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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第101回   恋、再び
恋、再び


 ネグロス島の南部にあるドゥマゲッティは明るい町だ。大きな建物があまりないせいか、その分、空が大きく、南国の空が街並みの大半を占めている。あまり背丈はないが南国特有の樹木も多い。広い道を歩いていると、すれ違うのは車ではなくて、白い制服を着た女学生ばかりがやたら目立つ。ただそれだけでも心が自然と和んでくる。正樹は理沙と彩花が暮らしているこの静かな学園都市ドゥマゲッティが好きになった。この町に来てまだそんなに日は経っていないのだが、ボラカイ島にいる時とは違った心の安らぎを正樹は感じ始めていた。それは岡田姉妹のせいなのかもしれないが、早苗を失った悲しみから解き放たれ、気持が明るくなっていた。
 正樹は地元の漁師に聞いた熱帯魚観察のスポットへ彩花を誘った。二人を乗せたバンカーボートは30分ほど真っ青な海を走ったところで小さな孤島に先端を乗り上げて停まった。
 先にボートから降りた正樹は板をつたって降りてくる彩花の手を支えながら言った。
「この島の周りは熱帯魚の天国だそうですよ。日本の熱帯魚マニアがびっくりするような高価な魚が平気な顔をして泳いでいると船頭さんが言っていました。」
彩花はその細い足で海に降り立ち、海面を見渡しながら言った。
「でも、ここで簡単に熱帯魚たちを捕まえても、日本へ運ぶのは大変なことよ、多くの魚たちが運搬の途中で命を亡くしてしまうわ。私はだいたい水槽で熱帯の魚を飼うことには絶対反対だわ。無理だとおもうのよ!海水魚の飼い方は特に難しいし、私たち人間の身勝手な観賞のためだけにさ、魚たちが死ぬのは悲しいことだわ。人間のエゴよ。水槽内の塩分濃度のミスとか、ヒーターの故障なんかで、遠く故郷から無理やり連れてこられた魚たちが、あっけなく死んでしまうなんて、とてもかわいそうなことだわ。」
「でも、魚たちを鑑賞することで病んだ人々たちが癒されることもある。色彩の鮮やかな熱帯魚たちは趣味として多くの人々から支持されていることも事実だよ。」
「そうだけれど・・・。」
 二人は海から出て、少し歩き、かなりせり上がった砂浜を息を切らしながら上った。大きな岩の上に腰を下ろすと、紫がかった青い海と真っ青な空が二人の正面に広がった。この小さな島には人家はないようだった。
「彩花さんは交換留学の後、東京のICUに戻ってどうするの?」
「卒業したら、また、ここに戻って来ますわ。ここの大学の看護師のコースに編入するつもり。」
「看護士ですか。」
「ええ、そのつもりです。卒業したら正樹先生のところで雇ってもらえませんか?」
「うちは高い給料など払えませんよ。気心の知れた仲間と一緒にやっているだけの小さな診療所ですからね。もしよかったら、うちの診療所の親病院とでも言うのか、ケソン市にある大きな病院を紹介しますよ。」
「大きな病院は研修の時だけで結構、私は先生のところがいいな。早苗さんのようにはなれないけれど、先生のお手伝いがしたいの。」
「彩花さん、僕はね、時々、医者という職業が嫌になることがあるのですよ。患者さんの命を救えなかった時に、その家族の人たちから、涙を流しながら責められたりしたら、ひどく落ち込みますよ。高い崖の上から突き落とされたと同じ感覚になってしまいます。僕ら医者は完全でもないし、神でもないのです。その能力にも限界がありますからね。どんなに患者さんの命を奪った重篤な病について説明しても、大切な家族を失った者にとって、そんな説明は分かりませんよ。その病を理解しろと言う方が所詮、無理な話ですからね。」
「でも、先生、ある意味では現代の医学はすでに神様の領域にまで踏み込んでしまったのかもしれませんね。心臓外科の世界では手術中に人工心肺を使って、患者さんの心臓を停止させてから治療にあたることもありますし、臓器の移植も、人間の力を超えてしまっているのでは?」
 少し離れた細長い島の上に白い綿雲がかかっており、海鳥たちもゆっくりと旋回していて、気持ちの良い日だった。打ち寄せる波を見ながら正樹は言った。
「その通りですね。学生時代からの友人ですがね、外科医として超一流の技術を身につけてから、とても傲慢になってしまった奴がいますよ。毎日、幾人もの患者さんたちの命と向き合っているうちに知らず知らずのうちに人間が変わってしまって、彼は患者さんを選ぶようになってしまった。目の前で助けを求めている患者さんよりも病院の利益や評判、自分の名声を優先するようになってしまいました。」
 悲しげに彩花が言った。
「先生もご存じのように、日本人が、中国や東南アジア諸国、アメリカ、そして、このフィリピンにも臓器移植をするために、たくさんの人たちが海を渡って来ますよね。その患者さんたちにしてみれば、生きるための手段というか、最後の決断なのでしょうが、そこにはいろいろな問題が生じてしまいます。日本国内であっても臓器の移植は様々な倫理的なトラブルがあるのに、それが世界を巻き込んで、しかも金銭が絡んだ斡旋業者が入ってくると、これは複雑で厄介な問題になってしまいます。でも、移植手術をしなければ命がなくなってしまうのだから、患者さんは真剣ですよ。募金でその高額な費用を工面したりもします。国によって法律も宗教も違います。死刑囚の臓器を提供している国もあります。社会的な状況でお医者様は神様にもなり、悪魔にもなります。」
「確かに、そうですね。」
「日本の法律は臓器移植に関して、他国より何十年も遅れているとおもいません?」
「その通り。例えば、体内には腎臓は二つありますよね、そのどちらかが病んで摘出する場合があるでしょう。その患者さんは腎臓が一つになっても生きていけますからね。・・・さて、その取り出した腎臓なのですけれど、・・・悪い部分だけを切り落とせば、まだ使えるわけです。両方の腎臓が病んでしまって人工透析をしながら腎臓移植の順番を何十年も待っている人々にその摘出され修復された腎臓を移植することは日本の法律では禁じられています。もし、その摘出した腎臓を完璧に修復して、適合する患者さんに移植することが出来るようになれば、もっともっと多くの命が救えると僕はおもいますよ。」
「人工透析も、週に三回、血液の浄化を数時間、それをずっと続けなければいけないのですよね。水分の補給も制限され、生活にも色々制限がありますね。とても苦痛ですよね。」
「医学の進歩は確かにすばらしいことです。しかし進歩すればするほど、様々な倫理的問題が生まれてきます。例えば羊水検査です。生まれてくる赤ちゃんの染色体の型が分かってしまう。ちょっとだけ他の子供たちと違った特徴を持った子を親は誕生前に選別してしまうわけです。」
「先生、それは命を選別してしまうということですか?」
「そうです。同じ人間なんていないのです。みんな、それぞれ違った特徴を持って生まれてくるのです。お腹の中に宿った神聖な命を親のエゴで絶って良いわけがない!」
「でも、現実問題として、羊水検査の結果で中絶してしまう親が多いというわけですね。」
「ええ、残念なことにそうです。しかし、そのことを誰も責められない。」
 そこで二人の会話は途絶えた。打ち寄せる波の音だけが長く続いていた。彩花は両手を海に向かって突出し、その手を今度は頭の後ろで組み背筋を伸ばした。彩花のさわやかな香りが正樹のことをやさしく包んだ。青空に向かって立ち上がった彩花が今度は正樹のことを見下ろしながら言った。
 「難しいことはいいの。あたしは・・・・、ただ、先生と一緒にいたいだけなの。こんな素直な気持ち・・・あたし、はじめてです。こんなことを言える勇気、あたしにはないもの、きっと早苗さんが・・・あたしの中にいるのね。・・・でも、そんなことは、もう、どうでもいいことよ・・・。あたし、決めたわ。日本には戻らずに、このままこちらの学校に・・・編入しようとおもうの。看護師になるわ。」
 正樹もまったく同じ気持ちだった。面倒な恋愛の手順はもうごめんだった。素直に彩花のことが愛しかった。彩花が手を差し伸べ、正樹もその手をしっかりと握りしめた。二人の気持ちはその手を通して確かに通じ合った。

 それからの二人は何をするのにも、いつも一緒だった。まるで母親にすがる幼子のように正樹は彩花のそばを離れなかった。それは傍から見ていて滑稽なほどだった。

あっという間に半年が過ぎ、そして一年が経っても、正樹はボラカイ島へも東京にも戻らなかった。
彩花が言った。
「正樹さん、島に帰らなくていいの?」
「ボラカイ島のことかい?大丈夫、診療所はヨシオがちゃんとやってくれているからね。」
「理沙が言っていたけれど、正樹さんの診療所は患者さんたちから治療費をいただかないから、経済的にはとてもたいへんだって、きっと、ヨシオさん、困っているわよ。」
「損得なんか考えて、島の診療所なんか出来ませんよ。」
「でも、少しは、・・・患者さんたちからいただいたら・・・・どうです? また日本へ出稼ぎに行かなければなりませんよ。」
「僕はね、今、何も考えたくないのです。無責任と言われても仕方がありません。こんなこと、初めてかもしれないな。でもね、僕は、今、とても幸せなのですよ。彩ちゃんが学校に行っている間はおじいさんの手伝いをしながら、ゆっくりと一日を過ごす。夜は月明かりの下で彩ちゃんと時を忘れて語り明かす。ただそれだけの毎日、同じことの繰り返し、何も起こらない平凡な日々だけれど、僕はね、とても大きな喜びを感じているのですよ。」
「あたしだって、正樹さんがこちらに来てから、毎日が楽しくて、楽しくて、どうか、この幸せが、ずっと、続きますようにと、放課後、学校のチャペルで祈っているわ。人を好きになるのに理由などありませんものね。こんな気持ちは初めてだわ。」

 二人は何度も夜中に起きては崖のラウンジへ行った。ラウンジと言っても、民家を改造した質素なもので、崖に張り付くように建てられた民家のリビングとテラスが一体となり、窓はなく、そこから180°海が見下ろせた。そこらからの眺望はすばらしく、昼間は空が9割で海が1割、それにさわやかな風も加わる絶景だった。これが夜になると別世界となり、星空と波の音だけの静かな空間になった。この大開口のテラスは二人だけの恋の舞台だった。
「ボラカイ島の正樹さんのおうちは海の近く?」
「ああ、海に面しているよ。ベランダを出て数十歩も歩けば、足は海の中さ。でも、こことはまったく比べ物にならないよ。小さな掘っ立て小屋だからね。嵐で何度も屋根が吹き飛んで、継ぎ足し、継ぎ足しで、穴がいくつも開いていますよ。雨がそこからポタリポタリとね、下で待ち受けるバケツと協奏曲を奏でます。夜はうるさいくらいですよ。
でもね、あそこの海を見ているとね、人間の営みがどんなに小さく情けないかを感じてしまうよ。反省させられる。不思議な島だよ、ボラカイ島はね。」
「ねえ、今度の休みに、あたし、ボラカイ島へ行きたいわ。ダメかしら?」
「休みはいつだい?」
「来月よ。」
「来月か、・・・おじいさんの具合次第だな。」
「おじいちゃん、そんなに悪いの?」
「口止めされていたけれど、隠し通すのにも限界がある。誰が見ても・・・、おじいさんの体は細くなり過ぎましたからね。いろいろ試してみましたが、抗がん剤の治療は断念しました。今は、痛み止めだけを投与しています。」
「あたし、聞くのが怖くて、・・・・・・、知らないふりをしていたけれど、やはり、そうでしたの。・・・もう、手術の可能性は?」
「ありません。無理です。それに、おじいさん自身がそれを望んでいません。」
「そうだったの。先生、おじいさんにもボラカイ島の海を見せてあげたいわ。」
「・・・・・・、いいでしょう。三人でボラカイ島へ行きましょう。あの島はこれまでに数々の奇跡を生んできましたからね。もしかすると・・・・・・・。」

 しかし岡田拓実じいさんはネグロス島から出る気はまったくなかった。彩花が誘うと、
「わしはこの地で最後を迎えたい。わしはいい、お前たちだけで行ってきなさい。」
と言い残して散歩へ行ってしまった。
ふくれ面になってしまった彩花に正樹は言った。
「一緒にボラカイ島に行こうと提案したのは間違いでしたね。・・・失敗でした。・・・・おじいさんの気持ち、僕にはよくわかりますよ。」
「あたしは、わからないわ。いいわ、二人だけで行きましょうよ。」
「いや、今回はやめときましょう。ボラカイ島へ行くチャンスはこれからいくらでもありますからね。」
正樹のその判断は正しかった。岡田のじいさんはそれから間もなく寝たきりになってしまった。村人が交代で岡田じいさんの世話をしにやって来た。そしてその中に毎日やって来る老婆と娘の姿もあった。知らせを聞いて東京から理沙も飛んで来たが、理沙と彩花にはその老婆と娘が岡田じいさんのもっとも大切な人であるということがわからなかった。それは岡田じいさんの生涯を通しての秘密だったからだ。
正樹は彩花と理沙に言った。
「東京にいる皆さんに連絡をして下さい。おじいさんの・・・・・・。」
「わかりました。あたしが連れて来ます。」
理沙が正樹の言葉を最後まで聞かずに答えた。

 理沙たちは、結局、間に合わなかった。パスポートや航空券の手配に時間がかかってしまったからだ。岡田じいさんの最後を看取ったのは隣町から来たその老婆と娘の二人だけだった。静かな最後だったと正樹に言い残して、二人は静かに去って行った。もちろん、岡田じいさんの葬式に顔を出すこともなかった。正樹には二人の気持ちが痛いほどよくわかった。日本から来たじいさんの家族への配慮だったのだ。戦争によって引き裂かれた国境を越えた家族の絆、誰も悪くはないのだ。あの戦争はまだ終わっていなかったのだ。

 これほど涙の少ない葬儀もなかったかもしれない。悲しみ以上の何か大きな感情に包まれていた。岡田じいさんのことを誰もが惜しみ、じいさんの偉業を村人たちはみな称え感謝していた。

 抗がん剤治療を中止することを二人で決めた夜、岡田拓実じいさんは正樹に言った。
「正樹先生、いろいろありがとう。もう、わしには思い残すことはありませんよ。納得いくまで、・・・十分に生きることができた。・・・とても良い人生でしたよ。」
 岡田拓実の人生とはいったい何だったのだろうか?あの戦争に青春と戦友を奪われ、戦地で巡り合った妻と娘とも引き裂かれた。帰国後は荒廃しきった日本を立て直すために家族を犠牲にして働き通した。そして退職後はすべての貯えを使って、ネグロス島で困窮していた村人たちに生きる糧を与え、結局、無理をし過ぎて病魔に命を奪われた。何をもってして、すばらしい人生と言えるのか、正樹は考えていた。一言も言葉にはならなかった。
「わしには彩花と理沙がいる。二人の孫に命のバトンを渡すことが出来た。それこそがわしが生きてきた証だよ。命がつながった。」
「では、子孫を残すことが出来ない者の、子供を産むことが出来なかった者の役割とは、人生の意味は何なのでしょうか?命をつなぐことが出来なかったわけですから。」
「自分を愛してくれている者を愛するのは当たり前の話だよ。家族を大切にすることは当たり前の事だ。親が子供を愛するのは当然のことだ。子供が親を大切にすることも自然だ。正樹先生、自分と血のつながりがない者を愛することこそが最も意味があることだとわしはおもうよ。どんなに愛し合って結ばれた夫婦でも子供に恵まれなければ、離婚する確率が高い。愛だけじゃ、愛が覚めた時に何もなくなってしまうからからね。子供がいることで夫婦の関係も保たれる場合も多い。でもね、先生、子供に恵まれなくても、それでも寄り添って、自分の子供たちに与える愛情を他の子供たちに与えることが出来れば、もっと価値の高い人生と呼べるのではないかね。自分の家族に注ぐ愛情を他人に惜しみなく注ぐことが出来れば、人生の価値はもっと高まる。でも、それは簡単なことじゃない。自分の子供を育てること以上にな。」

 ドゥマゲッティの町から学生たちの姿が消えた。休みに入ったからだ。彩花と正樹の二人もボラカイ島に向かった。


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