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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第24回   波に任せて ・ 恥ずかしがり屋の日本人
波に任せて

 飛行場の掘っ建て小屋を出るとオートバイにサイドカーを付けたトライシクルが何台も並んでいた。ボンボンは荷物を後ろの座席に積んでから千代菊と菊千代をサイドカーの前の座席に座らせた。次に茂木をドライバーのすぐ後ろにまたがらせてから、自分はサイドカーの横にしがみついた。きっと日本で用済みとなりこの国に運ばれてきたKAWASAKIと書かれたエンジンは五人を乗せて苦しそうに動き出した。辺りの景色を見る暇もなく、三十秒もしないうちにボラカイ島へ渡るカティクランの船着場に到着してしまった。茂木が言った。
「何だ、ボンボン、近いじゃないですか。これなら歩いたほうが早かったかな。」
「すみません。僕、ここは初めてなものですから、おっしゃる通りですね。順番待ちをしているよりも、歩いた方が早かったですね。こんなに船着場が近いとは知りませんでしたよ。」
「いや、謝ることはありませんよ。考えてみると、私たちはしばらくこの地で生きていくことになるわけだから、こんなに近い距離でもトライシクルに乗った方が正解だったかもしれませんよ。ドライバーたちにも家族はあるわけだし、初めからケチな奴らが来たと噂がたってしまうとマイナスですからね。限られた狭い土地では決して独りでは生きていけませんからね、トライシクルも出来るだけ利用して助け合って生きていくことが大切なのだと思いますよ。」
「トライシクルに乗ったことは富を分け与えるという崇高な理念にも叶っていたわけですね。」
「ボンボン、随分と難しい言葉のいい回しを知っていますね。その通りですよ。とても君がフィリピン人とはおもえないよ。でも、次回からはこの距離ならば、荷物が無ければ歩きましょうか。」
「そうですね。」
 カティクランは「はらっぱ空港」とカリボ行きのバス停、そしてボラカイ島へ渡る船の停泊所が中心の町だ。道路のすぐ横の堤防を越えて斜めに砂利道を下るとバンカーボートが何隻も並んでいる。ここの親分らしき古老の指図で次に出るボートが決まる。桟橋などはないので服を捲り上げて乗り込むことになる。茂木は千代菊と菊千代を順に抱き上げてボートに乗せた。菊千代は茂木に抱えられた時にしっかりとしがみついてなかなか離れなかった。口には出さないが、あまりにもいろいろな事が起こって、菊千代はやはり寂しかったのだ。ボンボンはみんなの荷物を体中に巻きつけて乗船した。乗客の数が揃わないと出航しないのは当然である。長い間、ボートの船頭たちは自分の順番を待っていたのだから、定員を超えた状態でボラカイ島に戻りたいわけだ。ボラカイ島はすぐ目の前に見えているというのに、渡るのには時間が結構かかるのであった。千代菊と菊千代はこの旅が観光ではないことをすでに自分に言い聞かせていたのだろうか、二人とも口数は少なかった。他の乗客たちも良く似た美人の双子のことをジロジロと見ているだけで、皆、ボートの上で静かに出航を待っていた。しばらくするとフィリピン航空の大型機が離発着する隣町のカリボ空港から大型バスが船着場に到着した。大勢の観光客が堤防の上からどかどか駆け下りて来た。あっという間に、三隻のボートが満杯になった。古老が合図を出した。島に向かって勢い良く競い合いながら出航となった。空は既に赤くなりかかってきており、日没が近づいていることを知らせていた。茂木は前に座っている千代菊と菊千代が波の揺れに合わせて上下するのを眺めていた。歩くくらいの速さでバンカーボートは進んでいる。急ぐ旅ではなかった。今はただ、運命も何もかも、すべてを波の動きに任せるしかなかった。夕焼けが日本を追われて来たという寂しさをいっそう強烈なものにしていた。千代菊は色々な想いがこみ上げてきて、ハンカチで目を覆ってしまった。菊千代はすくっと立ち上がり、茂木の隣に移って来て、茂木の腕に顔を埋めてしまった。今は波に任せるしかないと何度も自分に言い聞かせていた。きれいな夕日がボラカイの海に沈んだ。
「菊ちゃん、しばらくの辛抱だよ。また京都に帰れる日は必ず来るから心配するな。だから、しばらく日本のことは忘れよう。」
「うちは茂木はんと一緒ならどこでも平気どす。」
「ねえ、菊ちゃん。ここではその芸妓言葉は止めにしようよ。日本のことも京都のことも今は忘れることにしようじゃないか。いいね。」
「そうね、そうしますね。」
 茂木は菊千代の顔を自分の胸から軽く外して、腕の中へ移し変えた。空も海もボラカイ島もすべてがうす紅色に染まっていた。四人はすべてを波に任せていた。


恥ずかしがり屋の日本人

 正樹はあの夢のようなマニラ旅行を忘れることが出来なかった。正樹の人生に大きな衝撃と感動を与えたあの一週間の旅の後、北海道に戻って勉強を続けていたが何度も何度もフィリピンの事を思い出しては胸がいっぱいになっていた。特にディーンとの出会いは狂おしいほどの想い出となって消えずにいた。その甘く切ない想いは正樹が現実の世界に立ち向かうことをしばしば妨げていた。ディーンの優しく知的な目、しなやかな仕草や甘い言葉、正樹は頭の中であれこれと考えを巡らせては楽しかった一週間を心の中で繰り返していた。そして時折、正樹はかつてないほどの無気力感に襲われると、決まって次には北海道を出ることばかりを考えていた。そんな時にディーンからの手紙でどこかの日本人の社長が彼女の学費を出したがっていると知らされて嫉妬で胸が張り裂けそうになっていた。
正樹は十勝川温泉に学校の友達と週末を利用して遊びに来ていた。昔、この地には遊郭があり、つい最近まで男どもで大いに賑わっていたらしい。道東のあちらこちらから多くの荒々しい男たちがこの花街に集まったものだと宿の女将さんが話してくれた。遊郭が廃止されてからも夜の明かりは消えずに独特の温泉場風情を十勝川温泉は残していた。正樹が世話になったホテルにはフィリピンからダンサーのグループが出稼ぎに来ていて、食事の時はそのまかないもしていた。ご飯のお代わりやら味噌汁のお代わりもよく気がついた。食事が終わって、ショータイムになると、今度はきらびやかな衣装で大部屋の特設舞台で悩ましく踊り始めた。その中に一人だけ、飛びぬけて目立つ子がいた。その子の美しさが却って正樹には悲しい気持ちとなって迫ってくるのだった。どことなくディーンに似ていたからだ。ホテルの地下にはカラオケやスナックが幾つかあって、そこでもフィリピンからの「じゃぱゆきさん」たちが大人気だった。正樹は夜中にトイレに行く時に大部屋で疲れきった彼女たちが雑魚寝をしている様子を偶然にも見てしまった。部屋に戻ってからもその夜は正樹は一睡も出来なかったことは言うまでもない。ホテルの泊まり客が帰った後の掃除もきっと彼女たちの仕事であることはたやすく想像が出来た。よく分からないが兎に角、何かが間違っているように正樹にはおもえた。北海道だけではない、この頃から日本中には「じゃぱゆきさん」がどんどん増え始めていた。どこかの助平な社長がディーンの学費の援助を申し出ていることを手紙で知ってから正樹のイライラは爆発寸前であったが、十勝川温泉で「じゃぱゆきさん」たちと会って正樹の我慢もとうとう限界に達してしまった。もう駄目だ。ディーンのところへ行こう。そのことばかりを正樹は考えるようになってきていた。正樹はボンボンに相談しようと何度も東京にある留学生会館に電話をしたが、いつも留守だった。サンチャゴのアパートへ直接に国際電話をしてみると、ボンボンは日本から来た客と一緒にどこか南の島に行っているという返事が返ってきた。いつ帰ってくるのかとお手伝いのリンダに訊ねると分からないという答えだった。日本から来た客と南の島へ行っているとリンダは確かに言った。正樹はその客がディーンの学費を出す助平な社長だとおもった。まだ若い正樹はディーンのことを忘れることは出来なかった。一日も早く、一時も早くディーンに会いたかったが、辛抱して更にもう一週間、真剣に考え続けて結論を出した。もちろん家族とも相談した。マニラで医者になりたいと言い出すと、家族は皆、猛反対をした。ただ、自分で独立して会社を始めたばかりの父だけは反対も賛成もしなかった。その時、父の頭の中には日本がだんだん円高に向かうこと、また日本と比較してフィリピンの労働力が非常に安いこと、そんなことまで考えていたかどうか、正樹はとうとう父が死ぬまで聞くことは出来なかった。正樹は次の週に学校の事務所へ行き、休学届けを提出した。そして素早く東京に戻り、フィリピンへ渡る準備を始めた。完全に恋の女神の勝利であった。この時の正樹は間違いなく恋の奴隷になってしまっていた。しばらくボンボンのことを東京で待っていたのだが、帰ってくる気配はまったくなかった。普段ならばそれであきらめてしまうところだったが、恋は正樹のことを更に強くしていた。何も分からないまま、正樹は自分独りで渡航準備を進めた。まず九十日間の観光ビザを取得してマニラに渡り、その九十日の間でフィリピンの大学入学の為の国家試験やフィリピン文部省の入学許可に挑戦するつもりだった。そして観光ビザを学生ビザに変更しようと考えていたのだが、現実はもっと厳しかった。ビザというものは在外公館が発行するもので、すべての許可がおりた段階で再び日本に戻って東京のフィリピン大使館で学生ビザの発給を受けなくてはならないことも段々と分かってきた。正樹は必死だった。早くディーンに会いたかった。当時、東京のフィリピン大使館は学生ビザを申請する際に健康診断書の提出を義務づけていた。しかも聖路加の国際病院の英文の診断書を指定していた。それを知らなかった正樹は近くの医者の健康診断書を持って大使館に行ってそれを見せたら冷たく突っ返されてしまった。何をどういう順番で手続きをしたら良いのかまったく分からなくなってしまった。それでも正樹はめげずに頑張った。とにかくまず、フィリピン本国に行って、向こうの学校の入学許可を取ろうと正樹は決心した。きっとディーンとボンボンの姉さんが学校の方は助けてくれるはずだ。とにかく向こうに行こう、行けばどうにかなると正樹は自分のことを勇気づけた。航空券はディスカウントで申し込んだが、出発までに少し時間があったので聖路加の国際病院へ行って健康診断を受けた。学生ビザの申請にはまだ時間がかかりそうだったが、向こうに行ってからも健康診断書は役に立つと考えたからだ。正樹の問診に当たった病院の先生は正樹が書いた問診表を見ながら不思議そうに訊ねた、
「フィリピンに留学ですか。ええと、正樹君ですね。フィリピンね、変わっていますね。皆さんアメリカとか、ヨーロッパへ好んで留学されますが、あなたはフィリピンですか。それで学部は?」
「医学部です。」
「医学部か、珍しいケースですね。向こうの学校はどうなのですか?例えば学費とかはどのくらいするのでしょうか。」
「すみません。まだ学費のことまでよく分かりません。ただ日本のようには高くはないとおもいます。」
「そうですか、フィリピンね。是非、頑張って立派な医者になって下さいよ。応援していますよ。あとは、喘息と書いてありますが、ええと、お父さんかお母さんのどちらかに喘息持ちは?」
「はい、両親とも喘息の持病があります。」
「遺伝性のアレルギーですね。それで、どの程度の喘息なのでしょうか?」
「風邪を引いた後に少しだけ咳き込みます。でもそんなにひどい咳ではありません。」
「それではこの健康診断表に記載するのはやめときましょうか。留学の為の健康診断ですからね。いたって健康そのものということで、それで問題はありませんね。」
「ええ、まあ、そうしてもらえると助かります。」
 問診の後は病院の廊下にペンキで書かれた緑の線をたどって目の検査やらレントゲン、その他の健康診断を順次済ませた。英文の健康診断書は数日後に出来上がったので受け取りに行ったところ、会計の窓口でお金が足りなくなってしまい、また翌日、出直して料金を支払った次第だ。それほど高いものだった。出発までに何度も渋谷の南平台(当時)にあるフィリピン大使館を訪ねた。ボンボンのことを知っているという人物に正樹は偶然に会った。マニラの移民局で直接に学生ビザ取得の為の面接を受けた方がより早く学生ビザが発給されるとその人物は教えてくれた。正樹は可能な限りの書類を整えて、出発の日が来るのを待った。とにかく早くディーンの顔が見たかった。どんなに煩わしい手続きも一向に苦にはならなかった。ただ時間の流れの遅さには無性に腹がたった。何も失うものがないということは、何と幸せなことなのだろうか。がむしゃらに生きることの素晴らしさを感受出来るのは若者だけの特権でもあるのだ。

 正樹を乗せた飛行機はゆっくりと機体を傾けてマニラ国際空港に着陸を始めた。その当時、あるうわさがあった。マニラ空港の滑走路には一箇所必ずガクッと揺れる場所があるというものだ。正樹は複数の人々からそのことを聞いていたから、自分でも確かめてみようとおもっていた。滑走路に車輪が着いたと感じた時から正樹は五感をその一点に集中した。すると確かにガクッときた。いったいあれは何なのだろうか。まさか滑走路に穴が開いているはずもないのに、何故そうなるのか今だに謎である。正樹にとっては二度目のマニラ国際空港ではあるが、やはり不安であった。白タクの運転手たちが空港の出口を出ると正樹に群がって来た。正樹は次から次へと近づいて来る恐そうな男たちを掻き分けるように歩いた。すると突然、正樹の肩をぐいっと掴む手があった。ギクリとして振り返って後ろを見ると、そこにはボンボンの弟のネトイがすっくと立っていた。正樹は彼を見て本当に助かったとおもった。東京を出る前にサンチャゴのアパートに電話を入れておいたのが良かった。英語が苦手なお手伝いのリンダとしか話が出来なかったので、正樹の用件がしっかりと伝わっているのか不安だった。しかし、ちゃんと連絡はとれていたのだ。ネトイの顔を見るまで、やはり独りではこの空港を無事に抜け出すのは無理だなと、パニック状態だったので、ネトイの顔がこの時ばかりは頭の上に輪のある天使に見えてしまった。二人は手を取り合って再開を喜び合った。正樹はネトイの為に買った免税のマルボーロをさっそく渡そうとおもってバックの中をかき回した。頭を上げてそれを渡そうとした、その時、ディーンが近づいて来たのだ。もうネトイのマルボーロのことも忘れ、マニラ空港の混乱も彼女の出現ですべてが一変した。一瞬にして正樹の最高の舞台へと変わってしまった。ディーンがじっと自分のことを見つめている。何度も何度も日本で思い浮かべていた場面がやってきたというのに、正樹は微笑むのが精一杯だった。やはり日本人なのである。恥ずかしがり屋の日本人に生まれてきたことを大いに悔やんだ。しかし同時に、再び、ディーンに逢うことが出来たことを神様に感謝する正樹であった。


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