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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第31回   空からの訪問者
空からの訪問者

 広いリビングの端が霞んで見えない。それほど一階のリビングは大きな部屋である。皆、食事が済んで贅沢なソファーに思い思いの格好で体を沈めていた。正樹がボンボンに唐突に訊ねた。
「ボンボン、この家の持ち主は俳優さんだそうですね。」
「驚いたな。どうしてそれを、どうして正樹はそのことを知っているのですか?まだそのことは誰にも話していなかったのに、びっくりしましたよ。」
「実は昨日、ディーンとボートで島巡りをしていた時にふと見上げるとこの屋敷が目に入ったのですよ。崖にへばり付くように造られていて、とても風変わりな家だったものですからね、ボートの船頭に誰が住んでいるのか聞いてみました。そうしたら芸能人だという答えが返ってきましてね、話によると時々しかこの屋敷には来ないとか言っていましたよ。」
「そうなんですよ。とてもハンサムな俳優さんでね、よく理由は分かりませんがね、彼は日本に行くことになったみたいで、日本円が必要になったらしいのです。日本円でこの家を買ってくれる人をさがしていたというわけです。でも本当のところは僕には分かりませんよ。見ても分かるように相当大きな物件だ。僕の価値観では天文学的な値段だよ。兎に角、僕らには理解出来ない理由でもって安く売りに出していたようです。安いと言ってもフィリピン人でそれも日本円でこの家を買うことが出来る者は数えるほどしかいないとおもいますがね。それを茂木さんが現金で、しかも日本円ですぐに払うといったものだから、話はアッと言う間に決まりました。」
 正樹は溜め息をつきながらボンボンに言った。
「日本人の感覚とこちらの人達の感覚とはかなりのずれがあるとはおもいますが、安く見積もっても、この家は敷地も含めると僕の感覚では十億円以上の価値はあるとおもいますが、どうでしょうか?いったい幾らで茂木さんはお買いになったのですか?よろしかったら教えてくれませんか。」
「正樹君、それがね、たったの五千万円なんだよ。僕にとっては五千万円でも大金ですがね、ただ、この家はどう考えても五千万円で買えるとはおもえない、何か、目に見えない力が働いて、その値段になったとしか考えられない。だって、家具だけでもそのくらいの値段になると僕はおもうのだからね。」
「日本で五千万円の家と言ったら高が知れていますよ。せいぜい百坪だ。何万坪あるのか分からないこの豪邸がたったの五千万円なんですか。ねえ、ボンボン、僕にはそんなこと、とても信じられませんよ。」
「なあ、正樹、僕は茂木さんが五千万円の大金を簡単にぽんと出しただけでも驚いているのだよ。今、自分の周りで起こっていることが、何か、現実離れした、そう魔法にかかったような、そんな気分なんだ。」
 ここでやっと茂木が口を開いた。
「ここの持ち主はよっぽど急いでいたんだろうね。そうとしか考えられない。私も契約が完全に済むまでは正直言って落ち着かないんだよ。だからその俳優の気が変わらないうちに早く契約がしたくて仕方がない。もちろん私は外国人だから土地の所有は出来ないので、契約書にはボンボンにサインしてもらうことになりますがね。」
 正樹がボンボンに向かって言った。
「詐欺か何かの疑いはないのでしょうか。こんなうまい話は疑ってかからないといけない。ねえ、ボンボン、ちゃんと調べましたか?」
「ああ、複数の弁護士に調べさせたよ。何もこの取引に問題はなかった。本当にまとまった日本円が急に必要になったとしか考えられない。僕らにはお金持ちの世界は到底理解することは出来ないよ。きっと、何か他に理由があるんだろうね。」
「この豪邸がたったの五千万円ね。これは神様の贈り物だとしか僕には言い様がない。茂木さんはやっぱり天使様か何かでいらっしゃるのに違いない。この家は正しく天からの授かり物だと僕はおもいますよ。茂木さんの崇高なプランが天に届き、社会から捨てられた日比混血児たち、ジャピーノたちにボラカイ島が魔法を使って与えてくれた家だとしか考えられない。」
 リビングの奥の大きな扉が開く音がして、お手伝いのリンダが銀製のお盆にコーヒーカップを載せて現われた。ケソン市のアパートでコーヒーを飲む時はいつもインスタントコーヒーの空き瓶である。コーヒーの粉が空になるとラベルを剥がして、その空き瓶がコーヒーカップとして使える優れものを利用して毎日コーヒーを飲んでいた。このお屋敷ではどうもその優れものは似合わないらしい。マイセンだか何だかよく分からない高級な陶器でリンダはコーヒーを運んできた。今にも溢しそうな手つきでリンダはそのマイセンを扱っていた。もし落とせば、そのカップが彼女の一ヶ月分の給料よりも高いことを知っていたから、とても緊張していた。
 外はもう、真っ暗闇である。庭のところどころにあるロンドン風の街灯だけがポツンポツンと見えるだけで、外はすっかり静まり返っていた。時折、ヤモリの鳴く「キッキッキッ」という不気味な泣き声だけが広いリビングに響き渡っていた。このヤモリという奴は家の中に入ってきた虫を食べてくれるので、こちらの人々はリーさんと呼んでとても大切にしている。どこに行っても人間と共に助け合って生きているこのヤモリの数はだから半端ではない。
 ウエンさんが優しい声で話し出した。
「私たちはそろそろマニラに戻らないといけないわ。私はもうこれ以上、病院の仕事を休むわけにはいかないし、ノウミもディーンも学校がありますからね。本当はまだここにこうしていたいのですけれど、そうも言ってられません。もう帰らないといけないわ。」
 さすがに長女のウエンさんはどんな状況にあっても冷静に物事を判断する。彼女の言う通りである。確かに彼女たちはもうこれ以上ここに居てはいけないと正樹はおもった。夢のような島と現実離れした屋敷とは一時的に離れなくてはならない。ディーンが恐る恐る目を伏せながら正樹に言った。
「正樹、あたしたちはマニラにそろそろ戻らないといけないけれど、正樹はどうする?」
 当然ディーンとしては正樹が一緒にマニラに戻ることを期待しているのだ。しかし正直なところ、正樹はもっと茂木さんという人物のことが知りたかったし、何と言ってもこのきれいなボラカイ島と今までに見たこともなかった大豪邸にもう少し居たかった。正樹は返事に困ってしまった。その時である、「バババババ」というヘリコプター特有のプロペラ音が聞こえてきたのは。何が起こったのかと皆一斉に外に飛び出た。空を見上げると、ヘリコプターが一機サーチライトをぐるぐる照らしながら降りて来るのが見えた。軍用ヘリとは違って、小型の民間のものだった。高級な機種のようで音は静かな方であったが、それでも耳にはかなりの衝撃があった。時々反り返るその機体の窓越しに見る限りでは、どうやら乗っているのはパイロット一人だけのようであった。プロペラが次第にその回転の数を減らして、庭のヘリポートの中央に見事に着陸した。扉が開き、サングラスをかけた背の高い、それもがっしりとした体格の男が背中をすぼめながらプロペラの下を抜けて、小走りに近寄って来た。サングラスを左手で外しながらみんなの前に立った。その場にいた女性たちは完全に固まってしまっていた。目の前にはこの国ではちょっとは名が知られたハンサムな俳優が仁王立ちしていたからだ。ディーンが正樹の耳元で囁いた。
「正樹、彼よ。この家の持ち主よ。」
「ディーン、彼は凄く男前じゃないか。ねえ、ディーン、あんな、いい男に声をかけられたら、どうする?しかもお金持ちだ。ころっと、いっちゃうかい?」
「大丈夫、格好をつけている男は嫌いだから。でも、自分でヘリを操縦するなんて凄いわね。格好良過ぎるわ。それにテレビや映画で観るよりもハンサムだし、サインくれるかな?」
「何だか、心配になってきちゃったよ。ねえ、ディーン、どこかに君は隠れているわけにはいかないかな?彼が帰るまで部屋に入っていてくれないか。」
「駄目よ!こんなチャンスは滅多にないし、友達の分まで、あたし、サインもらうんだから。こうして芸能人が直に会いに来るなんて、凄いじゃない。空からの訪問者よ、まるで映画みたいでとっても素敵。」
「ディーン、彼の名前は何というんだい?その空からの訪問者の名前。」
「ホセ・チャンよ。」
「チャンか、やっぱり華僑の御曹司か。」

 ボンボンと茂木がさっと前に出て、ホセ・チャンに握手を求めた。その格好良過ぎる映画俳優はゆっくりと皮の手袋をはずしてふたりと握手を交わした。ボンボンが言った。
「お待ちしておりました。ホセ・チャン。お忙しいところをわざわざおいでいただいて恐縮です。」
「いいえ、こちらこそ。無理を言いまして、あなたがボンボンさんですね。日本で勉強されてきた国費留学生と聞きましたが、とても優秀なのですね。私も日本で俳優の勉強をするつもりなんですよ。日本は物価が高いと聞きましたが大丈夫かな。」
「け。」大金持ちが何を言ってやがるんだと正樹は心の中で笑った。続いて、その色男はその場に居たすべての者とひとりひとり順番に握手を交わし始めた。ファンあっての俳優らしい。客商売も結構、気を使うものだと正樹はおもった。ウエンさんにしても、あのじゃじゃ馬のノウミにしても、そのたった一回の握手でもって、もう完全に彼の熱烈なファンになってしまったようだった。リンダなどは一週間くらいは握手されたその手を洗わないような表情をしている。正樹にも満面の笑みで握手を求めてきた。どんな有名な俳優か知らないが、いい加減にしろ、ふざけるな、とおもいながらもその握手を断る理由など何も無い訳で、結局、正樹もその俳優の大きな手を両手で受け止めて、ありったけの笑顔で握手をした。ディーンの番になって、ホセ・チャンの表情がかすかに変化したことを正樹は敏感に感じた。突然に嫉妬の炎がめらめらと燃え上がるのを全身で感じた。ホセ・チャンはディーンにタガログ語で話しかけている。色男は抜け目なく、彼の名刺をさっとディーンに手渡した。ふざけた野郎だ!自分がまだ聞き取ることの出来ないタガログ語まで使いやがって、何て卑怯な奴だと正樹は憤慨した。ここでホセをまたぶん殴ったら、今度こそ、もう誰も自分とは口をきいてもらえないだろう。だから正樹は必死になってその怒りを静めて、ホセが通り去るのをじっと待った。神の完璧な創造物であるディーンのことを正樹一人が独占する特権はもちろん無かった。誰だって、一目でディーンのことが好きになることくらいは、正樹にはよく分かっていた。今、ハンサムで大金持ちの俳優が自分の目の前で、甘い声をディーンにかけている。そのことは死ぬほど辛かった。もし彼女と一緒になることが出来たとしても、こんな調子では毎日が心配と嫉妬の連続できっと自分は長生きは出来ないだろうと正樹はおもった。気が狂って死んでしまうかもしれない。でも、それでもいいと正樹はおもう。それが人生ではないのか、どれだけ相手の為に自分自身を捨てられるかで幸せになるか不幸になるかが決まってくるものだ。幸せになる為には相手にいろいろなことを望むことではなくて、また相手を奪うことでもない。自分自身をいかに相手に与え続けることが出来るかが問題になってくる。それは自分の命さえも与えなければ本物ではないとさえ言える。相手の為に死ぬことが幸せになる唯一の方法であると正樹は信じていた。自分の事ばかりを考えている人間にはいつまで経っても幸せなどはやってこない。そういうたぐいの人に限って、もっと良いものを、もっと別の幸せを求めて果てしがないのだ。いつまで経っても幸せなど感じることが出来ない。人を愛するということは与え続けることであり、そしてこの真理こそがあらゆる人生の難問を解決してくれる最高の道標となると正樹は確信していた。


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