20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第39回   不格好な敬礼
不格好な敬礼

 正樹とディーンは毎朝、病院へ行き、ヨシオの様態を確かめた。その後、病院の中庭にあるチャペルでヨシオの為に祈った。悔しいけれど祈ることしか、まだ二人には出来なかったのだ。カトリックの信者ではない正樹は祈り方を知らないが、ただヨシオの回復を心から願った。ディーンは小さなプレイーヤーズブックを読みながら祈っていた。その小さな本には祈りの代表的な文句が幾つも書かれてあり。小さな文字がぎっしり並んでいた。かなり使い込んだディーンのその祈りのカンニング本は死んだ彼女の母親からもらったもので、もうページの端はしがボロボロになっていた。これまでの彼女の壮絶な人生を物語っているようであった。祈りが終わったばかりのディーンに正樹がそっと言った。
「ディーン、大丈夫だよ。ヨシオはとても強い子だから、きっと意識を取り戻すさ。元気になったらボラカイ島へ連れて行ってあげるんだ。旨い物をさ、島へ行ったら、たらふく食わせてあげるんだ。」
「お医者様の話では、後はヨシオ本人の生命力の強さ次第だそうよ。まだ、生きたいと願う気持ちがヨシオにあれば、意識は回復すると言っていたわ。病院はやれるだけのことは全てやってくれたみたいだから、後は本当にヨシオ次第ね。」
「ヨシオは今までだって、ずっと独りで強く生きてきたんだ。必ず回復するさ。またさ、半分欠けた前歯を出してね、にっこり笑ってくれるよ。」
 正樹とディーンがチャペルで話をしていると夜勤明けのウエンさんが入って来た。看護婦の仕事は肉体的にも精神的にもやりきれないことが多いのに違いない。やはり信仰心がない者にはとても勤まる仕事ではないとおもう。ウエンさんは仕事を終えるといつもここに来てお祈りをする。祈った後でアパートに帰るのだと以前ディーンが言っていたのを正樹は思い出した。実際にウエンさんがマリア像の足元で祈っている姿を目の当たりにするとディーンとノウミを母親代わりになって育ててきた迫力と優しさが伝わってきた。ウエンさんはチャペルの最前列で祈りを終えてから正樹たちのところに近寄り、いつものように優しい口調で二人に話しかけてきた。
「あら、二人ともここにいたの。ヨシオのお見舞いは済んだの?ディーン、学校はこれから?正樹は役所の手続きは進んでいますか?試験はいつだっけ?」
「来月です。あまり自信はありませんが、頑張ります。ディーンと同じ学校に入りたいですからね。」
「そうよ、試験に落っこちたりしたら、ディーンが悲しむわよ。頑張りなさいよ。」
「はい、何とかやってみます。」
「じゃあ、ね。あたしは帰って寝ますから。ディーン、今夜の夕食の支度は頼むわよ。」
 ウエンさんは一度チャペルの出口まで行き、また二人のところに引き返して来た。
「ああ、そうそう、今日の午後、マニラ東警察の署長さんがヨシオに会いに来るって掲示板に大きく書いてあったわよ。何しに来るのかしらね?まだヨシオは昏睡状態なのにね、まさか逮捕する気じゃないでしょうね。」
「そう、あの署長さんが来るの。」
「あら、ディーン、知っているの、その人のこと。」
「ええ、この前、正樹と一緒に会ったわ。ヨシオのことで少しは責任を感じたのかな?結構、人は良さそうだったから。でも異例なことよね。警察署長ともあろう人がわざわざ路上生活者のヨシオのお見舞いに来るなんて、すごいじゃない。ねえ、正樹、あたしたちも後でまた見に来ない?」
「いいよ、あの署長がどんな顔をしてやって来るのか僕もとても興味があるよ。」
 目をまんまるにしてウエンさんが言った。
「じゃあね、あたしはアパートに帰るわね。また今夜も夜勤だから、もう寝ないと。」
 ウエンさんは二人をチャペルに残して先に帰って行った。
「正樹、あたしもそろそろ学校へ行かないといけないわ。正樹はどうする?何か予定があるの?あたしと一緒に来る?」
「今日はヨシオのそばにいることにするよ。それにさ、病院の中はエアコンがよくきいていて快適だからね。何だか今日は外の暑さには触れたくない気分なんだ。」
「そう、じゃあ、また後であたし、ここに来るわね。」
「ああ、行ってらっしゃい。また後でね。」
 ウエンさんに続いてディーンも出て行ってしまった。正樹一人が病院のチャペルの中に残された。正樹は重大な問題について考えてみるつもりだった。それはヨシオが昏睡状態になり、長期間の入院が必要となってしまい、これからのここの支払いが次第に心配になってきていたからだ。アメリカナイズされた超近代的なこの病院の治療費は高い。病院の従業員であるウエンさんのパスを使って家族としてヨシオを特別扱いにしてもらったとしても、そのディスカウントには、所詮、限界がある。正樹は自分のお金が続く限り、ヨシオの為に病院の治療費を払い続ける覚悟はすでに出来ていた。しかし問題はその後の事だ。もし何ヶ月も、いや何年もヨシオの状態がこのままだとしたら、日本の父親にも相談しなければならないだろう。きっと日本にいる家族は見ず知らずの路上生活者の為に何故おまえがそこまでするのかと質問してくるだろう。答え方を考えておかないといけない。様々なことが頭に浮かんできていた。自分の学校だって考え直さなければならないだろう。医学部への夢もあきらめて、日本に帰って働かないといけないかもしれない。全ての事がヨシオの為に変わってしまう。でも正樹はそれでもいいと思っていた。まさか、ボラカイ島で初対面で殴りつけた茂木さんには相談は出来ないだろう。色々なおもいが脳裏をよぎっては消え、また現われた。正樹はいつしかチャペルの中で眠ってしまった。
 半日近く経って、正樹はウエンさんの上司である親切な婦長さんによって起こされた。
「正樹さん、起きて下さい。警察署長さんがお見えですよ。起きて下さい。」
 正樹が目を開けると、肥った婦長さんの後に続いて、顔の上に署長のあの顔が飛び込んできた。正樹はゆっくりと立ち上がり、簡単に挨拶をした。署長が先に口火を切った。
「先日はどうも、モンキーハウスから連絡がありましてな、あなたがヨシオをここに移したと聞いてびっくりしましたよ。今日は午前中に仕事を片付けましてな、ヨシオの具合を聞きに来た次第です。」
「ヨシオにはもう?」
「いや、まだです。」
「それでは病室までご案内いたしましょう。」
 正樹と署長はチャペルを出て、中庭を歩き、病棟に入った。
「あいつ、一週間も意識が戻って来ていません。」
「そうか、それは気の毒なことをしたな、ちょっとお灸が効き過ぎてしまったようだな、本当に申し訳ない。」
「僕とヨシオが初めて会った時にはすでにヨシオは三日間も何も食べていなかったようです。それに二人連れの日本人に相当ひどく殴られていましたから、どこか打ち所が悪かったのかもしれません。」
 病室に着き、署長だけが中に入った。署長はベッドの中で眠っているヨシオの顔をのぞいた。声をかけても返事などは返ってこない。ヨシオはただ眠り続けているだけだった。署長はしばらくヨシオのそばに座っていた。婦長さんが入って来たので、彼女に向かって二三の質問をした。
「ここの病院は立派ですな。それに設備もすばらしい。きっとお高いのでしょうな?」
「ええ、まあ、ここに来るみなさんはお金持ちの人ばかりですから、それなりの治療費はいただいております。」
「ところで、このヨシオの費用は誰が?」
「外にいる正樹さんですよ。」
「そうですか。」
 署長は婦長を少しベッドから離れたところに連れて行き、小さな声で聞いた。
「ヨシオの具合はどうでしょうか?どのくらい、この状態が続くとおもわれますか?」
「私にも分かりません。何ヶ月、いや長い場合は何年もかかることがあります。」
「そうですか。」
 それを聞くと署長は病室を出て、再び正樹のことを捜した。見回すと正樹は廊下の長椅子に座っていたので、署長も近づき、その隣に腰を下ろした。
「ヨシオは眠ったままでしたよ。正樹さん、ところで、あんたがここの高い病院の費用を出しているとお聞きしました。いくらあんたが日本人とは言え、この病院はこの国の最高峰ですぞ。治療費の方もそれなりに高いはずだが。」
「幸いなことに、ここで働いている知り合いがおりまして、ヨシオを家族として扱ってもらい、半額近くまでディスカウントしてもらっています。」
「それにしてもだな、ここはフィリピンにあってもフィリピンの病院とは違う、あまり日本の病院と変わらないでしょう。私は不思議でしょうがないんだ。何で、そんなにまで、あんたはするんだね。あなたはこの前、わしの所を訪ねて来た時に、ヨシオとはたまたま道で遇っただけだと言った。偶然に道で遇った浮浪者にこんな大金をどうして出せるのかね?それともあなたは余程の金持ちか何かかね?」
「いいえ、僕はちっとも金持ちでも何でもありませんよ。高校時代に働いて貯めた貯金がありましたので、それをここの支払いに充てているだけですよ。もし、ヨシオがこのまま眠り続けるならば、念願の医学部を断念して日本に戻って仕事を見つけます。」
 しばらく二人の間には沈黙が続いた。次の言葉は署長からだった。
「正樹さん、わしに任せて下さい。ここの費用はわしが病院と話をつけますから、もう、君は心配しなくてもいいですよ。ただ、もし、ヨシオが回復したら、彼の面倒をしばらく見てやってはくれませんかな。」
「ええ、それはもちろん大丈夫ですよ。」
「しかし、あんたみたいな日本人は初めてだよ。変わったお人だ。まったく正樹さんは変わったお人ですよ。学校はあきらめたらいけませんよ。立派な医者になってください。いいですか。では、私はこれで失礼します。あなたに逢えて、本当に良かった。またお会いしましょう。」
 警察署長は姿勢を正して正樹に向かって最高級の敬礼をした。正樹も同じ様に真似をして敬礼をした。正樹はあまりにも突然の申し出にまだ頭の中が混乱しており、きちんと署長にお礼も言えずにいた。正樹は署長の真似をして不恰好な敬礼をするのが精一杯だった。それが正樹の感謝の印だったのだ。この署長との出会いも正樹の人生を大きく変えていくこととなった。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 7233