20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第33回   夜間飛行
夜間飛行

 空からの訪問者ホセ・チャンは父が残してくれたボラカイの別荘にはあまり長居するつもりはなかった。さっさとボンボンたちと話を済ませてマニラに戻りたかった。ホセ・チャンの兄弟たちが相続したフィリピン随一の邸宅街フォーベスパークの豪邸から見れば、このボラカイの別荘はあまりにもお粗末であり、ホセにとっては屈辱そのものであった。残念なことに、ホセはボラカイ島が持つ魔力についてはまったく気がついていなかった。どんな悲しみや苦しみをも癒してくれるボラカイ島の魔法を最後まで知ることなく、彼はこの島を去ってしまうことになった。もしかすると、ホセのように何不自由することのない者にはボラカイ島は冷たい顔を見せるのかもしれない。ホセ・チャンがボンボンと茂木に向かって言った。
「この家の後の手続きは弁護士がすべてやってくれます。もし何か分からないことが出てきましたら、どうぞ遠慮なく担当の弁護士に言って下さい。では、私はこれで、約束がありますので、そろそろ失礼したいとおもいます。」
 ボンボンがホセとしっかりと握手をしながら言った。
「遠い所をわざわざ有り難うございました。これから真っ直ぐマニラへお戻りですか。」
「はい、そのつもりです。」
「ヘリだと何分位で着きますか?」
「そうですね、五十分位かな、空にはマニラ市内のような、あのうんざりする交通渋滞はありませんからね。そうだ、もし誰かマニラへ行かれる人がいましたら、一緒にお連れしますが、どうせ席はたくさん空いておりますので、遠慮なく言って下さい。」
 それを聞いていたウエンさんがノウミとディーンに目で合図を送ってから、伏目がちに言った。
「ミスター、ホセ・チャン、私たち三人、お願い出来ないでしょうか。」
「もちろん、オーケーですよ。美人三姉妹が一緒とは、どうやら帰りはとても楽しいフライトになりそうですね。」
 今度はディーンが正樹のほうを振り返り熱い視線を送った。まだボラカイ島に残りたい正樹であったが、どうやってディーンのその熱い眼差しに抵抗出来るというのか、正樹もホセの前に進み出て、自分の意に反して同乗をお願いした。
「ミスター・ホセ、私も一緒にお願いします。そろそろマニラで学校に入る準備をしなければなりませんので、同乗させて下さい。」
「いいですよ。日本の方がマニラで勉強ですか、あなたは変わったお人ですね。ええと、名前は何とおっしゃいましたっけ。すみません、どうも外国の人の名前は覚えにくいもので、確かマサオさんでしたよね?」
「いえ、マサキです。」
「ああ、そうだ。マサキさんでした。それでマサキさんはマニラで何を勉強されるおつもりかな?」
「医学部に入ることを希望しています。」
「そうですか、それは素晴らしい。ぜひ頑張って良いお医者様になって下さい。」
「有り難うございます。」
 ホセと正樹のまったく気持ちの入っていない会話の後で、ボンボンが再び丁寧にホセに言った。
「スーパースターのホセ・チャンにわざわざこの子たちをマニラまで送ってもらうなんて、何から何まで恐縮です。本当に有り難うございます。もう一度改めて御礼を申し上げます。」
 ホセはリンダが彼の為に用意したジュースには一口もつけずに席を立ち上がり、ぐるりと皆を見回してから言った。
「ではそろそろ、失礼しようかな。ミスター茂木、あなたの成功を祈っていますよ。」
「有り難うございます。あなたの提供してくださったこの家は何千、何万の子供たちに夢と希望を与えることになるでしょう。本当に有り難う。神の祝福があなたにありますように。」
「では皆さん、どうぞお元気で、私はこれで失礼します。」
 ホセは夜だというのにまたサングラスをかけながら外に出て行った。ホセは心の中で、やれやれこれでやっと親父の亡霊ともおさらばだとおもっていた。この家を売ってしまえば羨みと屈辱からやっと開放される。俺は親父の力は必要ないのさ、自分ひとりで生きていくだけさ、そうさ、俺は天下の俳優ホセ・チャンだからな。ホセは自分自身にそう呟くのだった。正樹たちもホセの後に続いて豪邸の庭に出た。皆、ヘリコプターに乗るのは初めてだし、おまけに操縦してくれるのは有名な映画俳優のホセ・チャンである。ヘリコプターに乗る前から、もう四人はすでに宙に浮いていた。プロペラの回転がまるで反対に動いて見える錯覚が起こった時には、もう、機体はボラカイの島から高く夜空の中に消えていた。機内では誰もおしゃべりなどはしていない。不思議な緊張感が張り詰めていたし、たとえ話をしたところで、その声がプロペラの音でかき消されることを誰もが知っていたからだ。皆、じっと窓の外を眺めていた。まもなくすると窓の下にはマニラの街の明かりがチラチラ輝き始めた。実にきれいである。百万ドルの夜景はここにもあった。そこにいた誰もが夜間飛行の素晴らしさを満喫していた。正樹も操縦している人間が誰であろうと十分に楽しんでいた。隣の席にはディーンもいるし、こんな幸せは今までにはなかったことだ。兎に角、誰かに、誰でもいいからこの幸せを感謝したかった。ボラカイ島へ行って正樹はとても幸せな気持ちになった。もう、すっかり渡辺社長に対する憎しみなどは消えてしまっていた。すべてが変わっていた。ボラカイ島は本当に不思議な島だと正樹は感じていた。
 ホセの操縦は実に華麗だった。大都市マニラの夜空を余すことなく自由に飛び回って、静かに彼の事務所があるビルの屋上に着陸した。乗り込んできた整備員にホセはヘリコプターのカギを渡すと、正樹たちに別れを告げる為にひとりひとりと握手を交わし始めた。最後にホセ・チャンは何かをそっとディーンに耳打ちをした。ディーンは彼女の生まれた日や電話番号を告げたようにおもえたが、それは確かではなかった。確かめることもしなかった。正樹の心の中にはどうすることも出来ない嫉妬心がめらめらと再び燃え上がってしまった。ホセはディーンに向かって軽く頷くとヘリコプターを降り、屋上の出口へ姿を消してしまった。まるでそれは映画のワンシーンのようでもあった。みんなホセの格好良すぎる、その無駄のない動きに釘付けだった。四人はしばらく席を立つことは出来なかった。感動の余韻に浸っていたからだ。初めて行った神秘のボラカイ島、茂木さんが買った豪邸、映画俳優のホセ・チャンの突然の訪問、そして夜間飛行、そのどれをとっても信じられない出来事ばかりだった。ボンボンがボラカイ島を生活の本拠地に選んだ以上、当然、ウエンさんたち三姉妹の生活も将来的にはボラカイ島が中心になっていくことだろう。今はそれぞれがしなければならないことがまだマニラにはあるからケソン市のアパートはそのままだろうが、正樹もいつまでも彼女たちにあまえてはいられなくなる。神様みたいな茂木さんの手伝いをする前に、正樹は自分自身の可能性に挑戦してみたかったし、どうしても医者になりたかった。何とか茂木さんと対等に話せるくらいにまで自分自身を成長させておきたかった。もちろん茂木さんを殴った償いはするつもりだった。正樹は日比混血児たちの救いの家の手伝いをどんな形でするのか、今はまだ分からなかったが、是非、やってみたいとおもっていた。その事は間違いなく、もうすでに正樹の新しい生きがいとなっていたのだった。正樹は自分の為に生きることより、他人の為に生きる事こそが人生の最大の意味だと考えていた。正樹は障害者の学校の先生になろうとしたこと、障害者の為の障害者による農場をつくろうとしたことも、そして障害者が一番必要としている医者になろうとしていること、ディーンの為に何かをしてあげたいという気持ち、世の中から見捨てられたジャピーノたちに夢と希望を与える手伝いをすること、その正樹の試みのどれにも共通していることは他人が幸せになる手伝いをすることだ。自分の為に良い学校に入って、良い会社に就職する。自分の為に家庭を築き、家族は自分の寂しさを紛らわす為にあると考えている者には、いつまで経っても幸せなど感じることは出来ないだろう。次第に家族は自分の富を食い潰す厄介者としか写らなくなってしまう。人は成長の過程で、もし家族の為に働くことが喜びなのだということに気がつかなければ家庭は簡単に崩壊してしまう。親が自分の老後の為に子供を育てようとすると、子供たちは遠くへ行ってしまうだろうし、夫婦の間でもお互いに自分の事は後回しにして問題を解決しないと、夫婦関係などはあっけなく破局してしまうものだ。どんなに快適な環境に自分ひとりを置こうが、むなしさはいつか必ずやってくる。本当の幸せなどいつまで経っても感じることは出来ないものだ。幸せになる方法は一つしかないのである。恋人であれ、家族であれ、兎に角、自分以外の者の為に自分自身を捨てることしか幸せになる道はないのである。あれだけ尽くしたのに、ちっとも見返りがないと嘆く者にも幸せなどは決してやってこない。与えて、与えて、与え続けることしか真の幸せを見つける方法はないのである。
 ホセ・チャンと正樹はこの時点で正反対の方向へ向かって歩いていた。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 7363