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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第22回   日本人への復讐
日本人への復讐

 渡辺社長は帰りの飛行機の座席を再確認する為にホテルのフロントからセーフティーボックスに預けておいたパスポートと航空券、そして分厚い財布を受け出した。ホテル内にある航空会社のデスクに行き、そこで帰りの座席の再確認を済ませた。社長はだいぶマニラに慣れてきたせいもあって、航空券、パスポート、そして分厚い財布をフロントに再び預けることなく、それらを持ったまま、ホテルの外に食事に出てしまった。ヨシオにも何か美味いものを食わせてやろうとおもっていたことが、渡辺社長の判断を狂わせていた。社長はヨシオから「置き屋」を紹介されて、ヨシオのことをボンボンよりもよっぽど役に立つ奴だと考えていた。ホテルの周りをぐるりと回ってみた。案の定、ホテルの裏側でリヤカーの上で眠りこけているヨシオを見つけた。ヨシオのサンダルは半分磨り減っていて足がサンダルの外に飛び出ている。着ているシャツもボロボロでおまけに汗臭かった。これではヨシオを連れてレストランには入れないなと社長はおもった。食事の前にまず買い物だな、ヨシオに衣服を買ってやらないことにはどこへも入れないからと、社長は珍しく仏心をだしていた。
「おい、ヨシオ、起きろ。カム。ショッピング。一緒に行こう。」
 その社長の声に驚いてヨシオは飛び起きた。確かに、このヨシオの格好ではレストランだけでなく、他の店にも入ることは出来ないなと社長はおもった。そうか、露店の店なら誰も文句は言うまい、まず社長は教会のまわりにたくさんある露店の店へヨシオを連れて行った。ヨシオは衣類にはまったく興味がなく、でかい春巻きを揚げている店の前で立ち止まっていた。
「腹が減っているのか?よし、何がほしい。買ってやるぞ。」
 社長がそう言うと、ヨシオは生姜が入ったおかゆと大きな春巻きを指差した。社長はヨシオの分だけ買って、それをヨシオに与えた。自分ではバケツの水で食器を洗っている露天の食べ物は食べる気がしなかった。ヨシオはそんなことはかまいもせずに、ぺろりと全部きれいに平らげてしまった。次に社長はヨシオに新しい服と履物を買い与えた。ところがヨシオの奴、それらを身につけようともせずに、大切に小脇に挟んだまま、大事そうに持っていた。きっと後でそれらを売る気でいるのだと社長はおもった。しかし、それはおまえに買ってやったものだと言ったところで、所詮、通りすがりの観光客の言うことなどは聞くはずもないだろう、ヨシオの好きなようにさせるしかないと社長はおもった。
 しばらく渡辺社長はヨシオと昼間のしらけた歓楽街を歩いた。人の出入りが多いファーストフード店の前を先に歩いていたヨシオが急に曲がった。社長もヨシオについて小さな路地に入った。すると、小さな階段があり、ヨシオは社長に手招きをしてから、その階段を上って行ってしまった。昨夜、「置き屋」を紹介してくれたヨシオのことを社長はすっかり信用してしまっていた。社長も階段を上がって二階の部屋に入った。営業しているのか、それとも休業しているのかさえも分からない店に入った。かなり化粧の厚い婆さんが一人で部屋の隅に退屈そうに腰掛けていた。その婆さん、渡辺社長のことを見るなり、突然、生き返ったように元気になって、流暢な日本語で社長に話しかけてきた。
「あら、いらっしゃい。社長さん。」
 この街ではどこへ行っても。誰であろうと、中年の男性は皆、「社長さん」なのである。渡辺社長の場合は正真正銘の社長であるから、別に「社長さん」と呼ばれても違和感はなかった。日本ではさほどでもない男がこの街に来て、「社長さん」「社長さん」と何度も呼ばれると、もうそれだけで舞い上がってしまって、財布の紐がゆるんでしまうのである。
 部屋の隅に積み上げられていた椅子をヨシオが一つはずして、社長のために運んできた。
戦時中に覚えたのだろうか、その日本語は、他の連中の片言の日本語とは違って、かなりうまい。婆さんが言った。
「今、ヨシオが可愛い子を連れて来ますからね、ちょっと待っていて下さい。どうぞ、そこにおかけになっていて下さい。お飲み物は何がよろしいですか?」
「ああ、何でもいいよ。あのガキ、ヨシオという名前なのか。」
「ええ、父親は日本人ね。」
「母親は今どこにいるんだ。」
「ヨシオの母親はもう死んでしまいましたよ。」
「そうか、それは気の毒にな。」
 しばらくすると、ヨシオが肌の白い女の子を連れて戻って来た。どう見てもその子は十五六にしか見えない。確かにやり手ババアが言うように可愛い子だと社長はおもった。
「社長さん、五百ペソでいいよ。」
「安すぎるな。」
「昨日、田舎から来たばかりね、病気はないよ。大丈夫ね。」
「そんなことあるわけないだろう。それより本当に五百ペソでいいのか?」
「そうですよ。安いでしょう。社長さんはどこのホテルですか?」
「あそこのでかいやつだ。」
「ああ、あそこはダメね。この子はIDをもっていないから、入れないよ。モーテルへ行くといいよ。」
「そうか、ショートだから五百でいいのか。」
「いえ、違うよ。朝まで五百ペソね。モーテル代は社長さんね。百ペソぐらいね。」
「そうすると、全部で六百ペソか。」
「あとは社長さん次第ね。この子がかわいそうだから、チップあげてくださいな。田舎から出て来たばかりだから。」
 渡辺社長は考えることもなく、すぐ分厚い財布から五百ペソ紙幣を取り出して、やり手ババアに渡した。
 外に出るとヨシオがすばやく手をあげてタクシーを停めてくれた。その田舎出身の女の子が先に乗り込み、ドライバーにモーテルの名前を告げていた。何が田舎から出で来たばかりだ。田舎から出て来たばかりの子がすぐにモーテルの名前が言えるはずがないだろうが、嘘っぱちじゃないかと社長はおもった。しかしそんなことは社長にはどうでもいいことだった。社長も大きな身体を屈みながらタクシーに詰め込んだ。席に着いてから、ふと車の外を見ると、ヨシオが笑っていた。社長はヨシオが笑うのを初めて見た。おかゆを与えた時も衣類を買ってやった時も、ヨシオはにこりともしなかった。そのヨシオが歯を出して笑っていた。
 タクシーはしばらくマニラ湾沿いのロハス通りを走り、パサイ市のモーテルに滑り込んだ。この辺りには安いモーテルが乱立していた。ゲートを入ると数人の男どもが車に走り寄って来て、空き部屋を指し示した。そのまま部屋までタクシーに手をつきながら一緒に走り、社長がタクシーから降りると、チェックアウトの時間や超過料金の説明を一通りして、すぐに部屋の使用料を徴収して戻って行ってしまった。タクシーの運転手が短い距離だったのにもかかわらず、百ペソとふっかけてきた。田舎から出て来たばかりの子が執拗に食い下がり、五十ペソにまけさせてタクシーを追い返した。これで社長はこの子を完全に信用してしまった。
 部屋に入り、まず社長がシャワーを浴びた。もちろん分厚い財布やパスポートは風呂場に持って入った。日本の知り合いからシャワーの間に財布を盗まれたという話を聞いていたからだ。念には念を入れた。さっとシャワーを浴びて部屋に戻ると、田舎から出て来たばかり子が何の恥じらいもなく浴室に入った。部屋のテーブルの上にはよく冷えたビールが用意されていた。喉が渇いていた社長は一気にそのビールを飲み干した。田舎から出て来たばかりの子がこんなによく気がつくはずがないとおもいながら、もう一本飲んだ。そこで、 急に激しい睡魔が渡辺社長を襲ってきた。

 社長は目を覚ましたが、異常に頭が重たいことに気がついた。吐き気もしている。しばらくそのまま、ぼんやりと天井を見つめていた。次に部屋の中を見回してみた。誰もいなかった。ここはどこだ、社長は自問自答した。そうだ、モーテルの部屋だ。次の瞬間、さっと起き上がり、社長はもう一度、部屋の中の様子を点検した。女の子も財布もパスポートも航空券もすべて無くなっていることに気づくのに数秒とかからなかった。慌てて立ち上がり、カーテンを開けてみたが壁だった。安いモーテルには窓などなかった。今度はドアを開けて外の様子を見てみると、もう、すっかり明るくなっていた。シャワールームから女の子が出て来て、「おまえの名前は」と聞くと、「トシコ」だという返事が返ってきたことまで覚えていた。その後のことがどうしても思い出せなかった。記憶がすべて消えてしまっていた。渡辺社長はおもった。これが睡眠薬強盗なのだろうか。話には聞いていたが、まさか、自分がこうしてかかってしまうなんて、まったく情けないと痛切に感じた。
 外に出てモーテルの出口を後にする時、後ろで男たちが笑う声が聞こえてきた。ここで警察に連絡するほど社長の英語力はなかったし、どう見ても昨日の子は未成年であった。警察に連絡すれば、逆に逮捕される可能性があった。無一文になった渡辺社長はホテルを目指して歩き始めた。ホテルに事務所がある日本の旅行社に助けを求める為に、ただひたすら歩いた。乞食のヨシオ、昨夜のトシコという女の子、そしてあの薄暗い店にいたやり手ババアもみんなグルだったのだと社長は歩きながら考えていた。今頃は分厚い財布の中を見て三人とも驚いていることだろう。
 ヨシオもトシコも社長と同じの血を引く日本人だった。そして流暢な日本語を話すことが出来た、あのやり手ババアは昔、日本軍によって悲しい過去を持つ運命の女だった。だから、日本人を何度騙しても騙し足りない、日本人への復讐をし続けることだけが彼女の生きる喜びだった。あの当時のことは決して忘れはしない、心も身体もずたずたにされた。絶対に忘れることなんか出来ない。やり手ババアはヨシオとトシコと死ぬまで日本人への復讐を続けるつもりだった。


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