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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第15回   お庭
お庭


 窓の外はまだ眠ったままだ。京都東山の夜はまだシーンと暗く静まりかえっている。何も眠りを妨げるものはないというのに茂木は目が覚めてしまった。どうやらコタツに足を突っ込んだまま眠ってしまったらしい。体を起こして座り直してみると背中のあたりが少し痛んだ。これまでにも本を読みながら、そのまま眠ってしまうことはよくあった。昨夜は早苗とボンボンをどこへ案内しようかと思案しているうちに眠りに落ちてしまった。学校の図書館から借りてきた京都のガイドブックや写真集がコタツの上や下に散らばっていた。
 茂木は下宿では食事を一切とらない。夜は学校の近くの居酒屋「川原町」ですませてから下宿に帰る。朝は下宿の近くの「哲学の道」を少し散歩してから、決まって行き付けの定食屋に寄る。焼き魚と味噌汁、それにもう一品を注文するのだが、それは定食屋のおばちゃんに任せるのが茂木の朝食である。京都に居る時は雨が降ろうが雪が積もろうが、それが毎日繰り返される茂木の日課だ。新鮮な朝の空気をたっぷり楽しんだ後に食べるおばちゃんの心のこもった朝食は実にうまい。もう何年もこの定食屋に通い詰めている。茂木はこれまで自炊などしたことがなかった。
 今日は早苗とボンボンと橋の上で待ち合わせはしていない。彼らの宿泊している学校のホテルへ茂木が自分で迎えに行くことにしていた。もうボンボンのフィリピーノ・タイムに付き合う気はさらさらなかったからだ。まだ、だいぶ約束の時刻まで時間があったし、どこへ二人を案内するのかも決まっていなかったから、茂木はいつものように散歩に出て、少し考えてみることにした。それから、定食屋のおばちゃんにお弁当も頼むつもりだった。今日は三人でどこか景色の良い場所をさがしてお弁当でも食べようと、その事だけは昨夜、眠る前に決めていたからだ。
 「さゆり」と言うのがこの定食屋の屋号である。入り口の所に掛かっているのれんにそう小さく書いてある。もしもだ、おばちゃんの名前が「さゆり」だとしたら言葉を失ってしまう。それほど名前と人物との間には大きな開きがあった。決しておばちゃんの大きな体格と活発で豪快な性格をけなしている訳ではないのだが、おばちゃんを「さゆりさん」と声を出して呼びたくないというのが茂木の本音だ。茂木は女優の吉永小百合様を以前より慕い続けている熱狂的なサユリストだったからだ。
 茂木がガラガラと定食屋の引き戸を開けると店内はいつものように建設現場へ向かう前の男たちで溢れていた。どの顔も昨夜の酒がまだ抜けきれていないらしく、皆、しかめっ面で朝飯をもくもくとかき込んでいる。朝が早い彼らにとってこの店は茂木と同様になくてはならない大切な店なのである。
「おばちゃん、客が来ているんだ。おばちゃんだったら京都のどこを案内しますか。」
水と氷を入れた大きなヤカンを持って、おばちゃんがそばに来たので茂木はおばちゃんの意見を聞いてみた。おばちゃんは茂木の前を通り過ぎて隣のテーブルの客のコップによく冷えた水を入れてから、茂木の質問に答えた。
「茂木さん、誰が来とるとね。誰を案内するの?あたしは四国の生まれだけれどもここの人たち以上に京都のことは知っとるがな、京都のことなら何でもお聞きやす、だわさ。」
茂木は小声で答えた。
「大切な人なんだ。どこがいいかな?」
「誰よ、それ?茂木さんの好きな人?図星でしょう。いいわね、若い人達は。そうね、どこがいいかな、大河内山荘なんかどうかな。」
「大河内山荘?」
「そう、俳優の大河内傳次郎さんが造った山荘よ。随分と時間とお金をかけたそうよ。映画に出なはったギャラをほとんどその山荘造りにつぎ込んだそうよ。」
「その大河内山荘というのはどこにあるのですか?」
「天龍寺さんの裏です。ほら百人一首で有名な小倉山に大河内さんは山荘をお造りになったんです。天龍寺さんの北門から竹林の道を登って、突き当たったら左へ少し行くと山荘の入り口がありますよ。」
「なんだ、嵯峨野じゃないか、この前もその竹林は歩いたな、祇王寺と滝口寺の近くですよね?」
「そうそう、その近くですよ。看板もありますから迷わないとおもいますよ。茂木さんのええお人に一度はお見せしなければあきませんよ。そりゃあ、もう、きれいなお庭ですから、お連れすると必ず喜ばれますよ。」
「そんなにきれいなところなんですか?」
「六千坪の山あり谷ありの、ええと、何と言うのだっけ、回遊式庭園とか言っていましたね。ちょっと入るのにお高いですけれど、お抹茶もご馳走してくれますから、まあ、それがなくても素晴らしいお庭だから損はありませんよ。」
「大河内山荘ね。」
「ああ、そうそう、あそこに行かれたら、必ずお山の上までお登りやす。お庭は迷路のようになっていますけど、順路に従って上の庵まで行って下さいよ。」
「山の上に何かあるのですか?」
「東側の高台からは比叡のお山や東山、それに京都の町並みが下に広がって、そりゃあ、もう、きれいですよ。何ともさわやかな風が吹きよるから、ほっとしますがな。」
「そお、そんなに良いところですか。」
 茂木はおばちゃんが作ってくれた朝食をやっと食べ始めた。
「おばちゃん、お弁当を三つお願いします。特製の凄いやつをお願いします。」
「ああ、いいよ。特製弁当三つだね。ええ、三つ?二つじゃないの?」
「三つ、お願い。連れがいるんだ。それも恋敵がね。」

 茂木が弁当をぶら下げて早苗とボンボンの宿泊している学校のホテルに着くと、早苗はロビーの長椅子の隅に腰掛けて、茂木のことを待っていた。ボンボンはやはりおもった通り、まだのようであった。
「早苗ちゃん、おはよう。はい、これ、お弁当を買ってきたから、後で渡月橋でも見ながら食べましょう。」
「おはようございます。ごめんなさいね、ボンボンはまだなんですよ。まだ起きていないみたい。何度もドアをノックしたのだけれど、聞こえないみたい。」
「部屋に電話はありましたよね。」
「ええ、ありました。」
「私、ちょっと、ホテルの人に頼んで彼の部屋に電話してみますね。ちょっとここで待っていて下さいね。」
 結局、三人が百万遍の交差点からタクシーに乗ったのは昼近くだった。茂木が前の座席から振り返って二人にこれから案内する場所の説明をした。
「今日は嵐山でこのお弁当をゆっくり食べてから、嵯峨野にある大河内山荘に二人を案内しますね。嵐山と言うと山の名前でもあり、渡月橋が掛かっている辺り一帯の地名にもなっていて、京都の最も有名な観光名所の一つです。」
 ボンボンが後部座席から乗り出してきて言った。
「茂木さん、先日、龍安寺の石庭の話をしてくれましたよね。我がまま言ってすみませんが、是非、その石庭も僕は見てみたいのですが。」
「ああ、いいですよ。ちょうど良かった。通り道ですから、ちょっと龍安寺に寄ってみましょうか。あのお庭は外国の人たちにはよく知られていますね。ゼン・ガーデンとして、とても人気があるみたいですね。海外の雑誌にもよく紹介されているみたいで、知名度は抜群のお庭ですね。
 運転手さん、すみませんが、龍安寺にやって下さい。」
 車は金閣寺を通り過ぎて、立命館大学の前の「きぬかけの路」に入り、まもなく龍安寺に到着した。
「ボンボン、着きましたよ。ここが世界的に有名な龍安寺です。大きなお寺さんです。そのあまりにも有名な石庭までは少し歩きますが、少しも退屈はしませんよ。見所はたくさんありますからね。そこの山門をくぐると視界はすぐ開けて、大きなお池が目に飛び込んできますよ。鏡容池と言ってね、それはちょっとお寺らしからぬ景色が広がりますから、注意して見てくださいよ。まあ、私の下手な説明はこのぐらいにして、兎に角、中に入りましょうか。」
 三人は鏡容池を回り込むようにして歩き、石庭のある方丈へと向かった。
「元はね、ここは徳大寺家という貴族の別荘だったんだそうです。それを細川勝元が譲り受けて禅寺にしたものだから、このお池もいかにも貴族のお庭と言った感じでしょう。お池の睡蓮の花なんかも、ほら、貴族が立っている、あの花札のようではありませんか。暑い時期、睡蓮の花は白や赤、黄色いのもあるかな、このお池は見事に花で埋め尽くされます。ただ、午後になると睡蓮の花は萎んでしまうので、花を見に来るなら午前中ですよね。それからむこうに垣根があるでしょう。あの垣根もこのお寺さん独特の竹垣だそうです。厚い竹を割って菱目にして編んでありますし、それに背丈も低いでしょう。他では見られないものだから、龍安寺垣と呼ばれています。」
 三人は短い石段を上がって、方丈に出た。
「さあ、着きました。この方丈の前庭が有名な石庭ということになります。ボンボンがどんな感想を私たちに語ってくれるのか非常に楽しみですよ。早苗ちゃんは以前にもここには来たことはありますよね。」
「ええ、やはり修学旅行の時に来ました。」
「早苗ちゃんはどうだった?その時、どんな感想をこのお庭に持ちましたか?」
「ごめんなさいね、ボンボンはまだお庭を見ていないのに、間違った先入観を入れてしまうようですけれど、あたしはがっかりした記憶がありますのよ。確かにお庭と向かい合っていると心は落ち着きましたけれど、まだ中学生でしたし、先生に心で鑑賞しなさいと言われても、何も分からずに、ただ、通り過ぎてしまったようにおもいます。」
 茂木が神妙な顔になって言った。
「ボンボン、私も正直に言って、このお庭が何を語りかけているのか、よく理解出来ないでいるんだ。天才の君が直にお庭と向かい合って、ここのお庭といったいどんな会話をするのか楽しみだよ。言っておきますが、石庭は意外と小さいですよ。でも遠近法とか言う技術を用いて実際の大きさよりも少し広く見せているのだそうですよ。十五個の自然石を置いただけのお庭だよ。いたって簡素なお庭だが、謎だらけのお庭でもある。いつ誰が造ったのかさえ、いろいろな説があってまだ論争が続いている。まあ、ボンボンも写真で見て知ってはいるだろうが、石の下に苔が少しはあるけれど、草や木、そして水は一切使っていない。十五個の石を置いただけの、ただそれだけのお庭です。さてと、そろそろ中に入ろうか。今、僕らが言ったことはすべて忘れて、ボンボン自身でじっくりと石庭と向かい合って下さい。
 中に入るといつものように学生たちが大きな声で騒いでいた。
「おい、山田、お前、何個あった?幾つ石が見えた。」
「十四個だ。何度数えても十四個しかない。」
「吉田、お前はどうだ?」
「俺は十三個しか見えなかったぞ。十五個はなかったな。」
「でも、旅行委員が作ったしおりには十五個と確かに書いてあるぞ。間違いなのか?」
「間違いないよ。外の廊下のところにある説明書きにも、目の不自由な人達の為に作られた模型にも十五個となっている。変だな?」
 あまりに騒がしかったので、茂木はその修学旅行生たちを怒鳴りつける寸前だった。早苗がそんな茂木の様子を素早く感じ取ってそれを制したので、学生たちは危うく難を逃れた。
「あたしたちもそうだったわ、以前にここに来た時もああやって石の数を数えて騒いでいたわ。」
「そう早苗ちゃんに言われると、私も仲の良い友人と来た時には同じ様に騒いでいたかもしれないな。でもあんなに大声ではなかったな。まったく他の人達の迷惑を考えないのだろうかね。やっぱり、一つ、あいつらをこっぴどく、とっちめてやろうかな。」
「いいのよ、茂木さん、あたしたちも来た道じゃない、怒ったってしょうがないわ。それより見て、ボンボンを、お庭の正面にどっかりと座っちゃって、まるで禅宗のお坊さんみたいじゃない。」
 なかなか動こうとしないボンボンを見て、茂木が言った。
「ああ、本当だね。彼の周りはまるで時間が止まっているようだ。静かに座って石庭と問答をしているみたいだね。天才のボンボンはこのお庭からいったいどんな禅の無限の悟りを読み取るのだろうか。とても楽しみだよ。早苗ちゃん、私たちも座ろうか。まだ当分、彼は動きそうにないからね。」
 ボンボンと少し離れたところに二人は座って、石ころだけのお庭を眺めた。時代時代によって、この石庭の解釈も違っていたようで、十五個の石が七個、五個、そして三個と並んでいるので「七・五・三のお庭」と呼ばれたり、虎が子供の虎を連れて渡っているようにも見えたので「虎の子渡し」とも呼ばれている。実にさまざまな見方がある。お庭の入り口には、「心をご自由にお遊ばせ下さい。」とそんなようなことが書いてあることもある。
 早苗が言った。
「心で感じろと言われても、そう簡単なことではありませんよ。人生の経験がまだ浅いあたしにとっては難しいことです。どんなに長い時間、このお庭と向かい合っていたとしても何も見えてはきません。」
「私もそうですよ。哲学なんか勉強していても、何も分かっちゃいないのが正直なところです。」
 やっとボンボンが動いた。ゆっくりと立ち上がって、二人のそばに寄って来て言った。
「このお庭はきっと、世の中には完全なものなどは存在しないし、人間も同じで完全な者などいないことを暗示しているようですね。ぼくにそうお庭は話しかけてきましたよ。さっき、学生さんたちが言っていたように、この縁側のどこから見ても、十五個すべての石を見ることは出来ないとおもいますね。そのように配置されているのではないでしょうか。また十五個すべてを見る必要もはないし、見ようとしても見えはしないとお庭は言っているような気がしますね。」
 茂木と早苗はただ黙ってボンボンの話を聞いていた。
「何でもそうだが、全部を見るなんて不可能だし、見ることもない。人間どこかで満足することをしなくてはダメだと言っているようにもおもえますね。」
 茂木がハッとした。思い出して言った。
「この方丈の裏には徳川光圀、水戸の黄門様が寄進した手を洗うための石があります。その丸い石の真ん中に口という字の形がくり抜かれていて、その回りに四文字の漢字が刻み込まれてあります。確か、その流し台はつくばいとか言ったかな?本物は非公開だけれど、原寸大の複製が拝観者の為に展示されていますよ。今、ボンボンが言った事と同じ事を何百年も前に水戸の黄門様が言っておられた。つくばいに書かれた回りの四文字は真ん中の口という字と組み合わさって、こういう意味になるんだ。吾唯足ることを知る。禅の格言を黄門様が図案化して、そのつくばいを寄進したんだ。知足の者は貧しいと言えども富めり。不知足の者は富めりと言えども貧し。満足することが出来るものは貧しくとも心は富んでいるものだ。また、満足することが出来ない者は富んでいたとしても心は貧しいという禅の教義をこのお庭は無言で人々に悟らせようとしている。」
 早苗がまんまるの目をして言った。
「すると、黄門様とボンボンはこのお庭を見て、同じ感想をもったということになるわね。十五個すべての石を見る必要はないということなのね。」
 ボンボンが早苗に向かって言った。もちろん茂木も聞いている。
「もしもだよ、何かに行き詰まった人がね、このお庭と向かいあったとしたら、どうでしょうね。悩んで悩んで、もう、どうすることも出来なくなった人が、このお庭に辿り着いて、静かに石と向き合った時、僕はきっとその人は慰められるに違いないとおもうな。どこからか声がしてさ、全部の石を見ようとしても無理ですよ。見えないでしょう。それでいいのですよ。とね、人間どこかで気を抜くことだって時には必要なことじゃないのかな。僕はそんなふうにおもうな。」
 茂木もボンボンに負けじと早苗に言った。
「千人の人がこのお庭に来てさ、それぞれが千通りの解釈をしたって、それで良いのさ、それが禅の世界でよく言われる無限ということなのかもしれない。この小さな石庭という空間は無限にその解釈が広がっていって、とてつもなく大きな世界になるということなのかもしれない。そう考えてみると、凄いお庭だよね。ボンボンに言われるまで、私はこのお庭にはあまり関心はなかったけれど、完全に見直しましたね。いったい誰がこんな凄いものを造ったんだろうね。」
 早苗が答えた。
「あたしは難しいことはよく分からないから、こんな解釈しかできないは、笑わないでね。それはね、このお庭を造った人は中国から来たお坊さんで、故郷の中国の景色を形どっただけなの、毎晩、このお庭を眺めながら故郷の海や島々を思い出していたのよ。」
 哲学者の茂木が頷きながら言った。
「このお庭の素晴らしさは白砂と石だけで庭を造った趣向の斬新さですよ。すべてを忘れて、心を無にして、じっとお庭を見つめる。するとさまざまな景観が現われてくる。そして少しだけ縁側の座る位置を変えてみると、また違った世界が現われてくる。同じ石の配列なのに見る場所によってその形は無限に変化していく。そこで気づかなくてはならないことはさ、人間はある一時に、たった一つの見方しか出来ないということだよ。人間の視点というものはさ、いかに小さくて、いい加減でちっぽけなものでしかないということを悟らないといけない。難しいことを考えるとお腹が減ってくるものですね。さてと、そろそろ、嵐山に行ってお弁当でも食べましょうか。」

 三人は石庭から出て、さっき眺めた鏡容池のほとりに立った。早苗が広いお池を見ながら言った。
「あたし、さっき入る時には何も感じなかったけれど、今、またこの大きなお池をこうして見て、何だかほっとしていますのよ。あの石庭の空間にいる時はどういう訳か気持ちが張り詰めていて、無意識のうちに緊張していたみたい。だから、この大きなお池をまた見たら、気持ちがすごく和らいだみたいです。
 茂木も同感だった。
「そうですね、私もこのお池の睡蓮の花を見て張り詰めていた気持ちが解けたみたいです。さっきも言いましたが、睡蓮の花は昼過ぎには閉じてしまうので、花を観賞するには午前中、それも朝早いほうがいいですね。もし運が良ければ、このお池にかかる不思議な靄にもお目にかかれるかもしれませんよ。靄がかかった鏡容池は何とも幻想的な世界でね、でも滅多に現われない不思議な自然現象ですから、相当、運が良くないと体験は出来ませんよ。それに門が閉まっていれば、それで終わりです。」
 ボンボンが感心したように言った。
「このお寺は苔もとてもきれいですね。本当に見所の多いお寺ですね。」
「この辺の土壌は粘土質なのだそうです。だから水はけが悪いから、苔がよく育つのだそうです。苔の他にも、日本人が昔から愛しみ大切にしてきた藤の薄紫色の花もここで観賞することが出来るのですよ。確かに龍安寺は見所の多いお寺ですね。」

 三人は再びタクシーを拾って嵐山へと向かった。茂木は車中のボンボンが龍安寺をすっかり気に入ってしまって、まだ興奮気味のように見えた。一方、早苗が少し沈んでいることも茂木は見逃さなかった。それは禅の計り知れない奥の深さに戸惑っているのに違いなかった。でもこれから向かう嵐山、そして目的のお庭、大河内山荘は明るいはずだ。あの明るい定食屋のおばちゃんが絶賛する位のお庭だから、きっと早苗ちゃんも気に入ってくれるだろうと茂木はおもっていた。車は大きな門の前を通り過ぎた。タクシーの運転手が言った。
「御室桜はもうご覧になられましたか?」
 茂木が答えた。
「いえ、まだです。今、通り過ぎた仁和寺の背の低い、あの桜ですよね?」
「ええ、そうです。そうです。さっきの二王門が仁和寺ですわ。京都では人偏をつけて仁王門と書くお寺さんが多いのですがね、仁和寺さんだけは漢数字の二を使いましてな、二王門と書きます。何しろ千年もの長い間、筆頭門跡として、そりゃあ、随分とお高い寺格でいらっしゃいましたから、桜もあのように、まるで頭を下げているように咲きます。見上げるのではなくて、仁和寺の御室桜は見下ろす桜なのですね。それから御室桜は遅咲きの桜ですから、京都では春の終わりを告げるお花としても知られています。」
「仁和寺はたしか宇多天皇が出家して上皇になられたお寺ではなかったでしょうか?」
「そうです。そうです。だから寺院でありながら、まったくお寺らしからぬ、とても優雅な造りになっているのでございますよ。」
「運転手さんは仁和寺のことが詳しいのですね。」
「ええ、たいていは仁和寺の前でスタンバイしているものでね、ドライバー仲間にあそこのお寺で若い頃、修行をした者がいましてな、自然と詳しくなってしまいましたよ。」
 車は左に曲がり、通りは門前町の家並みに変わった。街道に入るとすぐに渡月橋に到着した。
「運転手さん、橋を渡って向こう側に行って下さい。」
 茂木は観光ポスターなどでよく見かける写真とは反対側、渡月橋の南側に車を停めさせたて、三人は降りた。茂木が橋について話し出した。
「渡月橋の名前は鎌倉時代に亀山上皇が夜中に橋の上空にかかるお月さんを見て、あたかも月が橋の上を渡っているようだと言ったことに由来するそうです。洛西で最も有名な景勝地、嵐山のシンボル的な美しい橋ですね。春は桜、秋は紅葉、それはまるで渡月橋が色濃く染まった山々に突き刺さっていくかのように見えます。下を流れる保津川の鵜飼も千年の歴史があり、鵜飼舟のかがり火と鵜匠たちの独特なかけ声が響き渡ると嵐山は幻想的な世界に変わってしまいます。」
 三人は橋を見ながら、お弁当を食べた。川を渡る風がとても心地よく、そのお弁当の味はどんな立派な高級料亭の懐石料理にも勝っていた。しばらく嵐山公園を散策した後、ぶらぶら歩きながら橋を渡りメインストリートに戻った三人は天龍寺の南門をくぐった。京都五山第一位に列せられたが、創建以来、何度も火災に見舞われた不運のお寺だ。幕末の蛤御門の変の時は長州藩が本陣をこのお寺に置いた為に西郷隆盛の率いた薩摩藩によって焼き討ちされた。お堂のほとんどは明治時代に再建されたもので、新しささえ感じられる。三人は大方丈へと続く庫裡(くり)には入らずに庭園へと足を進めた。茂木が前の晩に調べておいた説明を始めた。
「このお庭はね、夢窓疎石という人の造ったあまりにも有名なお庭の一つでね、借景という手法を使って、少し離れている嵐山や亀山をまるでお庭の一部のように取り入れてしまったんだ。夢窓疎石に言わせるとお庭の価値というものは草や木、あるいは水や山の配置よりも、むしろそれらを見る心の持ち方なんだそうだよ。庭と向かい合い、自分自身とも向かい合う。そして霊を感じて、だんだんと無の境地に入ることなんだそうだよ。難しいね。そんなことを言われたって、凡人には無理な話ですよね。」
 早苗が言った。
「難しいお庭の価値はあたしには分かりませんけれど、このお庭は茂木さんが言うように、後ろのお山がまるでお庭の一部のように見えますね。」
 ボンボンはあまりこの庭が好きではないようで、眉をひそめて言った。
「ここのお庭はとても立派で素晴らしいとおもいますが、僕はどちらかと言うと水も木もない、さっきの龍安寺の石庭の方に心が引かれます。あまりにも僕には印象が強すぎて、今は他に何も見えないのかもしれませんね。茂木さん、せっかく案内してもらったのにごめんなさい。どうしても、あの石庭の十五個の石が頭から離れないものですから。」
茂木が言った。
「いいんだよ、それは私にもよく分かる。修学旅行のように一度に何箇所も回る方がどうかしているのだからね。でもこのお庭も時間をかけてさ、じっくり眺めるといろいろな発見があるとおもいますよ。聞いたところでは、夜中にね、お坊さんたちがこのお庭のあちらこちらで座禅を組むのだそうです。それぞれが己と向かい合って修行を続けていくうちに、お庭が夜だというのに突然に輝いて見えてくるのだそうです。不思議だよね。禅の世界ではさっきの龍安寺にしても、この天龍寺にしてもお庭というものの占める位置は相当に大きいようだね。でも、今日は申し訳ないけれど、この天龍寺さんのお庭はさっと素通りするだけにしよう。裏の北門から出て、大河内山荘に行きたいのです。」
 三人は足早に曹源池を回り込み、書院、多宝殿を過ぎて、小川が流れる池泉回遊式庭園も横に見て北門から天龍寺さんの外に出た。するとそこにはまったくの別世界があった。うっそうと茂る竹林が広がっていた。しばらくその竹林の中を歩くとなだらかな坂道に出た。切れ目のない竹林はまだ両側に続いており、そこはかぐや姫の世界そのものだった。やがて道は突き当たって、三人は左に曲がった。「大河内山荘」と書かれた案内板が目に飛び込んできた。茂木がボンボンに言った。
「この道を反対に行くと、奥嵯峨野です。先日、二人で行った祇王寺と滝口寺があります。さらにもっと奥に行くと、かつての風葬の地に建てられた化野念仏寺へと道は続きますが、今日は大河内山荘へ二人を案内しますね。」
 早苗は少し興奮している様子だった。
「この嵯峨野の竹林のことは雑誌や友人から話を聞いて知ってはいましたが、これほどだとはおもいませんでした。本当にきれいなこと。案内してくださる大河内山荘に入る前から、あたし、これではどうしましょうね。きっと中はもっときれいなところなんでしょうね。楽しみですわ。」
 茂木はまだ大河内山荘の中を見たことはなかったが、今朝、定食屋のおばちゃんがあれほど太鼓判を押してくれたお庭だから、間違いはないだろうとおもっていた。茂木は自信ありげに言った。
「早苗ちゃん、大河内山荘は誰も失望などさせませんよ。大河内傳次郎という有名な大俳優がその生涯をかけてこしらえた素晴らしいお庭ですからね。彼の芸術家としての豊かな感性をお庭のいたるところで垣間見ることが出来るはずです。京都で第一級のお庭と言っても過言ではないとおもいますよ。」
 坂を登って行くと管理小屋に着いた。そこで少し高めの入園料というか、鑑賞料を払って中に入ると、視界は大きく開けてきた。小倉山そのものをお庭にしてしまった大河内山荘は草木や石の配置がとても見事で、それぞれの季節の彩りがさらに加わって、それは親しみやすい明るいお庭だった。茂木は定食屋のおばちゃんにそっと感謝した。おばちゃんの言っていた通り、文句のつけようのないお庭だった。
「ボンボン、ここはどうです?」
「うーん、茂木さん、ここには参りましたな。これを見ると日本人の感性というか、センスがとても研ぎ澄まされていることに気づきますよ。ここは龍安寺の石庭のような、あの緊張感はまったくありませんが、明るくて実に清清しい見事なお庭ですよ。心も体も何かほっとするようなお庭ですね。こんなところで本を読んだり、友達と語り合ったりして暮らせたらとても幸せでしょうね。」
「大河内傳次郎は昭和37年の夏に、ほら、そこの大乗閣で眠りについたそうですよ。」
 早苗が不思議そうに言った。
「こんなにきれいなところなのに、あまり人がいませんね。入場料が少し高いから、みなさん、敬遠しているのかな?もちろん、修学旅行の学生さんたちはお金もありませんし、ここのお庭は他の国宝級の寺社と比べると歴史的な価値はそれほどありませんから、どんなにきれいでも学校は薦めないでしょうね。」
 茂木が言った。
「そう言われると、熟年のご婦人たちの姿ばかりが目立ちますね。まだ、世間一般にはこのお庭はあまり知られていないのかもしれませんね。私としては、もうこれ以上、有名になってほしくはありませんよ。このままそっと静かにしておいてほしいというのが正直な気持ちですよ。これだけのお庭ですからね、誰にも言わずに秘密にしておきたいですね。」
 ボンボンの意見はこうであった。
「名前でしょう。大河内山荘の山荘と言う名前がどこかの会社の保養所みたいだから、皆さん、中に入るのを遠慮してしまう。人が少ないのは入りづらい名前が原因でしょう。」

 入り口のところでお抹茶がサービスとしてたてられると聞いていたので、三人は赤い毛氈が敷かれた腰掛に座った。隣の席に先に着いた老夫婦の会話が耳に入ってしまった。
「このお抹茶がつけば、決して、高くはありませんよ。さっきは入り口のところでびっくりしましたがな、何とお高い入場料なんだってね。」
「いや、お抹茶がなくても、これだけのお庭だよ。俺は高いとはおもわないな。」
 ボンボンが老夫婦に聞こえないように小さな声で早苗に言った。
「確かに、このお抹茶がつけば、誰もここの高い入場料には文句は言いませんよ。」
「こんなにきれいなお庭ならば、あたしはもっと高くてもいいと思いますよ。もっと高ければ、あまり人は来ませんからね。このお庭はそっとこのままにしておいてあげたいから。」
 茂木は定食屋のおばちゃんの言葉を思い出した。
「早苗ちゃん、ボンボン、実はこのお庭はこれでお終いではないのですよ。山の上まで小道が続いているのです。そこからの眺めが絶景なのですよ。坂道と言ってもそんなに大変ではありませんから、行ってみませんか。」
早苗が目を見開いて言った。
「本当ですか?是非、上まで行ってみましょうよ。へえ、そうなんだ。このお庭は広いんですね。だけど、みなさん、そんなことは知らないから、お茶をご馳走になったらすぐに帰っていますね。さすがですね、茂木さんは名案内人でいらっしゃること。」
「いや、実はね、私も知らなかったのです。今朝、行きつけの定食屋のおばちゃんからここに来たら、必ず、山の上まで登るようにと言われましてね、それで偉そうに話しました。だから私もこの上にいったいどんな世界が広がっているのか、わくわくしているところなのですよ。」
 ボンボンは隣の席に座ったご婦人たちに頼まれて、カメラのシャッターを切っていた。茂木と早苗も立ち上がり、ボンボンの名カメラマンぶりが終わるのを待って、迷路のような小道の探索を始めた。
 しばらく、なだらかな坂や石段を登って行くと急に辺りの視界が開けた。そこで、まず、早苗が歓声をあげた。
「わあ、素敵。嵐山がすぐそこに見えますね。下には保津川も、見て、こんな素敵な景色は、あたし生まれて初めてですわ。まるで絵を見ているみたいだわ。」
 茂木とボンボンも早苗が指差す下の方を見た。ボンボンが次に言葉を発した。
「なんてこった、早苗ちゃんの言う通りだ。正にこれは絵画ですね。大きなキャンパスに嵐山という景勝地を壮大に描いたようなものだ。」
 茂木もびっくりしていた。定食屋のおばちゃんが言った通りだった。
「もしも、これが秋だったら、大変ですね。真っ赤に染まった嵐山を本当に独り占めだ。下に流れる保津川も絶景だし。いやあ、こんなところもあるのですね。ほら、あそこを見て下さい。お山の中腹の辺りにお寺があるでしょう。あれは千光寺です。みんなは大悲閣と呼んでいますがね。あそこからの京都の街の眺望もとても有名で絶品なのですよ。しかし、驚きましたね。嵐山というところはどの角度から見ても素晴らしい、昔の人々がこの地をとても愛したのがよく分かりますよ。」
「茂木さん、あたし、京都って、修学旅行しか知らなかったでしょう。詩仙堂にしても、この大河内山荘にしてもあたしの京都のイメージをまったく変えてしまいましたわ。こんな素晴らしいところに連れて来ていただいて、本当に感謝いたしますわ。」
 さらに奥に進んだ三人はどうやら定食屋のおばちゃんが言っていた見晴台に出たようだった。小さな庵が小道の横にこしらえてあった。やさしい風が吹いていたので茂木はおばちゃんの言っていた庵がここであるとすぐに分かった。そのそよ風の心地良さは素晴らしい景色と相まって、なんともふわふわした感じがした。茂木はここに来て本当に良かったと心の底からそうおもった。何度も定食屋のおばちゃんに感謝をする茂木であった。
 早苗がうっとりとして言った。
「きっと、大河内さんという、ここをお造りになった役者さんはお友達をここにたくさん連れて来たのでしょうね。そしてお友達の喜ぶ顔を見て楽しんでいたのだとおもいますわ。」
 茂木が二人に提案した。
「ちょっといいかな、少しの間、そこに座って京都を眺めていませんか。私はしばらくここから動きたくはありません。少し休んでいきましょうか。」
 ボンボンも賛成した。
「ええ、いいですよ。それにしても、さっきから僕ら以外には誰も来ませんね。さっき写真を撮ってあげたおば様たちもやって来ませんし、みなさん、この見晴台のことを知らないのですかね。」
 早苗が言った。
「あたし、こんなきれいなところを誰にも教えたくはありませんわ。」
 茂木が言った。
「私もまったく同感だな。ここは私たち三人だけの秘密の場所にしておきましょうか。でもきっと、それは無理ですね、私は血液型がB型ですからね。こんなに素晴らしい眺めなのだから、必ず自慢して誰かに喋ってしまいますね。」
「でも、修学旅行の学生さんたちが、ぞろぞろこのお庭を歩き出したら台無しになってしまうわ。やはり、あたしたちだけの秘密にしておくべきだとおもうわ。ボンボンはどうおもう?」
 庵の中ではなく観光客の為に用意された椅子にボンボンは腰掛けながら言った。
「京都の文化はお庭と大きな関係があるようですね。きっとお庭をテーマにして京都を研究したらおもしろい論文がかけるかもしれませんね。茂木さんもそうおもうでしょう。」
「いやあ、本気で京都のお庭を調べ始めたら、一生かかっても、そのすべてを知ることは出来ないでしょうね。たとえば、何の変哲もない民家の中庭にも、ドキッとするようなお庭がありますからね。」
早苗が言った。
「昨日の詩仙堂のお庭はよく計算されて造られた見事な人工的なお庭でしたけれど、この大河内山荘はどちらかというと野性味の溢れるお庭だと言えませんか。小倉山でしたっけ、その山そのものをお庭にしてしまっているでしょう。確かに人が手入れをしているのは分かりますけれど、他のお庭と比べると野生的な感じがしますね。どちらも、あたしは大好きです。二つのお庭を見て私は心が明るくなりました。禅のお寺にあるお庭はあたしには難し過ぎます。確かに見ているだけで心は落ち着きますけれど、でもね、やはり、あたしにはまだよくわかりません。経験が足りませんから。それにお父さんと喧嘩して家を飛び出て来たでしょう。だから、今は冷静に物事を見ることが出来ないのかもしれませんね。戸隠を出る時はとても気落ちしていたけれど、詩仙堂や大河内山荘のようなきれいで明るい開放的なお庭に触れて、なんだか気分がすっきりしてきました。思い切って京都に来て良かったなとおもいます。いやだ、あたし、何を言っているのでしょうね。まとまりのない話になってしまいましたね。」
 三人が大河内山荘を出る時にはすっかり太陽も傾き、人の気配もさらになくなってきていた。茂木は出入り口にある管理小屋に座っていたおばさんに小さな窓越しにお礼を言った。
「素敵なお庭でした。有り難うございました。私はすっかりここが気に入ってしまいましたよ。また伺わせていただきます。とてもさわやかな気分になりました。本当に有り難うございました。」
 小屋の中のおばさんは声は出さずに微笑みを浮かべながら頭を下げた。しっかりと年輪の刻まれたおばさんの笑顔もとても素晴らしかったので、ボンボンが言った。
「やはり、素晴らしいお庭にいる人は笑顔もとても美しい。お庭はひょっとすると人の心も表情も磨くものなのかもしれませんね。」
 茂木もうなずいた。
「そうかもしれませんね。私は今日はいろいろなことをお庭を通して学びましたよ。確かにお庭は人と共に生きているということが実感出来ました。南禅寺の奥まった所にお庭があるのですがね、今、ちょっとその名前が思い出せませんが、前に言った時にそこのお庭を包む空気が悲しみに満ちていたので、後で調べてみたらところ、そこは実権を奪われた天皇のお庭でしたよ。お庭はそこの主の気持ちを表すようになるのですね。とても良いお庭なのですよ。でも寂しさが伝わってくるんです。まったく不思議なものですね、お庭というものは。気持ちが癒されて明るくなるお庭もあれば、人生そのものを考えてしまうお庭もある。そして四季折々にその表情も刻々と変えていく、まったくお庭は生き物ですよ。」
  
 茂木は二人をホテルまで送って行った後、その足で居酒屋「川原町」へ行き、いつものように彼の指定席に座った。楽しい一日だった。


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