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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第40回   祈り
祈り

 マニラ東警察署の署長がヨシオの見舞いにやって来たことはすぐに病院中の噂になってしまった。どこにでもハイエナのようなジャーナリストはいるもので、マークというマニラブリテン新聞と関わりのある青年が正樹の前に現われた。署長がヨシオを見舞ったその夜のことだった。ヨシオの病室でディーンと話をしているところに、マークはひょっこりと現われた。是非、取材をさせてくれないかという申し出であった。正樹は今はまだヨシオが昏睡状態であることを理由に丁寧にその申し出を断った。もし署長からの治療費の援助の話がなければ、ヨシオのことを公にして募金でも募ったところだろうが、その必要がなくなった以上、ヨシオのことは今は静かにしておいて欲しかったのだ。
 病院からの帰り道、ディーンはほっとして正樹にこう言った。
「でも良かったわ、署長さんが病院の費用を払ってくれると言ってくれてさ。だって、あたしさ、正樹があの子の為に全財産を使ってしまうのかと、ウエン姉さんたちと心配していたのよ。たまたま街で会った見ず知らずのヨシオの為に正樹が自分の将来まで捨てる気じゃないかと、みんなで、はらはらしていたのよ。」
「だけどね、ディーン。人間のさ、最高の生き方って何だろうね。もっと極端に言うと、最高の死に方は見ず知らずの人の為に死ぬことだと僕はおもうな。自分を愛している人の為に死んだって、それは当たり前のことだよ。そうでしょう。分かりやすい例を挙げるとさ、例えば、車とか電車に引かれそうな子供がいたら、そこに飛び出して行って、その子供を突き飛ばしてさ、子供だけを助けて、自分は死んじゃうケースさ。見事だよね、そんな死に方が最高だと僕はおもうんだよ。更にもっと凄い死に方はさ、自分のことを嫌っている人の命を助けて、身代わりになって死ぬことだよ。自分のことを憎んでいる人の為に死ねたら素晴らしいだろうね。ディーン、もし、僕がヨシオの為に僕の全てを与えることが出来たとしたら、それは最高の生き方じゃないのかな。ヨシオは初めて会ったばかりの見ず知らずの子供だ。僕にとっては赤の他人だし、しかも、ヨシオは日本人の父親から捨てられて、徹底的に日本人を憎んでいるはずだ。その日本人を嫌っているヨシオの為に日本人である僕が自分の将来を捨てたって、それはそれで本望じゃないか。そうじゃないか、偉そうだけれどね。」
 ディーンは 正樹の言っていることがよく分からなかったが、何でも自分のことを後回しにして考える正樹のことをとても愛おしくおもった。アパートに帰って、皆に署長からヨシオの病院の費用の援助があったことを伝えると、誰もが喜んでくれた。特にウエンさんは涙を流してそのことを喜んでくれた。何て優しい人なのだろうと正樹はまたおもった。
 次の週、ヨシオは集中治療室から一般病棟に移された。まだヨシオは意識が回復してはいないので、ナースステーションのすぐ隣の部屋に生命維持装置とともに引っ越しをした。
まるで病院の威信をかけたような個室の完全看護の体制がとられた。どうやら先日の警察署長の訪問とジャーナリストの出現からヨシオは特別扱いの患者となってしまったみたいだ。近代的な病院の内部とは打って変わって、ヨシオの病室の窓の外は現実の世界だった。通りを隔てて向こう側には粗末なバラックがびっしりと立ち並んでいて、早朝から深夜までとっかえひっかえ、あちらこちらの家からステレオの音がボリュームを目一杯上げて鳴り響いていた。正樹はヨシオの病室で夜を過ごす回数が次第に増えてきていた。ある夜、ヨシオのそばでディーンと話をしていると窓の外からステレオの音に混じって「バルーウ」
「バルーウ」と言う声が聞こえてきた。ディーンは平気な顔をして話を続けていたが、正樹にとっては初めて聞く声だった。
「何だい、あの声は、バルーウ、バルーウって言っているけれど、何かを売り歩いているのかい?」
 ディーンはうつむき加減になって、くすくす笑いながら言った。
「あれはね、アヒルの卵を孵化させる途中で止めちゃうのよ。そうすると殻の中には雛と玉子が両方、半分半分の姿で残っているの。あれを食べると玉子と雛を一度に食べたことになるわね。おまけに精力がつくから、おもにああやって夜に売り歩くわけなの。あのバルーウと言う声が聞こえるとみんな何故かそわそわしてくるわ。男も女もこの国の人々は皆バルーウが大好きなんだから。」
「なんだか、それ、気持ちが悪いな。殻を割ると羽とか頭が出てくるの?おまけにまだ玉子状態のどろどろで?口ばしもあったりして、うわーあ、気持ちが悪い食べ物だな。」
「でも本当においしいのよ。まず小さな穴を開けて、そこから中の汁をチューチューとすするのね、吸い出すわけよ。それが絶品なの!なんとも言えないおいしさなんだから。試しに買って来てあげましょうか?」
「いらない!僕は結構です。そんな残酷な食べ物はいりません!もし、君が欲しければ、勝手にどうぞ。」
 両腕に大きなカゴを持った子供がだんだんと近づいて来た。そのカゴの中には布が入っており、布に包まれるようにバルーウが入っているらしかった。その使い込んだ売り子の喉からは遠くまでよく通る声が出ていた。日本では見かけなくなった金魚売の声に似ていた。ディーンが消毒用のアルコールを付けたガーゼでヨシオの顔や腕を拭き始めた。バルーウ売りが病院のすぐ窓の下を通り過ぎようとした時、ひときわ大きな「バルーウ」の声が室内に飛び込んで来た。奇跡は其の時起こった。「バルーウ」の声にヨシオの腕が反応したのだった。
「正樹、見てよ。今、動いたわよ。バルーウの声に合わせてヨシオの腕が動いたの!」
 正樹はヨシオの耳元に近づき、そっと声をかけた。
「ヨシオ、おれだ。もう起きろよ。バルーウを食べに行こうぜ!バルーウを食べに。」
 ヨシオの腕がまた動いた。慌ててディーンは椅子から立ち上がり言った。
「あたし、お医者様を呼んでくるわね。」
そう言い残して、ディーンは隣のナースステーションに駆け込んで行った。ディーンが部屋の扉を開けっぱなして行ってしまった後、正樹はもう一度、ヨシオに声をかけてみた。人間の生と死はいったいどこで誰が決めているのだろうか。お医者様やディーンが言うようにやはり神様がいて、運命を決めているのだろうか。正樹は誰でもいいから、ヨシオの命を返してくれと叫びたかった。天国だか地獄だか知らないが、もしその入り口にヨシオがいるのならば、どうかそこからヨシオを救い出してくれと必死に祈り続けた。祈り方も知らない正樹だったが、ベッドの下にひざまずき、じっと彼なりに目を閉じて祈った。全ての神々にただひたすら祈り続けた。短い時間だったかもしれない、でもそれは正樹にとってはとても長く感じられた時間だった。ベットの上を見上げるとヨシオがぽかんと大きな目を開けて正樹の方を見ているではないか。正樹は立ち上がり、しっかりとヨシオのことを見た。
「ヨシオ、おまえ、やっと目を覚ましたのか。バカヤロウ、心配かけやがって!」
「兄貴、今、バルーウを売りに来なかったか?」
「ああ、来たよ。」
「前に俺も売り歩いたことがあるんだぜ。売れ残ったものをもらって、食べるのが楽しみなんだ。バルーウはおれの大好物だよ。」
「そうか、大好物か、良くなったら、幾らでも食わせてやるからな。そうだよな、あれはとても、うまいからな!おまえの好きなだけ食え!」
 涙が自然に流れ出ていた。正樹は日本男児ではあったが、出てくる涙をどうしても止めることは出来なかった。泣きたい時には泣いてもいいんだ。恥ずかしいことなんかない、泣いたらいいんだ。と自分に言い訳をしながら泣いた。
「兄貴、何で泣いているんだい?ここは一体どこなんだ?モンキーハウスじゃあないみたいだけれど、それに、こんなにふわふわのベッドも俺は初めてだよ。どこなんだい、ここは?そうか、天国か。天国だとすると兄貴はやっぱり俺の天使様だったんだ。」
「天使なんかじゃないよ。ここは病院だよ。おまえは何日もずっとここで眠り続けていたんだよ。ほれ、おまえと約束したTシャツと靴もここにちゃんと買っておいたからな。少し大きめだが、すぐにおまえが大きくなるから、しばらくは我慢して着てみろよ。売ったりしたら承知しないぞ!いいな。」
「ああ、兄貴が選んでくれたんだ。文句は言わないよ。大切にする。」
「ヨシオ、おまえ、海に行ったことはあるか?」
「ああ、あるよ。いつも海で体を洗っているからな。」
「違う、違う。マニラ湾じゃなくて、大きな青い空と海があって、そしてどこまでも続く白い砂浜があるところだ。息も止まるほどきれいな海だよ。」
「それじゃあ、おいらはまだ行ったことはないな。」
「よし、おまえをそこへ連れて行ってやるからな。飛行機も乗せてやる。」
「本当かよ、飛行機なんて、おいら、死ぬまで乗れないとおもっていた。やっぱり兄貴は凄いぜ!何でも出来るんだな。」
 ディーンがお医者様と婦長さんを連れて戻って来た。開け放たれた扉の中から信じられない光景が三人の目に飛び込んで来ていた。正樹とヨシオが楽しそうに話をしているのが廊下からでもよく見えた。ディーンの目には熱いものがすぐにいっぱいになり、いまにも溢れ出しそうだった。胸の奥からも熱いものが突き上げてきていた。お医者様と婦長さんもすぐには病室には入ることが出来なかった。ただじっとベッドの上で話をしている二人の様子を見つめていた。
 ディーンはくるりと振り返り、中庭に出た。それからチャペルに飛び込み、誰もいない最前列に進み出て、マリア像の足元に口づけをしてから、深い感謝の祈りを始めた。閉じたまぶたからは涙がとめどなく流れ落ちていた。


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