千代菊の後ろの席に座り込んだ。
「軍鶏の餌と奴らのビタミン剤が切れたのでな、俺も一緒に行く。この定期便を逃すと歩かなければならないからな。間に合って良かったよ。」
 ネトイは正樹に手招きをして隣に座れと合図を送った。正樹は島の市場にはとても関心があったし、リンダが昨日言っていた千代菊の彼氏にも会ってみたかったので、同乗することにした。正樹がネトイの隣に座るとトライシクルは苦しそうに発車した。
「ネトイ、軍鶏の餌って、さっき言ってたよな、この家で軍鶏を飼っているのか?」
「ああ、雛から育てている奴もいるよ。でかくなったら、この島の闘鶏にも出すつもりだ。飼料の配合がとても難しいのと毎日の訓練も大切だな。時間をかけて闘争心を徹底的に鍛え上げるわけさ。」
「この島にも闘鶏場があるのか?」
「あるよ。島の唯一の娯楽施設だよ。日曜日になると、島の男どもがたくさん集まって来てな、島の情報の交換の場所にもなっている。」
「でも、何ヶ月も何年もかけて大切に育てた軍鶏が試合に負けたらどうなるんだ?」
「ああ、全部それでお終いさ。勝者がすべてを持って帰る。焼き鳥にでもするのさ。」
「負けた軍鶏も取られちゃうというわけかい?」
「ああ、そうだよ。闘鶏の試合も非常に興奮するけれど、俺はむしろ毎日、試行錯誤しながら強い軍鶏を育てる事の方が楽しいのさ。軍鶏を一羽でも飼っているといないとでは生きる張り合いがまったく違ってくる。軍鶏がいると毎日の生活が充実してくるような気がするよ。
「ネトイ、俺にはよく分からんが、軍鶏にも血統みたいなものがあるのか?」
「もちろんあるよ。でも本物を見極める術が難しい。それが出来れば、立派に闘鶏で食っていけるよ。この国にはどこへ行ったって数え切れないほどの闘鶏場があるからね。強い軍鶏を持って渡り歩けば生計は立派に立てることが出来るよ。」
 トライシクルの片方の車輪が大きな穴に入ってしまい、突然、車体は大きく左に傾いてしまった。その衝撃でドライバーの後部座席に座っていたヨシオが振り落とされそうになった。危ないところであった。ネトイが素早く手を伸ばしてヨシオの首根っこを掴んだおかげで大事故にならずに済んだ。普段はぼんやりしているネトイではあったが、いざと言う時にはやはりネトイは頼りになる奴だった。もしネトイがいなければ、またヨシオは生死の境をさまよっていたことだろう。
 しばらくすると、トライシクルは人通りの多い路地に入り、人を掻き分けるようにゆっくりと進んだ。魚の強烈な臭いがしてトライシクルは停車した。店先に大きな板が敷かれてその上に魚が無造作に並べられていた。正樹はそこが千代菊の彼氏の店であることがすぐに分かった。大柄な青年が神社の神主さんがお払いをする時に使うような、あのひらひらした紙が付いている棒切れを振り回していた。ハエが魚に集らない様にしているのだった。しかし、その棒切れは正樹には無駄な抵抗のようにおもえた。何故なら市場の上の方を見ると、電線にハエがびっしりととまっていて、電線がものすごく太くなって見えたからだ。ハエたちは手をこすりながら、いつでもごちそう目がけて突撃する準備を整えていように見えた。
「さあ、ヨシオ、行くわよ。千代ちゃんはここにほおっておいて、あたしたちだけで買い物をするからね。いらっしゃい。」
 ヨシオがおどけながら余計なことを言った。
「あのおねえちゃんはさ、あのおにいちゃんのことが好きなのか?何でおいらたちと一緒に買い物をしないんだ。」
「千代ちゃんは魚を念入りに選ぶの、だから時間がかかるのよ。さあ、その間にあたしたちは他の買い物に行くわよ。」
「何だ、それじゃあ、ちっとも役に立たないじゃないか。」
「そんなことないわよ、千代ちゃんが選んだ魚は新鮮で、おまけに安いから大助かりだわよ。ぶつぶつ言ってないで、さっさと行くわよ。」
 リンダは今度はネトイにも指示を飛ばした。完全にリンダがこの場を仕切っていた。
「ネトイ、帰りは正樹と帰ってね。荷物がいっぱいになるから、みんなは乗れないわ。正樹と二人で帰って頂戴ね。」
「ああ、分かったよ。餌を買ったら正樹と二人で帰るよ。」
 リンダはヨシオを連れて市場の奥の路地へ入って行った。彼女は何でも自分の言うことを聞いてくれる子分が出来てとても生き生きとしていた。それに反して子分のヨシオの表情はさえない。それでも内心は嬉しいのに違いないのだ。マニラの弱肉強食の世界で独りで生きて来たヨシオの暮らしは正樹に逢ってから完全に変わってしまっていた。ヨシオはあたたかい人たちに囲まれていたからだ。
 正樹はネトイと市場の店を冷やかしながら、時間をかけて軍鶏の餌専門店にたどり着いた。色々な種類の穀物がみかん箱位の木箱に入れられて店先に並べられてあった。奥の棚には瓶詰めのビタミン剤がきれいに陳列されており、それはまるで薬局の棚のようでもあった。値段は見るからに安いとは言えないものばかりで、闘鶏の軍鶏を育てるということはとても贅沢な趣味だなと正樹は感じた。しかも長い年月をかけて自分の軍鶏を鍛え慈しんで育てる苦労は並大抵のものではないだろう。雨が降れば、濡れないように軍鶏のカゴを家の中に入れたり、日差しが強くなれば日除けもつけて、直射日光をさえぎってやらねばならない。犬たちの襲撃にもいつも気をつけなければならない。おまけに糞もたまれば南国の熱気でもって鼻が曲がるような悪臭に変わるだろう。朝早くから寝ている人の迷惑も考えずに、餌をくれと時を知らせる。軍鶏を育てるということは大変なことだ。その長い苦労が闘鶏場のリングの上で一瞬で決まってしまうのである。一瞬の輝きの為に苦労して育ててきた軍鶏の命を賭ける。これは飼育する人間にとっては正に美学と言っても良いのかもしれないが、鳥の軍鶏にとっては残酷極まりないことで、殺すか、殺されるまで闘うことを強いられるのだから、まったくもってやりきれない話だ。国によっては闘鶏はあまりにも残酷であることから禁止されているところもあるくらいだ。
 ネトイはアメリカ製のビタミン剤やトウモロコシなどを購入した。帰り際に店主が最高の雛が手に入ったと告げるとネトイは躊躇することなくその雛も買ってしまった。その雛をカゴに入れて大事そうに自分の胸に抱え、あとの荷物は正樹が引き受けた。市場のはずれにあるトライシクルのたまり場で岬の方へ向かうトライシクルに乗り込み席が満杯になるのを待った。その間もネトイは今買ってきたばかりの雛にむかって何かを話しかけていた。それは傍から見ていると一種異様な光景であった。
 昼ちょっと前に、豪邸にネトイと二人で戻った。まだリンダたちは戻って来ていなかった。さっそく正樹は屋敷の裏庭に案内されてネトイの自慢の戦士たちと対面した。確かに軍鶏の面構えには威厳がある。その顔にはキリッとして闘志が満ち溢れている。しかし正樹はネトイの話を聞いていておもった。何も闘鶏場で切れ味の鋭いナイフを軍鶏たちの足に装着する必要はないとおもった。試合場には審判もいるわけだから、闘志が消え失せた軍鶏の方を負けにすればよいのであって、グサリとナイフが相手の体に食い込むのを待つ必要はないとおもった。しかし観客席で賭博として大金を軍鶏たちに賭けている連中はそれでは済まないのかもしれない。どちらかの軍鶏が血まみれになってぐったりするまで戦わせないと納得しないのだろう。人間は他の動物たちの命を犠牲にして生きている。大切な命をもらって生きていることを忘れてはならない。感謝しても感謝しても感謝し足りないはずなのに、他の動物たちに殺し合いをさせてまで賭博をするなど以ての外だと正樹はおもった。
 夕方、日差しが少し弱くなってから、正樹とヨシオは島で一番長いホワイトサンドビーチを散歩した。正樹はまだヨシオにこの島で教育を受けさせると言う本当の目的については話す気はなかった。徐々に話していけば良いと考えていた。きれいなボラカイ島に再び接して正樹自身も急いでマニラには戻りたくなかったし、少し時間をかけてヨシオにこの島に来た理由を話すつもりだった。まずは第一段階は成功であった。ヨシオがリンダのことを姉のように慕ってくれたことは大成功だった。正樹は場合によってはヨシオをもう一度マニラに連れて帰ることも考えていた。大切なことはヨシオ自身が最高の道を自分で選択することだと正樹は信じていたから、この島にヨシオが納得していないのに無理やり残して、自分だけマニラに帰るようなことはしたくなかった。ボラカイ島は彼ら日比混血児たちの収容所ではないのだから、この島に残るかどうかはヨシオ自身が決めることだと正樹はおもっていた。
 ボラカイの夕日に向かいながら正樹とヨシオは砂浜をゆっくり歩いていた。話などはいらない。間違いなくヨシオは感動していた。
 その二人の後ろ姿と砂浜に二人が残した大小の足跡に向かって椰子の木の陰からそっとカメラを回している青年がいた。フリーのジャーナリストのマークであった。病院で正樹に取材を断られてからも、そっと二人を追い続けて記事にしていたのだった。


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