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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第42回   誘惑
誘惑  

 ボラカイ島の豪邸では着々と子供たちを受け入れる準備が進んでいた。茂木とボンボンは島の人々との触れ合いを大切にしていたので、あらゆる島の行事には進んで参加していた。家の事は菊千代とリンダが中心になり、以前からこの家の管理を任されていた人々もそのまま残ってもらい、一緒に広大な敷地と屋敷に磨きをかけていた。ボンボンの弟のネトイは相変わらずで、毎日ふらふら何をするでもなく、自由気ままに暮らしていた。しかし彼の存在は非常に大きく、ただ彼が居るだけで屋敷全体が明るくなった。皆それぞれ忙しく希望に満ち溢れた生活をしていた。双子の千代菊一人だけが島に来てからもしょんぼりしたままで、まだ京都の生活が忘れられないのか、彼女の心は日本に置いたままのようだった。ボラカイ島の魔力はまだこの千代菊だけには効いていなかった。茂木は海を見ながら泣いている千代菊の姿を見るのがとても辛かった。双子のもう一方の菊千代の方は茂木のことを子供の頃から好きだったから、茂木のそばにいるだけで幸せだった。同じ顔をしていても千代菊はいつまで経っても日本のことばかり考えているようで、まるで人形のようにいつもぼんやりしていた。そんな千代菊に少し変化が現われたのは島に来てから二ヶ月が過ぎた時だった。リンダと一緒に市場へ買い物に行くようになってから次第に表情が明るくなってきた。リンダに言わせると千代菊が変わったのは市場で魚を売っているハイドリッチという青年のせいだそうで、二人で市場の彼の店へ行くと千代菊はなかなか帰ろうとしないのだそうだ。だからリンダは千代菊をそこに預けておいて自分ひとりで買い物を済ませるのだと嬉しそうにぼやいていた。ただ千代菊のおかげで新鮮な魚が安く手に入ることだけは大助かりだとリンダは言っていた。それを聞いた茂木は大いに喜んだ。胸につかえていたものがすっと取れたような気がした。そしてマニラから正樹がヨシオという子供を連れてやって来るという連絡も入り、茂木はボラカイの家が段々と活気づいてくるのを感じていた。人は多ければ多いほど問題も増えるが、喜びの数もそれ以上に増えるものだと茂木はおもっている。茂木は正樹たちの到着を楽しみに待っていた。
 真っ青なボラカイの空の切れ目からエメラルドブルーの海へおんぼろ水上飛行機が斜めに着水した。無事に到着したのを見て、島から一掃のボートがその飛行機に向かってゆっくりと浜を離れた。どうやらその水上飛行機は海の上を上手に移動する能力はもうないらしく飛行機の乗客をそのボートに移し変えるつもりらしかった。
 千代菊は丁度その時、海の上にいた。正樹がやって来ることを知らされていなかったので、近くにいてもその飛行機から出て来た乗客が正樹であると想像することすら出来なかった。それに彼女はそれどころではなかったのだ。海の上でデートの真っ最中だったからだ。魚屋のハイドリッチは自分の船を持っていたから、その日も千代菊と一緒に市場の店で売る魚を釣っているところだった。
 正樹の再来を聞いて何と言っても一番喜んだのはリンダであった。正樹が到着すると聞き、朝早くから豪華な晩餐の準備に取り掛かっていた。ケソンのアパートに居た頃とはまるで違い、食事の予算も桁違いに大きくなっていたので、リンダの腕もだいぶ上達していた。おまけに何人もの手伝いの人たちを使って豪邸の家事を切り盛りしていたので、自ずと自信が出てきており、以前のリンダとはまったく別人のようであった。ぼろぼろのTシャツを着ていたお手伝いのリンダは完全に姿を変えており、小柄ではあるがもう子供のような仕草はすっかり消えて、十分に男どもを引き付ける魅力で溢れていた。もう、すっかりダイナマイトボディーに成長していて、色っぽさでは誰が見てもディーンよりも勝っていた。
 正樹とヨシオはおんぼろ飛行機から迎えに来たボートに移り、岬の豪邸のすぐ下の浜にボートをそのままつけてくれるようにと船頭に交渉をした。初めは少しびっくりしていた船頭だったが、正樹の依頼を快く引き受けてくれた。今、この島で何かと話題の多い屋敷だったからだ。
「ヨシオ、どうだ、この島の第一印象は、どんなだ?言ってみろよ。」
「きれいだ。」
「それだけかよ、他に何とか言えよ。」
「きれいだから、きれいだと言っているんだ。他に、兄貴、言いようがないよ。こんなにきれいなところが、この国にあるなんて知らなかったよ。ここはおいらの国だよな。」
「そうだよ。ここはお前の母さんの国だからな。お前の国でもあるわけだ。いいか、ヨシオ、お前の国にはこんなにきれいなところが、他にもまだまだ、たくさんあるんだぞ。」
「知らなかったよ。おいらはゴミばかりのところで暮らしてきたから、こんなに眩しい世界があるなんて想像も出来なかった。本当にきれいだよ。兄貴。」
 ボラカイの海の水平線は鮮やかに弧を描いている。確かに地球は丸いのだということを強烈に実感することが出来る。その水平線を背にボートは静かに岬に近づいて行った。
 浜で手を振っている人の姿がだんだんと大きくなってきた。きれいな女性が手を振ってボートを歓迎してくれていた。リンダはテラスから水上飛行機が着水する様を一部始終見ていたのだ。正樹は浜で手を振っているのがリンダであることに気づくのに少し時間がかかった。その美人がリンダだと分かると慌ててボートの上で立ち上がり正樹も大きく手を振ってリンダの歓迎に答えた。見上げると白い雲が群がるように高く浮かんでいた。それは昔、東京にもあったような雄大な入道雲だった。ゆっくりと雲もボートも時間も流れていた。
「ヨシオ、分かるか。この島の良さが、時間の流れ方がまったく違うんだな。」
「兄貴、そんなことわかんねえや。それより、あそこで手を振っている美人は誰だい?」
「リンダだよ。」
「あれは普通の出迎え方じゃあないな。やばいんと違うか?このことを姉さんが知ったら大変なことになるぞ。」
「バカたれ!余計な心配はするな。あの人はリンダといって俺たちの仲間だ。お前、この島では、いいか、あのリンダの言うことをちゃんと聞けよ。彼女の言うことはこの俺の言葉だとおもえ!分かったな。」
「分かったけれど、兄貴、何だか変な言い方をするなよ。おいらを置いて一人で帰るような言い方はやめてくれよな。おいらは兄貴から絶対に離れないからね。」
 慌てて正樹は話をそらせた。
「ヨシオ、お前、泳げるか?」
「いや、泳げない。」
「そうか、じゃあ、このまま、このボートで来い。俺は泳いで浜まで行くからな。このバックを忘れずに持ってきてくれ。いいな。」
「兄貴、そのバックは大切なものではなかったのか。」
「そうだよ。大切なものだ。だからお前に預ける。頼んだぞ。」
「分かった。」
 正樹はボートの先端までよろよろ手摺りにつかまりながら進んで、そのままの格好で海に飛び込んだ。中学の時、所属していたクラブは剣道部だったが、夏場は記録が優れている者だけを集めて特別に水泳部がつくられた。正樹も夏場は二つのクラブを掛け持ちしていたから少しは泳ぎには自信があった。しかし泳ぎ始めてから気がついたのだが、プールと海ではやはり勝手が違っていて、海ではなかなか前には進まなかった。それでもなんとかボートよりは速く泳ぐことは出来たが、あまり差はなかった。
 浜で手を振っていたリンダは正樹がヨシオから話題をそらせる為にボートから飛び込んだことを知らない。そんなリンダは正樹が飛び込むのを見てとても嬉しかった。そんなにまでして、あたしに早く会いたかったのかと勘違いをしてしまった。
 ボラカイの海はきれいで人々を悩ましくさせる力があるのだ。リンダはその魔法に完全にかかってしまった。豪邸の最上階の書斎の窓からは茂木がその様子を見ていた。
 その夜、ヨシオはこの家のスタッフ全員に茂木から紹介された。その後、正樹は病み上がりのヨシオを早めに大きな寝室に寝かしつけてから、久しぶりにネトイと飲むことになった。広い庭に出て、炭をおこし、ネトイと二人だけのバーベキューを楽しんだ。千代菊の差し入れである新鮮な魚介類を焼きながら、月の光の下で飲むのは格別であった。気の合ったネトイと飲むビールの味も最高であった。ただ彼と飲むといつも決まって何かが起こるのが正樹は恐かった。それは偶然の一致だとはおもうのだが、正樹は今夜も何かが起こりそうな予感はしていた。月の光が何かを誘っていた。この前もそうであったが、正樹は酔うと無性に海が見たくなった。今夜もまた階段をよたよや降りてプライベートビーチへ独りで降りて行った。海が見たくなる理由の一つには海に向かってこっそり小便をすることもあった。さっき島に着いた時には気づかなかったが、誰もいない浜のはずれに犬小屋が新しく作られており、この前、ここに来た時には確かになかったものだ。三頭の大型犬が小屋の中からうなり声を上げながら、正樹のことを睨み付けていた。犬たちはまだ正樹のにおいを覚えていないのでウーウーと低い威嚇の声を上げながら身構えていた。何とか友達になろうとやさしい声で自己紹介をしてはみるものの、そう簡単に手懐けられる相手ではなかった。ドーベルマンはただの番犬と言うよりは、むしろ生きている兵器と言った方が正しい。再び正樹が声をかけようとすると、犬たちは大声で吠え始めてしまった。もう正樹にはどうすることも出来ない。後ずさりして、浜で困っていると、階段を足早に下りてくる人影があった。次の瞬間、月の光がリンダの姿をくっきりと浮かび上がらせた。リンダが犬小屋の所へ行くと犬たちは嘘のように静かになった。正樹がマニラに帰っている間にドーベルマンたちはすっかりリンダの忠実な僕になっていたのだ。再び静寂が浜に戻って来た。浜には正樹とリンダの二人だけだった。
「犬の声がしたから、あたし来てみたの、やっぱり正樹だったわね。」
 なかなか話が続かない。どうしても途切れてしまう。こんなことは以前にはなかったことだ。リンダとは初対面の時から気楽に何でも話が出来たのに、今夜はまるで魔法にかかったようだった。正樹がぎごちなく砂浜に腰を下ろすと、リンダもすぐ隣に座った。月の光が波の中に溶け込んで、南国特有の甘い情緒が二人だけの砂浜に満ち溢れていた。
「この前、僕が来た時にはそんな所に犬小屋なんかなかったよね。」
「ええ、屋敷の裏側にあったのをここに移したのよ。海からの侵入者を警戒する為に茂木さんが指示を出して移させたの。」
「あの犬たちは前からここにいたの?この前、僕が来た時には気づかなかったけれど、前からいたのかな?」
「ええ、ホセの犬たちだったみたいね。犬たちも家と一緒にあたしたちが引き取ったのよ。」
「そうなんだ。でも、さっきみたいにさ、あいつらはもうリンダの言うことをちゃんと聞くんだね。凄いね。」
「そりゃあ、そうよ。だって毎日餌をやっているのはこの私ですからね。」
「でも、あの犬小屋の位置は良くないな。階段の途中に移した方がいいよ。茂木さんにも明日になったら言ってみるけれど、もし大きな波が来たら、あそこだとひとたまりもないからね。犬たちがかわいそうだ。」
「そうね、ツマミが来たら、みんな波に飲み込まれちゃうものね。」
「ツマミじゃなくて、ツナミだよ。ツナミは日本語が英語になった言葉だよ。」
「ツナミ?」
「そうツナミが正しい。」
 正樹は次に何を話そうか考えていた。やはり、静かな月夜の砂浜にこうして美しい女性と二人っきりでいると気持ちは自然と高ぶってくるものだ。それは正樹に限ったことではないはずだ。話が途絶えたまま、しばらく時間は流れた。リンダが突然すっと立ち上がり、着ているものをすべて脱ぎ捨てて、海に向かって走り出してしまった。砂浜をつま先立てて走り、そのまま海に飛び込んだ。リンダの水浴びをしているその姿は月の光に照らされて素晴らしくきれいだった。両手で髪をそいで横を向いたリンダの体の線は反り返り、その均整のとれた裸体の誘惑に勝てる男なんかこの世の中にはいるものかと正樹は正直にそうおもった。リンダが水浴びを終えて浜に戻って来ても、ただじっと自分はしていられるのだろうか、もちろん正樹にはそんな自信などはまったくなかった。かと言って、このまま黙ってこの場を立ち去れば間違いなく彼女は傷つくだろうし、悲しみのあまりにそのまま海に沈んでしまうことだって考えられる。どうしたらよいのか正樹には判らなかった。自分も海に飛び込んで少し沖まで泳いで行って、彼女が衣を身に着けるまで沖で立ち泳ぎ
でもして待とうか、それとも別の浜まで泳ぎ切ってしまおうか。それなら彼女も傷つかなくてすむだろう。だがさっきからだいぶ飲んでいるから、それは大きな危険が伴う。酒を飲んで泳ぐことほど無謀なことはないからだ。それにこの海の潮の流れも分かっていない以上、そんなことは出来るはずはなかった。突然、ディーンの声がどこからともなく聞こえて来た。
「正樹、用が済んだら、さっさとマニラに帰って来ること、いいわね!」
 だけど俺はまだ独身だし、誰に気兼ねをする必要があるのだ。と正樹がおもった瞬間、またディーンの自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。正樹はリンダが海から上がって来る前にどうするか早く決めなければならなかった。

 南の島に月の光がふりそそぐ夜は、皆さん、ご注意あれ!
南の島は誘惑で満たされているから。


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