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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第11回   戸隠
戸隠

 その姿がノコギリの刃に似た戸隠山はまるで屏風の絵のようでもある。薄っすらと霧がかかると恐ろしささえ感じてしまう神秘の山だ。峻嶮な戸隠山の山容は昔から地元の農民に仰がれて、この地域の豊かな水を司る神々の住む家としてあがめられてきた。子々孫々にわたって神聖な山として信仰され続けてきた。戸隠神社などにはその信仰や修行験者たちの息吹が今も感じられる。
  戸隠にある幾つかの村々では広い家屋を持つ家々で、その余った部屋を利用して民宿事業を展開していた。冬はスキー客に、夏はその涼しさを受験生たちに学生村として部屋を開放していた。関東や関西を中心に大々的に宣伝をした結果、この村の民宿事業の企画は大ヒットしていた。どこで勉強しても同じだとおもうのだが、常に気分転換を重視する受験生たちの圧倒的な支持を得ていた。学生村がスタートした年に早苗の家にも関西方面からたくさんの受験生がやって来た。京都から来た茂木(もてぎ)という高校生がその中にいた。高校2年の夏と受験の前の夏を早苗の家で過ごした。そして京都の大学を一校だけ、それも印度哲学とかいう難しい学科を受けて失敗した。その翌年もまたその翌年もそしてそのまた翌年も早苗の家で夏を過ごした。結局、三年間浪人をして印度哲学科にやっと合格した。京都の大学に入ってからも学校が休みになると、いつも戸隠の早苗の家にいた。茂木は次から次へとやって来る受験生たちの邪魔ばかりをしていた。大学院に入ってからは京都にいるよりも戸隠にいることの方が多かった。茂木は学生村の学生たちにとても人気があり、彼を慕って京都の下宿を訪ねる者も多かった。手紙は週に何通も返事を書いているらしかった。葉書きに小さな文字で丁寧に書く、それもぎっしり書くのが茂木流の書き方だ。早苗の父にとって茂木は息子同然の存在となっていた。飲んで騒ぐでもなく、バス停近くのそば屋のカウンターでただ黙って二人並んで酒を飲んでいる様は誰が見ても親子としか映らなかった。茂木が早苗に好意を寄せていることは早苗の父にはよく分かっていた。早苗が東京の外国語の大学を受験する時にも茂木は学校を半年間休んで早苗につきっきりで勉強を教えた。その頃には茂木はすでに早苗の家族の一員のようなものになっていた。哲学を勉強している人間はどうも分かりにくいところがある。ハッキリしないところが美徳なのか、あまり結論を急がない。すべてに大らかである。数学者と違って物事を型や公式に無理にはめ込まないらしい。そして茂木も早苗とは中途半端な関係を続けている。茂木の父親は外交官で日本にいる時が少ないらしかった。しかし学生でありながら郵便局には相当な貯えがあるらしく経済的には何の問題もなさそうであった。まるで俗世界とは縁遠い所で生きているようだった。居酒屋の隅で独り黙って飲む茂木の後姿はなかなか情緒的で本当に絵になった。彼は不思議な魅力で満ち溢れていた。ところが早苗が茂木のことよりもフィリピン人のボンボンとか言う留学生のことばかりを楽しそうに話をするのが早苗の父親にはおもしろくなかった。

 ボンボンを乗せたバスは長野市内を抜けて山道をくねくねと登りながら宝光社というバス停に着いた。そのバスとすれ違うように早苗を乗せたバスが長野駅に向かって宝光社を出発した。早苗は民宿の泊り客を案内して善光寺にお参りに出かけたのだった。ボンボンが早苗に連絡もしないでやって来たのは彼女のことを驚ろかそうとしたからだった。正直な気持ちを早苗の両親の前で打ち明けようとしてやって来たのであった。
 バス停に降り立ったボンボンは早苗が送ってくれた絵葉書をポケットから取り出して、その案内スケッチを見直した。道に迷うこともなく早苗の家はすぐに分かった。ボンボンは大きく息を吸い込んでから玄関を開けた。そして出せる限りの勇気を振り絞って声をかけた。
「ごめんください。」
返事はなかった。もう一度大きな声でボンボンは繰り返した。
「ごめんください。誰かいませんか?」
すると不運にも奥から出て来たのは早苗の父親だった。ほんの少し、ボンボンのことを見た後で、早苗の父親は姿勢を正して言った。
「あなたはボンボンさんですね。早苗がいつも話をしてくれるフィリピンからの留学生のボンボンさんではありませんか。」
「はい、そうです。あー、はじめまして、私はボンボンと申します。」
「早苗からあなたのことはよく聞いておりますよ。」
「あのー、早苗さんは?」
「申し訳ないが、早苗は今、あいにく留守にしておる。」
しばらく二人の間には沈黙が続いた。
「ボンボンさん、突然で申し訳ないのだが、わしはあなたに頼みがあります。」
嫌な感じだ。ボンボンは不吉な予感がした。
「すまんが、ボンボンさん、早苗とはもう会わんでくれないだろうか。お願いする。この通りだ。」
あまりにも突然のことで、ボンボンは何も返事が出来ずにその場に立ち尽くしていた。すべてが真っ白になってしまっていた。何をどう答えてよいのだろうか、もちろん答えなんか、そんなものはありはしなかった。ボンボンは早苗の父に頭をかろうじて下げるのが精一杯だった。その後、何も答えずに玄関から外に出た。道の横には水路があり、山の湧き水が静かにその中を流れていた。ボンボンはその水と一緒に足早に坂道を下って行った。無我夢中で県道に出た。さっきは気づかなかったが、バス停の所に店があった。「そば」と書かれた看板がボンボンの目に飛び込んできた。とにかくどこかに座りたかった。心を静かに落ち着かせる場所がほしかった。それはどこでもよかった。崩れ行くすべてのものを何とか支えなければならなかった。ボンボンは迷わずにそば屋の小さなのれんをくぐった。
カウンター席に座り、飲みたくもないビールを注文した。その後、じっと前を見つめていたが、何も見えはしなかった。どのくらい時間が経ったのだろうか、店に入ってからだいぶ経ったころだった。横からボンボンに話しかける声がしたのである。
「あなたはボンボンさんですね。」
自分の名前を呼ばれて、ボンボンはびっくりした。声のする横を見てみるとカウンター席に熱燗を飲んでいる青年がいた。自分よりも年上のその若者は遠慮なく話を続けた。
「早苗ちゃんからあなたのことはよく聞いていますよ。私、茂木と申します。早苗ちゃんに会いに来られたのですね。彼女は留守ですよ。今、善光寺さんに行っているとおもいますよ。民宿の連中の案内をして長野市内にいるはずです。よかったらどうです。彼女が戻って来るまで私とここで飲んでいませんか。」
まだ返事が出来ないボンボンであった。茂木はボンボンが日本語の達人であることを知っていたが訊ねてみた。
「日本語は分かりますよね。」
「はい、ええ、分かります。ごめんなさい。何だか呂律が回らなくなってしまいました。ちょっと気が動転していたものですから。」
「気が動転ね。なるほど早苗ちゃんの言う通りだ。難しい言葉をボンボンさんはよく知っていますね。彼女に言わせるとあなたは語学の天才だそうです。しかもバイリンガルどころではない、幾つも言語を操る魔法使いだと言っていましたよ。外語大の学生らしい表現ですよね。まあ、ボンボンさん、一杯飲んでください。」
茂木は「鬼殺し」と呼ばれる地酒をボンボンに差し出した。
「茂木さんは学生さんですか?」
「印度哲学を勉強しています。」
「印度哲学ですか。私にはどんな学問なのか分かりませんが、何やら難しそうな学問のようですね。」
「ボンボンとお呼びしてよろしいですか?」
「ええ、もちろん結構です。」
「単刀直入に言いますけれど、ズバリ、早苗ちゃんはボンボンのことが好きですよ。何故、私がそんなことを知っているのかと言えば、私も早苗ちゃんのことが好きだからですよ。つまり、ボンボンと私は恋敵ということになるわけですね。」
ボンボンは何も答えずに「鬼殺し」を茂木の杯に注いで、茂木の次の言葉を待った。
「早苗ちゃんは、この私に、あんたのことばかり、嬉しそうに話すのですよ。分かりますか。だから、この日本で早苗ちゃんの次にボンボンのことをよく知っている人間は、この私かもしれないですね。」
ボンボンは茂木の話を聞いているうちに次第に自分に元気が戻ってきていることを感じていた。
「ボンボン、おまえさんがさっきこの店に入って来た時の顔は真っ青だったよ。きっと、早苗ちゃんの親父さんに何か言われたのだろう。別に私は親父さんが何をボンボンに言ったのかを詮索する気は毛頭ないがね、私はね、あんたの気持ちも親父さんの気持ちもよく分かるんだよ。まあ、そんなことはどうでもいいや。今日は飲みませんか。さあ、もう一杯どうです。」
茂木はボンボンのコップにまだ残っている酒を無理やり空けさせてから、新しい酒を再び注いだ。
「さあ、これを飲んで、親父さんの言ったことは全部忘れることだな。」
あまり酒の強い方ではないボンボンだが、また一気にコップを空けた。今度は自分でコップに注いで飲み干した。
「ボンボン、今日は早苗ちゃんには、会わん方がいいかもしれんな。みんなが苦しむだけだからな。分かるか、私の言っていることが?今日は私と、とことん飲もう。いいな。」
ボンボンは嬉しかった。涙が溢れ出ていた。茂木という人の心のあたたかさが強烈に伝わってきたからだ。他人の悲しみが分かる人はそんなにはいない。それは日本人であろうとフィリピン人であろうと同じである。素晴らしい人に巡り逢えた時の喜びにボンボンは満たされていた。哲学者、茂木が話をさらに続けた。
「私は考えるのは好きだが、覚えるのは下手で、大学に入るのに三年もかかってしまったよ。あなたは語学の天才だから、記憶力は抜群のはずだ。何か覚えるのに、コツでもあるのかね?もしあったら、是非、私に教えてくれないか。」
「別に、コツなどはありませんが、本なら、そのページ全体を写真のように写し撮って頭に入れるだけです。」
「やはり、あんたは早苗ちゃんが言うように天才だよ。間違いない。さあ、飲もう。天才に乾杯だよ。嫌なことはさ、きれいに忘れてしまいましょう。今日は飲みましょう。」
二人ともかなり酔ってきていた。茂木は早苗の心がつかめずにいる、不甲斐のない自分を責めているかのようでもあった。窓の外の戸隠の山並みはすっかり暮れてしまっていた。
「ボンボン。ボンボンは京都に行ったことがありますか?」
「いいえ、まだです。まだ行ったことはありません。でも本では読んだことがありますよ。」
「私は京都に住んでいるのですがね、どうです、京都に来てみる気はありませんか?私が本当の京都の良さを案内してあげましょう。本じゃあ、分からんよ。今の、あなたなら、本当の京都の良さが見えるはずだ。」
「ええ、是非、お願いしますよ。」
「よし、話は決まった。今日はとにかく倒れるまでここで飲んで、明日、目が覚めたら、京都へ行きましょうか。」

結局、二人はそのまま飲み続けて、そば屋の二階で寝た。早苗には会わずに、翌朝、暗いうちに戸隠村から姿を消してしまった。


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