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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第23回   実在しないお金
実在しないお金

 機体は先程から着陸にむけて高度を徐々に下げてきている。茂木は最後部の座席で機長のアナウンスを聞きながら小型機の機内を見回していた。斜め前には菊千代と千代菊、その前にはボンボンが座っている。マニラを飛び立ってまだそんなに時間は経っていないのだが、その短い時間の中で日本で起きたいろいろな事が走馬灯のように茂木の頭の中を回っていた。外交省の高官である千代菊と菊千代の父親が公金横領の容疑で調べを受け、つい先日、逮捕された。その部下で外交官である茂木の父親もいずれは日本に呼び戻されて、調べられることになるだろうと茂木はおもっていた。何故なら自分の郵便局の口座にはどんどん理由の分からないお金が振り込まれていたからである。事件が発覚してから茂木は父親とはまったく連絡が取れなくなってしまっていた。事件の重要性から、その莫大なお金の取り扱いについて複数の父親の親しい同僚に相談してみたのだが、誰もそんなお金は知らない、外交省からは茂木の口座に振り込んだお金は一切存在していないと何度も説明を受けた。毎月毎月、残高が増えていく不気味なお金はこの世に実在していないお金だと言うのである。しかし茂木はその額の大きさと父親の立場から考えて、そのお金が国民の血税であり、発展途上の国の為に使われなければならないお金だと確信していた。茂木は日本を出る前にそのお金を外交省に返金しようと何度も努力した。ところが誰も調べようとも受け取ろうともしないのである。とても親交が深かった外交省に勤務する父の親友からも迷惑だからもう二度と来るなとまで言われた。もしそれが闇から闇へと葬り去られるお金であるならば、無理に外交省に返すこともあるまい。茂木の口座に振り込まれたお金なのだから、茂木がそのお金を心無い日本人たちが生み捨てた日比混血児の為に役立てたって問題はないだろうと考えていた。
 茂木の母親は菊千代や千代菊と同じ花柳界の女だった。京都の芸妓さんだったそうである。その同じ花柳界出身の居酒屋「川原町」の女将が言っていた。赤ん坊の頃に父親が茂木を施設に預けてしまったから、茂木は母親のことをよく知らなかった。父親と母親がどんな恋をして自分が生まれたのかも誰も語ってはくれなかった。ただ母親は外交官の父のことを信じ深く愛していたそうである。でも結局、最後まで籍には入れてもらえなかった。茂木も父親からは認知されていなかったが、それでも父親のことを尊敬し愛している。自分の事を施設に預けて、滅多に日本にいることのない父親だけれども茂木にとっては大切な家族だった。だから茂木は家族の本当の暖かさを知らない。それだけに茂木には父親から捨てられたジャピーノたちの悲しみは痛いほどよく分かるのだ。外交省が心無い日本人たちが生み捨てた恵まれない日比混血児たちに援助する気がないのであるならば、自分が代わりに外交省の闇のこの世に実在していないお金を使って、日本とフィリピンの狭間で生まれた恵まれない子たちを助けて何が悪いのだ。そう何度も何度も茂木は自分に言い聞かせていた。最高に美しい島で、誰もが羨む天国に一番近い島で不運を背負った子供たちに希望を与えることは間違っているのだろうか。当然そう使われるべきお金が運命の巡り合わせで茂木の口座にプールされていた。父親は認知していない茂木を利用したのかもしれない。茂木はそのお金を外交省に返そうと努力したが、誰も聞いてはくれなかった。検察庁に届けるべきなのか、それとも、そのお金を利用してこの美しいボラカイ島で親からも社会からも見離されたジャピーノたちに勇気と喜びを与えるべきなのかは迷うことはなかった。答えはすぐに出た。茂木はそのことでいずれ裁かれたとしても、その時まで一人でも多くのジャピーノたちが救われれば、それで良いと考えていた。
 飛行機は高度を更にもっと下げてきていることが耳の鼓膜のかすかな痛みでもって分かった。機長のアナウンスはお決まりのフレーズで始まる。かなりフィリピンなまりのきつい英語で今回の搭乗への感謝で始まり、高度何メートルの説明があり、そしてまたのご利用を心よりお待ちしていますと締めくくるのだが、この機長はちょっと違っていた。乗客に窓の下を見ることをしきりに勧めていた。機長はこれから着陸するが、その前にボラカイ島をぐるりと旋回すると何度もアナウンスしていた。よくこのボラカイ島を知り尽くした機長のサービスなのだ。さらに機長はボラカイ島には飛行場がないので、隣の島に着陸する旨を伝えていた。ボンボンは英語のアナウンスがよく理解出来ないでいる千代菊と菊千代に窓の下を見るように勧めたようであった。三人は身を重ねるようにして小さな窓を覗き込んでいた。茂木も反対側の窓を隣の乗客越しに覗き込んだ。ひょうたん形のボラカイ島がどんどん近づいてきていた。白く長く続く美しい砂浜と島一杯に広がる南国特有の椰子の林、そしてこの真っ青な海と空を目の当たりにして感動しない者はきっといないだろうと茂木は心の底からそう思った。その時、機内にどよめきが湧き起こった。感動の溜め息である。誰もがボラカイ島の美しい全景を上空から眺めて感動したからだ。機体はその白いビーチに着陸するかのように高度をどんどんと下げだした。しかし飛行場が見当たらない。茂木は今度は不安な気持ちに包まれていた。海上への緊急着水なのか、一向に滑走路が現われてこないのである。それに加えて荒っぽい操縦である。わずかな時の間にいろいろな想像が茂木の脳裏をよぎった。車輪が出ないで胴体着陸する際は空港の消防車が一斉に何台も飛び出し飛行機と伴走する。まずそのシーンが頭に浮かび、次に、ここの飛行場には消防車はあるのだろうか、近くに病院はあるのだろうかと心配になってきた。やはりパイロットは海上に着水するつもりなのだろうか、感動と不安が同時に茂木だけではなく他の乗客全員の感情をも揺さぶり続け始めていた。ドスン、ドスンという音がした後、かなりの大きな衝撃が全身を襲った。キキキーというブレーキ音で無事に着陸したことが分かった。茂木はおもわずつぶってしまっていた目をゆっくりと開けて窓の外を見てみた。するとカラバオと呼ばれる水牛が真っ先に目に飛び込んできた。何と窓の外は静かな農村だった。きっとどこかに隠されているのに違いない緊急用の消防車も空港ターミナルも滑走路も茂木にはどうしても見つけることが出来なかった。飛行場と呼ぶよりはむしろよく草を刈り込んだだけの「はらっぱ」と呼んだ方がふさわしかった。飛行機はゆっくりと小さな掘っ立て小屋に近づき、ぴたりと動きを止めた。何も知らなかった乗客全員、パイロットも他のクルーも含めて、その場に居合わせた者すべてが神に感謝したのに違いなかった。その証拠に飛行機が完全に止まってからもしばらくの間、誰一人として動く者がいなかった。
 茂木は飛行機から一番最後に降りた。大きく農村の澄み切った空気を吸った。茂木は千代菊と菊千代の父親や自分の父親、おそらく外交省全体を巻き込むことになるだろう嵐が通り過ぎるまでこの地で過ごすことにした。小さな飛行機を振り返って見ながら無事に着陸したことを再び感謝する茂木であった。茂木が上空から見ただけでボラカイ島はきっと千代菊と菊千代の傷ついた心を癒してくれるだろうと直感していた。追われるように日本を出発する時もマニラの混沌とした雑踏に着いた時も、千代菊と菊千代の表情は非常に暗かった。しかし、今さっき、上空からボラカイ島を見ていた二人の表情は実に明るかった。茂木は二人をボラカイ島に連れて来たことは間違いではなかったと確信していた。ボラカイ島の癒しの魔法が今の千代菊と菊千代の二人には本当に必要なのだ。そして茂木もさっき草をむさぼり食う水牛のカラバオを見た瞬間、自分自身も救われたと感じたのだった。
 


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