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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第21回   マニラの置き屋
マニラの置き屋

 相変わらず日本人客で賑わっているホテルのロビーの大時計は今さっき夜の九時を回ったところだ。この時間になるとマニラの歓楽街にそびえ建つホテルのロビーは出陣する者と、どこからか早々と女の子を連れ出して来た者たちが入り乱れて混雑する時間帯である。渡辺社長のイライラは頂点に達しようとしていた。ボンボンが約束の時間を過ぎてもやって来なかったからである。もう社長は二時間以上もロビーのソファーに座ったままであった。
「これだからフィリピン人はダメなんだよ。時間を守らないから商売がうまくいかないのだ。まったく何も分かっていないな。」
 そんな独り言を何度もブツブツと繰り返していたが、とうとうしびれを切らした渡辺社長はソファーから立ち上がり、大きく背伸びをした。その後、フロントにまっすぐに向かって歩き出し、歩きながらポケットから分厚い財布を取り出した。五千ペソだけをポケットに丸めて入れた。そしてフロントのセーフティーボックスにパスポートと分厚い財布を預けた。セーフティーボックスは二つの鍵がないと開かない仕組みになっていて、一つの鍵を客が、もう一つの鍵をフロントが預かることになっている。従って宿泊客は安心して大切なものを預けるのだが、ホテル側には合鍵があることを客はすっかり忘れている。だから大金を預けることはあまり得策ではない。渡辺社長は勇気を出して一人で魑魅魍魎が溢れるマニラの夜に飛び出した。ホテルの敷地を出たところでヨシオがすぐ近寄って来た。バンブーダンスのレストランの窓を叩いていたあの乞食である。社長は手で「あっちへ行け」とヨシオを追い払うが、ヨシオはどこまでもついて来て離れない。しばらくするとヨシオがボソッと言った。
「社長さん、置き屋、知ってますよ。」
 渡辺社長はびっくりしてしまった。「置き屋」という言葉は日本ではもうほとんど使われなくなっている言葉だ。少なくとも芸妓遊びをする者意外、普通に生活している者にはまったく縁のない言葉である。その日本ではもう使われなくなった「置き屋」という言葉がマニラでは脈脈と生き続けていることに社長は驚いてしまった。もちろん、現在の日本の花街で使われている「置屋」とマニラの「置き屋」とではまったく意味合いが違う。誰かが無責任にも「置き屋」という言葉をマニラやセブに持ち込んでしまって、それが根付いてしまったようだ。
 渡辺社長はまた昨日のゴーゴーバーへは行く気はしなかった。社長はイカツイ顔をした大人たちよりも子供のヨシオの方が安全だろうと勝手におもい始めていた。ヨシオがまた社長を誘った。
「社長さん、置き屋さん、知ってますよ。」
 社長がそれに返事をした。
「よし、そこへ連れて行け。」
「置き屋、ゴーゴー。」
「そうだ、置き屋、ゴーゴーだ。」
 何て会話だ。まるで漫才である。しかし社長とヨシオの意思の疎通は見事に計られた。ヨシオはこっちだというように、社長の先を歩き出した。路地を幾つか入って、さらに奥まったところにマニラの「置き屋」は存在していた。一目見ただけでは普通の民家と見分けがつかない。ヨシオは入り口のところに立っていた用心棒と言葉を交わして姿を消してしまった。今度はその用心棒がヨシオに代わって笑顔で渡辺社長を置屋の中へ迎え入れた。
「社長さん、どうぞ中へ。どうぞ、どうぞ。」
 日本語であった。引き戸が大きく開けられ、敷地内を五六歩、足を運ばせるとすぐに玄関だった。中に入るとすぐに大部屋があり、さっきの用心棒とは違う案内役の男が社長に赤いビニール張りのソファーに座るようにと勧めた。何度も修理に出されたようなちゃちなソファーだった。部屋は暗く、がらんとして誰もいなかった。
「社長さん、ちょっと待って下さい。」
 ここでも日本語だった。おまけにこの案内役の男は「ちょっと待って、下さい。」とどこかで聞いたような歌を歌いだした。社長は部屋を見回した。後ろの壁には工事現場で使うような赤い大きなライトが二つ取り付けてあり、部屋の正面を照らすように向けられていた。その瞬間だった。その二つのライトがパッと点灯された。社長は部屋の正面を見た。カーテンを開けてぞろぞろと女の子たちが隣の部屋から出て来た。社長のソファーを中心に「コ」の字を描くように部屋いっぱいに重なり合うように並ばされた。部屋は様々な香水の匂いで頭がくらくらするほどであった。皆、黙って渡辺社長のことを見つめている。指名されるのを待っているのか、いないのか、どちらとも分からない中途半端な表情をしている。案内役の男が切り出した。
「社長さん、みんな、きれいでしょう。どうぞ選んで下さい。いい子ばかりね。」
「ところで、幾らなんだ?」
「六千ペソね。」
「高いな、もっと何とかしろよ。六千なんて持っていないぞ。」
「五千でいいですよ。」
「五千ぽっきりだな。」
「ええ、五千だけね。」
「よし、じゃあ、五千で、右から五番目の子にする。」
「分かりました。それじゃあ、準備させますから、少しお待ち下さい。」
 並んでいた子たちがまたぞろぞろと隣の部屋に引っ込んで行ってしまった。社長が支払いを済ませている間に、右から五番目の子は上着を羽織って既に玄関のところで社長を待っていた。
「あたしはクリスティーナさんです。よろしくね。」
何故か、自分の名前にさんを付けて自己紹介をした。社長は何も言わなかった。外に出ると、ヨシオがまた近寄って来て社長に手を出したが、置き屋から連れ出されたクリスティーナがそっとヨシオにお金を渡した。ヨシオはそれを受け取っても納得していないのか、不満げな表情をしたままだ。それを見ていた門番の用心棒がヨシオに近づこうとすると、ヨシオは走って逃げてしまった。ホテルに辿り着くまでに何人もの男たちが社長にいかがわしいオモチャを売りつけようと近づいて来た。しかし、クリスティーナがすべて追い払った。ホテルに着き、社長がフロントから部屋のキーを受け取ろうとしたその時、後ろから声がした。ボンボンであった。弟のネトイも一緒だった。
「すみません、遅くなりました。」
 ボンボンは渡辺社長の横にいる女の子を見て、社長はもう今夜は自分たちを必要としていないことにすぐに気づいた。
「社長、これは私の弟のネトイです。実は明日から僕は南の島に行くことになりまして、大変申し訳ありませんが、社長の案内が出来なくなりました。私の代わりに、この弟のネトイに案内させますので、どうか、それで勘弁して下さい。」
「遅れて来て、その上、案内が出来なくなっただと、まあ、いい。それで、その弟さんとやらは日本語が出来るのかね?」
「いいえ、出来ません。」
「それでは話にならないじゃないか。結構だ、足手纏いだよ。そんな弟は置いていかなくてもいいよ。金がかかるだけじゃないか。必要ない。そうだ、ボンボン、この前のディーンさんの学費の話はどうなった?」
「まだ結論が出ていません。みんなで相談しているところです。」
「おまえ、ちゃんと伝えたのか。いいか、それだけはちゃんとやってくれよ。ディーンさんの学費をわしが出すと言っているのだからな。良い返事を楽しみに待っているからな。」
「分かりました。本当に明日から弟の案内はいらないのですか?」
「ああ、いらない。自分で何とかするよ。悪いな、見ての通りだ、急いでいるんだ。今夜はこれで失礼するよ。」
 社長はクリスティーナの手を引いて、さっさとエレベーターの中へ消えてしまった。ボンボンとネトイは呆れ返ってお互いの顔を見合わせた後、言葉も交わさずにホテルの外に出た。するとまたヨシオがタバコを売るために駆け寄って来た。まったくよく働く子供である。このパワーだけは無気力な日本人の子供たちも見習わなくてはならないはずだ。ボンボンはタバコを吸わない。ネトイがヨシオから二本だけマルボーロを買った。フィリピンではタバコはばら売りが常識で、箱ごと買うことは珍しい。ヨシオのような子供たちがどこにでもいるから、タバコにはまったく困らないのだ。ボンボンがお土産で買ってきてくれる免税のアメリカ製のマルボーロがない時はフィリピン産のマルボーロをネトイは吸っている。ネトイはマルボーロの愛煙家だ。タバコのばら売りもおもしろいが、タバコにつける火もまた愉快な習慣がこのフィリピンにはある。ストリートチルドレンの子供たちからタバコを買えば、もちろんその場でマッチをすって火は点けてくれる。マッチがない時はまずタバコを吸っている人を捜して近寄って行き、黙って手を差し出すのだ。すると火のついたタバコを火のついている方を向けて差し出してくれるのだ。それを摘んで自分のタバコに点火するわけだ。逆に自分が吸っている時に手を差し出されると、相手の手がどんなに汚くても火を貸さなければならない。そういう暗黙の了解がこの国では出来上がってしまっていて、それがたとえ腹の出っ張ったサングラスをかけた恐い警察官だったとしても守らなければならないルールなのである。黙って手を差し出せば火を貸してくれる、一切、挨拶もお礼も要らない、これはフィリピンが生み出した心温まる助け合いの習慣なのである。


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