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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第34回   芳子さん
芳子さん

 マニラ市の下町にあるラムーダホテルの五階、一番奥の部屋に関東日本ツーリストの出張所はあった。当時、ここを取り仕切っていたのは女ボスの芳子だった。もうとっくの昔に五十歳を超えたやり手の熟女が日本から次から次へとやって来る鼻の下を伸ばした男たちを捌いていた。芳子はいつものように机に向かって書類の整理を始めたところだった。ひとりの日本人の青年が彼女のデスクにやって来た。芳子が机から顔を上げて言った。
「あら、高瀬君じゃないの、どう、マカタガイ・ホステルの住み心地は?気味が悪くないこと。前は病院だったから、きっと、君が住んでいる部屋からも何人もあの世に旅立ったのに違いないわよ。」
「よしてくださいよ。そんな言い方をするのは、自分は、結構、気に入っているのですから。贅沢は言っていられませんよ。兎に角、一年間、このマニラで暮らさないといけないのですからね。あれで十分ですよ。住むところにはあまりお金をかけたくありませんからね。」
「そうか、高瀬君は会社からしばらく休むように言われたんだっけ。それで物価の安いマニラにやって来たというわけ。でも、そんなに造船業界って景気が悪いの?」
「クビにならなかっただけ、まだ、ましでしたよ。突然、会社から一年間休むように言われたのですよ。二か月分の給料を渡されてね。すまんがこれで一年間休んでくれと、社長に頭を下げられましたよ。」
「そう、それは大変だったわね。でも、あなたの会社はあなたが必要だから、クビにはしなかったわけでしょう。そこのところは感謝しなくてはだめよ。でもさ、マニラに来るなんて、随分と思い切ったことをするわね、高瀬君は。どうしてマニラに来る気になったの?」
「前にできあがった船をマニラに届けに来たことがあったのですよ。その時、とても楽しいおもいをしましてね、それに日本と比べて何もかも安かったことを思い出しましてね、だいたい会社から渡されたあれっぽっちのお金では、とても日本では一年間は暮らせやしませんからね、バイトをしながら会社からの連絡を待つなんて、それだったら何もかも忘れて気ままにマニラで楽しく一年間、過ごすのもいいかなと、ふと、新潟の酒場で飲んでいて思いついたのですよ。」
「そうだったの、でも、高瀬さん、気をつけないとだめよ。マニラはあなたがおもっているほど甘くはないわよ。それに悪い日本人もたくさんいるのだからさ、誘われても絶対についていかないことね。強盗とかひったくりに遭う心配はなさそうね。だって高瀬さんは色が黒いし、よく見ないと日本人には見えないものね。その点だけは良かったわよ、安心だわ。まあ、頑張って、一年間だっけ、このマニラで生き抜いてごらんなさいな。」
 高瀬青年は芳子の紹介で安宿マカタガイ・ホステルに住み始めて一週間目だった。マカタガイ・ホステルは以前はマニラの繁華街に隣接する小さな病院であったが、経営がうまくいかずに、今は院長の娘が病室を利用して、小遣い稼ぎにホステルをやっていた。特に改装するでもなく、病院当時のままで、安く長期の滞在者に部屋を貸していた。ベッドは折りたたみ式の簡易ベッドで、そのベッドの上から何人もの患者たちが天国へ旅立って行ったことは容易に想像することが出来た。それでも高瀬はそこの安い宿泊費が魅力だったのでマカタガイ・ホステルに落ち着くことにしたのだった。かれの部屋は地下にあって、シャワー・ルームの小さな窓から外を見上げると道路を歩く人々の足が見えた。時々、誰かが蹴飛ばした石ころが窓の網戸にぶつかってきていた。水もチョロチョロしか出てこない。その水も予告なしによく止まった。汗を流そうとシャワー・ルームに入って、狭いシャワー・ルームの熱気でもって逆に汗だくになってしまうことも度々あった。しかし高瀬は住むところにはお金を掛けたくはなかった。それは毎晩、日本では出来ないような遊びをするためだった。ただ何も考えずに一年間をマニラで面白おかしく遊んで暮らすことに決めていたから、賢いといえば賢いと言えないこともないが、二国間の経済格差を利用して、勤め先から言い渡された一年間の一時帰休という不運をなんと逆転の発想でもって、毎晩のように豪遊して明け暮れる生活に変えてしまった。普通ならば途方もなく長く感じられる我慢の一時帰休を夢のような一年間に変えてしまったのだから、高瀬青年の頭の柔らかさには感心させられるものがあった。
「ねえ、高瀬君、どうしている?院長の娘。ほら、マカタガイ・ホステルのオーナーよ。彼女は私の友達なのよ。彼女、結構、美人でしょう。」
「ええ、この国の女性にしては大柄で、とてもきれいな人ですよね。」
「彼女にはスペインの血が入っているのよ。とても情熱的でさ、それに頭もいいわ。高瀬さん、気をつけないと、彼女に食べられちゃうわよ。それとも、もう食べられちゃったかな?」
「いえ、いえ、そんなことはありませんよ。」
「ところで高瀬君はお幾つになるの?」
「もうすぐ二十六になります。」
「二十六か、危ない、危ない。あそこのホステルを紹介したのは間違えだったかもしれないわね。何だか、そんな気がしてきたわ。でも、いいか、何事も経験だから、若い時にいろいろなことを経験しておくことも、また必要だからね。」
「芳子さん、何を言っているのか、僕にはさっぱり分かりませんが。いったい何が危ないのですか?経験って何ですか?」
「ごめん、ごめん。何でもないわよ。それより病気には気をつけなさいよ。いいわね。」
 その時である、大柄な日本人が関東日本ツーリストの芳子の部屋に入って来た。一見して観光客だとすぐに分かった。前身汗びっしょりで、目だけがぎょろぎょろしていた。それは何か緊急な用件を抱えている者の表情であった。
「すみません。助けて下さい。強盗に全部やられました。ここに来れば助けてくれると聞きまして、恥を忍んでやってまいりました。いやー、参りましたよ。パスポートも財布も航空券もすべて盗られてしまいました。」
 芳子は突然の訪問者が強盗だの、助けてくれだの、言ってもまったく慌てた様子は見せなかった。何故なら、このような観光客は毎週のように彼女の事務所にやって来ていたからだ。この国のオフィスのスタイルは大きな机の反対側に椅子を向かい合わせに二つ置く、どこの役所や会社に行っても同じスタイルである。芳子の机の前にも来客用の椅子が二つあった。芳子は座ったままで、高瀬が座っている反対側の椅子を指差しながら言った。
「まあ、そこにおかけなさい。」
 そのよく肥った中年男性は椅子に座ってからもまだ舌がもつれていて、何を言っているのかさっぱり分からない状態だった。おまけに汗が止まらずに、体全体から湯気を噴き上げていた。
「騙されましたよ。薬だ。睡眠薬でやられた。ぜんぶ盗られてしまいました。畜生、あの餓鬼、今度会ったら、とっちめてやる。」
「まあ、まあ、落ち着いて、どうしたのですか?ゆっくり、ちゃんと順を追って話して下さいな。」
 日比混血児のヨシオに騙された渡辺社長はあちらこちらの旅行会社に助けを求めたが、結局、たらい回しにあっていた。やっと、関東日本ツーリストの芳子がこの手の事件のエキスパートであること知り、彼女のオフィスに駆け込んだところだった。
 芳子が渡辺社長に諭すように言った。
「この国では、あまり鼻の下を伸ばすと痛い目に遭いますよ。騙す方も真剣、必死にみんな生きているのですからね。それで渡辺さんでしたね、パスポートも盗られたのですね。」
「ええ、一文無しですわ。誰も知り合いもいませんし、もう、この通りお手上げですわ。」
「分かりました。ではこの電話で日本のあなたの家か会社に電話をしてもらいます。もちろん料金は先方払いのコレクトコールにしてもらいます。よろしいですか。すぐ銀行送金を電信で依頼して下さい。この口座に送金してもらいます。送金が完了した時点で、その送り状とあなたの身分を証明する書類をファックスでこの番号に送るように頼んで下さい。いいですか、パスポートの代わりになる帰国用の許可書をすぐにこちらの日本大使館に行って申請しなくてはなりません。費用は一時的に私が立て替えておきます。通常ですと銀行送金は四日ぐらいかかりますから、それまでのあなたの生活費も私がお貸ししましょう。もし、うちのスタッフを大使館に同行させる場合には手数料をいただきます。これは商売ではありませんから、私は一切、手数料はいただきません。ただし、いいですか、あなたからのお礼は拒否するものではありません。何故なら、ここの暮らしは想像以上に厳しいものがありますからね。渡辺さん、それでよろしいですか?」
「有り難うございます。地獄で仏とは正に此の事ですな。何とお礼を申し上げたら良いのやら、もちろん送金が届き次第、十分なお礼はさせていただきます。こう見えても京都で小さな会社を経営しておりましてな、東南アジアにも何箇所か支店もあるのですよ。」
「渡辺さん、大使館へ行く前にマニラの警察に寄って、盗難届けを出さなくてはなりませんが、どうしますか、うちのスタッフをおつけしますか?」
「ええ、お願いしますよ。お恥ずかしい話、わしは英語がからっきしだめなものですから、誰か一緒に来てもらうと助かりますわ。おー、これで助かった。」
 芳子は高瀬の方をちらりと見て、笑いを堪えた。渡辺社長の話をしている時の仕草があまりにも滑稽だったからだ。
「それでは、渡辺さん、さっそく日本へ電話をしていただけますか。送金を依頼していただかないと何も始められませんからね。どうぞ、この電話をお使いになって結構ですよ。」
 渡辺社長は困惑した表情で答えた。
「あの、申し訳ないが、わしはこの国から日本への国際電話のかけ方を知らんのですよ。紙とボールペンを貸してくれませんか、うちの会社の電話番号を書きますから、代わりに電話してくれませんか。」
 芳子はメモとボールペンを社長に渡しながら、もう一方の手で受話器をさっと取った。プッシュ式のダイヤルを社長が書き終わる前に押して、電話局のオペレーターと英語で話し始めた。渡辺社長は会社の電話番号を書いたメモを急いで芳子に渡した。芳子は受話器を耳から外して、受話器に手をあてがいながら言った。
「名前、誰を呼び出しますか?料金先方払いのコレクトコールは通話人指定ですから、どなたを指定しますか?」
「専務の吉田を呼んでください。」
「吉田、何様ですか?」
「アキオ、吉田昭夫です。」
 オペレーターは芳子に吉田という人につながった旨を伝えた。芳子は受話器を渡辺社長に差し出した。
「吉田さんにつながりました。どうぞ、お話下さい。」
「もしもーし。わしだ、渡辺だ。吉田か。いやー、参ったよ。泥棒にやられた。そうだ、すっかりやられてしもうた。財布もパスポートも航空券もな、全部盗られてしまった。それでな、悪いが、金を送ってもらえんか、そう、大至急、電信でな、それから、その銀行の送り状をファックスでこっちへ送って欲しいんだ。金が届くのに四日くらいはかかるらしのでな、だから送金したという証明がいるのだ。すまんが、すぐ送ってくれるか。とりあえず百万円相当のアメリカドルを送金してくれるか。送り先だがな、今から言うからメモってくれるか。」
 渡辺社長は芳子から銀行の口座とファックスの番号を書いた紙を受け取り、再び受話器にかぶりついた。高瀬青年は目の前の芳子と社長のやりとりを興味深くじっと聞いていた。別に急ぐでもなし、特にやることもない高瀬は強盗にあってしまったかわいそうな日本人を観察していた。さっき電話で社長が言っていた百万円を送れという言葉が頭にこびりついてしまった。百万円はこのマニラでの自分の一年間の予算の倍以上の額だったからだ。高瀬はゆっくり汗だくの渡辺社長に話しかけた。
「どうです、ファックスが届くまで、下のラウンジでビールでも飲みませんか。自分は貧乏人ですがビールの一杯ぐらいならおごらせてもらいますよ。」
「いやー、それは嬉しいな。嫌な事ばかり続いたもので、芳子さんといい、あなたといい、人の情けがこれほどありがたいとは、実はさっきから喉がからからだったのですよ。有り難くご馳走になりますよ。失礼ですがここの事務所の人ですか?」
「いえ、私は芳子さんに安宿を紹介してもらって、そのお礼に来ただけの貧しい不況浪人ですよ。大判振る舞いは出来ませんけれど、飲みに行きましょう。」
「不況浪人とは、初めて聞きましたが、何か日本の景気と関係があるのですかな?おお、そうだ、私は渡辺と申します。ご挨拶が遅れまして、どうも失礼しました。京都でちっぽけな電設会社を経営しております。この国にも興味がありましてな、それで下見を兼ねて遊びに来たわけですが、この有様ですわ。まったくお恥ずかしい話です。失礼ですが、あなたのお名前をお聞きしてもよろしいですかな。」
 芳子が代わりに答えた。
「こちらは高瀬さんと言います。高瀬さんは新潟の造船会社のエリート社員なのですけれど、それがね、会社から一年間、休むように言われたのですよ。ただ日本でじっとしているのが嫌で物価の安いマニラで一年間楽しく遊んで暮らそうとしている賢いお人ですよ。」
 渡辺社長は大きく頷きながら高瀬に言った。
「ほう、変わったお人ですな。勇気があるというか、気転が利くというか、高瀬さんはなかなか面白いお考えをお持ちのようですな。是非、色々とお話をお聞きしたいものですな。」
 高瀬は席を立って、机の上に置いておいた煙草とライターをポケットに入れた。そして、渡辺社長に向かって言った。
「まだ明るいですが、ビールくらいならいいでしょう。どうです、下へ行きませんか。」
 渡辺社長も慌てて椅子を引き、立ち上がった。そして芳子に再びお礼を言おうとした時、芳子の方が先に言ってしまった。
「行ってらっしゃい。でも、五時までには戻って来て下さいね。私は五時きっかりに帰りますからね。よろしいですか。」
 高瀬と渡辺社長はこくりと頷き、芳子の部屋を並んで出て行った。ホテルの一階のカフェはパリ風の洒落たお店で、エアコンのよく効いた屋内の他に、通りにも幾つもテーブルが置かれ、若い人達が語りあっていた。このホテルの周りには学校が幾つもあるらしく、前の通りを様々な制服姿の学生たちが行き来していた。白い制服は医学部と歯学部のシンボルであり、医学部の学生たちの胸ポケットには誇らしげに聴診器が入れられている。看護学科の学生たちは少しピンクがかった白い制服を着ていた。学生たちは分厚い本を何冊も抱えているが、その教科書のほとんどが貸し本で、汚れないように大事にビニールのカバーがつけられている。何冊も本を買う余裕などこの国の学生たちにはない。だから自分の汗で貸本が濡れないようにビニールのカバーをつけているのである。学生街を歩くと、貸本屋の前などには必ずビニール専門の露店がある。これはマニラ独特の光景かもしれない。
 高瀬青年と渡辺社長はソフトドリンクを飲んで話をしている学生たちの間で、場違いにもビールを飲み始めた。まだ太陽は真上にあった。
「あー、美味い!生き返ったよ。」
 渡辺社長は一気に中ジョッキを空けた。
「まるで頭のてっぺんから足のつま先まで水分がじわっとしみ込んだような気がするわい。そうだ、考えてみると、昨日から何も飲まず食わずだったからな。睡眠薬入りのビールを飲まされたのが最後だった。あれから何も口に入れてなかった。頭に血が上っていたし、おまけに一文無しになっちまったからな。」
 びっくりした様子で高瀬が言った。
「じゃあ、何か注文しましょう。何がよろしいですか。」
「ありがとう。送金が届いたら、今度はこのわしが高瀬さんにご馳走するからね。」
「いいんですよ。困った時はお互い様ですからね。では、まず鳥をまる一羽注文しましょうか。それでよろしいですか。」
「ええ、何でもけっこうですよ。鳥ですか、大好物ですよ。今ならその辺に歩いている野良犬でも食べられそうな気がしますよ。」
「この国では実際に犬を食べるらしいですよ。誕生日とかに知り合いの家に行って、この前まで門の所で吠えていた犬はどこかと訊ねると、そこの皿の中にいるよと返事が返ってきたりして、犬は食べると体が火照ってくるのだそうで、体が弱っている人にはとても良いらしいですよ。元気が出るのだそうです。」
 高瀬青年は手を挙げてウエイトレスを呼んだ。ビールのお代わりと鳥の丸焼きを注文した。料理はすぐに運ばれてきたが、その間に高瀬はもうすぐ社長のところに送られてくる百万円のことを考えてしまった。ここでケチってはいけないという打算が働いて、追加の注文もどんどんしてしまった。渡辺社長は次第に落ち着きを取り戻し、すっかり元気になったようすだった。大きな体をしているだけあってよく食べる。この食事で高瀬の一週間分の食費が消えてなくなってしまいそうだった。
「どうですかマニラは?」
 愚かな質問をしてしまったことに気づいた高瀬はすぐに言葉を続けた。
「災難に遭ったばかりの人に、こんなことを聞くなんてナンセンスでしたね。」
「いいんですよ。正直なことを言わせてもらうと、もう二度とここには来るものかと思っていますよ。わしも助平根性を出したのがいけなかったのだが、しかし、あの餓鬼、とっ捕まえて警察へ突き出してやる。ヨシオの奴、今度見つけたら、ただじゃおかない。」
「何ですか、そのヨシオって子は?日本人なんですか?」
「いや、あいの子だよ。日本人の観光客が生み捨てたストリート・チルドレンだ。母親にも死なれてかわいそうだから、それにあまりにも汚い格好をしていたから、洋服や食べ物を与えてやったんだ。そうしたらヨシオの奴、恩を仇で返しやがった。あん畜生め、睡眠薬泥棒のところへわしを案内しやがった。わしと別れる時、ヨシオの奴ニヤニヤ笑ってやがった。あのヨシオの笑い顔は絶対に忘れないよ。わしを罠にはめやがって、畜生め、痛い目にあわせてやる。」
 高瀬はこの手の話は苦手であまり真剣には社長の話を聞いていなかった。ぼんやりと窓の外を行く女学生のしなやかな姿に見とれていた。しかし百万円のことが頭にちらつく、それが自分のお金ではないことくらい、重々承知はしていたけれども、そのおこぼれでもいいから、いただけないかなとつい思ってしまう。それで無理に話を渡辺社長に合わせるように努力していた。
「僕もこちらに来て、初めは大きなホテルに泊まりましたがね、部屋の掃除を頼んで下で時間を潰してから、部屋に戻ってみるとバックの中を探った形跡がありましたよ。一流と呼ばれるホテルですら、それですからね、油断もすきもあったものじゃないですよ。今の僕のいる安宿の方が暑苦しいけれど、その点だけは安心していられますね。」
「高瀬さん、どうだろう、お礼はたっぷりするから、わしに力を貸してはくださらんかな。わしはこの国では独りでは何も出来そうにない。わしを騙したヨシオを捜し出してとっちめてな、二度と悪さが出来ないようにしたいのだよ。わしはくやしくて仕方がないんだ。あいつの、あの時の笑顔が忘れられんのだよ。」
「お気持ちはよく分かります。今はこれといってやることもない私ですから、出来る限りのお手伝いはいたしますよ。」
「なんせ、言葉が出来んのだよ、言葉が。それが一番参ってしまうことなんだ。英語をもっと勉強しておくんだったよ。」
「僕の英語もたいしたことはありませんよ。お役に立てるかどうか分かりませんが出来るだけのことはやってみましょう。」
「ありがとう。すまんね。助かるよ。あのー、もう一杯ビールを飲んでもよろしいかな?」
「ああ、どうぞ、どうぞ。お安い御用だ。ご遠慮なく。」


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