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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第36回   ぶよぶよの豚
ぶよぶよの豚

 二人はまったく気がつかなかった。渡辺社長と高瀬青年はさっきから五人の男たちにつけられていることに気がつかなかった。ハイアライの競技場を出て、すぐ前の大通りを渡りルネタ公園に入ってからも、まだその男たちは一定の距離を置いてぴたりと二人について来ていた。
 夜のルネタ公園は恋人たちの世界だ。昼間の暑さから幾分ではあるが解放されて、たくさんのカップルが芝生に寝そべりながら語り合っていた。もし夜間外出禁止令がなければ、そのまま朝までいても凍える心配などちっともないから、皆、好き勝手な場所で、好きな時に眠ることが出来ただろう。その夜も酔っ払いやホームレスも含めて、いろいろな人たちが公園のあちらこちらに横になっていた。ルネタ公園はすべての人々を等しく寛容に受けとめることが出来るほど広大だった。高瀬青年と渡辺社長が行こうとしているフローティング・カジノはハイアライの競技場とはちょうど反対側の船着場からボートが出ていた。そこまで行くには大きな公園を縦に横切らなければならない。ルネタ公園の中央の歩道をどこまでも海に向かって歩いていけばいいのだが、早足でも三十分はたっぷりかかる位の距離だ。兎に角、ルネタ公園は大きくて素晴らしい公園である。フィリピンで世界に誇れるものをあげろと言われれば、間違いなくこの公園もその一つに挙げられるだろう。
 渡辺社長と高瀬はハイアライを出てからまったく話をしていない。ハイアライで大負けして、おまけに偽物の当たり券までつかまされて話をするのも嫌になるほど気落ちしていたのだ。ルネタ公園には街灯代わりに丸いランプがいたるところにあるが、広すぎて公園全体はやはり薄暗い、時折、海から吹いてくるとても有り難い風があり、その風は公園の樹木をかすかに揺らしていた。公園の一角にある花時計は午後九時を回っていた。こんな時間だというのに子供たちはまだローラースケートをしたり、バスケットボールをして遊んでいた。彼らに混じってホームレスの子供たちの姿もあり、どうやら今夜は草むらに隠れて眠るつもりらしい。懐が広いルネタ公園はうるさいことは一切言わない。いつでもすべての人々を平等にあたたかく包み込んでいてくれるのである。
 まだカジノへの道のりの半分も行かないうちに渡辺社長は音を上げてしまった。歩道に沿って備え付けてあるベンチの上にへたり込んでしまった。夜とは言えやはり南国である。ちょっと歩いただけでも社長の体からは汗が噴き出していた。一方、ぶよぶよした身体の社長と違って、よく鍛え上げた高瀬の身体は筋肉質で毛穴もしまっているせいか、あまり汗をかいていなかった。やっと、社長が高瀬青年に懇願するように言葉を発した。
「すまんが、ちょっと、休憩しようや。この公園はでか過ぎるな。いくら歩いても海なんか見えてこないじゃないか。やっぱり、車で行けばよかったかな。」
「でも、素晴らしい公園でしょう。あれだけ大きくハイアライで負けてもだんだんと気持ちが落ち着いてはきませんか。それはきっと公園の癒しの効果だと思いますよ。芳子さんはこっちに来て気が滅入るといつもこの公園に来るんだそうですよ。すると、また勇気が湧いてくると言っていました。僕もその気持ちが分かるような気がします。つくづく社会における公園の重要性を実感しますね。公園という場所は落ち込んだ人々に特に効果があるようですよ。」
 そんなことはどうでもいいとでも言いたげな渡辺社長は高瀬青年をベンチから見上げながら言った。
「なあ、どこかで車を拾えないかな?これじゃあ、カジノへ行く前に全精力を使い果たしてしまいそうだよ。なあ、車で行くことにしよう。」
 高瀬は自分たちのいる位置を確認するように周りを見回してから言った。
「社長、今、私たちがいる場所はちょうど公園の真ん中ですよ。どこへ行くにも今まで歩いて来たと同じくらい歩かないと車に乗ることすら出来ませんよ。」
「そうか、じゃあ、近くの休める場所に連れて行ってはくれんか。わしは喉が乾いてしまったよ。少し腹も空いてきたようだしな。」
「でも、社長、やはり、そうとう歩きませんとそのような店にも行けませんが、もし何でしたら、しばらくここで待っていてくれれば、わたしが何か買ってまいりましょう。」
「そうか、そうしてくれるか。歳はとりたくないものだな、ちょっと歩いただけでもこの有様だよ。申し訳ないな。あ、それから飲み物はビールにしてくれるか、ビールに。」
「はい、分かりました。じゃあ、ちょっと行ってきますから、ここに座っていて下さい。」
 若い高瀬は渡辺社長を一人ベンチに残して買出しに出かけた。高瀬が姿を消して二分もしないうちに、いかつい男たちが渡辺社長を囲むように近寄って来た。社長が上を向くや否や、ひとりの男が社長の顔面中央にパンチをくらわせた。あまりにも突然の襲撃で社長は声が出ない。続けざまにもう一発、社長の左頬に強拳が飛び込んできた。今度は狙いすました様な一撃だったために、社長のダメージは相当なものだった。社長の全身はがくっと折れ曲がり、横にいた男たちが社長の両腕を抱え込んだ。完全に社長は身動きが出来ない状態になってしまった。一番最初に殴りつけた男は社長のどこにお金があるのか知っているらしく、迷うことなく社長のポケットから札束を素早く抜き取った。仕事はあっと言う間に終わった。社長の下腹にボディブローが打ち込まれた。うな垂れた社長の顔面に、今度は膝蹴りが命中した。これで完全に渡辺社長は意識を失ってしまった。最後に後頭部に両手でとどめが叩き落された。社長は芝生の上に崩れ落ち、うつ伏せの格好で放置された。男たちはお互いの顔を見合わせて、走り去って行った。ルネタ公園にはさっきとまた同じ平和な風景が戻ってきた。公園の様子は何も変わってはいない。たった一つだけ違っていたのは渡辺社長が芝生の上に横たわっていることだけだった。公園には社長のように横たわっている人は数え切れないほどいる。渡辺社長はそんな公園の風景の一部に過ぎなかった。
 高瀬がスナックを抱えて戻って来たのはそれから十五分が経ってからだった。初め高瀬は社長が芝生の上で眠っているものとばかり思っていたが、次第に不安になってきて、ゆっくりと声をかけてみた。
「社長、渡辺社長。」
 返事はなかった。高瀬は座っていたベンチの上にスナックを置いて、慌てて社長に近寄った。
「社長、大丈夫ですか?社長。」
 しばらく声をかけていると、社長が目を開いた。
「やっと、気がつきましたか。怪我はありませんか?」
 渡辺社長は何が何だかさっぱり分からないままであった。社長の顔は醜く腫れ上がってきており、口からは血が出ていた。
「社長、どこか痛みますか?」
 体中がひどく痛むようで、話し出すまでに少し時間がかかった。
「やられたよ。全部やられた。君から借りたお金、そっくり持って行かれた。」
 高瀬は言葉が出ない。
「奴ら、きっとハイアライでわしが金を数えていたのを見ていたのに違いないな。」
「社長、口から血が出ていますが、大丈夫ですか?」
「突然、囲まれてな、何も言わずに、あちこち殴りつけてきやがった。畜生め!」
 高瀬は正直なところ、社長のことより、貸したお金のことの方が心配だった。もうこれでお金を返してもらうまでは社長から離れるわけにはいかなくなった。嫌でも社長の手助けをしないとお礼どころか貸したお金までなくなってしまう。高瀬はじっと我慢するしか方法はなくなってしまった。まったくこんなオヤジ、面倒くさい、何をやっても駄目じゃないか、本当は自分はこんな奴に関わりなんか持ちたくはないのだと高瀬は心の中で呟いた。
「社長、歩けそうですか。もし何でしたら自分がおんぶしましょうか?」
「いや、足はそんなには痛んではおらんのだ。腹と顔がひどく痛むだけだ。もう少し待っていてくれれば歩けるかもしれない。」
「どこか病院へ行かなくてはいけないな。そうか、うちの大家に相談してみるか。どこか病院を紹介してもらえるかもしれない。お金がない以上、治療費が後払いになるところでないといけないからな。やはり大家に相談するしかないな。」
高瀬は独り言のようにそう呟いた。それを聞いていた社長が慌てて言った。
「いや、病院はいいよ。大丈夫だ。どこも骨は折れていないようだし、なんとか自力で治してみせるよ。少し痛むが、大丈夫だ。」
「社長、念のためにちゃんとした病院で診てもらわないとだめですよ。警察にも被害届を出さないといけないし、医者の診断書は必要ですからね。今日はもうこんな時間ですから、とりあえず、まず僕の部屋に行きましょうか。明日の朝一番でうちの大家と相談して病院を紹介してもらいますから、うちの大家は病院の院長の娘でしたから、知り合いの病院を紹介してもらいますよ。」
「そうか、面倒をかけるな。本当にすまんな。まったくここのところ、わしはつきに見放されてしまっているからな。こんな調子じゃあ、命までも危ないかもしれんな。早く日本に帰った方が良さそうだな。」
 冗談じゃあない、僕の一年分の生活費を半日もしないうちになくしやがって、何が命だ、何が日本に帰った方がいいだ、ふざけんじゃないよ、と高瀬は思いながらじっと堪えた。さっき買ってきたビールとハンバーガーを社長に差し出した。
「口の中が切れているようですが、大丈夫ですか?どうです、これ食べられますか?」
 渡辺社長は思い出したようにそれらにむしゃぶりついた。まるでその様子は豚が餌を一心不乱に食っているようだった。いや豚の方がもっと上品な食べ方をすると高瀬はおもった。高瀬の目の前には傷だらけのぶよぶよの豚がハンバーガーを貪り食っていた。
 高瀬の部屋に二人が着いたのは夜の十一時を回ってしまっていた。雨が激しく降り始めていて、二人ともびしょ濡れだった。
「高瀬君、ここは病院じゃないかね。」
「いいえ、ここが僕の住んでいるところですよ。潰れてしまった病院を利用して院長の娘がホステルをやっていまして、おもに長期の滞在者を月極めで泊めているのですよ。」
「そうか、元病院ということだね。」
「まあ、汚いところですが、明日の朝まで辛抱して下さい。」
 現実問題として、高瀬も社長も所持金はもうほとんどなかった。病院に連れて行くにもお金がないのでは話にならない。やはり、大家に相談するしか方法はなさそうだった。後は日本から渡辺社長に百万円が送金されてくることを祈るしかなかった。芳子さんにも相談しようと高瀬はおもった。
 部屋のドアを開けると、こもった熱気がむっと部屋の外へ出て来た。社長を中に担ぎ込んみ、自分で着替えをさせ、社長に高瀬が使っているベッドを提供した。高瀬もソファーにすぐに横になった。若いとは言え、心底、今夜は疲れた。色々なことが起こり過ぎた。高瀬はゆっくと休みたかった。そっと目をつぶって睡魔が襲ってくるのをじっと待った。しばらくすると、あんなに怪我をしているにもかかわらず、ぶよぶよの豚の大きな鼾が横から聞こえてきた。まったく厭きれてものが言えない。そのうるさい鼾で高瀬はなかなか眠ることが出来なかった。よりによってこんなへんてこなオヤジにつかまってしまった自分自身を恨んだ。とうとう自分の寝床まで占領されてしまった。自分の全財産を盗られてしまった上に、まだこんなに親切にしている。高瀬は軽はずみな自分の行動を深く反省した。
 時々、心配になり、ソファーから身を起こして社長が息をしているかどうか覗き込んで見た。今、ここで社長に死なれたら大変なことになるからだ。兎に角、一日も早く社長から自分のお金を取り戻さなければならなかった。窓の外は相変わらず激しい雨が降り続いていた。いつの間にか高瀬も眠りに落ちていた。

 高瀬は社長の鼾がぱたりと止まったことに気がついた。起き上がって社長の枕元に立ってみた。社長は息をしていない。なんてこった。渡辺社長は自分のベッドの上で死んでしまったではないか。頭を殴られた時に打ち所が悪かったのかもしれない。もう一体全体どうなっているのだ。じゃあ、自分の生活費はどうなるのだ。それにどうやってこの事を警察に説明すると言うのだ。誰が一文無しの外人の話なんか信用してくれると言うのか、もう終わりだな。

 高瀬は頭の中が真っ白になってやっと目が覚めた。夢を見ていたらしい。滅多に汗をかかない高瀬の全身は汗びっしょりだった。高瀬はゆっくりと起き上がり、恐る恐るベッドの中の社長の様子を覗き込んだ。ぶよぶよの豚はまだよく眠っていた。口元からは汚い血の混ざったよだれが流れ出し、高瀬の枕の中にしみ込んでいた。もう洗濯をしてもその枕は使う気にはならないので、処分することにした。高瀬は社長を起こす前に、一人だけで大家に相談してみようと素早く着替えをして部屋を出た。
 ついていない時は何から何までついていないものである。大家は昨日からボラカイとか言う島へバカンスに出かけていて留守だと言う。来週にならないとマニラには戻らないと、彼女のお手伝いから言われた。とすると最後の砦はやはり芳子さんしかいない。高瀬は社長を病院に連れて行く前に芳子さんのところへ行って、送金があったかどうか確かめてみようとおもった。日本から社長に送金がされていれば何も問題はないのだから、ただ、昨日の時点では何かが変であった。それともう一つ心配になってきてしまった。もし社長に逃げられたら、それで終わりではないか、そうだ、もう一時も社長のそばを離れてはいけない。すでに高瀬は全財産を失ってしまっているのだから。あれこれ考えていてもしょうがないので部屋に戻って社長を起こすことにした。病院は後回しにして、まず芳子さんの事務所を二人で訪ねることにした。
 部屋に戻ると渡辺社長はすでにベッドの上に起き上がっており、さっきは気づかなかったが、オヤジ特有の臭い匂いが部屋中にこもっていた。
「社長、おはようございます。どうですか、痛みますか?今、大家のところに行って来ましたが、生憎と彼女は留守でしたよ。仕方がありませんから、まず芳子さんのところに行って相談することにしましょう。それからでないと病院も無理ですし、なんせ、僕たちは一文無しになってしまいましたからね。何もすることが出来ませんよ。それから、芳子さんの事務所までは少し歩きますが、大丈夫ですか。歩けますか?」
「ああ、大丈夫だ。身体のあちこちはまだ痛むが、少し眠ったおかげで、何とか歩けるとおもうよ。」
 昨日から悪夢の連続だったが、今日も汗まみれの社長に高瀬の衣類を与えることから始まった。高瀬は全財産を奪われ、数少ない衣類まで提供するはめになったことを誰にともなく恨んだ。今日も一日まったく良くなる気配はなかった。
 ふたりは芳子さんの出社時間に合わせてマカタガイホステルを出ることにした。時々、午前中は出社していないと聞いていたので、間違いなく芳子さんに会える昼過ぎを選んで出かけることにした。昨夜からマニラは雨が降ったり止んだりで水溜りがあちらこちらにできていて、とても歩きにくかった。高瀬は出来るだけ直線距離にするために裏道を選んで歩いた。渡辺社長は体中が痛むようで、さすがに元気はなかった。自然とその歩く歩調もゆっくりで、なかなか芳子さんの事務所にはたどり着けそうにはなかった。
 ところがその社長が突然、全力疾走で走りだしたのだった。びっくりしたのは高瀬だった。今までまるで死人のようだった渡辺社長が急に元気になり、走り出したのだった。高瀬も社長の後を必死に追いかけた。社長は道路わきに止まっているリヤカーに向かって突進して行った。リヤカーの上には子供が一人寝ていた。社長はその子供を掴み起こすと、リヤカーの外に引きずり出した。何が起こっているのかまったく分からないのは高瀬であった。ぶよぶよの豚は無抵抗な子供を何度も何度も殴り始めた。


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