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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第18回   東洋一
東洋一

 沖縄やタイ、そしてフィリピンなどにはベトナム戦争で爆発的に発展した街が幾つもある。休暇中の軍兵士の娯楽を提供する場所となった通りが幾つも存在したのだ。ベトナム戦争が終わって、それらの街の幾つかは今度は日本からの買春ツアーの餌食になってしまった。どんどんお金持ちになっていく日本と、どんどん貧しくなっていくフィリピンの接点では貧困から売春に走る少女たちが増え、その少女たちを買うために日本の男たちは団体でツアーを組んでフィリピンに出かけて行った。
 フィリピンの憲法には母の生命と受胎からまだ誕生しない胎児の命も等しく保護するという記載があり、フィリピンは世界でも唯一どんな条件でも人工妊娠中絶が認められていない国である。このような崇高なモラルの規制は非常に重要であり、存続し続けてほしいものだが、同時に妊娠中絶が許されない為に日本人男性の身勝手な行動から誕生せざるをえなくなった日比混血の子供たちが存在しているのだ。そしてヨシオも路上で物乞いをしたり、タバコや新聞を売ったり、夜はレストランの前で客の車が盗まれないように見張りをしたりして生計を立てているジャピーノであった。ジャピーノとはジャパニーズとフィリピーノの混血児のことで、日比混血児(JFC)の呼び方よりも一段と差別的な呼び方である。
警官がとうもろこしを売るための手製のリヤカーの上で疲れきって眠っていたヨシオを蹴り上げた。
「おい、汚ねえの、早く起きろ!大統領閣下様が今ここをお通りになる。おまえみたいに汚いのは、とっとと、どこか見えない所に消え失せな!」
 ヨシオはポケットから昨日稼いだばかりの小銭を取り出してその警官に差し出した。路上生活にも縄張りがあり、仲間やマフィアへの上納金や警官たちにもピンハネされるから、幾ら稼いでもほとんど手元には残らない。だからいつまで経ってもその日暮らしの生活のままだ。ゴミ置き場で母親と一緒にゴミを拾って生活していた方がまだましだったかもしれないとヨシオは時々おもう。しかしヨシオはチャンスを待っていた。人間としてのプライドは去年、東洋一のスラム、ゴミ捨て場スモーキー・マウンテンで母の死とともに捨ててしまった。誤って母がゴミ置き場で注射器を踏んでしまい、運悪くその時にエイズに感染してしまった。ヨシオは世間様が大切にするプライドなんか、もう母と一緒に葬り去ってしまっていた。どんなにバカにされてもいい、いつかきっと自分を捨てた日本人の父親に仕返しをしたかった。そしてヨシオは金持ちの日本人観光客から金を奪いとることに生きがいを感じていた。ヨシオは警官に蹴られた横腹の痛みを堪えながら細い路地に消えていった。間もなくして、2台の白バイが冷ややかなサイレンを鳴らしながら敬礼をして立っている警官の前を通り過ぎた。続いて黒塗りの高級車が何台も敬礼をしたままの警官の前をゆっくりと通り過ぎて行った。マルコス大統領が東洋一の歓楽街を通り過ぎた瞬間であった。
 農村部で暮らす人々が地方の貧困から逃れるために都市に移って来るのだが、慢性的な職不足のマニラでは仕事は見つからない。したがってマニラには至る所にスラムが形成される。フィリピンは一握りの地主と少しのエリートの国だ。植民地時代からの土地所有関係はフィリピンの貧困の原点であり、マルコス大統領の農地改革も米とトウモロコシの地帯だけで、砂糖やマニラ麻、タバコなどは対象外だった。伝統的な大農園や外資系のプランテーションはそのままで、苦しい暮らしを強いられる小作人や土地なし農業労働者はその耐え難い生活から逃れるためにどんどんと大都会のマニラに流れ込んで来ていた。フィリピンの産業構造は工業化を欠いたものだったから、人口の増加に雇用が追いつかず、大都市マニラは次第にスラム化してしまった。ヨシオの母も農村からマニラに出て来たのだが、結局、職が見つからずにスモーキー・マウンテンに住みついた。
 スモーキー・マウンテンとは東洋一のスラムで、元は漁村であったが大都会マニラのゴミの投棄場所となり、毎日、ゴミが運ばれ続けて大きなゴミの山が出来上がった。ゴミが自然発火して常に煙を上げていることからスモーキー・マウンテンと呼ばれるようになった。職のない男ほど性質の悪い生き物はいない。日がな一日タバコを吸ったり、酒を飲んだり、働きたくても働けない欲求不満は時として暴力となって女子供に降りかかってくる。ヨシオの母も夫の暴力から逃げるように「置き屋」に入り、日本人の観光客に買われるようになった。ヨシオのことを生んでから、間もなく、性質の悪い性病にかかり「置き屋」を追い出されてしまった。再び、スモーキー・マウンテンに戻り、ヨシオが7才の時にゴミの中に紛れ込んでいた注射器をうっかり踏みつけてエイズに感染してしまった。そしてたった一年のウィルスの潜伏期間で発病し死んでしまった。独りぼっちになったヨシオは母と父が知り合った東洋一の歓楽街で路上生活を始めたのだった。
(この東洋一の歓楽街は、後になって売春に反対するマニラ市長によって閉鎖され、また東洋一のスラム、スモーキー・マウンテンも40年経ってやっと国家の恥部として撤去された。だから現在はこの二つの東洋一は存在していない。)
 ヨシオには誰一人として頼る者がいなかった。死んだ母は自分の家族の話をヨシオには一切しなかった。ただ父親が日本人であることだけはよく聞かされていた。学校などは一度も行ったことはなかったし、寝る場所も商店がシャッターを閉めた後の路上にダンボールを敷いて眠った。日本からの売春ツアーが激増した頃、今まであった「置き屋」の数では客を捌ききれなくなって、荒手の移動式「置き屋」も出現していた。移動式「置き屋」とは大型のバスのことで、バスの中には女の子がたくさん詰め込まれていて、ヨシオはそのバスの中から客と女の子がどこかへ消えていくのを毎晩のように見ていた。ヨシオはタバコ売りや新聞売り、そして車の見張り番の仕事に加えて、先月から「置き屋」の見張り番も始めた。そこは古典的な「置き屋」でどこから見ても普通の民家と何ら変わりはない家だが、ただ違うところは入り口には常に見張り役の男どもが待機していることだ。ヨシオはその見張り役の男どもに不審な人物や顔見知りではない警官が近づいたら、いち早く知らせる仕事も始めたのだった。しかしその仕事は幾らにもならなかったが、運よく客を連れて行くことが出来ると金になった。ヨシオは子供ながらにしてポン引きも始めたのだった。鼻の下が長い日本人観光客は絶好のお客さんだったから、ヨシオは日本人の後をしつこくつけまわすことを覚えた。

 ボンボンと渡辺社長はこの東洋一の歓楽街のど真ん中にそびえ建つ大きなホテルに部屋をとった。まだ新しいこのホテルには昼過ぎから何台も何台も大型バスが滑り込んで来ていた。朝早く日本を出発した日本人観光客がどんどんとこのホテルの中に吸い込まれていたのだった。
「ボンボン、凄いな、このホテル。客は日本人ばかりじゃないか。おまけにうるさい、まるで盛りのついた猫のようだな。」
「ええ、このホテルは最近出来たばかりで、まだ新しくてきれいなものですから、今はうけているようですね。台湾の資本がだいぶ入っていると聞きました。日本の旅行社の事務所もあるみたいで、日本人客が多いのだとおもいます。」
「それにしても、たいした活気だな。京都の田舎者の来るところじゃなかったかな?」
「社長、外へ食事に行きませんか?」
「そうだな、機内食はまずかったものな、よくあんなものが出せるよな。わしは一口食べてやめてしまったよ。行こう、行こう、何かうまいものでも食べに行こう。」
 体の大きな渡辺社長はちょっと外を歩いただけでも汗が吹き出ていた。
「イヤー、暑いな。もうわしは汗びっしょりだよ。何とかならんのか、この暑さは。」
「すぐそこですから、もう少しの辛抱です。民族舞踊のバンブー・ダンスを踊って見せてくれるレストランが近くにありますから、そこへ行きましょう。日本のみなさんにはとても人気があるんですよ。」
 三角屋根の入り口にはショットガンを肩から下げたガードマンが演説台のようなボックスに手をついて二人も立っていた。日本人の渡辺社長を見るとそこのガードたちはサングラスの下で笑顔になって扉を両方から丁寧に開け広げてくれた。
「グッド・アフタヌーン・サー」
 社長は頭をぺこぺこ下げて日本語で答えた。
「ああ、ありがとう。サンキュー、サンキュー。」
 二人が中に入ると、中央の舞台の上では十人くらいの民族衣装をまとったダンサーたちが軽快なリズムに合わせて器用に竹の棒の上を飛び越えたり、ステップをとったりして踊っていた。テーブルに案内された社長の目は舞台の上に釘付けであった。
「うまいものだね。よく転ばないものだね。それにあの衣装がまたいいね。女性の肩のところがとび出ていて特徴的だ。なかなかいいよ。色彩も明るくて、とてもカラフルで南国的だな。京都の芸妓たちも良いがフィリピンの女性たちも素晴らしい。」
 二人は一番奥の窓際の席に案内された。外の様子もよく見えた。
「社長、飲み物は何にしますか?」
「ビール、ビールにしてくれ。汗で水分が全部、出てしまったからな。」
 ウエイターがビールと氷をすぐ持って来た。
「食事はどうしましょうか?」
「ボンボンに任せる。わしは英語が読めんからな。うまいものなら何でもいいよ。君に任せる。」
「でも、社長、メニューには日本語も書いてありますけれど。」
「ああ、本当だ。でも、どれがうまいのか、わしにはさっぱり分からんからな、任せるよ。うまいのを頼んでくれ。ああ、そうだ、水はダメだ。生水はいけないとガイドブックに書いてあったからな。氷もいかんそうだ。そこの氷は下げてもらってくれ。よく冷えたビールと取り替えるように言ってくれるか。」
 その時、窓の外にヨシオが現われた。窓ガラスをドンドンと手で叩き出した。渡辺社長に向かって手を差し出して、お金をねだるポーズをとった。ボンボンが手でどこかへ行くように合図したが、立ち去る気配はまったくなかった。入り口のガードが慌てて飛んで行き、ヨシオを追い払った。
「ボンボン、空港からホテルに来る時もそうだったが、信号で車が停まる度に汚いガキどもが近寄って来たぞ。まったく乞食が多いな、おまえさんの国は。何とかならんのか。」
「すみません。まだまだ貧しいもので、お恥ずかしいかぎりです。」
「それにホテルからこの店に来る途中にも路上に足のない子供をわざと寝かせて、ばあさんが手を出していたぞ。あれも見苦しいな、あれは何とか国もせんといかんな。」
「すみません。」
「政府は何をやっているんだ。観光客が歩く場所ぐらいはきれいにしておくものだよ。観光客がこの国に落とす銭は大きいぞ。なあ、ボンボン、そうはおもわんか。」
「すみません。」
「おまえさん、さっきから謝ってばかりいるな。ところでこの国の失業率は高いのだろうな。どの位かな?」
「さあ、どの位だか、知りませんが、発表された数字よりも、さらに高いことだけは確かだとおもいますよ。」
「それじゃあ、観光業は政府も力を入れている訳だ。外貨を獲得する手っ取り早い方法だからな。」
 渡辺社長は舞台の上のダンサーを指差しながら、ボンボンに言った。
「ボンボン、あの子をここのテーブルに呼べんかな。」
「社長、ここはそういう店ではないので、無理かとおもいますが、後で、いろいろな店を案内しますから。」
「そうか、じゃあ、仕方がないか。ボンボン、わしは食事が済んだら、少し部屋で休みたいな。長旅で少し疲れたからな。少し横になって元気になってから案内してくれ。」
「はい、分かりました。」
 ホテルに帰る途中にさっき社長が言っていた老婆が確かにいた。障害を持った子供を路上に寝かせて物乞いをしていた。ボンボンはその老婆に社長に気づかれないようにそっとお金を渡した。
 ホテルの部屋に社長を送ってから、ボンボンは自分の部屋には入らずに下のロビーの横にあったカフェでしばらく休むことにした。ボンボンは渡辺社長をマニラに連れて来た自分自身を責めていた。
「これでは自分はまるでポン引きと同じではないのか。」
 ボンボンは自問自答を続けていた。しかし、仕事がどうしても欲しい。何でも良い。社長の思わせぶりな言葉が頭から離れない。どんな形であれ、仕事がこの国で根付けば多くの人々が助かるわけだから、今は辛抱するしかないと何度も心の中で繰り返していた。自分は国費でもって勉強してきて、この国のリーダーにならなければいけないはずだ。だが今自分がしようとしていることは自分の国の少女を心無いスケベおやじに売る手伝いをしているだけだ。今の自分より、スモーキー・マウンテンでゴミを拾って健気に生きている子供たちの方がはるかに純粋で人間的ではないのか。ボンボンは大きなため息をついてしまった。この国は悲しいことが多すぎるのだ。みんな自分に言い訳をしながら生きている。家族の為に犠牲になることで神様に言い訳をして売春をしている少女が多すぎる。クリスチャンは売春をすると地獄に落ちると教えられる。家族の為だと考えることで神に救いを求める。そして貧しい連中に金を恵んでやるのだと勝手な言い訳をしながら買春を正当化する獣たち、みんな、言い訳をしながら生きているとボンボンはおもった。以前、「売春」という商売は紀元前から存在するとボンボンは何かの書物で読んだことがあった。今後も絶対になくならない商売だと、誰もが口を揃えて言う。下手に規制するから悪い奴らがそこに付け込んで悪事を働くのだという意見もある。いっそのこと公の機関が「売春」を管理すれば良いという過激な意見もある。しかし、幼児や少女売春は論外でそれは人権問題だとはっきり断言出来る。地道に働いても幾らにもならないので、手っ取り早く儲かる道を自分から進んで選んで売春する場合と、どうすることも出来ない貧困から仕方なく売春に至ってしまう場合でも問題は大きく違ってくる。男と女の出会いは様ざまだ。日本ではまったく女性とは縁がなかった中年男性がスラムで暮らすことが嫌な女性と知り合って幸せになるケースも多々ある。ボンボンは日本とフィリピンの経済格差がなくなった時ならば「売買春」を肯定しても良いとおもうが、今のような経済格差を利用した買春ツアーにはやはり反対する。今、自分がこうしてコーヒーを飲んでいるすぐ上の階のホテルの会議室では部屋の中央に引かれたカーテンが取り払われて集団売春が行なわれている。その結果として、快楽による犠牲者ジャピーノたちが日増しに増えている現実はどう解釈したらいいのか、また日本人はいつから自分の血を分けた子供たちに対してこの様に冷たくあしらえることが出来るようになったのか不思議だとおもった。でもこの国は喉から手が出るほど仕事が欲しいのだ。どんな仕事でも良い、生きる糧が欲しい。たくさんの雇用を生み出す事業が何よりも必要なのだ。
 渡辺社長はこの国に興味があると言っていた。もしそれが本当ならば、職がなくて仕方がなく売春をしている少女たちに道が少し開けることになる。ボンボンは迷っていた。渡辺社長がもし他の日本人観光客と同じように、ただのスケベオヤジだとしたら、マニラに連れて来た意味がないではないのか。ボンボンは次第に暗い気持ちになってきていた。


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