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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第16回   花街
花街

 花街は女だけの社会であるからよそ者に対する警戒心は非常に強い。お客が「花街」のことをどう読むかでもって、その人間にたいする警戒心も違ってくる。花街の関係者の間では現在、「花街」のことを「はなまち」とは呼ばずに「かがい」と読んでいるから、お客の熟知度をその読み方でもって判断している。居酒屋「川原町」の女将は花柳界の出身で以前は先斗町で長い間芸妓をしていた。教養もあり芸事も超一流の腕前を持っている。居酒屋を始めてからも花街の言葉使いが時々出てしまう。またそれが居酒屋「川原町」のセールス・ポイントでもあった。実は茂木の下宿の奥さんも花柳界の出で祇園東の花街では「菊」という名でかなり人気があった芸妓さんだった。茂木の父は外交官であるが、その茂木の父の上司に口説かれて菊さんは花柳界を惜しまれつつ去ってしまった。だから茂木が世話になっている下宿の奥さんも花街の言葉を使っているのである。「・・・・どす。」とか「・・・・おへん。」の言葉使いは厳密に言うと花街の言葉であって一般庶民が使う言葉ではない。ところが映画やドラマなどでそれらの言葉が頻繁に使われだし、京都の言葉として広まってしまった結果、花街の言葉が世間一般に少し氾濫してしまったようなのである。
 居酒屋「川原町」の女将も茂木の下宿の奥さんもけっして話がおもしろいというのではないが、その受け答え方が実にうまいのである。二人ともたいへんな話の聞き上手で、話をしている方がいつの間にか彼女たちの世界に引き込まれて心地よくなってしまうのである。この才能は花街での長い修練期間、舞妓時代、芸妓時代を通して自然に身につけた話術なのであろう。身近にいる人々のせいもあるのだが、茂木は若いくせに、かなり花街のことが詳しかった。
 江戸時代に八坂神社の門前町として栄えたのが祇園町である。遠くはるばる八坂神社を参詣しに来た者たちをもてなす為に水茶屋ができたのが今の「お茶屋」さんの始まりだと言われている。茂木は下宿の奥さんの話を聞くうちに花柳界の歴史にも詳しくなってしまっていた。その水茶屋で働いていたのが茶汲女あるいは茶点女と呼ばれる女たちだ。彼女たちが舞妓さんの始まりだと言われている。お茶をふるまう程度の水茶屋が参詣者の要望も聞いたのであろうが、お茶よりも収益性の高いお酒も扱うようになったのは当然の成り行きで結果だったと茂木はおもう。やがて茶汲女が歌や踊りを見せるようになり、今度はそれを目当てにやって来る者も増えだし、商売はさらにエスカレートしていく、この時代から歌舞伎や芝居が世の中では大流行し始め、圧倒的な歌舞伎や芝居の人気は次第に舞や三味線、太鼓をお茶屋の座敷に持ち込ませることとなった、八坂神社を参詣して京の見物をする間、門前町祇園に長逗留する客の世話もこのお茶屋さんは面倒をみるようになった。そして芸事を披露する舞妓さんや芸妓を置く「置屋」さんが現われるのだ。「置屋」さんは現代の芸能プロダクションのようなもので、「お茶屋」さんに舞妓さんや芸妓さんを派遣する業務を担当するようになった。「置屋」さんと「お茶屋」さんの役割分担がどうやら長い歴史のある京都の花街をこれまで発展させてきたのだと茂木はおもう。一般的に舞や唄、そして三味線などで宴会などを盛り上げる女性たちを関東では芸者、関西では芸妓と呼んでいる。修練期間の浅い妓を総称して関東では半玉、関西では舞妓とよんでいる。そして今、その京都の花街で少し話題になっている双子の舞妓さんがいた。その千代菊と菊千代の二人は実は茂木の下宿の奥さんの娘で、茂木は二人が置屋さんに入る前から彼女たちのことはよく知っていた。「仕込みさん」という期間は半年から一年ぐらいかかるのだが、千代菊と菊千代はこの期間に舞妓になる為の芸事や京言葉、そして行儀作法を徹底的に叩き込まれた。千代菊と菊千代の二人は新しい踊りを覚える度に茂木の部屋にやって来ては自慢げに踊って見せたものだった。しかし、この期間の二人は涙が絶えず、茂木の部屋で涙がかれるまでよく泣いていたものだった。やがて、二人とも引いてくれる(指導してくれる)お姉さんが決まり、このお姉さんに連れられてお茶屋さんに挨拶まわりをした。それは二人が「見習いさん」としてお姉さんと一緒にお座敷に出られるようにするためだ。今度はお座敷での作法やお客様の接待の仕方の勉強が始まった。この頃の二人の髪は「割れしのぶ」と呼ばれる独特の結い方で、帯も短い「半だら」と呼ばれるものだった。その髪形と帯でまだ二人が見習い中であることを旦那衆に暗黙のうちに示していた。「店出し」とお披露目をして正式に舞妓さんとして二人がデビューしたのは四年前のことでした。二人の帯は普通の帯よりも長くて幅が広い「だらり」の帯に変わり、帯には置屋さんの印が縫いこまれました。しかし髪はまだ「割れしのぶ」のままで、若い舞妓さんは成熟した芸妓さんと違って紅は下唇しか塗ることが許されていません。半衿も赤い衿のままでしたが「おこぼ」と呼ばれる高下駄で歩く姿はとてもかわいらしく愛らしいものでした。千代菊と菊千代は午前中は舞や三味線、時にはおはやしの稽古で忙しく、ただ午後の休憩時間にはよく茂木の部屋にやって来ては大の字になって昼寝をしていたものでした。夕方からお座敷がある時は、念入りに支度をしてそれぞれのお座敷にでかけて行くのが彼女たちの一日でした。千代菊と菊千代は本当に瓜二つで茂木にとって千代菊の首筋にあるホクロだけが二人を見分ける唯一の方法でした。しかし舞妓の化粧をしてしまうと、そのホクロもおしろいの下に隠れてしまって、茂木には二人を見分けることがまったく出来なくなってしまいました。ただ三年前の鱧(はも)祭りの夜、一般には祇園祭と呼ばれている祭りの夜に菊千代が酔っ払って茂木の部屋へ転がり込んで来たことがあった。その時に茂木は菊千代の左のふとももの内側に大きなアザがあるのを見つけ、それが二人を見分ける新しい術と言えば術なのかもしれないが、そう簡単には見分けがつく方法ではなかったので、やはり外見からでは二人を見分けることは至難の技でした。
 千代菊と菊千代が舞妓さんになって三年目の夏に「わけがえ」と言って髪形が「割れしのぶ」から「ふくおふく」に変り、また半衿も赤から大人っぽい白の半衿に、かんざしも芸妓っぽくなった。昔はある特定の旦那が付いた時に行なっていたらしいのだが、最近では適当な年齢になると「わけがえ」を行なうのだと菊千代が以前、詳しく説明してくれた。千代菊も茂木にかんざしについて話をしてくれたことがあった。京都の人々は舞妓さんの
かんざしを見て季節の移り変わりを感じて生活しているのだと説明してくれた。かんざしは月によってさまざまで、正月は「稲穂」、二月は「梅」、四月は「桜」、五月は「藤」や「牡丹」、十月は「菊」といった具合で舞妓さんが差すかんざしは幾つもあるのだそうだ。
 一般にお座敷で舞妓さんと芸妓さんが同席する場合は舞妓さんはまだ芸が浅いので立方をおもに担当して、芸妓さんが地方を担当する。分かりやすく言い換えると、舞妓さんが舞を担当し、芸妓さんが唄ったり三味線を弾いたりするということだ。現在、京都には上七軒、祇園東、先斗町、祇園甲部、宮川町、嶋原の六つの花街(かがい)があり、ただし嶋原には舞妓さんはいませんが太夫さんがいます。京都の花街は帯を締める男衆を除けば女ばかりの世界ですから、自分たちの生活の安全のためにも多くのしきたりや決まり事があります。一番有名なしきたりは何と言っても「一見(いちげん)さんお断り」の制度だ。
どこのお茶屋さんでも、いくら偉いお人が来ても、どんなにお金があるお大臣さんでも、常連さんが紹介してくれない限り、決して初めてのお客を中へ入れることはない。どこの誰だか判らない人には一切、接待をしないのである。常連さんのプライバシーの保護だとか、また常連さんの優越感を満足させる為だとか、あるいは常連さんとの長いおつきあいを重視する為だとかいろいろな理由でもって、どんなにお客さんが少ない時でも常連さんの紹介のない初めてのお客に対してはこう言うのだそうだ。
「あいにく、お座敷は空いておりません。」
 兎に角、常連さんの紹介が必要なのである。また一方、紹介した常連さんは責任が重大で、身元保証人としてすべての責任を負うことになる。茂木はこの制度を銀行振り込みがない時代の女将の請求事務及び集金事務の賢い知恵であると解釈している。ただ、現在はお客様から芸妓さんの希望があると料亭や旅館から見番(料亭や旅館の組合)に連絡が入り、各置屋さんに手配されることもあるらしい。確かなことは茂木でさえも承知していない。もちろん客が置屋さんに直接連絡をすることは今でも出来ないはずだ。「一見さんお断り」というしきたりが今も生き続けている事実は裏を返せば常連さんを再び引き付ける魅力がこの花街(かがい)にはあるという証明でもあると茂木は結論づける。京都の花街のトップ・スターになりつつあった千代菊と菊千代を知る茂木は彼女たちを保護する為にも花街の敷居はもっともっと高くすべきだと考えているし、もっと厳しいしきたりの必要性を感じていた。哲学者茂木本人はこの花街の文化を吸収する為に学生の分際でありながら時折、それも頻繁にお茶屋さんに出入りしている常連さんなのである。彼の口座にはどれだけの貯えがあり、またどうしてそのような大金を自由に使えるのか、まったく謎の多い人物であった。
 国際的にも舞妓さんや芸妓さんは京都の顔として認識されていて、千代菊と菊千代の二人もだんだんと落ち着きとプライドが出てきたように茂木にはおもえた。京都でも双子の舞妓さんはとてもめずらしく、おまけに二人ともかわいらしいから、一晩に幾つもお座敷をこなしていた。茂木には人気絶頂の二人がだんだんと遠い存在になりつつあった。そんな頃、千代菊と菊千代も舞妓さんとしての長い修練期間を終えて、もし事件が起こらなければ、数日後には襟替えのお披露目をして晴れて舞妓から芸妓になるところだった。芸妓さんになるとかつらをかぶるので、舞妓から芸妓に変る数日間だけ自分の髪で結い上げる最後の髪形は彼女たちにとって、とても感慨深いものになるはずだったのだが、襟替えのお披露目を前にして、この人気絶頂の双子の舞妓さんは花街から、突然、姿を消してしまったのだった。


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