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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第100回   孤独
孤独

 樫村直人は必ずまたボラカイ島に戻って来ると言い残して日本へ一人で帰って行った。その三日後、理沙はネグロス島のおじいさんと姉のもとへ正樹を連れて向かうことになった。隣のパナイ島へ渡るボート乗り場で、見送りに来ていたナミが正樹に言った。
「正樹さん、やっぱり行くことにしたんだ。」
 正樹は返事をせずにコクリとうなずいた。理沙がナミにお礼を言った。
「いろいろお世話になりました。本当にありがとうございました。」
「また、いらっしゃいね。いつでも、大歓迎だから・・・・・・。」
「ええ、ありがとうございます。」
「小さい島だから、どうしても退屈。ほら、話に飢えちゃって、きっとよ、また来てね。そうだ、今度はお姉さんと一緒にいらっしゃいよ。」
「ええ、必ず。ナミさんもドゥマゲッティに遊びに来て下さいね。」
「そうね、あたしはいつも暇だから、きっと行くわよ。」

 二人を乗せたバンカーボートはゆっくりとボラカイ島を離れ、次第にそのスピードを速めていった。それはまるで飛び魚のように元気よく青い海を飛び跳ねていた。やがてボートはそれを見送るナミの視界から消えていった。


(ネグロス島南部)
 岡田拓実はわかっていた。もう自分の命が残り少ないことを、それは年齢からくる寿命ではなくて、自分の体が重篤な病に侵されていることを知っていた。そのことを孫の理沙や彩花、そして一緒にネグロス島で暮らす周りの者たちには告げずに慎重に振舞っていた。しかし、医者である正樹は岡田拓実と会ったその日のうちに、彼の顔色の悪さや痛みを堪える仕草に気がついていた。
「岡田さん、一度、精密検査を受けられてはいかがですか?」
 岡田拓実は顔色を変えずに正樹の質問にゆっくりと答え始めた。その言葉は途切れ途切れではあったが、十分に正樹の心を震わせた。
「そうですか、無理でしたか、・・・・・・やはり正樹さんにはかくせなかったようですね。以前、テレビのニュースであなたのことをお見かけしましたよ。あなたがお医者様であることも知っています。そう、・・・分かってしまいましたか。・・・・・・でも、もう少しだけ待って下さい。どうしてもやっておきたいことがあるのでね。」
「いつからですか?」
「・・・・・・以前から調子は悪かったのですがね、先月あたりから、急に痛みが激しくなってきましてね、・・・・・・。でもね、この村の人々は、やっと、自給自足の生活ができるようになってきたんだ。あとは、私がいなくなっても、何とか現金収入を得られるようにしてやらないと、・・・・・・。」
「ご親戚で過去に病で、例えば癌でお亡くなりになった方はいらっしゃいますか?ご両親、ご兄弟は?」
「私は終戦をこの島でむかえました。戦争が終わって、日本へ帰ると、父も母も、それから・・・たった一人の姉も東京のあの大空襲で行方不明になってしまっていました。」
「すみませんでした。辛いことを聞いてしまいましたね。お許し下さい。ではご親戚の方で、誰か病気で亡くなられた方はおありですか?・・・・・・ご記憶にありませんか?」
「親戚も、みんな、あの戦争で・・・・・・・亡くなりました。東京の焼け野原に立ち尽くし、あの時、私は涙を出しながら孤独というものを本当に実感しましたよ。」
「そうでしたか。」
「私はあの時から小さな希望を見つけて、一日一日を大切にすることにしました。大金持ちになってやろうとか、総理大臣になってやろうなんて一度もおもったことはありませんでした。だってそうでしょう、正樹先生、戦争が終わっても何が起こるか分かりませんからね。交通事故で突然に命を失うことだってあるんだ。先のことなんか誰にも分らないことですものね。将来のことを悩んで心配のあまりに今現在を無駄にしてはもったいないですからね。」
「確かにおっしゃる通りです。」
「人間、生まれてくる時もあの世に行く時も一人なんだ。人はどうあがいたって孤独なんです。そのことをしっかりと分かっておかないといけない。孤独だからといって寂しがってばかりいたら何も出来やしないですからね。」
「そうですね。人は孤独ゆえに人生をともに過ごしてくれる伴侶をさがすのかもしれませんね。孤独な者同士がそれを癒そうとおもって一緒になる。結婚したりもするわけですね。でも何年かすると、子どもたちは自分の生活がありますからね。当然、巣立っていくし、パートナーともいずれは別れなくてはならない。病になることもあるでしょう。結局、人は・・・みんな・・・最後は孤独なのです。それは仕方がないことなのですね。」
 岡田拓実と正樹は理沙の姉の彩花が運んできた手料理に箸をすすめながら話を続けた。理沙が日本からみやげに持ってきた日本酒も惜し気もなく出されていた。二人は屋外の棚田がよく見渡せるテーブルで、とても初対面とはおもえない、極めて打ち解けた二人だけの宴を開いていた。
「正樹先生、先生は日本のコンビニでバイトをしていらっしゃると、理沙が言っていましたが、何かこの島の人たちの生活が安定する、・・・アイディアというか、方法はないでしょうかね?」
「それは難しい質問ですね。この国の人々が誰もが望むことですものね。そうですね、お店では、最近ではマンゴーやバナナ、それに、ナタデココなどが、また人気商品となっていますね。ナタデココもそうですけれど、僕はココナッツにとても興味がありますね。まあ、ココナッツはココナッツオイルのようにたいへん貴重なものも含めて、まったく捨てるところがないほど素晴らしいものです。以前からずっと考えていることなのですが、あの殻の繊維質をうまく利用できないでしょうかね。固い殻をほぐして園芸とか、食品とは別の方面に使えないでしょうかね。土の代わりとか肥料とか、うまく加工して商品にならないでしょうかね?」
「園芸ですか。・・・・・・例えば、道路のセンター分離帯にある植木とか、・・・・・・。」
「なるほど、それはおもしろいかもしれませんね。」
「燃料として使われることもありますが、捨てられている殻をもらってきて再利用する。」
「いいかもしれませんね。」
 二人は村人の喜ぶ顔を思い浮かべながら、話に花を咲かせた。正樹と岡田拓実は考え方や生き方に共通したところが多く、初対面からすぐに打ち解けた良い関係になった。

「岡田さんはタロウという芋焼酎をご存じですか?」
「ええ、よく知っていますよ。よくテレビで話題になる幻の焼酎ですよね。」

 ちょうどその時、彩花がチャップソイと呼ばれる野菜料理をテーブルに並べていた。正樹は早苗にそっくりな彩花にも一緒に話をしないかと誘った。彩花は妹の理沙も連れて来るからと言ってキッチンへ戻っていった。・・・・・・途切れた話の続きを正樹がした。

「そうです。その芋焼酎です。川平太郎さんがこちらで新しい品種の紫芋をみつけて、それで焼酎を作ったところ大当たりしたものです。僕らは商売のことを考える時、どうしても日本とのつながりを考えてしまいますよね。でも、太郎さんは日本を抜きにして、こちらで成功した人です。長い目で見たらどうでしょう。ここの村人のことを本当に考えたら、為替の変動や両国間の関係に左右されないこの国の中だけで生活の道を切り開いた方が良いのかもしれませんね。」
 岡田拓実は正樹の話を聞きながら笑顔でテーブルの上にひろげられた料理に箸をつけていた。

 しばらくすると、理沙と彩花がエプロン姿でやってきた。岡田と正樹はテーブルを挟んで向かい合って座っている。二人はそのテーブルの両脇にわかれて座った。覚悟はしていた正樹だったが、早苗とそっくりな彩花が隣に座り、さすがに平常心ではいられなかった。彩花の登場は正樹の心を大きく揺さぶり始めていた。理沙が岡田拓実に不思議なことを言い始めた。
「おじいちゃん、さっきね、お姉ちゃんが変なことを言っていたのよ。正樹さんと会ったのは今日が初めてなのに、前にも会ったような気がするんだって。」
 瞬間ではあったが、理沙のその一言でもって、その場にいた者はみな凍りついた感覚に陥っていた。岡田が彩花に聞いた。
「どういうことなんだ。」
 彩花は恥ずかしそうに言った。
「それが、自分でもよく分からないのよ。でも、どこかで正樹さんに会ったような気がして、・・・・・・とても不思議なの、よくあるじゃない、前にもこんな風景があったなんて、そんな感じが、初めて来た場所なのに前にもここに来たことがあるような錯覚が、・・・さっきから、ずうっとそんな感覚が続いているの。」
 理沙が茶化した。
「デージャーブーか、・・・もしかしたら早苗さんの霊がお姉ちゃんに乗り移ったとか?」
 岡田が理沙のことを叱りつけた。
「こら、理沙、馬鹿な事を言うものじゃない。失礼だぞ!・・・・・・正樹さん、ごめんなさいね。気にせんで下さい。」
「いや、いいんですよ。僕の方こそ、彩花さんに謝らないといけないのかもしれない。あまりにも亡くなった早苗とよく似ているものだから、もしかすると、おかしな目で彩花さんのことを見てしまっていたのかもしれない。正直に言うと、彩花さんは、ただ早苗に似ているというだけでなく、仕草もまったく早苗と同じなんです。だから、僕もさっきから早苗が戻ってきたような気がして、・・・そんなことがあるわけがないのにね。すみません。」
「いいんですよ。」
「彩花さん、趣味は何か?」
「旅行かな、あたしの好きな場所は京都、何度行っても飽きないわね。京都の街を歩くのが大好きです。」
 驚きを隠せない正樹であった。恐る恐る次の質問をしてみた。
「京都の、・・・・・・京都のどこがお好きですか?」
「そうね、一番好きな場所は、詩仙堂、・・・・・・そう詩仙堂だわ。きっと、正樹さんは知らないわよね、小さいなお庭だから。」
 正樹は真っ青になり完全に言葉を失ってしまった。早苗だ、今、隣に座っているのは早苗にまちがいない、それは偶然にしてはありえないことだった。早苗が一番愛してやまなかったお庭の名前を彩花が言ったからだ。素早く理沙が正樹の心の変化に気がついた。
「どうしたの、正樹さん。お顔が真っ青だわ。」
「いえ、大丈夫です。・・・・・・いや、ちょっと飲み過ぎたのかもしれないな。」

 正樹はまだ早苗が元気だった頃ことを思い出していた。二人で砂浜に寝転がり、冗談で死後の世界について話し合ったことがあった。
「ねえ、もし、どちらかが先に死んでしまったら、死後の世界がどういうものなのか、知らせに来ない。」
「いいよ。化けて出てくるわけだね。」
「そうよ。」
「でも、何か合図を決めておかないといけないな。二人にしか分からない秘密の合図をさ・・・、そうしないと他の悪い霊に騙されちゃうからね。」
「そうね、じゃあ、何にしましょうか?」
「早苗ちゃんの一番好きな場所はどこ?」
「そうね、京都の詩仙堂かしら。正樹さんは?」
「そうだな、僕は今、二人が寝転がっているホワイトサンド・ビーチかな。」
「この浜じゃあ、みんなが好きだもの、念のために、もう一つ、二人にしか分からない合言葉を決めておかないとダメよ。」
「じゃあ、二人に共通した事柄がいいな。」
「分かったわ、二人とも、とてもつらい失恋しているから、失恋にしましょう。」
「失恋ね、・・・よし、それにしよう。でも、どうやってその話を確認するんだい?」
「そうね、・・・・・・わかんないや。まあ、いいっか、そんなこと。」
 そこで二人の話は途切れてしまった。

 理沙の言葉で正樹は再び現実に戻された。理沙はしばらく東京の実家に帰っていたから、岡田が急にやせ細ってしまったことにやはり気がついていた。
「おじいちゃん、ちょっと見ないうちにスマートになったわね。何かダイエットでもしたの?」
「ああ、お前が留守の間にな、ちょっと調べたいことがあってな、村中を歩き回っていたからね。少し痩せたかもしれないな。」
「そうなんだ。」
 彩花はいつも岡田のそばにいたから祖父の体の変化には気がつかなかった。
「そう言われてみると、おじいちゃん、痩せたわね。」
 正樹が岡田に助け舟を出した。
「いや、人間、食べ過ぎ、肥り過ぎは体には良くありませんよ。バランスのとれた食事が大切ですね。アスリートやスポーツ選手は別として、普通の生活をしている分には小食で十分なんですよ。そうね、岡田さんくらいの細さがベストじゃないのかな。」
 医者の正樹の言葉で理沙と彩花は安心した様子だった。その夜は月がくっきりと四人の頭上に輝いていた。正樹がぽつりと言った。
「お月さんはさびしくないのですかね。ああやって、ぽつんと一人ぼっちだ。僕らのことを見守りながら照らしてくれているんだろうけれど、僕は月を見る度に人も孤独なんだと知らされますよ。」
 岡田はさっき正樹に言ったことをまた繰り返した。
「人間、生まれてくる時も死ぬ時も独りなんだよ。自分は孤独だと嘆いてばかりいてはだめだよ。人間は所詮、孤独であることを承知した上でしっかりと最後まで生き抜いていかなくてはいけない。特に、これからの日本では高齢化がどんどん進んでいって、一人ぼっちのお年寄りが激増するだろう。誰にも気づかれずに孤独死する老人がたくさん出てくる。例え、一人であっても、あとどれくらい生きられるのかと悩んでばかりいてはだめだよ。どんなことだっていいんだ、小さな希望をみつけて毎日を感謝しながら生き続けることが大切なんだよ。」
 そう言いきってから、岡田はゆっくりと立ち上がり、正樹に言った。
「私はこれで失礼して寝させてもらいますよ。あとは若い者だけで・・・・・・。」
 少し飲み過ぎたようだったが、岡田の足どりはまだしっかりしていた。理沙が付き添って、寝室へ岡田を連れっていった。正樹は不思議なことに、その夜はいくら飲んでも酔うことがなかった。彩花と正樹が二人っきりになった。彼女が言った。
「正樹さんは失恋したことがおありですか?」
 「失恋」という言葉を聞き、正樹が動揺しないはずはなかった。早苗との秘密の合言葉だったからだ。早苗だ!目の前にいる彩花は早苗に間違いないと正樹はおもった。いっこうに返事をしない正樹に向って、彩花が再び言った。
「ごめんなさいね。失礼なことを聞いちゃったみたいね。」
「いえ、いいんですよ。僕は二度、失恋しましたよ。二度とも死別しました。」
「あたしってバカね、何でそんなことを突然に聞いちゃったのかしら、どうかしているわ。本当にごめんなさいね。許して下さい。」
「いいんですよ。早苗さん。」
「え?・・・・・・・。」
「失礼。・・・・・・僕はちっとも気にしていませんから。彩花さんはどうですか。失恋したことはおありですか?」
「はい、あたしも正樹さんと同じように二回も失恋しましたのよ。でも、どちらも片想い、恋と呼ぶには恥ずかしいものでしたけれど。」
「失恋の失という字ですがね、よく見ると人ノ土と書きますよね。人は命を失って、最後には土に戻る。それから失恋という字の恋の字ですがね、無理をして亦(また)と読めば、また心を失って孤独になるとも解釈できますよね。さっき、岡田さんが言っていましたけれど、人は結局はみんな孤独なんですよ。家族がいればまだ救われますが、家族もいないで、しかも近所の人たちからも社会からも厄介がられて生きていくのはとても寂しいものですよ。自分の存在を忘れられるだけではなくて、みんなから嫌がられて暮らすわけですからね。」
「もし、正樹さんがそんな町の厄介者として扱われるようになったら、どうしますか?小学生や中学生のいじめのような目にあったらどうしますか?」
「そうだな、僕だったら、朝早く起きて町中のゴミを拾って歩くでしょうね。誰も見ていなくてもいいんだ。それは小さなことだけれど、自分も何かみんなの為に役に立っているとおもうだけで心は救われますからね。でも、みんなから無視されて生きる続けることは本当に孤独でしょうね。例えば、足腰が動かなくなって、社会のために何もしてあげることが出来なくなった時の苦しみは計り知れないでしょうね。」
「では、まったくの寝たきりの状態に正樹さんがなったらどうしますか?」
「それはきびしい質問だね。岡田さんも言っていたけれど、小さな希望を見つけるようにするね。どんなことだっていいんだ。窓の外の植物を見て、その花が咲くのを待つことだっていいしね。」
「理沙がボラカイ島で日比混血児にたくさん会ったと言っていましたが、島には孤児院か何かあるのですか?」
「いや、孤児院ではありませんよ。彼らは自分の意志で共同生活をしているだけですからね。彼らは以前はマニラの大都会の裏道で孤独な暮らしをしていた連中です。無責任な日本人の父親にも・・・、それだけじゃあない、完全に母親や社会からも無視されてきた子供たちです。だから誰よりも人は孤独だということを知っている子どもたちです。」

 理沙がテーブルに戻って来た。
「おじいちゃん、何だか苦しそう。ベッドに横になる時もすごくゆっくりだったわ。それに陰から見ていたんだけれど、何だか辛そうだった。どこか痛いのかしら?」
 彩花が大きな目を見開いて正樹に言った。
「おじいちゃん、さっき正樹さんに何か言っていませんでした?お医者様の正樹さんに、どこか体が痛いとか・・・・・・何か?体の不調を相談していませんでしたか?」
 正樹は岡田がもう少しだけ待って下さいと言った言葉をおもいだいしていた。
「いえ、何も言っていませんでしたよ。」
「そうですか。」

 夜とはいっても、ここは南国で30度近くはある。理沙は日本酒に氷を入れて、正樹にそれを勧めた。
「正樹さん、どうぞ。・・・・・・あの、少しここにいてくれませんか?あたし、おじいちゃんのことが心配だわ。」
 彩花は即座に言った。
「まあ、理沙ったら、勝手なこと言って、無理よ、正樹さんは忙しい人なんだから。」
 何も予定のない正樹であった。
「いえ、僕なら大丈夫です。しばらくこの島で勉強しようとおもってやって来たんですから、お邪魔でなければ、しばらくこちらにおいてくれませんか。」
 その言葉を聞いて、彩花の表情が明るくなった。
「邪魔だなんて、どうぞ、お好きなだけここにいて下さい。お願いします。」
「ありがとう。」
 まんまるの月が三人を照らしていた。都会では決して味わえない満点の星、そのきらめきを仰ぎながら三人は夜遅くまで話し合った。まっさきに睡魔に襲われたのは理沙だった。二人を残してさっさと寝室へ入ってしまった。また二人っきりになってしまった。正樹は前に早苗が嬉しそうに、それも自慢げに語ってくれたことを思い出した。それを彩花にぶつけてみた。
「さっき京都のお庭がお好きだと言っていましたが、竜安寺の石庭についてはどんな感想をお持ちですか?」
「竜安寺の石庭、・・・・・・ぽつんぽつんと石が置いてあるだけのお庭ですね。」
「そうです。十五個の石が置いてあるだけのお庭です。」
 彩花は突然突きつけられた正樹の質問に迷いはなかった。それは本当に不思議な感覚だった。どこかで聞いた訳でもないのに自然と口から禅の教えが出てきたのだった。
「その十五個の石ですけれど、あのお庭の縁側からはどこからみても十五個全部の石が見えないように設計されているんですよ。つまり全部が見えなくてもよろしい、欲張るなということですね。あまりうまく説明はできませんけれど、自分がこれまでに得たこと、何でもよろしいのですけれど、小さなこと一つにでも満足して感謝することが大切だと教えているような気がします。こうして自分は四十歳まで生きることが出来きました感謝します。今日もおいしい食事がいただけました、本当にありがとう。今日も家族みんなが健康であることに感謝しますとか、自分が受けた恩恵に感謝して満足することを知りなさいと竜安寺のお庭は語ってくれているとおもいます。」
「禅でいう知足の境地ですね。先のことを悲観して悩むことなく生きる最高の方法ですね。もっと、あれも欲しいこれもしたいと欲張って生きることよりも、ここまでこうして生きることができたと感謝することが大事なんですね。・・・・・・それ、誰からお聞きになりましたか?・・・・・・何かの本でお読みになったとか?」
「いえ、何も。・・・・・・今、ふと思いついただけです。ごめんなさいね。偉そうなことを言っちゃって。」
「そうですか。・・・・・・では、彩花さんはボンボンという人物はご存じですか?」
「いえ、知りません。・・・・・・どうしてですか?」
「実はね、早苗が以前、今、彩花さんが言ったと同じことを話してくれたことがあります。彼女がね、ボンボンと茂木さんと三人で京都を旅した時の話を何度もしてくれましてね、
ただ石ころを置いただけの、あの殺風景なお庭を初めて見て、ボンボンがね、十五個全部が見えなくてもいいんだと言い出したと、私に何度も嬉しそうに話して聞かせてくれたんです。」
「そうですか。それで、そのボンボンというお方は今どこにいらっしいますの?」
「ボラカイ島の丘の上です。早苗の隣の墓で茂木さんと一緒にボンボンも眠っていますよ。」
「そうでしたか。」
 そこでその夜は眠ることになった。テーブルの上を二人で片づけて流し場へ運んだ。彩花は洗い物を続けたが、正樹は来客用の寝室に入った。ベッドの上に横になってもいろいろな感情が渦巻いていた。彩花と出会えたことは奇跡と言っても過言ではなかった。すべての偶然が確かに彩花とつながっていた。その夜はいつまでたっても眠りにつくことが出来なかった。

 正樹のネグロス島での生活はまるで夢のようだった。何の事件も起こらずに平和な日々がたんたんと続いた。ここはあの幻の竜宮城なのだろうか、すべてを忘れ、気がついてみると一か月の時が流れていた。夕食の後、岡田の爺さんと話すことがすこぶる面白くて、正樹をこの島に引き留めていた。いや、一番の理由はやはり彩花の存在だったのかもしれない。


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