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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第2回   挫折
挫折

 すっかり暮れてしまった冬の東広島の町を高校三年生の正樹は歩いていた。強い風に吹かれながら大きな橋を幾つも渡るたびに正樹は広島という町はなんて川が多い所なんだろうと何度も思った。実家のある東京を出たのは昨日だった。当時の若者の間ではかなり有名だった夜行電車「東京発−大垣行き」の長距離夜行普通列車に乗り込み一夜を過ごした。夜が明けてからも更に幾つも普通列車を乗り継いでまるまる一日かけてやっと東広島の駅にたどり着いたところだった。新幹線も特急もあった時代だが、もったいなくてそんな高い乗り物に乗ることは出来なかった。幸い、乗り継いだどの普通列車も乗客は少なく、すべての列車で4人掛けの座席を正樹独りで占領することが出来た。ひじ掛けの下に衣類を丸めて肩に当て、少し体の位置を高くするとちょうど座席のひじ掛けが枕代わりになる。この旅の知恵は以前に乗り合わせた旅芸人の一行がやっているのを見て覚えたものだ。しかし、いくら正樹がまだ若いとは言え、やはり同じ姿勢をとり続ける普通列車の長旅はしんどかった。東広島駅の出口を出た時にはもうへとへとだった。
 東京を出る時に東京駅のホームにあった売店の公衆電話から今夜の宿に予約はしておいた。時刻表の後ろのピンクのページの旅館案内広告の中から素泊まり料金の一番安かった「みどり」という宿を選んでおいた。正樹は広島は初めてであった。東広島の駅を地図を片手に颯爽と街に歩き出したのは良かったけれども、もうとっくに日は暮れてしまっており目的の宿がいっこうに分からずにいた。旅慣れていない正樹は今度から見知らぬ土地を訪ねるときは明るいうちに着くべきだと東広島で道に迷ってそう実感した。心の中でぶつぶつと「みどり、みどり、みどり」と宿の名前を何度も繰り返しながら歩いた。もう三十分ちかく同じ場所をぐるぐると歩き回っていたが、「みどり」という旅館は見つからなかった。正樹の持ってきたバックには受験参考書などがたくさん入っておりとても重たかった。疲れた夜行列車の旅に加えて、休む場所を探すのにまさかこんなに難儀するとは思わなかった。確かにさっきから歩き回っている町の名前は「緑町」で旅館案内のページに書いてあった住所と同じで間違いはなかった。ミドリ湯という古びた銭湯があるだけで、他に旅館らしきものがまったく見当たらなかった。携帯電話のない時代で、公衆電話をみつけるのにも苦労する世の中だったから正樹はさらにもう三十分位小さな路地にまで入って探し続けた。道の両側には東洋自動車工業の下請け工場が隈なく並んでいて町全体が機械油のにおいで満ちていた。東広島の工業地帯をまるで自分の家を忘れてしまった老人のようにうろうろと徘徊していた。擦れ違う人々に道を尋ねることができるほど正樹はまだ擦れていなかった。まだうぶだったのだ。やっと見つけたタバコ屋のピンク電話から「みどり旅館」に電話を入れてみた。呼び出し音は一度ですぐ返事があった。受話器の向こうから出てきた声はやけに明るく調子の良いものであった。
「はい、ありがとうございます。ミドリです。」
「もしもし、あの、昨日、予約をしておいた者ですけれど、道に迷ってしまって。」
「そうですか、それはそれはたいへんでしたね。それで今、どちらからこのお電話をかけていますか?」
「タバコ屋のピンク電話からです。」
「ああ、お客さん、それは行き過ぎだがなもし。今来た道をお戻りになって下さいな。そこから煙突が見えますでしょう。それに向かって来てくださいな。」
その電話の声の主は銭湯ミドリ湯が正樹が探している宿だと言い出した。空いている部屋を利用して銭湯の二階部分で旅館業を営んでいるのだと言うではないか、女将とおもわれるその電話の主は正樹に銭湯「ミドリ湯」の番台でチック・インするようにと短く指示をしてそっけなく電話を切ってしまった。正樹は重たいバックを右と左の肩に何度も掛け替えながら来た道を引き返した。そしてさっきは何のためらいもなく通り過ぎてしまった銭湯の紫のれんを恐る恐るくぐった。そして下駄箱に靴を入れて、分厚い男湯の引き戸を開けて中に入ると脱衣所には客は一人もいなかった。銭湯特有の漂白剤の臭いだけが正樹の鼻に飛び込んできた。正樹が顔を横に向け番台に向かって名前を告げると、さっきの電話と同じ声が聞こえてきた。
「これはこれはいらっしゃいませ。お疲れになりましたでしょう。」
女将は番台の小さな扉を開けて、ゆっくりとその巨体を浮かせながら振り返り、下に降りて来た。愛想良くお決まりの挨拶をして、正樹のバックに手を添えながら言った。
「さあ、お荷物をお持ちしましょう。」
ところが正樹の荷物は重過ぎて、大柄な女将にしてもとうてい運べる代物ではなかった。
「あら、まあ、重たいこと。」
「あ、これは自分で運びますから結構です。」
「そうですか、すみませんね。さあ、ここでは何ですから、お部屋へご案内いたしましょう。さあ、どうぞこちらへ。お部屋は二階なんですよ。」
やたらと天井の高い脱衣所である。その一番奥の扉まで正樹は自分の肩にまた重たいバックを引っ掛けながら女将に導かれて歩いた。脱衣所の扉を出ると長い階段があり、女将のお尻を見上げながら五階か六階まで昇ったような気がした。相当高い二階である。部屋は三つしかなく、正樹は真ん中の部屋に通された。どうやら正樹が最後に到着したようだった。両隣の部屋にはすでに人の気配がする。
「今夜のお客さんは皆さん、あんたさんと同じ学生さんですよ。明日の試験を受けなさる人ばかりです。ああ、それと、相談なんですがね、お客さん。お嫌だったら結構なんですがね、相部屋をお願いできませんかね。もちろん宿泊代は半分で結構なんですがね。」
普通列車を乗り継いできた正樹だ、安ければ安いほど良いに決まっている。考えることはなかった。
「ええ、半額でいいのなら、僕は相部屋でも構いませんよ。どうせ寝るだけですからね。」
「そうですか、そうさせてもらえますか、助かります。すみませんね。」
部屋をぐるりと見回すと、全体的に誇りっぽく煤けた感じがした。広島の銘菓である紅葉饅頭が一つと急須や湯のみがテーブルの上に用意されているのを見て、やっとここが旅館のように見えてきた。女将は座布団を軽く手ではたいてからそれをひっくり返して正樹に差し出した。テーブルの下からポットを引き寄せ、手馴れた手つきでお茶を入れ始めた。そのポットの中のお湯が新しいことを正樹は祈った。銭湯の二階とは言え、正樹は旅館に一人で泊まるのはこれが初めてである。以前、何かの本で読んだことがあったのだが、このタイミングで札を丸めてそっと心づけを渡すのだと書いてあった。しかしどんなにサービスが悪くてもそれに甘んずる覚悟はできていたし、相部屋を頼むくらいなのだから女将も貧乏学生の正樹には何も期待していないはずである。出費は出来るだけ少ない方が良い。正樹は知らん振りをすることに決めた。黙っていると、お茶を勧めながら女将から話しかけてきた。
「まあまあ、よくいらっしゃいましたこと。東京からかね、遠いところを本当によくいらっしゃいましたね。お疲れでしょう。」
「ええ、さっきは道に迷って難儀をしました。でも、ここは明日の試験場に近いものですから。」
「東雲のかね?」
「・・・・・・?」
正樹は女将が何を言っているのかさっぱり分からなかった。仕方なく意味のない微笑みを浮かべながら適当に相づちを打った。女将は話を続けた。
「東京にはぎょうさん大学があるじゃろうがね、またどうしてこんなところまで来る気になったんですか。この辺の子達はみんな東京の学校へ行きたがりますよ。お客さんは変わったお人ですよ。まったく反対ですがな、みんな、東京で遊びたくて学校へ入るのにね。」
 正樹は広島の大学の教育学部に入りたかったのである。学校の先生になりたかったのだ。それも障害者の先生にである。東広島の東雲分校がその試験会場だった。学費の安い大学の中で競争率が一番低かったことがこの学校を選んだ理由であると銭湯の女将に説明する気はさらさらなかった。しかし下の銭湯の番台をこんなにほったらかしにしておいて大丈夫なのだろうか、女将はまだ話をするつもりだった。
「お客さん、あんたも知ってるじゃろうが、広島は戦争の時にピカドンがあってな、当時子供だったあたしも空襲を知らせる警報がありましたから、母と一緒に防空壕に避難しましたがな、そしたら大きなドンという音がして、その後は静まり返ってしまったんです。しばらくしてから防空壕の外に出てみましたがな。そのときはよく分かりませんでしたが、あの時のあの雲は原子爆弾のきのこ雲だったんですね。そんでな、一時間位してから大勢の人たちが広島の中心地からこの東広島の方にも歩いてきましたがね。」
広島と言えば原爆である。どうやら女将は正樹に原爆の話をするつもりらしかった。正樹は原爆に関してはとても興味があったから黙って聞くことにした。
「それがさ、みんな、市内の中心から歩い来るんですけれど、手に何かをぶら下げて歩いて来よるんだがね。近くまで来てから、よく見てみると両腕の皮がむけて垂れ下がっていて、それが手首のところでひっかかってぶら下がっているんですよ。手に持っていたのは自分の焼け落ちた皮膚だったんですよ。そりゃあ、もう、びっくりしましたがな。本当に恐ろしい光景でしたよ。」
 そんなことは正樹が習った教科書には一つも載っていなかったし、社会科の先生も言わなかった。女将は話を続けた。
「広島市内の川は火傷をおった人たちが水を求めて飛び込みましてな、かわいそうなことに、そのままそこで死んでしまいました。川は水面が見えない位に死体でぎっしりだったそうですよ。地獄でもあんなにひどくはないと、あの時、市内を見て回った母が言っていましたよ。でも、それから、長いこと苦しんで死んでいった母の方があたしにとっては地獄の苦しみでしたよ。」
 正樹はただじっと女将の生々しい話を聞いていた。その後も延々と原爆の体験談が続いた。客に当時の話を語り継ぐことでこの女将は戦争の生き証人としての責務を果たそうとしていた。
「お風呂はお好きな時にお好きなだけお入りになって下さい。さっき来た階段の下の扉が脱衣所ですから。そうだ、もう一つ扉がありますけど、間違って女湯の方には入らんようにしてつかわさいよ。何か御用がありましたら、あたしはたいがい番台におりますから、何なりと言ってください。」
 正樹が尋ねた。
「あのう、相部屋のお方はいつ到着になるんですか?」
「ああ、今治の仙波君。あの人は今年で3度目ですよ。今治の西校の秀才なんですよ。3年続けてここを受けなさるそうですがね。さっき突然、電話がありましてな、今年も頼みますとだけ言ってすぐ電話が切れてしまいました。でも今治からの船はもうじき着きますから、もう間もなくだとおもいますよ。すみませんね、もし来たら御一緒してやってつかわさい。」
 3浪か、3年も同じ学部をねらっているとは興味深い奴だ。いったいどんな人物なんだろうと正樹はおもった。どうやらこの旅館では布団は自分で敷くみたいで、女将は布団の説明を一通りして、やっと下へ降りて行ってくれた。疲れきった正樹はその仙波とか言う浪人が到着するまで畳の上で横になることにした。
 
正樹が受験の時、父の義雄は半導体関係の会社に勤めていたが、大病と交通事故が重なり、正樹の家の家計はまさに火の車だった。父と母は給料日には大喧嘩を絶やさなかった。食って掛かる母と激怒する父の様子はいつまでも正樹の心に残る悲しい思い出だ。一学年上の兄の正俊は小さい頃から勉強が良く出来た。大学も学費の安い日本国の最高学府、校名を聞いただけで大人たちが態度を改めるあの学校に昨年すんなりと入った。出来の良い兄を持つと何かと比較されるものだ。弟の方も同じくらい出来れば何も問題はないのだろうが、正樹の場合は小学校二年の時に赤痢とか言う伝染病に罹って病院に隔離されてしまった。その間に掛け算の九九などの勉強が本格化し、正樹は完全に取り残されてしまった。勉強も嫌い、運動も苦手、運動会の駆けっこなどはいつもビリだった。ところが一方の兄の正俊は成績優秀、運動会でもリレーの選手だったし、ついでに鼓笛隊の指揮などもした。朝礼で賞状が授与されると決まって兄正俊の名前が呼ばれた。正樹も一度だけ賞状をもらったことがある。それはたくさんあった虫歯を何度も塾をさぼって完治させた時だ。塾といえば、二人とも近くの八幡神社の神主が経営する塾に通っていた。この神主先生が生徒たちに通信簿がすべて5になった者に百科事典一式をプレゼントすると檄を飛ばした。兄の正俊は次の学期に難なくオール5を取ってみせた。だから古本ではあったが正樹の家の百科事典20冊は兄正俊の戦利品である。塾でも正樹は兄正俊と比較され、白い眼で見られた。神主先生が終わりに近づいてくると「黒板の問題が出来た者から帰ってよろしい」と言うと、正樹は必ず最後まで残された。友達が一人減り、二人減りしていくうちに窓の外の闇は暗さを一段と増していった。どうあがいても正樹にはどの問題も解けなかった。そんな悲しみと焦りは次第に絶望感に変わっていき涙が自然と溢れ出てきたことは数え切れなかった。「もういいから帰りなさい。」の一言はとても辛く悔しいものだった。正樹は塾も神主先生も大嫌いだった。家にある百科辞典は悔しさの思い出そのものであり、見る度に悲しい気持ちになった。兄正俊は中学に入ると成績はトップ、当然、生徒会の役員にも選ばれた。翌年、正樹も成績は下から数えた方が早かったが生徒会の役員選挙に間違って当選してしまった。理由は簡単、兄正俊の弟だったからだ。正樹の成績を知りうる立場にあった先生たちはきっと肝をつぶしながらこの選挙を見守っていたに違いない。しかし幾度も開かれる生徒集会での正樹の演説は先生たちの間ではとても人気があった。隣人愛、人間愛を偉そうに語ってみせたからだ。そんな正樹のことを校長先生は見ていてくれて、高校進学の時に大きな力となってくれた。正樹は勉強が嫌いで就職することしか考えていなかったから何の準備もしないまま中学三年の三学期をむかえてしまった。両親、担任、進路指導担当の先生たちは慌てた。結局、高校だけは出た方が良いということで新聞を配りながら高校へ行くという結論になった。試験は受けたものの合格点には程遠く、校長先生が高校に直接電話を入れてくれて、やっと正樹の高校進学が決まった。高校の三年間はあっという間だった。朝夕刊配達をしながら学校に通っていたから遊ぶ時間がまったくなかった。食事も新聞屋で他の配達をしている大学生たちと一緒に食べていたから給料は丸々残った。夕刊の配達がない日曜日の夜は実家に帰って寝た。翌朝、朝刊の配達に間に合うようにまだ暗いうちに家を出る時、正樹は振り返り、玄関先でいつまでも見送ってくれる母の正子の姿をみるのがとても寂しく辛かった。でも相当な蓄えが高校三年間で正樹には残った。

 少し眠ってしまったようだった。女将の声で正樹は起こされた。
「お疲れのところ起こしてすみませんね、相部屋、お願いしますね。仙波さんがお着きになりましたんで。」
 女将はそれだけ言うとお茶も淹れずにさっさと下に降りて行ってしまった。仙波と正樹の二人だけが部屋に残された。年上の仙波の方から自然と挨拶は出た。
「仙波と申します。相部屋、無理を言いまして申し訳ありません。助かりました。」 
「正樹と言います。今、船でお着きですか。」
「いえ、電車で来ました。女将が言っていましたが、正樹さんは東京からだそうですね。あなたも明日、試験だそうですね。」
「ええ、そうです。」
「東雲のですか?」
「・・・・・・・?」
正樹はまた何を言っているのかが分からなかった。さっきの女将と同じことをこの仙波は言った。正樹はさっきと同じように聞き直しもせずに適当に頷いてみせた。
「いやあ、僕は今年で3度目ですよ。でも今年が最後だ。」
「予備校か何かいってらっしゃるんですか。」
「いえ、同志館は現役で入れてもらえましたから、まあ、一応は大学生です。君はどこの学部を受けるつもりなんですか。」
 結構、正樹は人見知りをするタイプだが、不思議とこの仙波には自然体で話が出来た。何だ、仙波は3浪ではなかった。それにしても私学のトップの同志館なら何の文句もあるまいし、どうしてまたここを受験するのだろうか、やはりこの仙波という男、おかしな奴だと正樹はおもったがまず聞かれたことに答えた。
「盲学校の教員になりたくてやってきたんですが。」
「また、どうして障害者に拘りたいんだね。それともあれか、競争率でここの学部を選んだのかね?」
 ずばり的中してしまった。仙波の言う通り、受験のガイドブックを調べて、ここが比較的に入るのが簡単そうだったから受験しただけだった。しかし正樹は別のことを言った。
「僕がこの学部を選んだのにはあまり大した理由はないのです。ただ高校へ行く途中でスクールバスを待っている養護学校の生徒さんがいたんです。高校に入ってからの一年間、毎朝、僕は彼女とすれ違っていたわけなんですがね、高校二年の時にいつものように彼女の前を通り過ぎようとしたら彼女の方から突然にオハヨウと声をかけてきたんです。それは健常者のしゃべり方とは明らかに違うオハヨウでした。それで次の日から僕は遠回りして学校に行くようになったんです。障害を持っている彼女とただ挨拶を交わすことすら自分には出来ませんでしたよ。月日はどんどん経って、次第に、僕は、そんな自分が嫌になってきましてね、また彼女の前を歩こうとしたんです。勇気を出してまた元の通学路を歩いてみました。でももう、彼女はそこにはいませんでした。バス待ちの他の生徒さんの付き添いのお母さんに聞いてみたら、彼女は以前から白血病も患っていたらしくて、もうこの世にはいないということでした。しばらくの間、落ち込みましたね。彼女がどうのこうのと言うのではありません。挨拶すら出来なかった自分が恥ずかしくてね、本当に自分が嫌になってしまいました。」
 仙波は正樹の話を聞きながら、布団を正樹の分まであっという間に敷いてしまった。三度も同じ宿から受験していると手馴れたものである。そしてぽつりと言った。
「でも、それがここの大学を選んだ理由ではないでしょう。障害者の教員を育てる学校なら東京には幾らでもありますからね。正樹君、ぼくも君と同じ学部を受験しますが、競争率が低いからといってあまり甘く見ない方がいいですよ。受験した全員の成績が悪ければ定員割れしようが一人も取らないことだってある。結構、ここは難しいですよ。」
「仙波さんはどうしてここを何度も受験されるのですか。何か特別な理由があってこの学校を。同志館といえばここよりも知名度も偏差値も上にランクされている学校だとおもいますが。」
「合格したい。ただ、それだけですよ。同志館を出て、大学院はここにすることも考えています。」
まるで趣味で受験しているような仙波の話は正樹にとっては随分と贅沢に聞こえた。
「僕はちょっと、一風呂浴びてきますから、どうぞお先にお休みになって下さい。」
 仙波はさっさと手ぬぐいを持って降りて行ってしまった。完全に仙波の方が上である。まったく彼の言う通りである。何故、この大学を選んだのか、下手な理由付けをして偉そうにいってしまった自分自身を正樹は反省した。学費が安くて競争率が低い、他の条件を考えずに絞り込んでいくとこの学校にたどり着く、ただそれだけの理由だった。もっとも明日とあさっての試験ができなければどんなに偉そうなことを言っても何も始まらないのだから、選んだ理由なんてどうでもよいことだった。その為にも今夜は早く眠らなければならない。正樹も下の風呂に入って長旅の疲れをとることにした。東京でも正樹は銭湯を利用していた。夕刊の配達を終えて銭湯に行くのが唯一の楽しみだった。ここは東京の銭湯と比べると規模はかなり小さい。でもちゃんとした銭湯である。そして銭湯の裏側というのはずっと以前からあこがれていた秘密の場所だった。しかし、わざわざ受験のために東京から広島にまで来て、女湯を覗いてしまい、捕まってしまっては長い間の苦労も銭湯の泡とともに消えてしまうというものだ。正樹はせっかくのチャンスだったが夢にまでみた覗きは断念することにした。長い階段を下りてみると、仙波が女湯の扉についている小さな覗き窓にかぶりついていた。正樹が階段を降りて来たのに気づいた仙波は慌てて覗き窓から顔をはずして言った。
「なんだ、今夜は婆さんばかりだよ。楽しみにしてたのに残念だったな。」
あっけらかんとして悪びれた様子はちっともなかった。正樹にはとても出来ることではなかった。毎年、仙波がこの旅館を利用する訳が分かったような気がする。
 湯船に入りながら仙波は銭湯についての自論を展開し出した。正樹も肩までお湯に浸かりながらじっと彼の話を聞いた。
「独特の匂いが銭湯にはある。特に排水溝から流れ出てくる垢をその匂いとともに見ていると僕はほっとするんだよ。銭湯の横の路地には洗い流された石鹸や垢がお湯とともに流れ出てくるでしょう。小枝とかゴミにせき止められて垢だけが排水溝の上の方にどんどん波紋を描きながら溜まっている様子を見たことがありますか。」
「ああ、ありますよ。僕の通っている東京の銭湯の横の路地にも小さな溝があります。大きな銭湯ですからね、大量の垢が時々溜まっていますよ。幾重にも重なるように垢が水の上の方に白黒く流れずに溜まっていますね。でもそれを見ても、僕にはただ汚いとだけしか感じませんけれど、他に何の感情も湧いてはきません。」
「僕はあの垢を見ているとね、人も生き物なんだと強く感じるんだよ。日々、体のあちらこちらで新しい細胞が生まれて、そして古い細胞と入れかわって生命を維持しているんだからね。銭湯から流れ出てくる垢を見ているとなんだか安心するんだよ。人はさ、毎日の生活の疲れや嫌な出来事があってもね、ああやって垢と一緒に過去を洗い流すことができるんだ。嬉しいことじゃないか。」
 部屋に戻ると仙波はビールを飲み始めた。仙波は同志館大学の二年生である。趣味で受験しているようなものである。正樹にとっては大事な試験の前であるから、誘われたが断って先に寝た。
 しかし運命とは残酷なものである。試験が終わった翌日、今回の試験は例年よりは難解であったと地元の予備校の速報が出た。自己採点をしてみると仙波は見事に満点であった。そして後日もらった手紙によると、彼はやはり合格していて、その広島の大学をけって、同志館の三年生に進級したと書いてあった。広島の大学の東雲分校の名前の「東雲」を「しののめ」と正確に読めなかった正樹が天下の広島の大学に入れるはずがなかった。まったくと言っていいほど歯が立たなかった。正樹の人生最初の挫折であった。
 高校を卒業すると正樹は再び広島に戻った。来年、もう一度同じ学部を受験するために地元広島の予備校に入った。広島でしばらく過ごしてみることにしたのだ。平和公園に展示されている背中が焼けただれた人物の写真パネルは強烈なまでに正樹の心に焼きついた。市民球場の外野席は老朽化しており、ボロボロの木製のベンチだった。所々が割れて釘の頭も出ていた。そのボロボロの外野席で巨人戦を観戦しているとホームラン・ボールが目の前に飛んで来てポトリと落ちた。そのボールがあの世界の王選手の記念すべきホームランだったことは後になってから分かった話だ。正樹は広島市から少し離れた廿日市という場所にある予備校の寮に入った。古くなったアパートを借り受けただけの寮だったがここでの仲間との暮らしはとても思いで深いものとなった。
 受験も追い込みの時期、晩秋の寒い夜に、同志館の仙波が正樹を訪ねて来た。何度か手紙でやり取りをしていて仙波の気心は知れていたし、障害者に関しての彼の考え方は尊敬するところがあり、同じ道を目指す正樹にとっては非常に興味深いものであった。二人は寮のすぐ裏手にある堤防まで歩き、夜の瀬戸内海を眺めながら話をした。
「なあ、正樹。障害者が一番望んでいることは何だと思う?まあ、人それぞれ違うだろうとはおもうけれど、大切なのは学校だろうか?それとも仕事か?自分の体の障害を取り除いてくれる医者もそうかもしれないな。あるいは精神的な支えとなってくれる宗教も必要だろう。もし彼らの親が死んでしまったら、いったい誰が彼らの面倒をみるというのだ。社会はそうした障害者を受け入れてくれるのだろうかね?」
「僕には難しいことは分かりませんが、今、彼らの学校の先生になるつもりで大嫌いな勉強をしています。でも、もし、来年、また広島の大学に失敗したなら、どこかの農場にでも入ろうかとおもっています。そして将来、自分の農場を持つことが出来るのであれば、障害者たちと一緒にその農場で暮らそうと考えています。」
「農場か、いつだったかな、ラジオの番組で障害者が養豚農家で働いている様子を耳にしたことがある。養豚は外部からの菌の侵入を徹底的にくい止めれば出来るかもね。そうね、なかなか良いかもしれないな。他の仕事と比較すると障害者だからという問題は少ないように思えるけれど、僕は養豚の専門家ではないので何とも言えないな。まあ、どんな仕事であれ、障害者も健常者もそれぞれに困難はあるものだよ。」
「ねえ、仙波さん。毎日、豚でも牛でも、家畜に一年365日餌を与え続けなければならないという責任感、これは大切ですよ。畜舎を清潔に保つために掃除をしたり、家畜たちが病気にかかっていないかどうか常に観察することも重要だ。自分がやらなければならないという義務感、世話をされている立場から世話をする側に立たされることは障害者たちにとって、彼ら自身の存在価値を高めることにもなりはせんか。」
「まったくその通りだと私もおもう。でも農家も商業活動をしている以上、家畜に死なれては困るわけで、なかなか障害者を雇いたがらないだろうな。商品を誤って壊すのとは訳が違うからな。家畜たちは生き物だから、雇う側はより慎重になってしまう。正樹、僕の今治の実家はみかん農家だけれど、家畜は鶏くらいで他には飼っていません。みかんだけで食っているようなものです。どちらかというとそっちの方が障害者にはむいているかな、ただ、農業というのは自然との闘いですからね。楽な時もそうでない時もある。そうだ、兄貴が北海道で大学院の先生をしています。障害者は無理としても、君が働ける農場くらいは紹介してくれるかもしれないよ。どうします、手紙を書いておきましょうか。」
「ええ、ぜひお願いします。北海道か、まだ行ったことはありませんがきっときれいでしょうね。仙波さん、すぐそこにお好み焼き屋があるのですけれど、広島風のお好み焼きはお嫌いですか?」
「いや、大好物だよ。」
「それでは今夜は僕におごらせてください。ビールくらいならお付き合いしますよ。」
「そりゃあ、いいね、じゃあ、お好み焼きが焼きあがるまで少しビールで乾杯しようか。」
 大きな鉄板が一つあるだけの小さな店で、鉄板を囲むように椅子が両手で数えるほどしか置かれていない。席に着くと正樹とは顔見知りのおやじさんが折り紙を一束差し出した。仙波がそれを見て正樹に聞いた。
「何ですか、その折り紙は?」
「広島のお好み焼きはお店の人が焼いてくれるんですがね、この折り紙はお好み焼きが焼きあがる間に折鶴を折りながら平和について考えてみようというものです。出来上がった折鶴はまとめて千羽鶴にして平和公園に飾られます。」
「いやあ、素晴らしいことじゃないか。広島のお好み焼きと平和か。感じ入ったよ。」
その夜、仙波は飲みすぎてしまって、正樹の部屋のコタツに足を入れるとそのまま眠ってしまった。そして翌朝、まだ暗いうちに京都に戻って行った。

 年末年始は寮は空になった。みな、それぞれの家に戻って新年を迎えるためだ。寮にいる何人かは隣の山口県から来ており、正樹は東京には帰らずに彼らを頼って山口を旅行した。秋芳洞、津和野、萩、そして松下村塾、どこも東京とはまったく違った情緒が溢れていた。
 年が明けてまもなく、京都にいる仙波から連絡が入った。底冷えのする京都だが、観光客の少ないこの時期に一度、遊びに来てはどうかというものであった。正樹は喜んでその日のうちに京都へむかった。広島にいると京都は通り過ぎてしまうことが多く、中学の修学旅行の時に訪ねて以来だった。正樹も日本人である以上、京都への特別の感情はある。それが何であるのかはよく分からなかったが憧れと呼ぶには少し軽すぎる、もっと心の奥の方のとても懐かしいおもいが京都の街を歩くと湧いてくるのであった。正樹は駅前の広場から仙波から指示された番号のバスに乗り、金閣寺の近くのバス停で降りた。さっきからバスの窓の外には小雪が降り始めていたが、バスから降りてみると風がなかったので雪が降っていてもそんなには寒くはなかった。仙波が丁寧に書いてくれた地図を頼りに彼の下宿を探した。迷うことなく仙波の下宿はすぐ見つけることは出来た。やはり想像していた以上に彼の部屋は汚かった、下宿そのものも農家の庭にただベニヤで仕切ったような安い作りで、本気で冷え込んだらきっと部屋の中でも凍り付いてしまうだろう。彼の部屋の中には食べ散らかしたインスタント・ラーメンの袋や雑誌が散々しており足の置き場もないくらいだった。臭いも慣れるまでは口で息を吸っていた方が良さそうであった。
「よく来ましたね。汚くてびっくりしたでしょう。まさか、こんなに早く来るとはおもわなかったから、掃除をする時間がありませんでしたよ。」
「いえ、突然、お邪魔をした方がいけない、こちらの方こそすみませんでした。」
「この下宿はね、石油ストーブが使用禁止なものだから、このコタツで古都の寒さをしのいでいるんですよ。さあ、そんなところに立ってないで、どうぞコタツの中に足を入れてくださいな。」
正樹がコタツ布団を開けるとむっと、それも様々な異臭が入り混じった風が出てきた。正樹は努めて平静を装って言った。
「仙波さんが羨ましいですよ。日本人の憧れの街、京都で勉強が出来るなんて、本当にいいとおもいますよ。僕も京都にある大学に入りたいな、でも、それだと何のために広島くんだりまで行ったのか分からなくなっちゃいますよね」
「この下宿の前の道ね、きぬかけの道と言うんですよ。それで道の向こう側が衣笠山。近くに金閣寺、正式なお寺の名前は確か鹿苑寺だったかな、あのピカピカの建物が金閣だから、みんなこのお寺のことを金閣寺と呼んじゃってるわけ。」
「そうなんだ、僕も金閣寺は金閣寺だとばかりおもっていましたよ。」
「でも、みんながそう呼ぶんだから金閣寺でいいんですよ。バス停にだって金閣寺と書いてあるしね。世界的にあまりにも有名になり過ぎて、この鹿苑寺というお寺が何宗の何派なのか訪れる観光客にとっては与り知らぬこととなってしまいましたね。そうだ、昔は金も銀も同じ位の価値だったそうですよ。銀の方が好まれていたという説もあるくらいです。ほら、銀閣寺の銀閣が昔にどんな色をしていたのか、僕は知りませんがね、たしか予算不足で銀箔が貼れずに今のあのような渋い色になったと聞いたことがありますが、確かではありません。僕はどちらかというと枯れた感じの銀閣寺の方が好きですね。正樹君はどうです?」
 正樹は大学生の仙波の話を聞いているだけでとても楽しい気分になった。
「僕も銀閣寺も好きですけれど、金閣には違った意味で興味があります。実は、今のあの金閣と僕の年齢は同じなのですよ。昭和25年に金閣のあまりの美しさに嫉妬した寺の徒弟の放火によって国宝金閣は焼失してしまいましたよね。今の金閣はその放火犯の師にあたる当時の住職が自分の弟子の放火を嘆き悲しみ全国を托鉢行して集めたお金で再建したものだそうです。戦争が終わって世の中は荒廃していた時ですよ。金持ちも貧乏人もみな、またあの美しい金閣を見たいと願ったそうです。だから足利将軍が建てた道楽の為の金閣よりも今の金閣の方が万人の願いが籠もっていて意味が深いと僕はおもいます。そんな庶民の為の金閣が再建されたのが昭和30年、僕もその年に生まれました。でも仙波さん、美しさに嫉妬して放火しちゃうなんてありなのですかね。建物ですよ。美を追求する三島由紀夫も金閣寺という小説を書いていますよね。そんなことで僕にとって金閣寺は大切なお寺なのですよ。」
「そうですか、正樹君と金閣が同じ歳だったとはおもしろい。僕は今の金閣は新しく建替えられたものだから、あまり価値がないものとおもっていたのですよ。そうですか、そんな話があったのですか。昔、時間を持て余した貴族たちが光り輝く金閣を眺めながら、贅沢三昧したあげくに陶酔していた。ところが今の金閣はそれとは違う、貧乏人も金持ちも関係ない、焼け落ちてしまった、あの美しい金閣の姿をもう一度見たいと願って再建されたのですね。いやあ、良い話を聞きました。」
「しかしあまりに有名すぎて、人が多過ぎます。いつ行っても金閣寺も銀閣寺も観光客でいっぱいで、ゆっくりと落ち着いた気分には浸れませんよ。」
「金閣も銀閣も比較的、冬場のこの時期だけは空いていますよ。行ってみますか?それとも、どこか他に訪ねたいお寺があったら案内しますけれど。先輩の車を借りることが出来ますからね、遠慮しないで言ってください。」
「お寺か、特に拝観したいお寺はありませんけれど、きれいなお庭には興味はありますね。」
「よし、分かった。お庭なら任せてください。良いお庭へ案内しましょう。」

仙波が正樹の為に選んだ京都の庭は「詩仙堂」と「大河内山荘」だった。それも二人で時間の経つのを忘れて、「詩仙堂」の縁側で半日、「大河内山荘」でもまるまる一日かけて散策した。山荘にある高台の庵で古の都を見下ろしながら暗くなるまで様々な事を話し合った。
 仙波と別れて、正樹は再び広島に戻った。正直言って、正樹は二ヶ月先の試験で広島の大学に合格する自信はなかった。学校の先生は学力がある奴に任せて、正樹は障害者の為に何か他の方法で彼らの手伝いが出来ないかと模索していた。かりそめにも障害者は障害のゆえをもって他人から差別される生活を送ってはならないと正樹は考えていたし、人間としての喜びや悲しみを彼らと分かち合えたらどんなにか素晴らしいのではとおもっていた。正樹の頭の中では次第に障害者との農場経営が大きくクローズアップされてきていた。北海道にいる仙波の兄から連絡が入った。北海道の知り合いの農家で人を探しているがどうかというものであった。京都にいる仙波が電話でそう正樹に伝えてきた。その知らせは苦しい正樹の受験勉強を結果的に終わらせることになった。

 夢が破れた者は何故か北へ向かう。それも当時の流行だったのかもしれない。



北へ

 正樹が青森駅のホームに降り立った時、外は雪だった。到着したばかりの列車の屋根に雪がぶつかり、ホームの中程まで綿のような雪がふわふわと舞い込んできていた。気が遠くなるくらいの長い時間をたっぷり列車に揺られてきた。急行列車は特急列車に何度も抜かれる運命にある。その分、余計に時間がかかってしまった。いつの日か東京に戻る時、またこんなしんどい長旅をするのかと思うと正樹はちょっと気が滅入ってしまった。青森駅のホームの階段をのぼり青函連絡船への連絡通路を渡って待合室に入ると、そこには大きなストーブがどでんと中央に置かれてあり、皆それぞれ、おもいおもいの方向を向きながら座っていた。酒を飲んで騒いでいる者もいないし、大きな声でおしゃべりをしている者もいない。皆、ただ、じっと黙り込んでいる。これだけ大勢の人がいるというのに、こんなに静まりかえっているのも、かえって不気味ですらあった。皆、何か大きな苦難に必死に耐えているように正樹にはおもえてきた。「北帰行」という歌が正樹の脳裏をよぎった。
「窓は夜露に濡れて、都、はるか遠のく。北へ帰る旅人一人。涙、流れてやまず。」
正確には思い出せないが、故郷を捨てて、意気揚々と都に出たものの、やがて都会の厳しい風に吹かれて夢が破れてしまい、再び北の故郷に帰るという歌詞であったと正樹は勝手にそう思い込んでいる歌である。何故かこの待合室にいる人々を見ているとその歌を口ずさみたくなった。この青森の青函連絡待合室の人々は正樹も含めてみんな「北帰行」の主人公だったのかもしれない。ところが津軽海峡の反対側、函館の青函連絡船の待合室は違う。これから上京して一旗揚げようとする者たちで溢れていて、内地へ向かう函館の待合室は青森の待合室とは打って変わって騒がしい。そう感じるのはおそらく正樹だけではあるまい。海峡を挟んで様々な人間模様がこの両岸の青函連絡船の待合室では毎日繰り広げられていたのだ。
 今はもう、その姿を消してしまった青函連絡船は大きな船であった。その船底や甲板に列車や車を何台も積んで津軽海峡を行き来していた大型貨物客船のくせに、ところが大きな図体の割には人が歩けるデッキは意外と小さく、けたたましい音をたてて煙を吐き出す煙突のまわりに申し訳なさそうにちょこっと付いているのがデッキなのである。正樹はそのデッキに出て五分も経たないうちにデッキが狭い理由が分かった。津軽海峡の風はとても強い、誰もこんな寒いデッキに出てゆっくり景色など眺める気にはならないからだとすぐ納得した。正樹は津軽海峡の海底に列車も車も通ることが出来る大きなトンネルを掘っていることやこの情緒溢れる青函連絡船がいずれ廃止になることも知っていた。長い間、人々を見守り続けてきたこの青函連絡船がただの交通機関ではなく、血も涙もある、あったかい船であるということを実感出来たことを感謝した。

 函館から列車に乗って、しばらく行くと函館本線は大きくカーブを描く。そして列車の前方には大沼公園の湖面となだらかな馬の鞍の形をした駒ケ岳がせまってくる。この雄大でやさしい景観は内地からはるばるやって来た人々に安らぎと北海道の美しさを十分に満喫させてくれる。正樹はその景色に触れて自ずと気持ちが大きく広がるのを感じた。大沼公園の中央にある大沼公園駅を過ぎると列車は駒ヶ岳を回り込むようにして走る。車窓から見る駒ケ岳の姿は見る度にその姿を変えていく。さっきはあんなにも優しく迎えてくれた駒ケ岳の表情がだんだんと厳しくなってくるのである。今度は一転して切り立った駒ケ岳は北海道の厳しさを旅人に容赦なくぶつけてくるのである
「あまったれた奴はこの北海道にはくるな!受験勉強から逃げて来たな、北海道はそんな奴の来るところではないぞ!」
 正樹はこの駒ケ岳がそう自分に語りかけているようにおもえた。列車はまるで北海道の門番のような駒ケ岳から解放されてさらに進むと大きく開けて海に出た。左に向きを変えて列車は海に沿ってしばらく走った。単調な海岸線を右手に見ていると八雲という小さな駅に着いた。何もない小さな駅である。実は正樹が北海道に来た目的の地はこの八雲であった。しかし正樹は列車から降りなかった。仙波の兄さんの紹介で八雲の吉田農場というところで働くことになっていたのだが、その約束の日まで、まだ二ヶ月という時間があったから、それまで少し気ままに北海道を回ってみることにしたのだ。八雲の次の駅、森駅ではイカ飯弁当を食べる為だけに列車を降りた。長万部でもカニ飯だけをホームで食べて、また次の列車を待った。好きな時に好きな駅で気ままに下車した。特にこれと言う目的もなく正樹は海を回ってみた。北国の海は白く寒々としていた。聞こえてくる音は打ち寄せる波、そしてそれが砕け散る音だけだった。江差の海も積丹の海岸線もその美しさと荒々しさは都会育ちの正樹に彼の生ぬるさを悟らせるだけだった。凍てつく海に降り注ぐ雪は見ているだけでも全身が凍りついた。正樹の北海道への憧れはその自然の厳しさの前では身動き一つ出来ないほどとてもやわなものでしかなかった。都会育ちの憧れは極限の蝦夷の地ではまったく通用しそうになかった。ただ気まぐれにやって来ては通り過ぎて行く観光客のそれと同じでしかなかった。八雲の吉田農場で働くまでの残されたわずかな時間で何とか自分自身を叩き直さなければならないと切実に感じる正樹であった。白と黒の凍てつく海と正樹は何度も何度も向かい合っていた。



国費留学生

 おそらく正樹は高校を出た時点では日本一の金持ち青年だったに違い。高校時代は新聞屋の二階に住み込み配達をしながら高校へ通ったからだ。毎月の給料からわずかばかりの食費を払い、残りは無駄遣いをすることもなく、すべて貯めていたものだから相当な貯えになった。大学をあきらめた正樹にとって、八雲の吉田農場で働く前の北海道旅行はそれこそ贅沢をして一流旅館を泊まり歩いても尚余るほどであったが正樹は北海道に来るのにも時間のかかる急行列車に乗ったし、宿泊にも安く泊まれるユース・ホステルを好んで利用した。しかも二泊目からは掃除でも何でもするからとペアレントさんを拝み倒して泊めてもらったりもした。布団部屋でもいいので泊めて下さいと申し出たことも一度や二度ではなかった。炊事、洗濯、掃除、何でもしますからと無理を承知で何泊も泊めてもらった。運が良い時はバイト代もおちょうだいすることが出来た。もう、以前のような、恥ずかしくて道を尋ねることも出来なかった初な青年ではなかった。しっかりと正樹は図々しく成長していた。居心地が良いと一週間でも二週間でも連泊した。特にきれいなおねえさんがいるユース・ホステルは追い出されるまで居候を決め込んで動かなかった。北海道のように厳しい自然の中に入ると人々の心の温かさがちょっとしたことでも身にしみるものだ。この旅行を通して正樹は厳寒の地に根を張り住む人たちの心の温かさを実感することが出来た。洞爺湖が女なら支笏湖は男だ。洞爺湖のやわらかさと支笏湖の荒々しさからそう感じた。阿寒湖のにぎわいと人を寄せつけない霧の摩周湖。どちらも神秘的で湖は透き通っていた。美幌峠からの屈斜路湖の大パノラマは息を呑むほど雄大で美しかった。天人峡の羽衣の滝はその見事さに言葉を失い、何時間も見とれてしまった。日本海から突き出た利尻富士はとても威厳があり勇ましかった。訪ねてみると結構いろいろなものがあった襟裳岬、まだ紫色のラベンダーの花は咲いていなかったが富良野の広々としたお花畑。風連湖の数万羽の白鳥たち、函館の百万ドルの夜景はその名のとおりの価値のあるものだったが、あまり知られていない藻岩山からの夜景も函館に負けてはいなかった。札幌にある商店街の狸小路は庶民的で入りやすかったが、もう一つのススキノはどこかお高くとまっていて正樹には取っ付きにくかった。もちろん歓楽街の敷居は高過ぎて、どこのお店にも入ることは出来なかった。札幌の赤レンガの道庁本庁舎は父の兄、正樹にとっては伯父にあたるお人が勤務していた場所だ。正樹にとって北海道という地はまったくの無縁ではなかった。正樹はその伯父さんとは一度も会ったことがなかった。正樹が生まれる前に病に罹り、父が遠路はるばるやって来て、背負って家まで連れて帰った。しかし、もう再び北海道には戻ることはなかったという話を聞いたことがある。その亡くなった伯父は横浜の大学を出て道庁に勤めた。父は父で千葉の大学を出たし、そして兄は最高学府に在籍している。家族はみな良く出来るのに正樹一人だけが受験に脱落してしまった。なんとも面目のないことである。
 札幌からバスでちょっと入った所に中山峠がある。北海道は内地の人がおもうほど雪は多くはないのだが、ただ場所によっては雪の吹きだまりができる。中山峠はそんな雪の多いところだ。冬場は札幌から近いせいもあり、スキーのメッカとなって若者たちで大いに賑わう。正樹は北海道を巡り巡って、この中山峠のユース・ホステルで皿洗いをしていた。ボンボンというフィリピンからの国費留学生と一緒に肩を並べて皿洗いをしていた。ボンボンは学校の休みを利用して正樹と同じように北海道中を回っていた。ボンボンは東京にある教育の大学にフィリピンの国費でもって留学している超エリート学生だった。国費留学生たちはその国を代表する頭脳集団と言っても過言ではないだろう。実際、ボンボンも天才だということが正樹にもすぐ分かった。彼は非常に頭が良く、英文の本を一度読んだだけでその内容を完全に頭の中に入れることが出来る本物の天才だった。本の見開き二ページを写真のようにして頭の中にどんどん入れていく才能の持ち主だった。正樹は彼と皿洗いの合間や食事をしながら話をした。ボンボンに正樹は言った。
「ボンボン、アフリカで医療活動をしたシュバイツアー博士を知っていますか?僕は彼にとてもあこがれているんですよ。」
「ええ、知っていますよ。彼は実にすばらしいお医者さんです。以前、本で読んだことがあります。日本では野口英世とシュバイツアー、この二人の偉人は小学校の教科書にちょこっと載っていますよね。日本語を勉強する時に府中の日本語研修所でその教科書を拝見したことがあります。」
「僕は本当は医者になりたかったんですがね、学力もお金もありませんから、学校の先生になろうとしたんです。障害者の先生になら簡単になれるだろう、くらいのいい加減な考えで受験に望んだんですがね、ところがまったく僕には歯が立ちませんでしたよ。とんでもない勘違いでした。完全に失敗しました。結局、大学には入れてもらえませんでした。」
「それで、正樹さんはもう夢をあきらめてしまったんですか?」
「いえ、完全にはまだあきらめてはいません。北海道の農場で働くことになっていますが、これからも勉強だけは続けていくつもりですから。」
「そう、それはそうした方が良いでしょうね。働きながらでも勉強は続けた方がいい。医者か、そうね、日本では確かに医者になるのは難しいかもしれませんね。でも、正樹、ごめんなさいね、そう呼んでもいいですか?」
「ええ、もちろんかまいませんよ。そう呼んでくれた方が親しみが湧きますからね。僕もボンボンと呼びますから。」
「私には分かるんですよ。正樹は頭がとても大きいですよね。きっとその中には脳みそがたくさん詰まっているんですよ。まだ開発されていない脳みそが眠ったままの状態になっているんだ。」
「そう言われても頭が大きいのはあまりうれしくありませんよ。見た目も良くないし、ヘルメットも帽子もサイズがないから、探すのが大変なんですよ。」
「いや、そうじゃないんだ。私は正樹ならきっと良い医者になれると言いたかったのです。」
「まあ、そう言われると嬉しいですけれど、でも何か引っかかりますね。」
 正樹は皿洗いの仕事や朝食の下準備を終えて、二人の寝場所であった布団部屋で夜遅くまでボンボンと話をするのがとても楽しかった。毎晩、ボンボンの口から次から次へと出てくるフィリピンの話に真剣に耳を傾けた。それは日本とはまったく違った文化であり、正樹の知らない別の世界だった。日本という小さな島国だけで育った正樹の考え方は明らかにボンボンの世界的な視野の広さよりも劣っていたし、あまり型にはめ込まないで物事を考える彼の頭の柔らかさは大らかで素晴らしいものがあった。ボンボンは正樹に日本で医者になることが出来ないのであれば、フィリピンに来て医者になればいいではないかと助言した。
 そんなある日、ボンボンが自慢げに見せてくれた一枚の写真、ボンボンの家族が写っている小さなスナップ写真が正樹の人生を大きく変えてしまうとはこの時の正樹には知る由もなかった。その写真には正樹が今までに見たこともない、テレビや雑誌も含めて、とにかく、これまでにお目にかかったことがないような美しい少女が微笑んでいたのだ。正樹はその少女の笑顔を見た瞬間、周りのもの全てが止まってしまった。その様を何と表現すればよいのか適当な言葉が見つからなかったが、心の奥深いところからふつふつと湧き出すその感情は恋と呼ぶものに違いなかった。しかし正樹はそのことをボンボンに打ち明けることも、その少女が誰なのかということも聞くことすら出来なかった。
 次の朝、ボンボンは急に東京に帰ることになり、別れ際に彼は正樹にこう言い残した。
「正樹、いつかあなたに僕の国を案内してあげますよ。あなたの医者になりたいという希望は僕の国ではきっと叶えられますよ。僕には分かりますよ、あなたは力のある人だから、努力次第で医者になることは十分可能です。あなたが話してくれた障害者の為の農場は実にすばらしい発想ですよ。でも彼らは働く場所と同時にまた医者も必要としていることも忘れてはいけないとおもいますよ。農場の経営者が教育者であり、そして医者でもあったら、それに越したことはないじゃないですか。それだけあなたは彼らと喜びや悲しみを分かち合うことが出来るということではありませんか。」
 まるで大波が引いた後のように、ボンボンは中山峠のバス停から姿を消してしまった。道の両側には五メートル位はあるのではないかとおもわれる雪の壁が続いており、正樹はしばらくボンボンを乗せて走り去ってしまったバスのタイヤの跡を見つめていた。
その夜、正樹は皿洗いを終えた後、独りで布団部屋に戻り、ボンボンが見せてくれた写真の美少女のことを考えながら眠った。しかし残念ながら夢の中にはその少女は現れなかった。


八雲

 八雲は酪農の町だ。いたる所にサイロが立っている。正樹は八雲に着くとまず安いアパートを探した。駅前にあった不動産屋の爺さんが紹介してくれた部屋は北国だというのにとても簡単な造りになっていた。安っぽい薄緑色のペンキで塗られた壁、壁といってもベニヤ板二枚を重ねただけのシンプルなもので、所々が擦り切れて白っぽくなっていた。昔の開拓時代の人々でもここよりはもっとましな小屋に住んでいたに違いない。それでも正樹は高校時代に住み込んでいた新聞屋のたこ部屋の二畳よりはまだましだとおもった。広さはいっきに倍以上の四畳半になるからだ。家賃も文句なく安かったし、正樹は迷うことなく爺さんに言った。
「お願いします。ここをお借りしたいのですが。」
「そうかね、で、いつからお入りになりたい。」
「出来れば今夜からお願いしたいのですが?」
「今夜かね。まあ、大家さんに聞いてみないと何とも言えないが、見たとおりのままだがそれでもいいのかね?」
「ええ、結構です。」
「それじゃあ、とにかく事務所に帰って大家に電話してみるかね。まあ、もう何年も借り手がなかった部屋だから、問題はないとはおもうけれどね。」
 二人は駅前の机一つしかない爺さんの店に戻り、話を進めた。大家は前金で一年分払ってくれれば、保証人も敷金も要らないとのことだった。正樹は即決し、その場で全額を払い賃貸契約を交わした。
 塒を確保した後、数えるほどしか店がない駅前の商店街を歩き、簡単な調理もできるコンロ型の石油ストーブを購入した。このストーブは本当に役に立つ優れ物でご飯を炊いたり、ラーメンを作ったり、鍋物も豪華に調理出来た。調理をしながら部屋も同時に暖まった。ヤカンをかけておけば部屋が乾燥することも防げた。安い部屋は隙間だらけ、しかしそれなりに利点はあった。窓を閉めたままで換気扇がなくても部屋の換気をする手間が省けた。北国の家はどこでもそうだが寒さを防ぐ為に窓は二重になっている。このぼろアパートの窓もすべて二重になっていた。正樹は窓と窓の間に食料品を置いて冷蔵庫代わりにした。風呂は近くに銭湯もあったが、少し離れたところに町民プールがあり、そこのシャワーを利用した。銭湯よりも安かったし、まだ新しく完成したばかりの町民プールはとてもきれいで気持ちが良かったから、正樹はそこを使う度に得をした気分になった。ただ、しっかりと頭の毛を乾かさないと大変であった。アパートに帰り着く前に髪の毛はバリバリに凍りついてしまうからだ。安アパートのトイレと流しはもちろん共同で夜間は水が出ない。管理人が夜になると水抜きをして水道の元栓を閉めてしまうからである。水道管が寒さで凍りつき破裂するのを防ぐ為だ。正樹は北海道に来て知ったことだが、洗濯機も水道と同じように夜は水抜きをしておかないと翌朝凍ってしまって使い物にならなくなってしまう。
 アパートの名前は「緑風荘」である。壁は剥げ落ちた緑色のペンキ、あちらこちらから隙間風、まことに緑の風とはよく言ったものである。このアパートの半分以上の部屋を一つの家族が占領していた。子供が生まれる度に一部屋ずつ増やしていったらしい。たくさん子宝に恵まれた奥さんは少々太めだがとてもやさしい人で、おまけに少し美人だった。正樹はその奥さんと廊下ですれ違う度にこんな所に居てはいけない人だと心底そうおもった。正樹はその奥さんに秘かに憧れを抱いていたのかもしれないが、ただそれはそれだけのことで、その後も何も起こりはしなかった。しかし同じ屋根の下にその奥さんがいるだけで正樹は少し幸せだった。玄関のすぐ横の部屋にいる小指のないお爺さん、もう現役ではないとおもうのだが、長い間、任侠の世界を渡り歩いてきたお爺さんは歩き方が偉そうで反り返っている。風を切って歩くそのお爺さんが雪道で転ぶのを正樹は目撃してしまった。雪道はもっと重心を低い位置に置かないと危険なのである。もちろんそんなことはお爺さんに面と向かって忠告などは出来ない。誰も注意してあげないから、そのお爺さんはその後も何度も転んでいた。恐い顔をしているが気立てはとても良く、どんなに赤ん坊が夜中に泣いていても怒りはしなかった。ただ若者が深夜に掃除機をかけた時は大変だった。ドンドン、ドンドンと若者の扉はノックされ、アパート中に聞こえるくらいの大声で何度も若者をどやしつけた。まがったことが大嫌いなのである。隣の住人はスナックの雇われマスターだったが店がなくなると同時にいなくなった。深夜、何度か酔っ払って話をしに押しかけて来たが、あまりにも世界が違いすぎて話を合わすのが大変だった。マスターがいなくなって正樹はほっとした。その後に隣に越して来たのは女子大生らしき女の子だった。らしきと言ったのは近くに女子大がなかったからだ。列車で通うといっても何でわざわざ何時間もかけて通う必要があるのか理解が出来ない。でも、本人は短大に通ってますと引越しの挨拶に来た時にハッキリと言っていたので女子大生ということにしておこう。彼女が隣に越して来てからは正樹の唯一の娯楽機器であったラジオはイヤホンで聞くようにした。出来るだけ音をたてずに息を殺す生活が始まってしまった。おならも座布団をあてがって消音するようにした。なんだか住み難くなってしまった。ベニヤ板が二枚だけの壁は隣の部屋の様子が筒抜けで彼女が帰宅すると正樹はドキドキの状態になった。意識するなという方が無理な話で、大体、こんなアパートに若い女性が独りでいる方がおかしいのであって、聞き耳を立てるな想像するなと言う方が間違っている。思い出すのに苦労するくらい何の特徴もない顔立ちをした女の子だったが、常に気になる存在であったことには間違いなかった。正樹はまだ異性と面と向かって話が出来るほど成長していなかった。奥手だったのだ。だから、彼女がアパートを出て行くまで話をすることが出来なかった。
 仕事は朝の暗いうちから牛たちの世話だ。もっとゆっくり寝てればいいものを何故か牛たちの朝は早い。基本的に餌を与えて、搾乳、掃除、夏場はサイロにデントコーンを砕いて入れる。それは漬物作りと同じだ。実際に食べてみると確かに漬物と同じ様な酸っぱい味がする。牛たちの大好物である。だからサイロを見たら大きな漬物の瓶だとおもえばいい。干草もたくさん牛舎の二階に貯えておかないと長い北海道の冬は越せない。農場の生活は実に単調な毎日であった。来る日も来る日も同じことの繰り返しだ。夕暮れ時に人も車もすれ違わない道をアパートに向かって歩いていると正直なところ寂しかった。どうしようもなく人が恋しくなってくる。何で自分は北海道にいるのだろうかと自分自身に問い直してしまう。でも体が疲れきっていて、その答えを出す前に眠ってしまうのだった。知り合いの農家から安く手に入る玉葱だけの味噌汁はとても甘くておいしかった。味噌汁の具は豆腐でもワカメでもなく金のかからない玉葱に定着してしまった。油が飛び散って後片付けが大変なジンギスカンを部屋の中でやる時は畳いっぱいに新聞紙を敷き詰める。しかし食べ終わった後でいつもおもうことだが、もう二度とジンギスカンは部屋の中ではやるまいとおもう。でもスーパーに買出しに行くと、前列に陳列されている丸く切りそろえたマトンの肉は牛肉や豚肉よりも安いのでまた買ってしまうことになった。深夜のNHKの連続ラジオドラマは真剣に聴いた。テレビがなかったからだ。そして作業を終えて農場で仲間と見る相撲中継は一番の楽しみだった。どれも些細なことだったけれども正樹にとってはなくてはならないことだった。農場の人たちもみんな親切で良い人たちばかりだった。何も文句があるわけではなかった。しかし、何故か正樹の心には寂しさが募っていった。吉田農場での仕事にもすっかり慣れ、素朴な人々に囲まれて正樹はとても幸せだったのだが、農場ではいつも隅っこにいた。都会育ちの正樹にはやはり馴染めず、気がつくとひとりぼっちの自分がいた。背中がゾクゾク震えるような感動が正樹は欲しかったのだ。そんな暮らしが何ヶ月も続いた。正樹は次第に中山峠で会った留学生のボンボンの話を考えるようになっていた。ボンボンが見せてくれたあの一枚の写真、ボンボンの家族が写っている小さなスナップ写真は正樹の心の中で大きくクローズアップされてきていた。きっと家族を大切にする国民性があるのだろう。ボンボンはいつも遠く離れた家族のことを考えているようだった。正樹のまったく知らない何かあたたかい世界がそこには広がっているようだった。その写真の中の小柄で色白の中国系の顔立ちをした少女、スペインの血も混じっていそうな美しい少女のことがどんどん正樹の心を占領し始めていた。何度かボンボンとは手紙のやりとりがあったが、その少女が誰なのかを聞くことは出来なかった。ボンボンが中山峠で別れ際に言ったように誰しもが健康でより豊かに日々を過ごしたいと望んでいることは確かなことだ。それは障害を持った者も同じで、障害者と一緒に暮らせる農場を造るという目標は素晴らしいことだと正樹は考えている。と同時に正樹は医者にもなりたいという願望が再びふつふつと沸き起こってきていた。また一方で写真の少女にも会ってみたいという願いもどんどんと膨らんできていた。それはもう抑えきれない、何か、運命的なもののように正樹にはおもえてきた。もう運命だとか愛だのと考えるようになった者には周りの人間が何を言っても聞こえはしないものだ。そんな状態に正樹は日一日となりつつあった。


花子

 八雲は雪が少ない所だが、その夜は何年かに一度の大雪だった。
「おーい、正樹。起きろや。」
 突然、ぼろアパートの正樹の部屋のドアがノックされた。寝ているだけでは指のないお爺さんに叱られる訳がない。ドンドンと叩く音がまだ部屋中に響き渡っている。正樹は何の用があるのだろうかといぶかしく思いながらゆっくりとドアを開けてみると、吉田農場の玄さんが廊下に立っていた。玄さんはおとなしい人だ。毎日もくもくと吉田で牛たちの世話をしている。彼が怒ったところを正樹は今までに見たことがない。本当に牛たちを可愛がって飼育していた。その玄さんが呼吸を整えながら話し出した。汗びっしょりになった玄さんの額はただならぬ事態が起こっていることを正樹に感じさせた。
「生まれそうなんだよ、花子が、正樹、手伝ってくれや。」
吉田農場には出産予定の牛が何頭もいた。その中の花子が急に産気づいたらしい。予定日よりも大分遅れていたからみんなで心配していた牛だ。皆で交代で泊りこんで様子をみていたのだが、その夜はたまたま玄さんの番だった。
「先生に電話をしたんだが、出ないんだよ。留守かもしれんが、正樹、ちょっと行ってみてきてくれや。」
 獣医の先生が留守らしいのだ。玄さんは正樹の返事を待たずに話を続けた。
「もし、先生がつかまらん時は二人でやるから、すぐ牛舎に戻って来いや。頼むぞ。」
 玄さんはそれだけ言うと、すぐに向きを変えてアパートの玄関から出て行ってしまった。
窓から外を覗いてみると、積もりに積もった雪をかき分けるように玄さんが帰って行く姿が見えた。
 雪道を走りながら正樹は興奮していた。牛の出産に立ち合うのはもちろん初めての経験である。玄さんは十年近く吉田農場にいる人で、ベテランである。その玄さんがあんなに慌てていたんだ、やはり、牛の花子の様子は深刻なのだろうか。普段なら獣医さんがいなくても玄さんは落ち着いている。さっきの玄さんの顔はいつもと違った。そんなことを考えながら正樹は走った。喘息持ちの正樹は少し走っただけでも息が切れた。何度も足を滑らせて転んだが、花子のことが心配ですぐ起き上がった。予想していた通り獣医の先生は診療所にはいなかった。何度も呼び鈴を鳴らしたが誰も中にいる気配はなかった。先生にすぐに吉田に来てくれるように置手紙を書き、風に飛ばされないように引き戸の間にしっかりと挿んだ。長居は無用である。早く玄さんを手伝わなくてはならない。正樹は無我夢中で走った。出産は牛も人間も同じ生き物なのだからそんなには違わない。正樹は中学の時に妹が生まれたので出産の流れは一応は頭に入っていたし、酪農に関する本もたくさん読んでいる。それでも玄さんの手伝いが出来るのかどうか疑問だった。さっきアパートを出た時には止んでいた雪がまた激しく降りだしていた。吉田農場の入り口にある電柱の街灯に照らし出されて雪は音もなくしんしんと降り続いている。幻想的な光景だった。その夜は本当に大雪だった。正樹が牛舎に着いた時にはもう花子は横たわっていて、花子の周りの干草は破水した水でびしょびしょだった。玄さんが神妙な顔をして立っていた。正樹は花子から小さな足がのぞいているのを見つけた。
「玄さん、足が出ていますね。」
「ああ、そうだ。先生はいなかったのか?」
「ええ、留守でした。すぐ来てくださいと置手紙はしておきましたが。」
「そうか、すまんかったな。でも、もう間に合わんな。二人で子牛を引き出すぞ。正樹、そこにあるゴム手袋をはめてわしの横に来てくれ。」
「分かりました。弦さん、花子は逆子ですか?」
「ああ、そうだ。でも牛の場合は頭が先でも足が先でもどっちでもかまわん。ただ、花子の子供はへその尾が首にからまっているみたいだな。途中で引っかかってしまっている。」
「引っ張るぞ、正樹、このままだと花子も危ない。いくぞ。」
二人はおもいっきり子牛の足を引っ張った。
「せーの、せーの。もう一回、せーの。」
 花子も玄さんもそして正樹も汗びっしょりだった。牛舎は湯気でムンムンしていた。何度も何度も引っ張ったが、現実はテレビドラマのようにはうまくいかなかった。二人の必死の願いも空しく引き出された花子の子供は死産だった。この夜の出来事は正樹にとっては悲しい思い出となって心にくっきりと残ってしまった。ベテランの玄さんは少しも動揺した様子を見せずに死んでしまった子牛の処理をさっさとしてしまった。一言も言い訳めいたことは言わずにただもくもくと後始末をしていた。後で聞いた話だが、その夜、玄さんは酒を浴びるほど飲んだそうだ。何も言わなかったが、玄さんの後ろ姿には花子の子供を救えなかった無念さがにじみ出ていたと皆が言っていた。やっぱり一番辛かったのは玄さんだったと正樹は思った。
 北海道に来てからも正樹は勉強だけは続けていた。牛舎から安アパートに戻ると、テレビがなかったせいもあるが、何もすることがなかったので勉強を続けていた。それは同志館の仙波の影響も大きかったのかもしれない。仙波は現役で私大に入ってからも、第一志望だった広島の大学を三年間も合格するまで試験を受け続けた。そんな仙波がかっこ良く思えたからだ。パチンコや酒にもまったく興味がなかった。そして勉強を続けた一番大きな理由は正樹には友達が一人もいなかったということだ。そんな寂しい一人暮らしから早く抜け出す為に一生懸命に勉強をした。そして翌年、正樹は北海道にある大学に合格した。吉田農場の人たちはそんな正樹の成功を素直に驚き、喜んでくれた。ところが受験が終わってしばらくすると、正樹はまだ何かが物足りなかった。再び中山峠で出会った留学生のボンボンの言葉が頭の中で激しく回転し始めていた。
「正樹、そんなに医者になりたかったら、フィリピンに来なさい。フィリピンで医者になったらいいではありませんか。学費も安いし、試験だって簡単だよ。フィリピンで医者になってから、世界であなたを必要としている所に行けば良いではありませんか。フィリピンで医師の資格を取っても日本で医者になることは難しいかもしれない。でもアフリカやアメリカへ行く道は開けるとおもいますよ。正樹、世界は広いのですよ。」
 そのボンボンの言葉が一時も頭から離れなかった。医者になりたいという正樹の願望はどんどんと大きくなっていった。


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