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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第3回   三姉妹
三姉妹

正樹はフィリピンから東京に来ている国費留学生のボンボンとは手紙での連絡は絶やさなかった。正樹が北海道にある学校に合格したこと、吉田農場は辞めてしばらく勉強に専念することなどを告げると、ボンボンはまるで自分の事のように喜んでくれた。そして新しい北海道での生活が始まる前に是非自分の国を案内したいと提案してきた。まったく迷うことなく正樹はすぐに同意し、東京でボンボンと会う約束をした。八雲の正樹の部屋には家具は何一つなかった。唯一購入したコンロ式の石油ストーブはアパートの指のないお爺さんにあげて、八雲のぼろアパートを完全に引き払い東京に戻った。
正樹は東京に戻ると日を空けずに、すぐボンボンが世話になっている駒場の留学生会館を訪ねてみた。受付で待っているとボンボンが手を挙げながら中から出て来た。
「やあ、いつ、北海道から戻ったんだい。」
「昨日です。また急行列車に揺られて帰って来ました。帰るときは特急に乗ろうと思っていたのですが、いざ、切符を買う段になると何だかもったいないような気がしてきて、結局、急行になってしまいましたよ。貧乏性ですよね。」
「いや、それはとても良いことだとおもうよ。その気持ちが大切なのだと僕はおもうな。将来、正樹がお金持ちになってさ、飛行機に乗るようになっても、その気持ちだけは忘れないで欲しいな。ところで、良かったね。学校、合格してさ。おめでとう。」
「有り難うございます。でもさ、何か物足りないのですよ。嬉しいことは嬉しいのですけれど、まだ、何かが違うような気がして。」
「そう、でも人間である以上、そんなものかもしれませんよ。」
「ボンボンの方はどうです。東京に戻ってから何か良い仕事が見つかりましたか?」
「いや、まだです。なかなか、僕らのような東洋人は欧米人のようには就職はうまくはいきませんよ。」
「そうですか。しかし日本人って奴は自分も東洋人のくせして、自分たちを何様だと思っているのでしょうかね。まったく呆れちゃいますね。同じ日本人として恥ずかしいですよ。」
「正樹、ここじゃあ、なんだから、ちょっと、外へ行こうか。コーヒーでもおごるよ。」
 国費留学生はエリート中のエリートだ。国の費用で勉強させてもらう代わりに、将来、自分の国の為に恩返しをしなければならい義務がある。ボンボンも卒業を控え日本の企業に就職し日本の文化や技術を習得して自国に持ち帰ろうと必死であった。この留学生会館にいる者たちはいずれ自分の国に帰り、高級官僚や国を代表する企業のトップになったりする。その国の大統領や首相になったりする者も少なくないのだ。とにかく皆、優秀でプライドがとても高い連中である。
 ボンボンに連れられて、小さな喫茶店に入った。店内にはクラッシック音楽が静かに流れていて、壁には有名な絵画の模写も掛けられている。正樹にはもったいないくらい落ち着いた店だった。ボンボンはよく利用するのだと自慢げに言っていた。正樹にとって、外国人で溢れているさっきの留学生会館は驚きだった。まるで日本とは違う空気だった。ボンボンに聞いてみた。
「あそこの留学生会館の住み心地はどうですか。」
「まあまあだよ。僕らのようなアジアやアフリカから来た者はアパートを借りようとすると断られるケースが多いのですよ。欧米人とは違って、僕らはまったく日本人には信用されていないのかもしれませんね。まるで犯罪者か何かのように見られてしまう。丁重に断られれば断られるほど傷つきますね。」
 正樹は確かに日本人は欧米人には劣等感を持つが、逆にアジアやアフリカの人たちには横柄な態度をとっていると感じてはいたが、実際にこうしてボンボンから直接言われてみると本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「ごめんなさい。同じ日本人として本当に申し訳なく思います。」
「正樹が謝ることはありませんよ。まあ、日本人がアメリカに行けば、僕らと同じ経験をしますからね、お互い様ですよ。そうね、アメリカに比べたら、まだ日本の方が人種差別は少ないのかな。こんなことでも人間とはいかに未熟で未完成な生き物だということがよく分かりますね。」
 ボンボンは運ばれてきたコーヒーにミルクだけ入れて飲み始めた。いろいろな話をしてくれた。年下の正樹は聞く一方だったがやっと言葉が出た。
「うちの父にボンボンのことを話したら、とても会いたがっていました。近々、うちの父は今勤めている会社を辞めて独立するつもりなのです。この旅行から帰ったら、一度、父と会ってくれませんか。」
「ええ、もちろんいいですとも。いつでもお父さんのご都合の良い日時を言って下さい。」
「どうやら、仕事に関してボンボンの国に関心があるようで、でも、よく僕には分かりません。迷惑ではないでしょうね。」
「迷惑なんて、とんでもない。そうですか、フィリピンに興味がおありなのですか。君のお父さんは未来の日本と僕の国との関係が見えるのですね、きっと。もし僕に協力出来る事があるなら喜んでお手伝いしますと、そうお伝え下さい。」
「ありがとうございます。そう伝えておきます。ああ、それから僕は外国旅行は初めてなのですよ。航空券はボンボンにお願いしてもよろしいですか。」
「ああ、いいですよ。知り合いの旅行屋に安くするように頼んでおきます。パスポートは持っていますか?」
「まだです。明日にでも申請に行こうかとおもっています。」
「イエロー・カードも必要ですから。」
「イエロー・カード?何ですか、それ。」
「予防接種をしたことを証明するカードです。色が黄色いからイエロー・カードと呼んでいます。正樹はどこでパスポートを申請するつもりなのですか?」
「有楽町の交通会館に行くつもりなのですが。」
「ああ、あそこなら、海外旅行専門の診療所がありますから、予防接種もやってくれます。明日、パスポートの申請に行ったら注射も忘れずにしてきて下さい。」
 まだその当時はフィリピンに限らずほとんどの国が予防接種を旅行客に義務づけていた。フィリピンでは天然痘とコレラの予防接種をしない者には入国を拒否していた。その予防接種が済んでいることを証明するのがイエロー・カードだ。現在ではイエロー・カードが必要な国は少なくなってきていて、フィリピンも予防接種をしなくても入国することが出来るようになった。天然痘という病が世界から消えてしまったからだ。しかし、また新しい伝染病が流行すればきっとイエロー・カードは復活するだろう。
「じゃあ、席が取れたら連絡しますね。たぶん航空チケットは出発の当日に旅行社の発行した引換券と交換になるとおもいます。何せ格安チケットですから、団体さんの中に組み込まれてしまいますからね。でも、僕らは団体さんとは別行動だから、心配しないでください。それじゃあ、羽田の出発ロビー、エジプト航空のカウンター前で会いましょう。」
「エジプト航空?」
「エジプト航空は何ヶ所も燃料を補給しながらカイロまで行くのです。その最初の経由地がマニラですから、他にもパキスタン航空もありますけれど、知り合いの旅行社が言っていましたが、この時期はエジプトが一番安く手に入るそうなのです。」
「わかりました。羽田のエジプト航空のカウンターの前ですね。何時頃、行けばよいですか?」
「午後二時にしましょう。くれぐれもパスポートとイエロー・カードだけは忘れないようにしてくださいね。」
 正樹はさっきから言い出せずにいた。今度ボンボンに会ったら、あの写真の少女が誰なのかを聞こうとおもっていた。でも勇気がなかった。
「ボンボン、家族と離れて日本で勉強してみてどうでしたか。寂しくはありませんでしたか。また、就職が決まれば、しばらくは一人で日本で暮らすことになりますね。寂しくはないですか。ボンボンは日本が好きですか?」
「寂しくはありませんね。年がら年中、マニラには帰っていますから、寂しいと感じたことは一度もありません。」
「どうして日本なのですか。どうして日本で勉強する気になったのですか。何故、アメリカを選ばずに言葉の難しい日本に来たのでしょうか。質問ばかりでごめんなさい。ボンボンの才能を持ってすれば、きっとアメリカで大成功すると思いますがね。ボンボンはアメリカと日本とどちらが好きですか?」
「正樹、君のお父さんは戦争を経験していますか?」
「父はあまり昔の話をしたがりませんが、兵隊にはとられなかったと聞いております。」
「そう、僕の父はこの前の大戦で大ケガをしましてね。皮肉なことに味方のアメリカ兵に傷つけられ、敵である日本兵によって命を助けられました。」
「とても僕なんかが想像もすることが出来ない複雑な状況にボンボンのお父様は置かれたのですね。僕は歴史を勉強する度に日本が過去に犯した過ちを同じ日本人として恥じます。アジアの人々は今でも私たち日本人のことを嫌っているのでしょうね。先日、中国でスポーツの親善試合がありまして、たまたまその様子を観ていたら、中国の観衆から日本代表選手たちに浴びせかけられるブーイングがとても辛かったです。たとえ、それがスポーツの意義を知らない一部のマナーの悪い観衆のものだとしても、心臓を抉り取られる様な痛みを感じました。」
「フィリピンではもう反日感情は薄れてきていますよ。若い人たちはどちらかと言えば、日本びいきの者が今では多いかもしれませんね。」
 しばらくボンボンは沈黙をしてからそっと言った。
「正樹、さっきの君の質問に僕はまだ答えていませんでしたね。僕の家はとても貧しくてね、兄弟も多かった。でも僕はどうしても勉強がしたかったのですよ。国費でもって日本で勉強が出来るという話を聞いて、僕はその制度にすぐさま飛びつきました。もし、それがアメリカだろうと韓国だろうと同じ様に応募したことでしょう。国、そんなことはどうでもよかった。たまたま日本への国費留学の話が真っ先に僕の耳に飛び込んできただけの話です。勉強を続けたかっただけです。高校生の時はね、正樹、僕はあの侵略戦争のことを学んで日本という国が嫌いでしたよ。でも結果的に父親と同じ様に僕も日本によって助けられた格好になりましたね。」
「そうでしたか。」
「今、僕は日本という国がとても好きになりましたよ。ところで正樹は恋をしたことがありますか?」
「いいえ、まだありません。」
「僕は今、恋をしています。少し恥ずかしい話だけれど、君の質問の答がそこにありますから我慢して聞いて下さい。恋はすべてに優先し、すべてを変えてしまう。それは僕の日本という国への価値観さえも大きく変えてしまいました。でも、僕の恋はまだ一方的なあこがれにしかすぎませんがね。」
「恋ですか。ボンボンが恋をしているのは日本の女性なのですね。」
「そうですよ。彼女は外国語の大学生で僕の日本語の先生でもあります。彼女が僕に日本語を教えて、その代わりに僕が彼女が専攻しているタガログ語を教えています。もう何年もお互いに互いの国の言葉を教えあっています。でも未だに僕は自分の気持ちを彼女に伝えることが出来ずにいます。」
 正樹はボンボンが中山峠で見せてくれた写真の少女がいったい誰なのかを聞くのは今だと思った。しかし、コーヒーばかり飲むだけで何も言い出すことは出来ずに、結局、その日は暗くなるまでボンボンの恋愛話に付き合わされて終わってしまった。
ボンボンは日本語の研修期間を入れると、もう五年も東京の教育の大学に通っている。専門は農業機械であったが、あらゆる分野に興味を持っていた。その後も何度かボンボンと会っているうちに分かったことだがボンボンは本の見開き二ページを一度読んだだけで頭に写してしまうだけでなく、知的なゲーム、例えばチェスとか将棋、囲碁、麻雀にいたるまで、全てのゲームに圧倒的に強かった。正樹はどのゲームでもボンボンには勝てなかった。ボンボンは気立ても良いし、せかせかした様子もなく、本当に素晴らしい友人であると正樹は思っている。ただ、強いて彼の欠点をあげるならば、一つのことをやっている時にもう別のことを考えているということだ。まるでつかみどころがなく、我々凡人から見るとそれはいい加減に見えてしまうが、実際にはそうではないのだ。そして最大の彼の欠点は時間にルーズなところだ。今まで約束の時間に姿を現した例がない。これは後で分かったことだが彼の国にはボンボンと同じように時間の観念が欠落した人間がうじゃうじゃいた。悪い意味ではなく、時間を守らないのはひとつの国民性なのだと理解してボンボンと付き合うようにした。そう考えないといくら忍耐力があっても一度や二度ではないのでやってられないのだ。
正樹は有楽町の交通会館でパスポートの申請をした。何度も書き間違え、その度に初めから書き換えさせられた。そこの役人たちは随分と偉そうで話し方も偉そうだったので、家に帰って父にそう言うと、パスポートとは国がその人を日本人として保証する大切な権威のある公文書だから仕方がないだろうと説明してくれた。でも正樹は彼らの口の利き方はもっと他にあるだろうとおもった。最近では以前と違って、とても親切でやさしい対応になってきている。とすると当時の役人たちの態度は反省すべき点は多々あったのだろう。
 二週間ほどして、ボンボンから電話が入った。
「中華航空の安いチケットが手に入ったよ。エジプト航空は込み合っていてだめだった。当日、羽田の中華航空のカウンターの前で会いましょう。台北経由のマニラ行きです。」
「分かりました。中華航空のカウンターの前ですね。あの、お金はどうしましょうか。」
「当日でいいですよ。僕が立て替えておきますから。くれぐれもパスポートとイエロー・カードだけは忘れないでくださいよ。」
「了解しました。いろいろ有り難うございました。とても楽しみですよ。もう、ドキドキしてきて、少し興奮してきたみたいです。あの、ボンボン、写真の・・・・・・。」
「何ですか?」
「いえ、何でもありません。では羽田で会いましょう。」
「それじゃあ、これで切りますね。」
「はい、有り難うございました。」
 正樹はやはり写真の少女について聞くことは出来なかった。向こうに行けば会うことが出来るのだから、焦って今、聞くこともあるまい。そう自分自身を納得させた。
 まだ成田の国際空港がなかった時代で羽田空港が国際線の発着地だった。成田空港が出来た後も中華航空だけは羽田空港を出入りしていた。それは日本政府が中国に配慮して、国として認知されていない台湾を国際線ではなく国内線の空港にとどめ置いたのだろうか、詳しいことは知らない。
 ボンボンは何百回となく日本とフィリピンを往復している。だから旅行業界にもかなり顔が利く、団体の人数が足りない時などは、ただ同然の値段で人数の数合わせの為に同行したりもしたそうだ。だから彼のパスポートは出入国のスタンプで埋め尽くされていて、追加のページまでくっついていた。パスポートに追加のページがあるなんて正樹は初めて知った次第である。滅多にお目にかかれない代物である。

 出発の当日、約束の時間より二時間も遅れてボンボンは羽田にやって来た。これがフィリピーノ・タイムである。沖縄にも同じような時間が存在すると聞いたことがある。約束の時間になっても現れないので、電話してみると、ごめん今から風呂に入って着替えて出るからと返事が返ってくるそうだ。正樹は覚悟はしていたが、まさかこれほどだとは思わなかった。ぎりぎりで出国手続きを済ませて、出国待合室に入った。ファイナル・アナウンスが流れており、待合室には最終搭乗案内を告げるプラカードを持った空港職員がうろうろしていた。その職員に連れられて駆け足で待機していたバスに飛び乗り正樹の初めての海外旅行は幕を開けた。ガイド・ブックに書いてあったのだが、「出国手続きを済ませると、もうそこは外国。」なんとも旅情をかきたてるような名文句ではないか。だから正樹はその待合室の雰囲気をたっぷりと楽しむつもりでいた。ところがボンボンが遅れて来たせいで、実際にはその旅情溢れる待合室を駆け足で通りすぎるはめになった。正樹にとっては初めての海外処女旅行だったのにまったくもって残念であった。ボンボンのおかげでこの旅行が実現したのであるから、正樹は出来るだけイライラしないように努めることにした。楽しい時間は長ければ長いほど良いのであるから、日本人にありがちなせっかちな性分は今回の旅行先には持っていくのはやめにした。そう、正樹もフィリピーノ・タイムを採用することにした。空港は雨や風のことを考えなければ、飛行機がターミナルへ直接横付けされてすぐに機内に乗り込むよりも滑走路をしばらく歩き、しばし飛行機を見上げてから、ゆっくりとタラップを上り、ふとタラップの途中で立ち止まり振り返る。そうやって乗り込む方が正樹は好きであった。確かに航空会社によってそれぞれ違うカラフルな色でもって化粧をされた飛行機を何台も見上げるのはとても楽しいものである。今ではほとんどの国際空港はスルスルのびる通路が設置されていて、雨に濡れずに搭乗が出来てしまうが、だんだんと旅の楽しさが薄れていくような気がしてとても寂しいかぎりである。
 定刻で正樹とボンボンを乗せた中華航空機は台北に到着した。すぐにマニラに向けて飛び立つので空港の外には出ることは出来なかったが、ターミナルの免税店で正樹たちはお土産を買いながら時間を潰した。見るものすべてが新しく、正樹はもうドキドキしていた。今度は小さな飛行機に乗り換えて一時間ほど飛んだ。そしてついに夢にまで見たマニラ国際空港に到着した。もう夜になっていた。タラップを降りる時に正樹は体全体で熱いマニラの風を感じた。かすかにココナッツのかおりも漂っていたようにおもえた。あの写真の少女が、今、自分が立っているこの地にいのるのかと思うだけで心臓がドキドキしてきた。空港ターミナルまでの長い道のりも少しも苦にならなかった。すべてが感動であった。ボンボンが指差す方を見上げるとターミナル・ビルの出迎えデッキの所から手を振っている人物がいた。ボンボンの弟のネトイであった。わざわざ迎えに来ていたのだ。このネトイが正樹の人生の中で最も多くの時間を共有する人物になろうとは、この時の正樹には知る由もなかった。良き友というよりも兄弟のような深い関係になるのである。人生とは本当に不思議だ。こんなに日本から遠く離れた地に大切な人がたくさんいたとは、いったい誰が定めたのだろうか。
 ボンボンから弟のネトイを英語で紹介されて、正樹は即座に緊張した。ただ握手をするのが精一杯だった。三人は空港からタクシーに乗ってマニラ市内に飛び出した。エアコンがないタクシーの窓からは熱気とともにさまざまな臭いが車内に流れ込んできた。むせるような排気ガス、市場の入り乱れた生臭さ、ドブ川のよどみきった臭い、臭いばかりではなく騒音も半端ではなかった。正直言って、正樹は豪いところに来てしまったとおもった。雑踏のマニラ市内をさっと通り抜けて、車はケソン市に入った。ケソン市は隣のマニラ市とは違って静かな住宅が続いていた。しばらくすると車は小さなアパートの前で停車した。アパートの中に入るとそこのメンバー全員が正樹とボンボンの到着を待っていた。ボンボンは正樹にひとりひとり紹介していくのだが、あまりにもその数が多過ぎて、一度では名前を覚え切れなかった。しかし、正樹はその中の三姉妹だけはハッキリと記憶した。長女のウエンさん、優しさが溢れていた。次女のノウミ、きつそうな性格だがモデルのような完璧な体型をしていた。そしてあこがれていた写真の少女、ディーンが正樹の目の前に立っていた。正樹は出来るだけ何気無い風を装って紹介を受けたが、胸は今にも張り裂けそうだった。もちろん、英会話の本で準備していた挨拶の言葉などは声にはならなかった。ただ頭を軽く下げただけで紹介は簡単に終わってしまった。ディーンは写真で見るよりもはるかに美しい少女だった。ボンボンが急に日本語ではなく英語で話しかけてきた。
「僕は明日から田舎に行ってきます。すみませんがその間、僕に代わってウエンさんたちが正樹の案内してくれます。田舎の役所に行って、いくつか書類をもらってこなくてはならないもので、それに実家にいるおふくろさんの顔もみてきたいので、申し訳ありませんが二三日時間をください。正樹は日本語で答えた。
「ええ、どうぞ、そうして下さい。僕は大丈夫ですから。」
 何ということだ、まるで夢を見ているようだ。この美人三姉妹が明日から交代で自分の案内をしてくれるというのだ。これでこの国を嫌いになる理由がない。正樹はその夜、夢にまで見たディーンがすぐ近くにいるとおもうだけで神経が高ぶり興奮した。ベットに横になってもなかなか寝付くことが出来なかった。


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